51.暴動
その事件は、"食料"たちが運動を始めて、数日後に起こった。
「なんだか、騒がしいな」
ちょうど、"食堂"の庭でルドの訓練をしており、少し休憩すると決めた時のこと。
壁の向こう側がにわかに騒がしくなった。
庭にもふんわりと甘い匂いが漂いはじめ、バッシュの近くで訓練していた"食料"たちも、ざわつき始める。
「……壁の向こうに、やたら大量のサキュバスが集まってるっすね」
「祭りでもあるのか?」
「いやー、そんな感じじゃないっすね。なんか殺気立ってるっす」
「……ならば、やはり祭りではないのか?」
バッシュは、ややソワソワとした様子でそう聞いた。
彼は歴戦の戦士である。
塀の外に、殺気立ったサキュバスが大勢いるのはわかっている。
だが、祭りに喧嘩はつきものだ。
殺気立っているからといって、祭りではないとは限らないではないか。
見目麗しいサキュバスたちが組んず解れつ殴り合いの喧嘩をするのを目にしながら酒を飲むのは、絶対にうまいに違いなかった。
「何か様子がおかしいですね……バッシュ様、私の近くから離れませんように」
ヴィナスがそう言いつつ、ポケットから金属のサックを取り出し、手に嵌めた。
サキュバスは徒手空拳を主とするが、時にこうした武器を使う者もいるのだ。
と、食堂の中から多数のサキュバスが走り出て、その内の一人がバッシュの近くにいたヴィナスまで走り寄ってきた。
「ヴィナス中尉!」
「なんだこの騒ぎは!」
「暴動が起きました! 食料の配給低下が原因で、皆が不満を持って……!」
その言葉に、ヴィナスはサッと顔色を変えた。
「"食料"の避難は!?」
「もう始まっています。しかしながら、すでに"食堂"内部に暴徒が侵入しているため、訓練中の"食料"はこちらで待機せよとのことです」
見ると、他のサキュバスたちが訓練中だった"食料"の周囲を囲み始めていた。
この場で防衛する腹積もりのようだった。
良い判断だと思う。
敵の本体がわからぬ以上、情報が入るまでこの場にとどまり防戦に努めるのは、理に叶っている。
守るべき者がいるとなればなおさらだ。
部隊というのは、移動している時の方が無防備なのだから。
対する"食料"たちは運動の直後ということもあってか、あまりおとなしくはしておらず、むしろ塀の向こう側から漂ってくる甘い匂いにつられてか、誘導するサキュバスの尻を撫でる始末だったが。
「バッシュ様もあちらへ。バッシュ様なら、いくら相手がサキュバスと言えど、あの程度の若造にどうにかされることは無いと思いますが……あなたの身に何かあっては、私の首が飛びますので」
ヴィナスはこう言ってくれたが、バッシュはサキュバスに勝てる気はしなかった。
ただ、これは恥ずかしいことではない。
そういうものなのだから。
サキュバスという生物は、男を吸い殺すことに特化している。
本気で襲いかかってこられれば、バッシュのみならず、どの国の英雄でもサキュバスには勝てないのだ。
「待った、ルドがまだ帰ってきていないっすよ!」
「お弟子様が!? どちらへ?」
「用を足しにいっている!」
そう、ルドは先程訓練を終え、"食堂"へと用を足しに行った所だった。
本来ならそのへんでやってしまう所だが、ここはサキュバスの国、男性が公共の場で陰部をさらけ出すことは死を意味していた。
ゆえに、食堂に設置された厠へと移動していたはずだ。
一階は食事にきたサキュバスたちも多いため、二階か三階の。
「オレっち、探してくるっす!」
「あ、ゼル殿お待ち下さい! 今、警備の者を……!」
ゼルがヴィナスが止める声を聞かず、飛び出していく。
バッシュは止めなかった。
こうした突発的な事態が起きた時、必要なのは闇雲に動くことではなく、情報だ。
そして、情報を得ることに特化したフェアリーが飛び立った。
ゼルがルドを見つけるなら良し。
ゼルが見つけられないなら、バッシュがどれだけ慌てて探し始めても、すでに手遅れということだ。
「……」
バッシュは座り込み、"食堂"の方を見上げながら、その瞬間を待った。
その間にも塀が破られ、暴徒たちが塀の中へと飛び込んできている。
しかし、こちらはヴィナスを含めた警備員たちが対処していた。
暴徒の大半は、戦争にほとんど参加していない若者が多いようだった。
対する警備員たちは、その全てが歴戦の戦士のようで、暴徒たちを次々と鎮圧していた。
暴徒の数の方が圧倒的に多いが、それであっても警備兵たちが負ける気配は見受けられなかった。
バッシュはそちらから目をそらし、再度"食堂"を見上げる。
ややあって、屋上が強く光った。
見慣れた光だった。
フェアリーが緊急のSOSを発する時の光。
それを見てバッシュは飛び出した。
戦闘中のサキュバスたちを吹き飛ばしながら建物に向かい突進し、跳躍。
二階の窓枠に足を掛け、さらに上へ。
壁に拳を打ち付けて無理矢理足場を作り、さらに上へ、上へと登っていく。
そしてあっという間に屋上へとたどり着いた。
「旦那!」
すぐさま、顔の脇にフェアリーが飛んでくる。
ゼルと言葉をかわすより先に、バッシュの視界に屋上の光景が飛び込んできた。
そこで見た光景は、半ば羨ましいとも言えるものだった。
若いサキュバスたちだった。
胸も小さく、体も小さい、手足も細い。
少女というにふさわしい体躯の者たちが、一人の少年に群がっていた。
少年はうつろな目で膝立ちとなっていた。
魅了に掛かっている者特有の表情で、その上、上半身はすでに裸だった。
そして、それを囲むサキュバスたちもまた……。
「……おじさん、だぁれ?」
バッシュの方を向いた目は、捕食者のそれだった。
すでに屋上には濃厚な桃色濃霧が立ち込めており、サキュバスたちの瞳は爛々と赤く輝いていた。
バッシュはとっさに目を閉じ、息を止めた。
そしてそのまま、ルドの方へと突進した。
「キャアァ!」
「なになに!?」
「おじさんが突っ込んできた!」
バッシュは声を聞きながら、ルドの体を掴み、己の胸元へと掻き抱いた。
そのまま、その場を脱出しようとして、くらりと足元がフラつき、膝をついてしまった。
脳内で獣欲が鎌首をもたげ、目を開いて周囲のサキュバスたちの肌を確認すべきだという考えが浮かんでくる。
屋上に登った時点で、桃色濃霧を少し吸い込んでいたらしい。
当然だ。屋上だけでなく、この"食堂"全体で、サキュバスたちが桃色濃霧を撒き散らしながら戦闘しているのだから。
「あれあれぇ?」
「おじさんどうしちゃったの?」
「疲れたの?」
「ちょっと休んでこ、ね? 痛くしないから」
「ほら、目をつむってないで。こっち見て? ね?」
サキュバスたちの甘い声が耳をくすぐる。
バッシュはルドを隠すように体を丸め、息を吸わぬよう短く叫ぶ。
「ゼル!」
「承知っす!」
バッシュの言葉に、フェアリーが答える。
バッシュの視界から、ゼルの動きはわからない。
だが、音で戦いが始まったのがわかった。
ゼルは歴戦の戦士だ。
だが、フェアリーは魔法攻撃が主体であり、サキュバスの魔法耐性は高い。
バッシュは弾き飛ばした感じから、さして戦いなれていないサキュバスだと判別できたが、それでも5対1で、バッシュたちを守りながらとなると、やや劣勢か。
「キャァ!」
「なんだよ、どけよ妖精!」
「見せびらかしやがって! ちょっとぐらいいいだろ!」
「どうせ女王とか近衛が食っちまってるんだ! あたしらがちょっとぐらい食ってもいいだろ!」
先程までの甘い声はどこにいったのか、切羽詰まった怒号を撒き散らしながら、サキュバスたちが走り回る。
「どういう理論っすか!」
普段のゼルであれば、自在に飛び回りながら魔法を放ち、幼稚なサキュバスなど翻弄できるだろう。
だがバッシュたちを背にとなると、それも叶わなかった。
フェアリーは、何かを守りながら戦うというには向いていない。
「あっ!」
「捕まえた!」
「殺せ! 首引っこ抜け!」
それを聞いた瞬間、バッシュは目を見開いた。
戦友を見殺しにする男は、オーク英雄などと呼ばれない。
バッシュは跳ねるように起き上がると、ゼルを掴んでいるサキュバスに拳を打ち込んだ。
多少の手加減が加わってしまったのは、掴まれたゼルに被害が及ぶのを恐れてか、あるいは桃色濃霧の影響下にあるせいか。
本来なら上半身が爆ぜる所だったサキュバスはバウンドしながら吹っ飛んでいき、屋上のへりでピクピクと痙攣しはじめた。
ゼルは手から抜け出し、再度空中に戻る。
だが、そこまでだった。
「起き上がった! ほらっ! あたしの目を見て! ほら、見ろ! こっち見ろ!」
バッシュが桃色濃霧を吸い込み動きが鈍ったところ、サキュバスの一人がバッシュの前に潜り込んできた。
赤く光った目が、バッシュの視線と絡み合う。
「……ぐっ!」
「うふふ、おじさん、だぁいすき。あたしね、いっぱい出してほしい物があるの、ね、いいでしょぉ?」
サキュバスの甘い声がバッシュを支配し始める。
男は、この声に抗う術を持たない。
どの種族であっても……。
「だめっ!」
次の瞬間、バッシュとサキュバスの視線を、一つの影が視界を塞いだ。
ルカだ。
彼女は頭突きでもするかのようにバッシュとサキュバスの間に己の頭を差し込み、その視界を塞いでいた。
そう、女であれば、サキュバスの特異な能力は意味をなさない。
「『茨の呪縛』!」
ルカが杖をサキュバスに向けると、サキュバスの体に茨が巻き付き、その動きを封じた。
「なんだよガキ! 邪魔すんな! 殺すぞ!」
「バッシュ様にも兄さんにも手を出させない!」
「女をどけろ! 殺しとけ!」
「わかってるよ!」
「『茨の呪縛』! あぐっ!」
しかし、さらに次のサキュバスの動きを封じた所で、髪を捕まれ、引き倒されてしまう。
もう一人のサキュバスが馬乗りになり、その首に手をかける。
その間に、再びバッシュの視界にサキュバスの赤い瞳がうつる。
バッシュはもう目を閉じられない。
魅了された脳内に、目を閉じるという選択肢が生まれない。
「フラッシュライト!」
そこでゼルが戻ってきた。
叩きつけるような光が、目をかっぴらいていたサキュバスの視界を潰す。
サキュバスはたまらず目を閉じて、顔をそむけた。
「ああっ!」
ゼルは光弾となり、もう一人のサキュバスへとぶっ飛んでいき。
「動くな妖精! こいつがどうなってもいいの!?」
首根っこを掴まれたルカを見て、動きを止めた。
ゼルは一瞬だけ躊躇した。
ルカごとやるか、あるいは言いなりになるか。
ややあって後者を選択したゼルは、しかしただ言いなりにはならない。
得意の口車を発進させた。
「どういうことなんすかコレは!」
ゼルは声を張り上げる。
いつだってうるさいのがゼルなのだ。
「サキュバスは、多種族との許可なき食事は禁じられているはずっす! しかもバッシュの旦那はサキュバスの恩人っすよ!? わかってるんすか!? 女王は間違いなく激怒っすよ! あーあ、どうなることっすかね! 単にお叱りを受けるだけならいいっすけど、場合によっては死刑っすよね! でも大丈夫、今なら一緒に謝ってあげるっす! オレっち、こう見えて頭を下げるのは誰よりも得意っすからね! オレっちに掛かれば女王の一人や二人……」
「知るかよそんなのぉ! あたしらは腹がへってんだよ! ユリーネ! さっさと立ち上がってオークに魅了かけてパンツ脱がせ!」
サキュバスの一人が目をこすりながら立ち上がる。
強い光を浴びて、視界がまだ戻ってきていないが、目をしばしばとさせつつ、それでもバッシュへと視線を合わせようとする。
バッシュは動けない、魅了に掛かりかけたせいで桃色濃霧をさらに吸い込み、意識は朦朧としていた。
対して股間のバッシュは絶好調で、もはや目の前のサキュバスに突っ込むことしか考えられない様子だった。
サキュバスがバッシュの目の前に立ち、目を赤く光らせる。
もはや、バッシュを守る者は誰も――。
「やめろ馬鹿者共!」
いや、一人いた。
屋上の入り口に、一人のサキュバスが立っていた。
桃色の髪に、小さな胸。
幼いとも言えるその容姿は、しかしバッシュに襲いかかってきたサキュバスたちと比べれば、はるかに妖艶で大人びたもの。
片翼の翼とちぎれた尻尾は、歴戦であることを伺わせた。
「ヒッ、ヴィナス……!」
「な、なんだよ……あたしらはただ……」
ヴィナスは座った目でスタスタとバッシュの前へと歩くと、その眼前に跪いた。
「バッシュ様、申し訳ありません。」
そう一言言うが、魅了を掛けられたバッシュはヴィナスに欲情の目を向けるばかりで、返事が無い。
痛々しい表情で視線を反らたヴィナスは、ゆっくりと振り返る。
その顔を見て、サキュバスたちは知らぬ間に一歩、後ろへと下がっていた。
「ねぇ、あなた達。その方は、我らサキュバスの恩人なのよ。この方がいなかったら、お前たちは生まれてすらいないの、それぐらいはわかってる?」
「もちろん、お腹が減っているのはわかっているわ。我慢を強いているのもわかってる。わかっているのよ。私達大人は」
「でもお願い。この方にそんなことはしないで。あなたの助けたサキュバスは、誇り高い種族なのだと、そう胸を張って言わせて頂戴」
ヴィナスの言葉は、誰が聞いても必死だとわかった。
サキュバス特有の、甘ったるい口調だったが、真摯で、切羽詰まっていた。
苦しいのはわかっているが、それでも聞いてくれ、聞き分けてくれ、このラインを越えてはダメなのだと、そう伝えようとしているのがわかった。
「うるせぇな! 何が誇りだよ!」
でも、小さなサキュバスたちには届かなかった。
「誇りとかそういうのは、腹を減らしてない時にようやく言えることだろ!」
「自分たちばっかり腹いっぱい食べやがって」
ヴィナスは泣きそうな顔で息を飲み、うつむき、ゆっくりと顔を上げた。
座った目で、一言言った。
「そう」
ヴィナスの蹴りがサキュバスの顔に叩き込まれた。
ボギンと音が鳴り、若いサキュバスが膝から崩れ落ちる。
「ッ!」
ヴィナスは他の種族であれば体勢を崩すような所から片翼を動かし、ぬるりと音がしそうなほど滑らかな動きで別のサキュバスに肉薄、薄い胸板に拳を叩きつけた。
ボゴンと音がして、サキュバスが血反吐を吐く。
ルカに馬乗りになっていたサキュバスは、それを見て慌てて立ち上がろうとしたが、間に合わない。
ヴィナスの足刀が首に突き刺さり、ぐるんと目を回し、泡を吹く。
残り二人、ルカの呪法によって自由を奪われていた者たちは、その光景を見て顔を真っ青に染めていた。
「あ、あたしは、違うんです、その……ユリーネに付いてきただけで……」
「あたしも! あたしも違います! むしろ反対してたぐらいで」
二人を見るヴィナスの瞳は暗く、失望と怒りに沈んでいた。
「死んだ仲間を盾にするような者は、サキュバスではない」
ヴィナスはそう言うと、二人の首を叩き折った。