六、野苺
世の中、常に暗い話題がたくさんあると猫猫は思う。
洗濯場の裏側で木箱に座りながら思った。
今日は、小蘭は来ないらしく、帰ってもたいした仕事のない猫猫はしばし時間を潰すことにする。
医局にいってやぶ医者に点心でもたかろうかと思ったが、ここ数日のごたごたに巻き込まれて、忙しそうなのでやめた。
ごたごたとは、あの香油の件である。
先日の件について、壬氏は他の妃のところへ出向いた。するとわんさかと侍女たちが商隊で買い物をしていたことがわかった。
(わからなくもないけど)
遠い地より砂漠をこえ、海をこえ、山をこえやってきた交易品、それがあれば鳥籠に閉じ込められた若い娘たちであれば、目を輝かせて焦がれるに決まっている。
猫猫だって、西方に伝わる薬が天幕に並べられたら、やり手婆に金を借りてでも購入しようと思う。
購入した女官たちを責めるわけにはいかない。
翡翠宮の侍女たちもいくつか購入していたくらいだ。
そのどれもが危険というわけじゃない。だが、微量であれど毒のあるものを置いておくわけにはいかず、勿体ないが処分した。
一つ一つは微量でも、それを組み合わせることで強力な毒になることもある。
さてそこで問題であるが、一体『誰』が持ちこもうとしたかだ。
現在、この後宮には四人の上級妃がいる。
玉葉妃、梨花妃、里樹妃、そして楼蘭妃。
この中で、帝の寵愛がもっとも高いのは玉葉妃で次いで梨花妃だろう。他に、中級妃に何人か皇帝の御手付きがいると聞いている。
でも、親の権力を背景に考えると、楼蘭妃がもっとも帝にとって重要視すべき存在だ。
(ふむふむ)
猫猫は、枯れ枝を拾うと地面に蘭の絵を描く。
次に親の位が高いのは、梨花妃であるが、これは帝の外戚であることが起因しており、実家はそれほど出世にがっつく性格ではないという。
果実の絵を蘭の隣に描く。
逆に、ここ数代でのし上がってきたのは里樹妃の実家であり、先代皇帝に幼い娘を差し出そうとするくらい野心家なのはよくわかる。
木の絵をそのまた隣に描く。
玉葉妃の実家は西方の交易の拠点にある。交易でもうかっている印象が強いけれど、実際は国境に近い地方であり、国防費にけっこう持って行かれるらしい。その上、作物が取れる場所ではないので、一概に豊かといえる場所じゃないだろう。
最後に葉っぱの絵を描く。
猫猫には疑問があった。
昨年、起きた園遊会での毒殺未遂事件。あれは、前妃阿多の侍女が独断でやったものである。その理由は、権力にすがりつくものではなく、いかにも人間らしい動機でやったものだ。
それはわかったが。
それ以前に起きた玉葉妃の毒殺未遂事件の犯人は誰であったか。
まだ不明である。
結果、玉葉妃の侍女たちは半分に減り、今なお、妃にかわって毒を受けたものは後遺症に苦しんでいるという。
(阿多さま関連は違う気がする)
阿多はそんな風に毒殺をするような気質ではない。そう言われると、梨花妃や里樹妃も同様だ。
もちろん、それは猫猫の主観であり、実際にそうなのかは断言できない。
侍女が独断でやる場合もあるし、実家から送り込まれてきた人間もいるかもしれない。
上級妃だけじゃなく、中級妃も考えられる。より上の位を目指す貪欲な女たちはこの場所にはたくさんいるのだから。
猫猫はぐるぐると四つの絵を囲みながら唸った。
そして、考えることを放棄した。
(考えて何になる)
猫猫はただの侍女だ、毒見役の使い捨ての駒である。
というわけで気分転換をすることにした。この後宮内は、帝を楽しませるため、庭園がたくさんある。松林もあれば、竹林も果樹園もある。
(今の季節は野いちごかな)
あとひと月早ければ、筍がとれただろうが、どこぞの狐眼鏡のせいで水晶宮での薔薇栽培で終わってしまった。
実に腹立たしい、顔を思い浮かべるだけで不愉快な生き物である。
気分を変えようと思ったら途端に足取りが軽くなるもので、後宮の隅にある雑木林に向かうのだったが、途中、水晶宮の女官たちと顔を合わせてしまった。
見知った顔だったので軽く会釈したら、女官たちは顔を引きつらせて走って逃げてしまった。一人は纏足をしたような小さな足だったのに、実に素早い動きで思わず感心してしまったくらいだ。
(ちょっとひん剥いたくらいで大げさな)
妓楼ではよくある光景である。ある程度育った女が花街の門を叩くとまず、服をひん剥かれて品定めが始まるわけだ。
若い妙齢の娘は、価値が高いように思われるが、今の主流は若さよりも知性である。意外と身を崩した官の妻あたりに高値がつく。ある程度教育が行き届いており、初期投資が少なく済むうえ、世には他人の妻だったという点が逆にそそるという嫌な趣向がある。
猫猫とて好きでひん剥いたわけじゃない。流行に敏感な水晶宮の女官なら、皆、買った香油をつけていると思っていたら、そうじゃない女官がいたのだ。猫猫は不思議に思って、本当についていないかどうか確かめようとしただけだ。
おかげで、美しい宦官どのに言いつけられてしまった。
(まあ一人くらいいるもんか)
水晶宮の女官は多い。侍女だけで十人以上、専属の下女を含めたら三十人くらいいるのだ。
深く考えることもなく、猫猫は野いちごを探しに行った。
洗濯籠に野いちごをたくさん隠し持って帰ってくると、部屋に文を置いてると愛藍に言われた。のっぽの侍女はなぜかいつもよりにやにやしているな、と思いながら部屋に入ると、言われた通り机の上に簡素な文が置いてあった。
(誰だ?)
差出人を見てみると、『李白』とあった。元気のいい大型犬のような若い武官を思い出す。
文を開くと、また後宮に戻っていて驚いただの、何気ない徒然なことが書かれてあった。そして、その後に本題ともとれる、『最近、白鈴に会えないんだけど、どうにかしてくんない?』なる内容が婉曲に伝えられていた。脳味噌まで筋肉に見える男だが、前置きと匂わせるというなかなか高等な文章を書けるようだと、実に失礼なことを猫猫は思った。
白鈴は売れっ子だが、もう齢は妓女として引退していい頃だ。やり手婆としては、店を任せるか、それとも大店に身請けしてもらうか考えていることだろう。
残念ながら李白の今の給金では、到底身請け額に至らない。
(悪い、諦めろ)
猫猫はそんなことを思いながら文を読み終えようとしたら、最後に付け加えるようにあることが書かれていた。
『前、預かった象牙の煙管を返したい。他に聞きたいことがある、面会できないか?』
(返す? 持ち主見つからなかったのか?)
けっこう前に李白に預けていた煙管のことを思い出す。
(文のやりとりでは駄目なわけか)
妙に意味深な言葉に猫猫は首を傾げながら、籠の中の野いちごを頬張った。