79.連合軍vs賢者
『ニュート』の魔法は、己を望む姿へと変貌させる。
元々最強の生物たるドラゴンが使ってもあまり意味は無いが、ヒューマンが使えば、その姿をあらゆるものを蹴散らす強大な存在へと変えることができる。
カスパルが変化したのは、幻想の生物だ。
遠目から見ればドラゴンのようにも見えるが、まったく見知らぬ怪物。
この姿は、無論ヒューマンの聖典の元の持ち主などではない。
かつて、カスパルが王立図書館で読んだ書物に描かれていた、架空の生物だ。
どういった経緯で描かれたものかは分からない。
当時の夢想家が描いたものなのか、絵心のある貴族の子息あたりが遊びで描いたものなのか、あるいはかつての災害を抽象化して描いたものなのか……。
ただ、カスパルの印象には強く残った。
なぜなら、カスパルはその怪物を見て、強く恐怖したからだ。
だからこれを選んだ。この姿となった。
だが、『ニュート』の魔法には、いくつか弱点が存在していた。
一つは、変化した生物に、精神構造もまた引きずられるという点である。
現在、カスパルの心中を渦巻くのは、言い知れぬ破壊衝動だ。
ここまでの破壊衝動に見舞われるとは、想定外ではあった。
ドラゴンになった時には、こんな気持ちにはならなかったのに。
カスパルは努めて心を落ち着かせつつ、状況を整理する。
自分がいまいる場所は、ヒューマンの町だ。
命がけで戦い、共に勝ちをつかみ取った同胞たちの町。破壊衝動にまかせて蹂躙したいわけもない。
かといってカスパルの役目は陽動だ。ポプラティカたちを逃がす役目を果たせなければ、こうして変化をした意味もない。
ゆえにカスパルは、自分を包囲しはじめている兵を狙う。
この体のお陰か、ヒューマンの攻撃はほとんど効いていない。
目障りだったサンダーソニアらはいつのまにか消えていた。
指を斬り飛ばしたバッシュも、瓦礫に突っ込んでから沈黙している。ドラゴンをも打倒する英雄が、あの程度で死ぬとは思えない。ドラゴンは、そんなのに負けるほどやわな生物ではない。いずれ立ち上がってくるだろう。
ともあれ、余裕がある今のうちに、右翼を潰して突破すれば、ポプラティカたちが逃げていった方角と逆に抜けられる。
そこから海まで突き進み、『ニュート』を使って別の生物に変化し、空中を移動して逃げ切る。
そう思いつつ、ヒューマン軍を叩く。
しかし、ああ、なんと誇らしいことだろうか。
即席の軍隊であろうに、即応でまともに準備もできていないだろうに、装備だって整っていないだろうに、一糸乱れぬ陣形に、針をも通さぬ防御を見せてくれる。
押せば引き、引けば押す。
ヒューマンの美しき連携。
明らかに他よりも貧弱で、決して生物的に強いと言い切れない生物が、戦争の勝者となりえたのか。
何千年もの間、戦い続けることができたのか。
その証明が、その歴史が、彼らの戦い方だ。
ヒューマンの極致だ。
戦争が終わって三年、記憶は薄れつつあれども、体はしっかり動くのだ。
魂に刻まれた戦い方なのだ。
ああ、だが悲しいかな。
それはあくまで、人間同士の戦い方だ。
あるいは強大な魔獣にも通用する戦い方でもあるが、どちらにしろ、ある一定以上の強さを持つ生物との戦い方ではないのだ。
ドラゴンを倒せるような戦い方ではないのだ。
カスパルは魔法を放つ。
『オナガーコメット』。
燃え盛る無数の岩塊を叩きつけ、広範囲を殲滅する岩の上級魔法。
強大な体から放たれる魔力の奔流は、普段のカスパルが放つものよりも圧倒的に広い範囲にわたり、兵たちを薙ぎ払う。
すぐさま別の兵が間を埋めようとするが、カスパルの前足が彼らを踏みつぶす。
彼らにカスパルを止める術など無い。
左翼から怒涛の魔法が飛んでくるが、そのほとんどは表皮に弾かれ、肉に届いたものも大したダメージにはなりえない。
誇りに思っていたヒューマンの軍を、このような形で打ち破ることを遺憾に思う。
そう思いつつ、カスパルはさらに前進し、
「グラアアァァァァァオオオゥ!」
踵に熱い痛みが走った。
カスパルは重い体を懸命に動かし、振り返る。
バッシュだ。
オーク英雄だ。
あの男だけは無視するわけにはいかない。
この場で、恐らく唯一、"怪物"に有効打を与えられる存在だ。
バッシュは、カスパルの後ろ足に、大きな傷をつけていた。
位置的にはふくらはぎの腱にあたるだろうか。
この体であれば、大したことはないが、元の姿に戻る時、支障が出るかもしれない。
体を作り変えるわりに、怪我までは治らない。
『ニュート』の明確な弱点だ。
カスパルは治癒魔法も使えるため、大した問題にはならないが……。
しかし、この体を治しきるのは、治癒魔法では困難だ。
なにせ治癒魔法は、巨大な生物を治すのには不向きなのだから。
でなければ、カスパルは"骨"を死なせなかった。
賢者と呼ばれた男が、妻の致命傷を治しきれないなど、ありえない。
「キュアアアアアァァァァ!」
同時に湧き上がってくるのは、破壊衝動だ。
妻を殺された怒り。己の力が及ばなかった憤り。我が子のために復讐を諦めた我慢。
仕方ないとわかっていた。賢者は賢い者だ。それが良いと理屈で理解していた。
しかし今は、感情が暴走する。
「グラアアアァァァァァアアオオオオオオ!」
巨大な前腕を叩きつける。
バッシュはひらりと回避するが、回避方向に魔法を撃ってある。
光の魔法『ヒートライン』。
カスパルの開発したオリジナルの魔法で、光を凝縮して一本の線として放ち、対象を溶断する。
しかしそれは、途中でぐにゃりと曲がり、別の箇所に着弾する。
見れば中空に、光り輝く一匹の妖精。
光と風に愛されし種族、フェアリー。
献身などとは無縁な生物が、バッシュを守るのか。
しかし、妖精が防御になるとなれば、『ヒートライン』は使えない。
かの種族に光と風の魔法で勝負を挑むのは愚か者のすることだ。
フェアリーは侮られがちな種族ではあり、フェアリーも愚かな種族ではあるゆえ、その認識は時として正しい。
が、『風に愛されし』ゼルは、並みの戦士ではない。
フェアリーの中でも、風の精霊の声を聞ける者は、そう多くない。
その上、バッシュに付き従って激戦を生き残った、極めて優秀な戦士だ。
その逸話、その二つ名は奇妙なものが多いが、それだけ多く残るということは、それだけ長く戦い続け、生き残り続けたということなのだ。
ならばと、使うのは氷の魔法『アイススパイラル』。
口から冷気の奔流を打ち出し、フェアリーを吹き飛ばす。
フェアリーは寒さに弱い。あの程度で死にはしないだろうが、確実に動きは鈍るだろう。
さぁバッシュ、頼みの妖精はいなくなった。
次はどう回避する?
私は君に復讐するつもりなど無かったが、手が無いのなら、私の復讐は完了してしまうぞ。
「撃ぇぇぇぇぇ!」
左後ろからそんな声が聞こえた。
背筋にぞっとしたものが走り、身じろぎをするが、時すでに遅し。
何かが背中に着弾し、熱い痛みが全身を駆け巡る。
「キュオオオオァァァァ!」
口から出てくる叫びは、己のものとは思えぬ奇怪なものだ。
振り返ると、そこにあったのは、たじろぐ兵士たちと、そして巨大なバリスタだった。
バリスタの矢の尻には、太い鎖がついている。
ああ、知っているぞあれは、と賢者カスパルは思い出す。
自分がドラゴンを連れてくる、ドラゴンの協力を得たと話した時に、ヒューマンの上層部が用意させたものだ。
ドラゴンの脅威が自分たちの方に向く可能性を排除しきれず、わざわざ作ったものだ。
そして、結局、使われることが無かった兵器だ。
"骨"の亡き後は、ドラゴンが王城に迫った時の防衛用として、首都に仕舞われた代物だ。
腕を伸ばし、矢を引き抜く。
ドラゴンには出来ぬ動作だが、この体ならば問題なく引き抜ける。
矢には返しがついており、肉を引き裂いて血がほとばしるが、大したことはない。
その途中で、怒りと破壊衝動が沸き起こる。
ある考えに至ったからだ。
なぜ、ここにバリスタが置いてあるのか。
あのバリスタは、ドラゴンが王城に迫った時の防衛用として、王都に配置されていたはずだ。
なのに、なぜここにあるのか。
(我が息子に、こんなものを向けようと思ったか!)
ドラゴンは、この地にいた。
ヒューマンとドラゴンの子供は、卵として産み落とされ、早々にニュートを習得し、半人半竜として育っていた。
人に害を為す者ではなかった。
森の中で、静かに暮らしていくつもりだった。
息子にはドラゴンとしての生き方と同時に、人としての在り方も教えたつもりだった。
そう、クルセイド宰相にも、ブライアン将軍にも伝えてあった。
何も、何も信用していなかったというのか、この賢者カスパルを。
私達は友ではなかったのか。
君達は、友の門出を祝ってくれたのではなかったのか。
(ブライアン!)
バリスタ隊を指揮する者の中に、見知った顔があった。
それを見た途端、カスパルの脳が憎悪の一色に染まった。
「いかん、退避しろ、退……」
(『オナガーコメット』!)
カスパルの腕から放たれたのは、幾多もの燃え盛る岩塊。
それらは空中で分散しながらバリスタの陣に叩きつけられ、その半数以上を破壊し、その場にいたほとんどの兵を殺し尽くした。
着弾地点の中心はブライアン将軍だ。
生死は不明だ。
生き汚い男だから、瓦礫の中でまだ生きているかもしれない。
しかし、トドメをさそうとまでは考えない。
むしろ、脳裏に浮かんだのは、もう一人の男の方だ。
宰相クルセイド。
旅だった友を裏切り、こんなことを考えるのは、クルセイドの方だ。
愛想がよく、会話すれば頑固に見えて、意外に物分かりがよく、理知的な印象を受けるあの男。
その内面はどす黒く汚れている。
きっとあの男が、バリスタをここに配置させたのだ。
あるいは、新しく作らせたのかもしれない。
ブライアンは、判断力こそ目を見張るものがあるが、そこまで賢い男ではない。
緊急事態とみて武器庫を漁り、使えそうだから持ってきただけだろう。
(クルセイド!)
カスパルは城に目を向ける。
そして、感情のまま、そこにいるであろうクルセイドに向かっていこうとする。
だが、再度、足に熱い痛みを感じた。
先ほどとは逆のふくらはぎの腱が、斬られていた。
「グラアアァァァッァアアオオオウ!」
お前の相手はこの俺だ。こっちを向けと言わんばかりの咆哮。
それでカスパルは逆に冷静になった。
そうだ。今、この場にいない者の相手をしている暇はない。
どうかしている。なぜそんな思考が生まれるのか。この体のせいか。
そんなことを考えている場合ではないのだ。
自分の役目は、陽動だ。
もう十分に果たしただろう。
ここから撤退しなければ、ああ、しかし……。
あの咆哮が、あのウォークライがカスパルの足を止める。
無視できない。
感情が暴走している。
あの咆哮の主は、妻の仇なのだ。
ならば、せめてあのオークだけでも倒さねばならない。
そんなことには、何の意味も為さないが。
(『ヒートライン』)
バッシュに向き直り、魔力を放出する。
だが、それはまたグニャリと曲がった。
いつのまにか、フェアリーが戻ってきている。なんと邪魔なことか。
また先ほどのように氷の魔法で吹き飛ばし、バッシュを狙うか。
「今です、放て!」
やや遅れて、甲高い声が響き渡る。
雷光が光、カスパルの右腕が一瞬、痺れて麻痺する。
見れば、エルフの一団が、カスパルに向けて杖を構えていた。
先頭にいるのは『エルフの小魔導』ネメシアか。
なぜ効いた? 先ほどまでは表皮を滑るだけだった雷光が。
そうか、鎖か。
抜き残したバリスタの矢から繋がる鎖が、カスパルの体内に電撃を直接送り込む役目を果たしたのだ。
矢を抜こうとするが、電撃のせいで手の動きがおぼつかない。
(……まずいか)
ヒューマンが、ビーストが、エルフが、連動して攻撃を仕掛けてきている。
いつしか、カスパルは完全に包囲されていた。
完全に、逃げるタイミングを逸してしまった。
こうなれば、突破することは困難だ。
(いや、まだだ)
まだ望みはある。
バッシュだ。
バッシュだけを狙う。
あのオークがいなければ、持久戦に持ち込める。
エルフの魔法はやや効いたが、ほんの少し痺れる程度だ。
バッシュ以外に、この場でカスパルに致命傷を負わせられる者はいない。
ならば、バッシュさえ倒せれば、いずれ彼らを突破することは可能なはずだ。
バッシュの横で、金髪の女騎士が何かを叫んでいる。
「引いて……待って……時間をかせいで……」そのような言葉が聞こえてくる。
そうか、オークにしてはタイミングよく攻撃してくると思った。
あの女騎士が、他の軍と連動するように指示を出していたのか。
ならば、バッシュは下がり、また右翼あたりが攻撃を仕掛けてくるか。
……いや、バッシュが下がらない。
カスパルに向けて、ずんずんと進んでくる。
そうか、やる気なのか。
さすがはオーク英雄、敵を目の前にして逃げ腰で戦うことなどないということか。
ならば安心して、戦おうじゃないか。
バッシュが剣を振りかぶる。
カスパルが拳を振り上げる。
お互いに渾身の力を込めて、己の獲物を相手へと叩きつけ……。
「引け!」
がくんと、カスパルの態勢が崩れた。
視界の端で、ドワーフの一団が太い鎖に取りつき、綱のように引いているのが見えた。
ドワーフだけではない、ヒューマンとビーストも、それに従っている。
踏ん張ろうと思ったが、足の腱が切れているせいで、それもままならない。
カスパルは横倒しに倒れていくのを、肘をついてこらえたが……。
その隙を、バッシュは見逃さなかった。
カスパルの首に、剣が突き立った。
■ ■ ■
いかな生物であろうとも、死は訪れる。
それが想像上の生物であっても、カスパルがそう信じている限り、死は訪れる。
首への一撃は、確かに致命傷だった。
動脈を切り裂き、滝のような血が流れ、周囲を血塗れにしていく。
建物を一つか二つ押し流し、兵たちも押し流されていく。
カスパルの四肢から力が抜ける。
ガクンと膝が落ち、肘が落ち、胴体が地面へと沈み込む。
カスパルは死を悟っていた。
そんな中、ふとカスパルの視界に、一人のオークが見えた。
彼は血の濁流の中、平然と立っていた。
「で、に……にう……と……」
死を悟る中、カスパルは魔法を唱える。
体内で魔力が練られ、己の体を書き換えていく。
体はみるみるうちに小さくなり、やがて一人の老人の姿が残った。
両足の腱は斬れ、背中には無数の穴が開いていた。
首には頸動脈まで達した傷跡が残っていたが、その傷は、カスパルが手を当てると、瞬く間に治っていった。
高度な治癒魔法。
しかし、怪我が治るのはそこまでだった。
血が流れすぎた。
治癒魔法は、失われた血まで治るわけではない。
自分は死ぬ。今まさに、死のうとしている。
バッシュとゼルが、カスパルの前にやってきた。
困惑した表情だ。
自分たちが今まで戦っていた相手が、ヒューマンだとは思わなかったのだろう。
「これは、どういうことだ……?」
「旦那、この人、見覚えがあるっす。ヒューマンの賢者カスパルじゃないっすか?」
まぁ、どうでもいい。
その程度のことを気にする者達ではないだろう。
最後に、一言だけ、ゼルに言わなければならないことがある。
「ゼル殿」
「あ、え、なんすか……?」
「よく……聞きなさい。教えるべきでは、ないかもしれないが……ディナンシーの森に、一人の魔女が住んでいる。彼女の所に……行くのも、いいだろう……」
「な、なんすかいきなり、どういうことっすか?」
「あれは魔女だ……望む結果には、ならぬかもしれないが……決めるのは……君だ……」
「決めるって言われても困るっすよ。そりゃオレっちは何事も最速で決定する所があるっすけど、何もなしで決められるほど荒唐無稽じゃないっすよ!?」
「君は……バッシュ殿の、嫁になれる……」
それだけ言って、カスパルの体から力が抜けた。
心残りはそれだけだった。
息子は、少し不安だが、あれでいてドラゴン。最強の生物だ。巣立ちの頃でもあるし、なんとか生きていくだろう。
「え。オレっちが、旦那の嫁に……?」
ゼルは、このフェアリーは、確かに言ったのだ。
バッシュの嫁になりたいと。
フェアリーの言葉など信用ならない。
生殖機能を持たぬフェアリーに、それが何を意味するか理解できているとも思えない。
だが、それでもカスパルは信じることにした。
異種族間で、かなわぬはずの恋を成就したカスパルだからこそ、信じることにしたのだ。
だから、そう伝えた。
もう、何も心残りはない。
「ああ……」
空を見上げると、そこには一匹のドラゴンが飛んでいるような気がした。
子供の頃見た気高き生物に、カスパルはなりたかった。
なれるようになる頃には、別の願望に変わり、別の願望が成就した後には、また別の願望が生まれていた。
最後の願望は『妻にもう一度会いたい』だった。
自然の摂理に逆らう望みだった。
結局、それは叶うことは無かった。
それは、良い事だったと思う。きっとそれが成就されていたら、何かが捻じ曲がってしまっていたと思う。
最後に妻の仇とも戦った。
仇討ちなど意味が無い。戦う意味など無い。しかも負けた。
だが、何もせずに衰えて死ぬより、よっぽど有意義だった気もする。
これで妻の元に行けるなら、自分の最後としては上出来だろう。
「いまいくよ……」
ままならぬ人生だったが、充実していたな。
そう思いながら、賢者カスパルは、息を引き取った。