69.ミストランド
バッシュは森の中にいた。
森というか、あるいは林とでも言うべきか。
バッシュの背丈より少し高い程度の木々がモサモサと生えている、実に歩きにくい森である。
バッシュの知る限り、このあたりはかつて、焼け野原であった。
ザリコ半島の入口となったそこは激戦区であり、幾度となく戦闘が行われた結果、全てが灰と化したのだ。
植物というものは、逞しいものである。
ここで戦闘が起こらなくなってわずか数年で、ここまで支配域を広げているのだから。
ただ、そのおかげでバッシュとゼルは迷っていた。
木々が生い茂りすぎていて、道がわからないのである。
「おっかしーなー。確かにこっちのはずなんすけどねぇ」
ゼルの道案内も、今回ばかりはどこか頼りない。
ゼルは普段から、ヴァストニア大陸全土の森を制覇した。森は友達、木々はマブダチと言ってはばからぬが、流石に自分の知らぬ間に生えてきた木々までダチとは言えなかった。
まぁ、それもこの森を抜けるまでの話であろう。
一度抜けたらダチなのだ。
木々にとっては迷惑だろうが。
「なに、山と逆に歩いていればいずれつく」
「そっすね!」
しかし、バッシュは気楽であった。
山崩れが起きたとはいえ、山は越えたのだ。
となれば、ここはもうザリコ半島。
半島は先細っているのだから、いずれ人里にたどり着ける。
そうでなくとも、海にぶち当たるはずだ。そしたら海に沿って歩けばいい。
なにせブラックヘッド領は、半島の先端にあるのだから、それで到着できる。
逆に山に到達したら、回れ右をすればいいのだ。
そんな感じで意気揚々と歩いてきたわけだが、未だに森以外のものは見えてこない。
フェアリーであるゼルが空を飛んで周囲を見渡してみても、町や海は見えてこない。
原因はザリコ半島の特色である、霧のせいだ。
この半島は霧が発生しやすく、ヒューマンがザリコ半島と名付ける前は、ミストランドという名で呼ばれていたと言われている。
無論、バッシュとゼルはそんなこと、知る由もないが。
「それにしても、このあたりも随分と変わったっすねぇ」
「そうだな……だが、この空気の匂いはあまり変わらん。懐かしい香りだ」
「へぇ、オレっちにはわかんないっすけど……思えば、ザリコ半島攻略戦からじゃないっすか? オレっちとよく組みだしたのって」
「そうだったか?」
「そっすよ。懐かしいっすねぇ……あの頃の旦那は、まだ今ほど強くなくて、他よりちょっと抜きんでてはいたものの、どこにでもいる普通のオークって感じだったっすけど。戦いの中でメキメキと強くなっていったんで、驚いたっすよ」
「思い出した。お前は俺の部隊についた、三人目のフェアリーだった。やけに偉そうだったな。俺たちのことを小僧だの小童だのと……」
「や! 違うんす! 当時はほら、オレっちもまだまだガキだったというか、若いオークにいっちょ先輩風を吹かせてやろう、フェアリーだから舐められまいぞとリキんでたんすよ! 若気の至りってやつっす! 今では反省してるんすよ! オレっちは変わったっす! 当時の舐め腐ったオレっちから今のオレっちに完全なる羽化を遂げたっす! 今は旦那のことは尊敬オブ尊敬! 頼もしき戦友にして英雄! 今のオレっちなら当時のオレっちを一分以内にぶちのめしてみせるっす!」
「そうか。だが、偉そうとは思ったが、当時から俺はお前のことを頼りにしていたぞ。お前がいなければ、ブラックヘッドの所にたどり着くことは無かっただろうからな」
「旦那にそう言ってもらえると超嬉しいっすね!」
そんな会話をしつつ、茂みをかき分けながら歩く二人は、かつてここに来たことがあった。
あれは、バッシュがようやく新兵から脱し、一人前のオークとして、頭角をめきめきと現し始めたばかりの頃。
ゼルがバッシュたちの隊付けのフェアリーとして、着任した。
ブラックヘッド攻略戦という、ゲディグズ発案の大規模な作戦行動に、オークとフェアリーも当然参加していた。
部隊は事細かに配置され、全てがゲディグズ以下三名の将軍の管理下へと置かれ、緻密に動かされた。
ゼルは、その作戦においてバッシュ達ブーダーズ中隊に伝令と道案内をする係として配置されたのだ。
ちなみに、その役割を持っていたのはゼルだけではなかった。
多くのフェアリーがいた。
でも戦後まで生き残ったのはゼルだけだ。
ブラックヘッド攻略戦は、完璧な作戦だったと言えよう。
ザリコ半島周辺の海域に多量の船を送り込み海路を封鎖、ザリコ半島へとつながる山脈を大規模な魔法で徹底的に潰し陸路も封鎖、完全に孤立させてから、複数の海岸から上陸し、侵攻した。
ブラックヘッドがいかに優秀な将といえど、もはや逃れる術はない。
すぐに殲滅できるだろうと、誰もが思った。
だが、ブラックヘッドは驚異的な粘りを見せた。
ブラックヘッドの配下、嵐の十騎士。
彼らは十名しかいなかったが、一人一人が砦を構え、それぞれ500以上の兵を率いる強者揃いだった。
七種族連合はそんな騎士たちの守る十の砦を、デーモン、オーク、フェアリー、ハーピー、リザードマンの混成種族で果敢に攻め込んだ。
ちなみにサキュバスは救援に駆け付けんと海路から近づくヒューマンを、オーガは陸路から近づくエルフ、ビーストをそれぞれ叩き返していた。
ドワーフはザリコ半島入口の巨大な拠点を破壊され、救援に向かう余裕は無かった。
ザリコ半島を確実に落とせる、完璧な包囲網であったが、ゲディグズは一つミスを犯していた。
ヒューマンに逃げ場を与えなかったことだ。
その上、ゲディグズの想像以上に、ヒューマンの、いやブラックヘッドと嵐の十騎士、そしてザリコ半島にいた全ての兵の精神力が強かった。
高い練度と高い士気があった。
200年以上、重要拠点としてヒューマンを支えてきた地域を守り続けた者たちが、培ってきた戦術や経験の全てを注ぎ込んで、それでもなお勝てぬとわかりつつ、最後には無残に死ぬと知った時、ゲディグズは彼らが絶望に萎え衰えると思ったのだ。
しかし彼らはそんな弱兵ではなかった。
決して諦めることは無く、一族郎党死に物狂いとなって抵抗してきたのだ。
誰一人として絶望する者はいなかった。
いずれ死ぬのだとしても、出来る限り七種族連合の人でなし共を長く苦しませ、死の瞬間には必ず数人を道連れにしてやろうという気概に溢れていた。
ゆえに、本命であるデーモン本軍が砦を抜けなかった。
嵐の十騎士序列第三位『稲妻斬りのマルティネス』の守る、ディープミスト砦が、落とせなかった。
いや、実際の所、落とすことはできた。
ただ、時間が掛かったのだ。
デーモンの指揮官が、確実に勝てる戦いだからこそ、可能な限り損害を少なくしようと考えたのも原因の一つかもしれない。
ブラックヘッドが、ここが本命だからと他から少しずつ兵を集め、戦力を増強したのも、関係ないわけではあるまい。
ともあれ、予定通りの侵攻にはならなかった。
そのせいで海路か陸路の救援が、間に合ってしまう可能性が芽生え始めていた。
それはヒューマンに希望を与え、七種族連合には焦りを与えていた。
そんな中、転機が訪れる。
まったく期待していなかった砦が陥落したのだ。
嵐の十騎士序列第一位『暴風斬りのレイヴン』が守る、ホワイトミスト砦が陥落したのだ。
陥落させたのは、信じられないことにオークであった。
それも、オーク族の本隊ではない。
ほぼ捨て鉢とも言える、パッとしない雑兵の集められた部隊であった。
嵐の十騎士の中で最優であったレイヴンが、負けた。
多少時間はかかったとはいえ、砦があっさりと陥落した。
そこからオークの大群がザリコ半島中に浸透し、ブラックヘッド軍を大混乱へと陥れた。
なにせオークだ、男は皆殺し、女はさらって犯す。そんな連中が、無辜の人々を襲い始めたのだ。
嵐の十騎士たちは、オークを止めるべく動き……そして破綻した。
あれよあれよという間に一人、また一人と討ち取られ……。
気づけばオークの本軍が、ブラックヘッド領の首都ストームヒルに到達していた。
さらに後ろからはマルティネスを撃ち破ったデーモン本軍も迫ってきていた。
詰みであった。
そして、デーモン本軍の到着と同時に全軍がなだれ込み、ブラックヘッドは討ち取られた。
デーモンの将軍は、ブラックヘッドの首級を上げた運のいい雑兵に、褒美として一本の剣を授けたという。
……当時は運のいい雑兵だと思われていた男だが。この男は、後に『オーク英雄』と呼ばれるようになる。
そう、嵐の十騎士レイヴンを倒したのも、ブラックヘッドを一騎打ちの末に討ち取ったのも、かつて一兵卒に過ぎなかったバッシュであった。
当人としては、ゼルに引き連れられるまま戦場をあちこち駆けまわり、途中から中隊ともはぐれ、しかし戦い続けることをやめず、その結果、気づけば敵の一番強いやつを打倒していたのである。
概ね道案内に失敗したゼルのせいであるが、バッシュはゼルのおかげで助かったと考えている。
生き残り、手柄も手に入った。
ゼルでなければ、そうはならなかっただろう。
ゼルの「こっちっす、こっちで間違いないっす!」という言葉は、まぁ概ね間違っているが、しかしバッシュにとって決して悪い結果をもたらすものではなかったというわけだ。
「む」
そんな昔話に花を咲かせていると、唐突に目の前が開けた。
湖だ。
大きな湖が、目の前に広がっていたのだ。
「お、スマザ湖っすね!」
「ホワイトミスト砦もあるな!」
スマザ湖のホワイトミスト砦は、バッシュとゼルがこの地にきた時に最初に目指した場所であった。
初めてみた時は、白い霧の中に悠然と浮かぶ砦が、難攻不落の要塞に見えたものだった。
実際、この砦を落とすために、数多のオークたちが湖の溺死体となり果てた。
ゼルが迷った挙句、数キロ離れた場所にある"秘密の入り口"を見つけなければ、きっと砦は陥落しなかっただろう。
今や、その砦は半壊し、苔むした廃墟と化している。
バッシュたちの知っている砦は半壊していなかった。
恐らくヒューマンがザリコ半島を取り戻した時の戦いで、こうなったのだろう。
「確か砦には地図があったっすよね」
「ああ」
二人の記憶が確かなら、ホワイトミスト砦の一室には、この辺り一帯の地図が存在していたはずだ。
それを確認すれば、目的地の場所がわかるはずだ。多分。
まぁ、残っていればだが。
そう考え、二人は湖を回りながら砦へと近づいていく。
「あれ? 誰かいるみたいっすね?」
ふと見ると、砦の中で何かが動くのが見えた。
よく見れば、砦の残骸からは、うっすらとだが一筋の煙が立ち上っている。
「丁度いい、このあたりに住んでいる奴なら、道も知っていよう」
「そっすね!」
そんな会話をしつつ、二人は砦へと近づいていく。
すると、砦の中から奇妙な光が発せられたのがわかった。
何やら魔法めいた光である。
中にいるのは魔法使いであろうか。
そう思いつつ砦に近づいていくと、砦の残骸が改修されているのがわかった。
白い石材の砦の残骸に、二階建ての木製建築物が寄りかかるように増築されているのだ。
バッシュもゼルも詳しくは知らないが、恐らくはヒューマンの建築様式であろう。
入口の方に回ってみると、物干しざおに干された白い衣類がパタパタとはためいていた。
誰かがこの砦の跡地に住み着いているのだ。
「どうもー! 誰かいないっすか!」
ゼルの呼びかけに、家の中からバタバタとあわただしい音が響いてくる。
足音は扉の前で止まる。
「ど、どなたですか?」
男の声だ。
「『オーク英雄』バッシュだ。道を尋ねたい」
「『フェアリー英雄』ゼルもいるっす! 怪しい者じゃないっすよ!」
『フェアリー英雄』などというモノは存在しない。
実に怪しい二人組であった。
「オーク英雄……? まさか……なぜこんな所に……?」
「オレっちら、ブラックヘッド領に行く途中だったんすけど、道案内のヒューマン達が山崩れで死んじゃって、道どころか現在位置もわかんなくて困ってるっす! 人助けをするなら今っすよ! あの『オーク英雄』バッシュに恩を売るチャンス! 逃す手はない! 今この瞬間の選択で、あなたの運命が変わるかも!」
ゼルの巧みな説得を受けてか、あるいは『オーク英雄』という単語を聞いてか。
扉が開いた。
「む……」
扉の向こうから現れた姿に、バッシュの眉がぴくりと動く。
その男、皺のある顔は老人の類であり、痩せた体は戦士でないことを示していた。
その男は、見慣れた緑色の肌をしていた。
つまりその男は……。
オークであった。
「お前は……?」
しかも、その額には、見覚えのある紋章が現れていた。
時にオーク国内で侮られるその紋章は、バッシュにとって特に忌むべきものである。
その紋章を付けた者になんら特別な感情は抱かないが、しかし自分が付けるのは絶対に嫌。
三十歳まで童貞だった者の証である。
オークメイジが、そこにいた。