九、身請作戦後編
なにがどうなっているんだ、と李白は思った。
先日、ちいっとばかしぽかをやって睨まれていた宦官が今現在、目の前にいる。しかも、ずいぶん麗しい笑顔を浮かべている。
たしか名前は壬氏という宦官だったはずだ。おそらく李白よりも齢は若いのに、皇帝の懐に入り込んでいる。その美貌もあり、皇帝の御手付きとのうわさもたっているが、仕事は真面目でそつがない。
周りが男女問わず見惚れるのが多少問題だが、それ以外は特に気にしたところもないと李白は思っていた。李白はその点、正道でいくらきれいでも男に食指が動くことはない。
しかしながら、いきなりやってきてまじまじと見られてはなんとも対応に困ると言わざるをえない。
周りに誰もいなくてよかったと李白は思う。場所は、上官のいる棟だ。この付近にはやたら人が少ない。そうだ、ここには変人軍師がいるため、誰もが必要最低限の接触しかしようとしない。
最近、よく変人軍師がよそでうろうろしているという話を聞いていたが、こんなところにいる人物を見る限り、仕事上付き合わされているのはこの宦官だろうと李白は考える。
李白も面倒事に巻き込まれないようにと、書類を提出してさっさと出て行こうと思っていたのだが、ちょうど羅漢の執務室からでてきたこの宦官と出くわしてしまった。
そして、この笑顔なのだから不思議だ。
さて、不思議といえば。
壬氏とかいう宦官の後ろに控えている副官、以前、娼館の口利きをしてほしいと言っていた官だ。確か、李白の上官の古い知り合いだという。
そばかすの女官こと猫猫のことを知っている様子だと思ったら、こういうつながりかと少し納得した。
「少し付き合ってもらえるかな?」
そういって断れる立場でもないのが、李白だ。相手は年下とはいえ、李白よりも尊き色の玉を腰に下げている。逆らうには、あと四、五回出世しなくてはいけないだろう。
「御意」
短く答えて、李白は宦官たちのあとについていった。
場所は宮廷の中庭で、上官たちがよく夕涼みをする場所だった。ゆえに下官にはなんとなく入りづらく、今の時間帯は特に誰もいない。風流な趣味とは無縁の李白は、特に訪れることのない場所だった。
今の季節、安知佐井という植物が手毬のような大きな花をつけはじめている。東にある島国よりわたってきた珍しい花で、日によって赤や青に色を変えるという。変人軍師がわざわざこちらに植えたらしい。どことなく花の形が紫陽花に似ている。
好き放題しすぎではないかと思うが、話によると将軍もあの片眼鏡の変人に頭が上がらないと聞くので仕方なかろう。
壬氏は四阿の椅子に座ると、壬氏は座れと手をだした。
そう言われたら座るしかなく、向かい合う形で座った。
組んだ手の上に顎を置き、輝かんばかりの笑顔をみせつける。後ろにいる副官はそれを慣れた様子で見ているが、どうにも李白には合わないようだ。ふざけた話、顔を背けたくなるくらい眩しいのだ。
女であれば、国を傾けるなどというがあながち嘘ではないと李白は思う。だが、こいつは男だ、たとえ、大事なあれはすでにないとしても男である。
天女のような顔と絹糸のような髪にだまされそうになるが、上背があり肩幅はがっしりしている。武官のような体型の副官の隣にいても貧弱に見えない。
もしその柔和な笑みにだまされて押し倒そうとでもすれば、手痛い目にあうだろう。優雅に見える動きはそれだけ無駄がないことを示す。
李白は後ろについてきながら、宦官のことをそう思った。そして、どこかで覚えがあるような気がしたが、なんとも思い出せなかった。
以前から、ちらりと顔を見ることはあっても、まじまじ見ることはなかったはずなのに、なぜか引っ掛かった。
そんな御方が何の用だろうか。
「うちの侍女から、聞いたが、君は今、意中の相手がいるようだね」
『君』という呼称から胡散臭いと思うのは李白の考え過ぎだろうか。
うちの『侍女』というのが誰かと一瞬考えたが、話の流れを考えるとあのやせっぽちのそばかす女官しかいないだろう。
そういえば、宮中で働いている時期があったが、まさかこの宦官の下で働いているとは。李白は思わず顎を撫でる。
あの娘を雇うとは物好きがいるものだと思ったが、その物好きがこの美貌の宦官だと誰が考えようか。
しかし、あの状況があの状況だけにいくらか説明が必要だとはいえ、人の身請け話のことを話したのか、と李白は思わなくもない。そのためだろうか、この宦官がやたら笑いかけてくるのは。
この若さで国一番と言われる美貌と覚えめでたき地位についていれば、遊女の身請けなど笑い話に過ぎないだろう。
自分を虚仮にするのはいい、だが、その思い人である白鈴を馬鹿にするのであれば、李白も考えるところがある。
白鈴はいい女だ、妓女としてだけでなく、ただの女としても。
閨で笑う顔を思い出す。衣を指先でつまみ、舞う姿を思い出す。茶を入れ、ささいなことに気づかう姿を思い出す。
そんなもの妓女としての仕事で当たりまえと言われたらそれまでだ。
だが、それでもいいと李白は思う。
本物でも偽物でもどちらでもいい。
自分が信じてしまえば、そのどちらも関係がない。
遊女や博打に狂う同僚を何人か見てきたが、きっと周りから見たら自分もその一人なのだろう。李白に対して白鈴を悪女だという奴らもきっと李白のことを考えてのことだろう。
ありがたく思いつつ、お節介とも思う。
李白は自分の意思で緑青館に通っている。白鈴に会えることもなく、玄関先で禿に茶だけをもてなされて終わることもたびたびだ。
それでもいい。
高嶺の花であることも、白鈴の仕事だ。
茶を飲むだけでひと月の銀をとろうと、それが強欲だと誰が言おう。
自分という個をすべて妓女として使い果たし、商品として生きる彼女らに対して高いというほうが甚だしいものだ。
もし、目の前の宦官が、白鈴を侮辱するような言葉を吐こうものなら、李白は手がでる覚悟でいる。
そうなれば、自分の首も飛びかねない失態だ。
それでもいいと李白は思う。
思ったことは曲げない、そんな猪突猛進な生き方が自分に合っている。周りが自分のことを妓女に狂った愚か者と罵ろうが関係ない。
一応、抑制する努力はすると、震える右手を左手でおさえながら李白は壬氏を見た。
「それがどうしたのですか?」
あんたには関係ないはずだ、と余計な言葉を付け加えないように気を付ける。
壬氏は、不機嫌な李白の態度に対しても気にした様子もなく、天上の笑みを浮かべたままだ。
そして、その唇は驚くべき言葉を発した。
「身請け金を私が肩代わりをすると言ったらどうする?」
「!?」
李白は驚き、思わず立ち上がって、卓子を叩いてしまった。御影石を削ってつくった卓子なので、手のひらがじんわりと響いてくる。
震えが全身に行きわたったところで、ようやく李白は声を出すことが出来た。
「それはどういう意味でしょうか?」
「そのままの意味だよ。身請け金はいくらあれば足りるのか? 二万もあれば十分か?」
二万と当たり前に口を出されて、李白はごくりと唾を飲んだ。ほいほい出せる金額ではない。ましてや、相手もよくわからぬ官にいきなりいうものだろうか。
すでに猫猫から身請け金を聞いているのか、それとも、この男にとってそれははした金にすぎないということか、李白は頭を抱える。
同時に、二万と提示した以上、その半分なら簡単に出してくれるのだろうかと思わなくもなかったが、李白はそれ以上、甘い考えをやめることにした。
「お言葉は嬉しいのですが、見ず知らずの官に対していきなりそんなことを言ってもよろしいのですか?」
甘い言葉には罠がある。そんな子どもでもわかる常識を見失うほど、李白は莫迦じゃない。
一度椅子の上に座り、相手の目を見る。膨大な金額を提示した主は、顔色の変わりなく、後ろにいる副官はやれやれという顔をしている。
「うちの猫は、かなり警戒心が強いのだよ。それが、君に対しては相談を受け、なおかつ姉に等しい人間の伴侶としてどうかなどと考えている」
猫というのは、そのまま猫猫のことだろうか。たしかに、猫と言われたら猫のようである。警戒心の強い野良猫だが、餌をもらうときはなんとなく近づいて、それでもらうだけもらったらさっさと逃げていきそうな。
飼うとすれば、李白には合わない生き物だ。もっと従順な、一緒に狩りでもしてくれる犬のほうがまだいい。
でもその言い方だと、あんな態度でも猫猫はそれなりに李白のことを信頼しているということだろうか。確かに、面倒くさそうに頬杖をつきながら冷めた目線で話を聞いていたが、李白の聞く質問には答えてくれた。
なぜか、裸にされいろんな姿勢をとらされたが、それにも何か意味があってのことだろうとやった。
結果、こうやって宦官と話をする羽目になったが。
「つまり用心深い猫が懐くのなら、それだけで信用できるとでも」
李白の言葉に壬氏がぴくりと反応する。
なにかまずいことを言ったかな、と李白は思ったが、壬氏はまた元の柔和な笑みに戻ったので気のせいということにした。
「君の話をいくつか周りから聞かせてもらった。地方官の子とはいえ、都で武官になるというのは苦労したのではないか」
「相応に」
どこにでも派閥というものは存在する。親は役人とはいえ、地方の文官だ。それなりに風当りも強く、まともに評価されないこともしばしだった。
「聞けば、目利きの軍師どのに見出されて、隊を任されたと聞くが」
「……はい」
どこまでこの男は、李白のことを調べているというのだ。表向きは小隊長が武官をやめたことによる繰り上げのはずなのに。
「有望な官と仲良くなっておきたいと思うのが、誰もが思うことだろう」
とはいえ、銀二万とは大盤振る舞いすぎる。
李白に必要なのはその半分、いや、自分の伝手やたくわえを考えるとそのまた半分でいい。
四分の一、銀五千ならこの男はほいと差出してくれるだろうか。
喉から手が出るほどの提案だが、李白は首を振った。
真面目な顔で李白は壬氏の顔を見る。
「自分のことを買ってくれているのは正直嬉しいですし、申し出も喉から手が出てしまいそうになります。ただ、ここで銀を受け取るわけにはいきません。貴方にとっては、妓女の一人かもしれないが、私にとってはたった一人の女なのです。妻として迎えたい女を自分で稼いだ金でうけずして、それで男と言えましょうか」
慣れぬ言葉づかいに疲れながらも、李白は宦官に伝える。
壬氏が不機嫌にならないものかと李白は思ったが、天女の顔は変わらぬままだ。いや、先ほどよりいくらかさらに柔らかいものになっている。
微笑が笑いに変わっていた。
「なるほど、それは失礼した」
宦官は、優雅な動きで立ち上がるとさらりと髪に指を滑らせた。
一枚の美人絵のような立ち姿の主は、満足そうな顔をしていた。
「今後、話をしたいことがあるかもしれないが、よろしいかな」
「御意」
李白も立ち上がり、手のひらに拳をつけて礼をする。
美しい宦官は、軽く頷いて返すと、副官を連れそのまま帰っていった。
李白は呆然としながら、優雅な後ろ姿が見えなくなるのを待った。
そして――。
「なんだったんだ、一体?」
わけがわからんと頭を掻きむしった。まだ禿げている火傷部分に触れて、ちょっとだけ落ち込んだ。
椅子に座り、
「どうすっかねー」
と、つぶやく。
とりあえず次の修練のとき、上官の前でちっとばかしいいところを見せてやるか、それとも、仕事を増やしてもらうか。
いや、それよりも。
いつ会えるかもわからない女に文を送ろう。ただ、一方的に迎えにいくのではなく、彼女の意思を聞こう。
それが社交辞令でもいい、それを信じて日々の糧にするのだ。
「うっし」
李白は袖に手を突っ込むと小走りで中庭をあとにした。
文を結ぶ枝は何がよいか考えながら。
〇●〇
「猫猫、文が来ていたわよ」
貴園が猫猫に重ねられた木簡を差し出した。猫猫は束ねていた紐を開くと、そこに流麗な文字がつらつらと書き連ねられている。
数日前、猫猫が緑青館に送った文の返事だった。
『おばばはなんとかいっているけど、私はまだまだ現役よ』
豊満な肉付きの小姐が胸をはって言う姿が目に浮かぶ。
差出人は白鈴だった。
『それに、いつかどこかの公子さまが迎えに来るのを待っているもの』
公子と書いて『おうじ』と呼ぶ。遠い異国には、白馬にのった『おうじ』というものがいて、捕らわれの娘を救いだしにきてくれるそうだ。
白鈴は女だ。女らしく、夢見がちなこともいう。
娘というにはとうに遅く、すでに指の数では足りぬほど殿方と関係していても、夢を見ることを諦めない。
そんなしたたかさが彼女の若さを保っている理由の一つかもしれない。
(なんとなくそんな感じはしたけどね)
彼女に気に入られさえすれば、銀一万も身請け金は必要ないだろう。ただ、彼女のこのむ『おうじさま』を演じてしまえばいい。そのために必要なのは絶倫の体力と筋肉と普通の男にあって宦官にないものだ。
それに多少の演技力と祝い金さえ用意すればいいだろう。
身請け金はともかく、祝い金まで値切ろうものなら周りは黙っちゃいないだろう。
やり手婆も、
「引退するならするでそれでもよし。ただ、祝いだけは盛大にやるからね」
と言っている。普段はけちな婆もそこのところは大盤振る舞いだ。
花街の大輪の花として咲いていた白鈴だ、舞台から去る時もそれ相応に盛大なものにしたい。
それが妓女として生きた矜持だ。
なので、婆も白鈴が本当に好いた男なら、吹っかけた金をとることはない。ただ、必要経費として、祝い金を五千はとるだろうが。
そのくらい稼ぐだけの男でなければ、白鈴にふさわしくないだろうし、けちるなんてことをすればもってのほかだ。
(一万は無理でも五千くらいなら)
これから李白が順調に出世していけば、それくらい数年でなんとかなるだろう。
あとは運次第だ。
白鈴がやり手婆の考えに洗脳されてしまえば終り、その前に李白が白鈴を落として金を集めればよい。
猫猫がなにかするほどでもないことである。
ただ一つ、注意すべきことがあるとすれば。
(まさか借金とかしないだろうな)
誰かに金を借りて集めたところで、やり手婆は調べ上げるだろう。そうなるとおしまいだ。借金のある男に、白鈴をやれるかと全力でつぶしにかかるだろう。
そんな真似はしないと猫猫は思っているけど、それは断言できない話だ。
猫猫は読み終えた木簡を紐で結んで部屋の机の上に置いた。
廊下にでると、数日ぶりに壬氏たちが翡翠宮に訪れていた。
先日、別れる際にはどうにも不機嫌だった壬氏だが、今日はどことなくご機嫌のように見えた。
どうしたものかと思いながら、猫猫は茶を入れる準備をしに、厨房へと向かった。