66.暗躍者たち
その遺跡は、レスの雪原を超えた先、ドラゴンの住む山をさらに越えた先にあった。
なめらかな石で作られたそれは、長い年月で風化していたが、しかししっかりとその形を残している。
名前も無き遺跡だ。
あるいはここがまだ遺跡ではなかった頃には、何かしらの名前がついていたのかもしれないが……。
今となっては誰も訪れることのない、その存在すら限られた者しか知らない、寂れた遺跡である。
そんな遺跡に、一人の女が入り込もうとしていた。
断崖の氷壁を軽やかに上り、遺跡の凍り付いた石扉を軽そうに押し開き、中へと体を滑り込ませる。
後ろ足で石扉を蹴って占めると、彼女の周囲は静寂に包まれた。
遺跡の中は、朽ちた外見とは裏腹に、綺麗なものであった。
大部屋の中空には大規模な魔法陣が描かれ、無数の光の線が小部屋へと伸びていた。
魔法陣の効果なのか、埃が積もり、古びてはいるものの、風化した気配はない。
どの小部屋にも、一見すると何に使うかわからぬものばかりが並んでいる。
だが、ある一部屋にだけ、わかりやすいものが並んでいた。
本だ。
大量の本が本棚に押し込められ、それのみならず、床にもうずたかく本が積まれていた。
女はその部屋に足を踏み入れる。
本の山の中に、一人の女がいた。
ガリガリに痩せた体に落ちくぼんだ目、うねうねとした髪をもつその女の名はポプラティカ。
『影渦』のポプラティカ。
かのデーモンの熟練魔導士にして、シーケンスの娘が、本の塔の上にお行儀悪く座りつつ、一冊の本に目を通していた。
目の下の隈はいつもよりも色濃く、疲労が見える。
きっと寝ていないのだろう。
部屋に侵入者があっても、彼女がその視線を本から上げることはない。
気づいていないのかもしれない。
夢中になっているのだ。
鬼気迫る表情で、その本に書かれた文章を追っているのだ。
「ただいま。取ってきたよ」
女が声を上げると、ポプラティカはハッとした表情で顔を上げた。
そして、本の塔の下にいる女を見て、弱弱しい笑みを浮かべた。
「お帰り、お姫様。ずいぶん遅かったね」
「グリフォンを潰されてね。それと、お姫様はやめてくれないか?」
「王子様がいい?」
「それは別にいるからダメさ」
「面倒。名前を捨てる前に呼び名ぐらい考えておいて」
名無しの女は肩をすくめると、背中に背負ったカバンから、虹色に光る石を取り出した。
それを無造作にポプラティカの方へと放り投げる。
「気を付けて、貴重なものなんだから」
「それだけ力を持った物体が、投げ落とした程度で壊れたりはしないさ」
ポプラティカは危なげなく石をキャッチし、それをしげしげと眺める。
「聖樹の種の時も思ったけど、綺麗だね」
「それがあった殻も綺麗だったよ。さすがは偉大なる生物、といった所かな?」
「大昔には、こんな力を持った生物が闊歩していた……そう聞いても、ピンとこないのは確か」
ポプラティカは、己の読んでいた本の背表紙を指でコンと叩きつつ、そう言った。
この書庫にあるのは、ほとんどが歴史書だった。
長い長い、この大陸の歴史が記された本だった。
この大陸に人間が発生した頃から、人間たちが戦争を始めるまで……。
全ての歴史が、ここに保存されていた。
「どこまで読めたんだい?」
「結構前まで」
ポプラティカはそう答え、本をパタンと閉じた。
ここには全ての歴史が書かれているが、戦争が始まった頃までならともかく、時を遡れば遡るほど、言語と文字は変化していき、解読に時間が掛かった。
特に原初の時代の文字など、もはや文字にすら思えぬ記号が並ぶばかりだ。
もしポプラティカ一人であれば、この書庫の十分の一も読めていなかっただろう。
彼女がこの書庫の中身を知れたのは、先人がいたからだ。
この書庫に立ち入り、難解な文章を解読し、今の言葉に直した者が、過去にいたからだ。
ごく一部だけだが、その者が解読し、翻訳し、要約した本があった。
そのおかげで、ポプラティカは原典を読むに至れていた。
かつてこの大陸は、人智の及ばぬ偉大な生物が闊歩していた。
この大陸の支配者は、人間ではなかった。
その生物たちが、なぜ滅んだのかは、定かではない。
先人の残した翻訳書のおかげで、古人達が「おそらく互いに争いあったのではないか」という推測をしている事は知れたが、それも推測に過ぎない。
ただ一つ事実として言えるのは、偉大なる生物たちは死に絶え、その力の一端が大陸中に残っているということだ。
それはビーストの聖樹であり、サキュバスの聖地であり、エルフの墓所であり、オーガの大顎であり、ドワーフの黄金であり、ヒューマンの聖典であった。
それが、偉大なる生物たちの残骸であるなどとはどこにも記されていなかったが、そうであることなど、少し考えればわかることだった。
「あとは、ヒューマンの聖典だけ」
「おや? ということは、アルドリアは失敗したのか?」
「うん。残念だけど」
偉大なる生物の残骸は、時にそこらに放置されている。
エルフの墓所は、長い戦争の末にただの瓦礫の山と化していたし、ドワーフの黄金は屑鉄の山の中に放置されていた。
その他、名も無き残骸は幾つもあった。
だが、見る者が見れば、それに力が宿っていることはわかる。
力が宿る時に信仰の対象となっている。
例えば、ビーストの聖樹や、サキュバスの聖地のように。
それらを確保しに走れば、確実に自分たちの目論見がバレる。
目論見がバレずとも、何かしらの勢力が裏で動いているとわかる。
ゆえに、ビーストの聖樹や、サキュバスの聖地、そしてヒューマンの聖典は、ほぼ同時に取りにいったのだが……。
どうやら、ヒューマンの聖典に関してだけは、失敗したようだった。
「あと二つか……」
「違う。あと一つ」
「ん? 一つ? 最後の一つは全員が戻ってきてから、総力戦で取りに行くという予定だったじゃないか」
「それは策が思いつかなければの話」
「つまり、何か思いついたということかい?」
女の言葉に、ポプラティカは首を振る。
「違う。でもいなくなった」
「いなくなった? どういうことだ?」
「わからないけど、私の妹が討伐隊を組織したって噂を聞いたから、もしかすると討伐できたのかもしれない」
「今のデーモンに、ドラゴンが討伐できるとは思えないけどなぁ……」
「なんでもいい。今、キャロットが取りに行ってる」
女が首をかしげていると、部屋の扉がキィと音を立てた。
女は、ぬるりと足音もなく入ってくる者が一人いることを、気配で察した。
「あらぁ~? 随分と遅かったのねぇ、お姫様ぁ~?」
振り返ると、美しい肢体をくねらせながら歩いてくる、一人のサキュバスがいた。
かつてサキュバス軍にその人ありと言われた将軍、キャロットである。
「心配してたわよぉ? 何かあったんじゃないかってぇ」
キャロットは、名も無き女の顎に指を添わせ、つつっと動かした。
挑発しているともとれる行動だが、決してそういうわけではなく、普通に心配していたのである。
ヒューマンやエルフの国でやれば大顰蹙を買う、サキュバス仕草であった。
もちろん、女の方は理解しているがゆえ、特に不快な表情を見せることもなく、自然に言葉を返す。
「ああ、グリフォンが途中でやられてね?」
「えぇ? 簡単に言うけど、自然にそうなったわけじゃないわよねぇ? 誰にやられたの? お姉さんに教えてごらんなさい?」
「オークだ。それもただのオークじゃない。君たちも言ってた、あのオーク英雄さ」
「えぇ、バッシュ様に会ったのぉ!? よく生きていたわねぇ!?」
「ああ、私が女でなければ、殺されていたかもしれないな」
「あらぁ! もしかしてバッシュ様に負けて、犯されちゃったの? 羨ましいわぁ!」
「まさか、ただ乳を放り出して油断させたってだけさ。ただ、プロポーズはされたよ」
瞬間、底冷えするような冷気が場を支配した。
「そう、羨ましいわね」
嫉妬であった。
名無しの女は気づかぬはずもないが、気づかずフリで返事をする。
怒らせたと焦る必要もない。
この話の結末は、きっと目の前のサキュバスにとって嬉しいものだと知っているから。
「だろう? オークでも、あれほど情熱的なプロポーズができるのだな。この顔になってから美しいと言われたのは初めてだよ」
「それで、どうしたの? 受けてバッシュ様のお嫁さんにでもなるの?」
「残念ながら、そうはならなかったさ。私と、私に殺されかかっているオーガの子供たち、どっちを取るかと聞いたら、あっさりオーガの子供たちを選んだからね。オークだというのに、立派なことだよ。尊敬に値する」
それを聞き、キャロットは破顔した。
「でしょぉ~? バッシュ様はそこらのオークとは格が違うんだからぁ」
キャロットの態度が軟化する。
かのバッシュにプロポーズされたという事実に対し、嫉妬の心はあるものの、女より人助けを選んだという話に、キャロットは破顔した。
そう。他のオークではそうはいくまい。
やっぱり私のバッシュ様は最高なんだから。
「無駄話、終わってもらっていい?」
二人の会話を黙って聞いていたポプラティカは、そう言うと本の塔からスルリと飛び降りた。
手に持っていた本を無造作にそこらに置いて、キャロットへと手を差し出す。
キャロットはそれに応じて、懐から青白く光るサンゴのような物体を取り出し、彼女に渡した。
「これで、あと一つ。帰ってきたばかりで悪いけど、二人にはもう少し働いてもらう」
「もちろん」
「わかってるわ。私だってそのつもりよぉ。なんだったら一人で行ってきてもいいんだからぁ」
ポプラティカその返答を頼もしく感じつつ、歩き出す。
「ん。でもアルドリアがダメだったなら、警戒されてるだろうし、三人じゃ足りないと思う。もう少し連れてこう」
残る二人もポプラティカに追従した。
小部屋を出て、大部屋へ、大部屋を出て廊下へ。
長い廊下を超えた先には下への階段があり、それを下っていくと、大きな祭壇があった。
今の大陸の建築様式のどれにも似ていない。
エルフのものとも、デーモンのものとも違う。
立ち並ぶ柱は人の手で作られたものとは思えないほど太く高く山の中であると思えないほどに天井は高く、何らかの神を祭っていたであろう祭壇は、暗い紫色に光っていた。
ただ巨大だった。
こんなものが山の中に存在していることに、誰もが違和感を覚えるほどに。
三人は長い廊下を歩き、祭壇の奥へとたどり着く。
キャロットと名無しの女は祭壇を見上げる。
祭壇の台座には、この三年で集めてきた遺物が並べられていた。
もうすぐ、その苦労が報いられる。
そう考え、三人の胸の内に少しばかり熱いものがこみあげてくる。
だが、溢れるほどではない。
なぜなら、まだ始まっていないからだ。
あと一つ、残っている。
「おぉ、無事に帰還したか!」
祭壇に声が響く。
二人が振り返ると、そこには様々な種族の影があった。
デーモンがいた、オーガがいた、サキュバスがいた、リザードマンとハーピーもいた。
フェアリーこそいないものの、オークもいる。
それどころか、ビーストやドワーフ、エルフの姿もあった。
総勢二十名、彼らは皆、異様にギラついた目で、ポプラティカたちを見上げた。
彼らの先頭に立つのは、やはりデーモンだった。
巨大な四本の魔剣を背負った、巨漢のデーモン。
名はネザーハンクス。
人は彼を『剛剣将軍』と呼ぶ。
デーモンの中でも指折りの実力者であり、生粋の武人であった。
「アルドリアは、やはり帰らぬか?」
「うん」
「死んだか?」
「さぁ? 捕まって拷問を受けてるのかも」
「拷問で何かを吐くような男ではあるまい。潔く死んだと考えるか!」
ネザーハンクスは豪快に笑い、ポプラティカを見下ろした。
「尻ぬぐいしてくるよ」
「うむ。どうする? 儂が出るか!? あるいは全員で行くか!?」
「オジさんは目立つから駄目。戦力も残しておかないと、ゲディグズ様が蘇ったら、忙しくなるし……でも何人か借りるよ」
「了解した! 好きなのを連れていけぃ!」
「言われなくてもそうする」
その会話に、20名の勇士たちが前に出てくる。
誰もが歴戦の戦士だった。
名のある戦士だ。
戦いの中でしか生きられぬ、戦いに愛された寵児たちだった。
そして、全員がこの平和に不満を抱いていた。
暗闇の中で牙を研ぎながら各地を放浪して、ここにたどり着いた、選ばれし者たちだった。
この集団の発起人はポプラティカだ。
だが、全員、気持ちは同じだった。
「じゃあ、君と、あと君で……」
ポプラティカはその中から二人選ぶと、踵を返す。
五人が無言で、それについていく。
遺跡から出ていく。
「吉報を待っているぞ!」
ネザーハンクスの言葉を背中で受けながら、彼らは出立する。
手に入れるべきは、ヒューマンの聖典。
向かう先は、ゲディグズの侵攻の際、ヒューマンが孤立無援となり、指揮官を失ってもなお守り抜いた場所。
パイルズ川の先、アルカンシェル平原を超えた場所にあるザリコ半島。
ヒューマンの飛地、ブラックヘッド領である。
第六章 デーモンの国 ギジェ要塞編 -終-