85.ドラゴンの飛躍
『目』は空を飛んでいた。
旅である。
久しぶりの長旅。
眼科に広がる、緑の森と茶色の大地。
遠くには灰色の山と青い海が見えて、時折、カラフルな人の巣があるのが見える。
上空から見える景色は、『目』の心を躍らせた。
考えてみれば、最近は雪ばかりだった。
景色を楽しむ趣味など『目』には無いが、白色ばかりを眺めるのは飽きていたのだろう。
特に、カラフルな人の巣には、なんとなしに興味をひかれた。
『目』の知る限り人の巣は、もっと灰色だったような気がするからだ。
あるいは茶色だ。石か木で作ってあることが多いから。
あんなにカラフルな巣はなんとなく興味深かった。
(ちょっと寄って行ってみるか。お腹もすいてきたし……?)
と、『目』はチラと考えるが、すぐに首を振った。
思い返すのは、バッシュとの戦いだ。
思い出すだけで首筋が寒くなる。
今まで人間はクソ弱いわりにうっとおしい害虫のような存在だと思っていたが、あんなのもいるのだ。あまりナメない方がいい。
今までのように、食い物だと思ってかかったら痛い目を見る。
そもそも、番になったのだから、人間を食べるのはやめるべき、と思うだけの知能を『目』は持ち合わせていた。
(やっぱり四足の獣の方が美味しいな)
なので、お腹がすいたら、そのへんを走っている獣を食べた。
雪山より全然数が豊富だった。
おかしなことだ。
『目』が雪山に棲み始めた頃は、こうした獣は雪山にしかいなかったものだ。
地形もちょっと見ないうちに変わっている。
昔は、黒い平原ばかりだったはずだ。
それが、広くて緑色の平原に、たくさんの同じ獣がいた。
それも、なぜか警戒心が薄くて、まるまると太っていて食べやすかった。
これだったら、もっとはやく雪山から出てきてもよかったかもしれない。
『目』は寒いのはわりと好きだが、ご飯を沢山食べられる方がいいのだから。
大体、人間はそこまで美味しくないのだ。
だから、牛の近くにいた人間は見逃してやった。
『目』は巨大な牛をほおばりつつ、今後について考える。
目的は巣作りだ。
卵は暖かい所で産むのがドラゴンの常識である。
たしか、南の方には火山があったはずだ。
今は活動していないが、『目』が少しブレスを吹きかけてやれば、すぐに温まるはずだ。
卵を孵化させるのに十分な熱を確保するには、やはり溶岩が一番だ。
(よし)
食事を終え、方針の再確認をした『目』は再度飛びあがった。
そして、のんびりと滑空をし始める。
南に向かってすいすいと。
青々とした山と、太陽に反射して煌めく川が見える。
やはり景色が綺麗だ。
こんなに綺麗に思えるのは、もしかすると番が出来たからだろうか。
ああ、『骨』が人間の番が出来たと聞いた時は馬鹿なと思ったが、こういう気持ちになるのならわかる気がした。
眼下に巨大な木が見えた。
森が広がっている。
そのさらに遠くに見える山は、火山だろうか。
火山のような気がする。
あれが目当ての山だった気がする。
そんな風に考えながら飛んでいると、森の中に、見覚えのある生物を見かけた。
人間である。
(ん?)
その人間は、緑色の肌をしていた。
そう、バッシュと同じような人間だ。
(……怖っわ)
ほんの少し前、バッシュと戦ったことを思い出し、身震いする『目』だ。
なるべくあの緑色の人間には近づきたくない。
が、それと同時に、ドラゴンの鋭敏な嗅覚が、ある匂いを捕らえていた。
バッシュの匂いである。
遠目ではわかりにくいが、もしかするとあれはバッシュなのだろうか。
いいや、ここまではほとんどまっすぐ飛んできたから、ここにバッシュがいるはずがない。
だが、あのバッシュだ。
いてもおかしくない。
なにせとんでもない速度で動き回るのだから。
少なくとも洞窟内での動きは、『目』より圧倒的に早かった。
まだ新しい巣の位置は決まっていない。
だが一応、番になったのだから、どこらへんに作るつもりか、目星をつけたことは報告してもいいだろう。
賢い『目』はそう考えて、バッシュのいるであろう所へと降り立った。
「うわぁぁぁぁ!」
「ど、ドラゴンっ! ドラゴンだ!」
『目』が降り立った途端、人間たちは逃げ出した。
バッシュではなかった。
バッシュによく似ているが、全然ちがった。
『目』は人間の見分けなどつかないが、さすがにバッシュの見分けぐらいはついた。
逃げまどう緑色の人間たち。
短い脚を懸命に動かしながら、のたのたと逃げていく姿は、『目』にとって見慣れたものだ。
こんなものだ。
そう、こんなものだ。
『目』を見て、平然と立ち向かってくる奴はいない。
あのバッシュがおかしいのだろう。
そうだとも、だからこそ、バッシュを見間違えるはずがないのだ。
バッシュはきっと、こんな混乱の中においても、一人剣を持ってそこに立っているはずだから。
こちらをまっすぐに見据えて、一切の恐怖を感じさせない佇まいで。
(……)
思い出すだけで気絶しそうだ。
番になれてよかった。なれなければきっと殺されていただろう。
「ええい、恐れるな。誇り高きオークがドラゴン如きで。剣を持て、戦え、俺は逃げんぞ!」
気付けば、逃げない奴もいた。
緑じゃなく、青色の人間だ。
立ち向かおうとしてきている。
いいや、その表現はおかしいか、なにせ立っていないのだから。
なにやら大声でわめきつつ、完全に腰を抜かしてへたり込んでいる。
逃げないのではない、逃げられないのか。
そういう生物も『目』はよく目にする。
バッシュとは大違いだ。
やはり同じ種類の人間といっても、バッシュとそうでないのでは、大きく違うのだろう。
ともあれ、脅威にはならなさそうなので、『目』は匂いのする方へと近づいていく。
そこには、一軒の家屋があった。
小さな家だ。
『目』の半分ぐらいしかないように見える。
こんな小さい所にバッシュは住んでいるのだろうか。
もっとデカくてもいいと思うのだが……。
そう、途中でみた人間の家なんか、『目』の十倍ぐらいはあった。
石で作られていて、先端がとがってて、たくさんの人間がいた。
バッシュのねぐらなら、それぐらいあってもいい。
(いや、別に小さくてもいいか?)
『目』の巣だって、別にそこまで広いわけではない。
心地いい広さというものがあるのだ。
バッシュにとって、心地いいのはこれぐらいなのだろう。
狭めが好きなのだ。
(でも子育てには向いてなさそうだな)
人間はどういう子育てをするのだろうか。
ていうか、生まれてくるのは人間なのか、ドラゴンなのか……。
(むむ、そこまでは考えていなかったな)
とはいえ時間はある。
両方用意すればいいだろう。
バッシュはどんな巣に棲んでいたのだろうか。
やはりバッシュの好みは知っておかねば。愛の巣なのだから。
そう思って中を覗くも、いまいちよく見えない。
「グルルルル……ゴァガアアァァァァ!」
ならばと呼びかけてみる。
わからなければ聞けばいいのだ。
しかし、反応は無い。
やはり留守のようだ。
あのバッシュが、『目』の呼びかけを無視して、巣に引きこもっているということはないだろう。
あんな熱烈に番になることを望んでくれたのだから。
かといって、この小さな巣をひっくり返すのは憚られる。
巣を荒らせば怒る。それは、あらゆる生物に共通していることだ。
バッシュが怒ったら、『目』はすぐにでもおしっこをチビるだろう。
「あいつ、なんでバッシュさんの家を……」
「もしかして、復讐に来たんじゃねえのか。ほら、バッシュさん、レミアム高地でドラゴンを倒してるから!」
「そ、そうか! くそぉ、バッシュさんがいてくれれば、こんなドラゴン片手でチョンなのに!」
「てめぇ、あんま舐めてんじゃねえぞ! 俺らにはバッシュさんがついてんだからなぁ! ドラゴン殺しのバッシュさんがなぁ!」
遠巻きに見ている緑色の人間達の声が聞こえる。
振り向くと、「わぁ」と声を上げて逃げていく所だった。
見れば、さっき腰を抜かしていたのも、一緒に逃げている。
バッシュさん、バッシュさん。
やはりここは、バッシュの元々の巣のようだ。
そして、ここの人間達の中でも、バッシュは特別なようだ。
立ち向かってこないということは、バッシュと違って、あんまり"誇り"も無さそうだ。
うん、やっぱりバッシュは誇り高き戦士なのだ。
それにしても、ここから、わざわざ北の山までやってきたのだろう。
あの短く小さな足で……どれだけの時間が掛かったのだろうか……。
いや、あれだけ素早く動ければ、すぐかもしれないが。
(……そういえば、今はどこにいるんだ?)
ふと、『目』はそんなことを考えた。
巣を作り、そこにバッシュに来てもらい、番となって卵を産む。
そんな予定だった『目』だが、考えてみれば、バッシュを探す方法までは考えていなかった。
バッシュなら、地の果てまでも『目』を追いかけてきてくれるだろうことは明白だ。
だが、さすがにあの足では時間が掛かってしまうかもしれない。
空も飛べないだろうし。
なら、『目』が迎えにいった方がいいだろうか。
匂いと視覚だけでは、見つけるのに時間が掛かるかもしれないが……。
(いや、ここに巣があるなら、いずれここに戻ってくるか)
頭のよい『目』は、そう結論付けた。
どうせ巣はここからちょっといった所の火山に作る予定なのだから、巣が出来るまで毎日様子を見に来つつ、巣が完成してもまだ戻ってこないようなら、こっちから探しに出ればいい。
完璧な計画である。
ドラゴンは賢いのだ。
■
その後、『目』はシワナシの森の南側にあるフェデル山に移動した。
『目』にとって若干暑い所ではあったが、周囲は木々が生い茂り、動植物もたくさんいる、孵化場として定めた場所には溶岩もある。子育てに最適な場所だった。
『目』はそこで、バッシュと番になって一緒に暮らすことを夢みながら、巣作りを開始した。
ドラゴンの感性に従っていい感じの洞窟を探し、そして人間の感性を知るために時折人里に降りて人間の巣を観察した。
自分から人間を襲うことはしなかったが、もちろん、立ち向かってくる相手は容赦なく殺した。
『目』は名誉と誇りを理解するドラゴンなのだから。
こうして『目』にとって、明るい未来を想起させる、輝かしい日々が始まった。
しかしそれは、フェデル山の周辺に住むヒューマン、エルフ、オーク……そしてそこに向かう者にとって、恐怖の時代が到来したことを意味していた。