三十二、誘拐
しわしわの温かい手が額の上にのせられる。
「目が覚めたかい?」
柔和な老人の顔が目の前にある。
簡素だが清潔なつくりの部屋、見たことがある。
「ここかい? 後宮の北にある療養所だよ。医局じゃ手狭だったから、こちらにね」
猫猫がききたかったことを、老人は言った。
老人こと羅門は、猫猫の額から手を離すと、湯冷ましを手にした。小さな急須に入れて、猫猫の口に運ぶ。薬を溶かしているのか、少し苦い。
「また、無茶をして。おかげで羅漢が三回も後宮に入り込もうとして大騒ぎだったよ。ほら、そんな顔しない。おまえを心配していることには違いないんだよ」
猫猫は眉間にしわを寄せたまま、薬湯を飲みこんだ。
「まだ、うまくしゃべれないかい? 口の中まで発疹があったからねえ」
猫猫の口を開かせて、中を見る。薬の苦味がしみるのはこのせいだろう。
「粥があるけど、一人で食べられるかい?」
すごく腹が空いている、一体、何日食べていないのだろうか。なんとか身体を動かすが、うまく動かない。
おやじはそれを見て、粥の器を手に取り匙を猫猫の口まで持って行く。
薄く塩が入った食べなれた味だ。
「しばらく、ここで安静にするんだよ。私は別の仕事があるからね」
粥を食べさせた後、おやじは猫猫の頭を撫でるとそそくさと出て行ってしまった。
(仕事ねえ)
医局にそれらしい仕事はあっただろうか、と思ったが元々おやじがここにきた理由に至った。猫猫が、自分の代わりに玉葉妃の出産をみてくれるよう頼んだのだ。
暦を考えると、もういつ赤子が生まれてもおかしくない時期だろう。医局に猫猫なんかを置いて面倒見ている暇はなかろう。
猫猫はゆっくり手を伸ばした。発疹が浮いた醜い手だ。しばし、治るのに時間がかかろう。
(無事に出産できるといい)
何事もおこらず、平穏に元気な赤子を産めばいいと、猫猫は思った。
おやじがいない間に、猫猫の世話をしてくれたのは以前、猫猫に相談を持ちかけた深緑という中年の女官だった。飾り気のないさばさばした性格の女官で、猫猫としても気が楽だった。
あれから、多少改善が見られたのか、診療所でも薬が出されるようになったらしい。粥とともに薬が出された。睡眠効果のある薬のようで、飲むと身体がだるくなる。
「あんたが頼んでくれたのかい? あれから、多少だけど薬の使用がゆるされたんだよ」
深緑は寝台の敷布をかえながら猫猫に話しかける。
猫猫の体調はだいぶ良くなり、身体をおこして歩けるようになっていた。数日、こん睡が続いたことも考えると、やはりあのとき蕎麦焼酒を飲むのは一口にしておけばよかったと思う。
「私は何もしていません」
「そうかい」
ぱんぱんと、寝台の調整が終わると、猫猫に「寝な」と親指で示す。
これだけ手際がよいのなら、後宮をでたところで働き口はいくらでも見つけられそうだ。
薬を飲んでぼんやりしていたためだろうか、猫猫は思わずそれを口にしていた。
「どうして、後宮を出ないんですか?」
それが愚問だったと気づくのはさして時間がかからなかった。
深緑の表情が一瞬強張った。何かしら、思い出したくない何かが頭をよぎったかのような顔だった。
「……でたくても出られないんだよ、この診療所の女たちは」
ふっと、廊下を通り過ぎる女官を見る。
深緑もだが、ここにいる女官たちは皆中年だ。誰もが一定年齢を過ぎている。
「一度、手折られた花は枯れるまででちゃいけないんだよ。ずっとそう言われて、いまさら出ていけるものかい」
それは、帝の御手付きになったことをあらわしていた。
年齢からして、現帝の代に仕えた女官たちじゃないことはわかる。先の帝の御手付きとなり、そしてずっとここで留まり続けているということだ。
代替わりをしたところで、花の旬を過ぎた彼女たちに行きつく場所はないのだろう。この花園で骨を埋めるしかない。
「今日は、あんたんところの親爺さん来ないのかね。忙しいんだろうね」
そう言って、深緑は猫猫に眠る前に飲む薬を差し出した。
りぃん、と鈴の音が聞こえた気がした。
目を開けようと思うが、うまく開かない。身体がだるい。
(まだ、夜だ)
そのまま寝続けようと思うが、鈴の音が気になって仕方ない。鈴の音の他に足音も聞こえる。音はだんだん猫猫へと近づいてくる。
二つの音は、猫猫の目の前で止まった。
代わりに、小さなあどけない声が聞こえた。
「鈴の音の虫はね、子を産むために雌が雄を食べてしまうの」
猫猫はなんとか目蓋をうっすら開ける。そこには、ぼんやりとした表情の子翠、いや楼蘭妃がいた。
楼蘭妃は冊子のようなものを手にしていた。それをぱらぱらとめくり、一枚の紙を取り出す。
「雌はたまごをうむと死んでしまって、子だけが冬をこえるの」
何が言いたいのかわからないまま、楼蘭妃は持っていた紙を折りたたみ、そっと猫猫の襟に入れる。そして、持っていた冊子を部屋の棚に立てかける。
「ねえ、子はちゃんと冬をこえられるかしら?」
ゆっくりと猫猫の頬を撫でた。
猫猫は動けないままでいる。
(どうしてだ?)
その疑問はすぐにわかった。
楼蘭妃の後ろに深緑がいた。その手には、手ぬぐいを持っている。
動けない猫猫の身体を起こし、手ぬぐいをくつわにして猫猫の口に噛ませた。
「いくらでも恨んでいいよ」
猫猫の薬に、睡眠薬の他にしびれ薬も混ぜていたのだろう。口の発疹がなかなか治らず、まともに味もわからないので気づくこともなかった。
(なるほど……)
今日、おやじが来なかったのは、玉葉妃が産気づいたということか。そうなると、翡翠宮へと注目が集まり、他の警備が手薄になる。
そこを狙ったのだろう。
(恨んでもいいよ、か)
何が目的なのかそれはよくわからない、でも、彼女が動く理由についてはわからなくもなかった。
猫猫はなすがまま、籠へと詰められ、さらわれてしまった。
がたごとと揺られることどのくらい経っただろうか。とりあえず水をあんまり飲んでなくてよかったと思う程度に、長い時間だった。
籠の隙間から入る風がどんどん冷たくなる。
籠の中には毛皮が詰められていたのでそれに包まる。
(どこへ行くのだろう?)
まるで荷物のように扱われているが、籠の中は思ったより快適だった。毛皮の他に、肉粽と茶の入った竹筒が入っていたが、残念なことにどちらも口にできそうにない。粽は鶏肉と棗が入っていておいしそうだったが、今の猫猫には揺られながら食べるほど体力はなかった。
乾いた唇を濡らす程度に竹筒に口をつけながら、猫猫は今の状況を考えた。
後宮から出たのだろうと理解できた。いくら後宮が広いとはいえ、馬車でこんなに長い時間揺れることはない。がたがたという音とともに、時折聞こえる馬の声から馬車に乗っているのは確実だろう。
どうやって後宮の外へ出たのか。
それはよくわからない。
ただ、深緑とつながっていたように、猫猫が知らない隠し通路があったと言われたらそれで終わりだろう。
(わからないことだらけだ)
どうみても誘拐なのだが、その動機がわからない。
(自分があの男とつながりがあるとわかったか?)
片眼鏡のある人物に対する手段としては、悪くない材料かもしれないが、下手な手を使うとあの男の反撃は怖くないだろうか。その物の考えかたが、他人とはまったく違うものなのでどこでどうでるかわからない。
それに、今更猫猫を盾にしたところで何になるだろうか。一度、見舞いにやってきた高順は、めぼしい人間はおさえたと教えてくれた。なにかことを起こそうにも筒抜けすぎる。ばれたからという開き直りを見せるのであればわからなくもないが、そこまで大きく出る人間はあの中に何人いるだろうか。
(今の問題はそれより)
猫猫はふうと息を吐く。
(私は命の保証があるということかな)
猫猫は政に興味はない。国の大事とあれば自分の生活に深くかかわってくるが、それ以上に自分の今の安全のほうが大切だ。
最低限の心遣いがあることから、籠からだしてそのまま殺されるという危険はないだろうと思う。
いや、思った。
籠ががくんと揺れた。馬車かなにかから下ろされたようだ。荷押し車かなにかにのせられたのだろうか、がたがたと今度は小刻みに揺れる。
「猫猫」
籠の外からくぐもった楼蘭妃の声が聞こえた。
「ちょっと静かにしてて。もう少しで出すから」
その口調は、楼蘭妃というより子翠のものだった。
彼女もまた、後宮を出たというのはそれなりの覚悟があるということだろう。妃は、園遊会といった特別な場合を除き、後宮の外へでることは許されない。
重々しい扉を開ける音とともに、甘ったるい匂いが鼻についた。
荷車が止まり、なにか足音が代わりに近づいてくる。
匂いが足音とともに濃くなっていく。
「お久しぶりです、お母様」
楼蘭妃の声が聞こえた。子翠の声ではない。どこかかたい、無個性な声だ。
「息災のようで」
楼蘭妃の声をいくぶん低くした声が聞こえる。かつかつと足音とともに、衣擦れの音が聞こえる。床を引きずるような豪奢な衣装が頭にうつる。
たしか、先帝の上級妃で子昌に下賜されたという女だ。
「なんですか、その荷は?」
いきなりどきりとする質問をかけてきた。
猫猫は箱の中で身体を縮める。
「多少の荷くらい持ち帰らせてください」
楼蘭妃、いやもう妃は必要ないだろうか。楼蘭は、特に悪びれもなくいってのける。
「そうですか」
素直に横を通り過ぎていって、ふうっと息を吐こうとしたときだった。
「!?」
ぐさっと、籠の蓋から尖ったものが突き出た。笄のようだ。
(……)
猫猫の鼻先でその切っ先が止まる。声を上げないように、必死で口をおさえた。
「貴方のことだから、また犬とか猫を連れてきたと思ったけど、違ったわね」
「お母様は猫がお嫌いですものね。もう子どもではありません」
「大人になってくれてうれしいわ」
淡々とした物言いのまま、楼蘭の母は衣擦れをたてながら通り過ぎて行った。
猫猫は、足音が聞こえなくなるまで息を止めているしかなかった。