43.プロポーズ
「キュオオオオォォン!」
唐突に響き渡った咆哮で、バッシュは飛び起きた。
近くにあった何かを掴んで体を起こし、片膝をついて起き上がり、背中の剣を抜き放つ。
「ゲホッ……ガボッ、ガハッ……」
無意識にした咳と同時に、口の中から大量の水が吐き出される。
バッシュは口元を拭いつつ、周囲の状況を確認をする。
今の咆哮の主、バッシュを跳ね起きさせた存在がいるはずだった。
場所は恐らく、崖際だ。
川が増水しているせいでわかりにくいが、元々崖だった所まで水かさが増しており、バッシュは崖際に生えた木々の一本に引っかかっていたのだ。
正面には森が広がっており、目に見える存在は3つ。
こちらに背を向けている、二人の人間。
人間が相対しているのは、一匹の魔獣。
大きさは5メートル程度、鷹の頭と獅子の体、巨大な翼を持った魔獣。グリフォンだ。
こいつの咆哮が、バッシュを起こしたのだろう。
水の精霊は、何かをバッシュに伝えようとしていた。
それが何かはわからない。
あるいは、あれは死にかけのバッシュが見た夢なのかもしれない。
伝えたいことなど何もなく、気まぐれにバッシュを助けただけなのかもしれない。
けれどもバッシュは、関連付けて考えた。
あの水の中での出来事には、何か意味がある、と。
直感と、言い換えてもいいだろう。
そして、そうした直感は、幾度となくバッシュを窮地から救ってきた。
バッシュは素早く状況を観察する。
こちらに背を向けている二人の人間。
こちらに背を向けている人間の内一人は、片方は膝をつき、血を流している。
もう一人は、それを助けるように、肩を抱いていた。
こうした光景を、バッシュは何度か見たことがある。
二人は、戦い、負けたのだ。
グリフォンに。
そして、今まさに止めを刺されようとしているのだ。
(この二人を、助けろということか……?)
バッシュは瞬時に、そう結論付けた。
でなければ、わざわざこんな所に運んだりはすまい、と。
「グラアアアアァァァァァァァオオオオゥ!」
ウォークライ。
唐突に放たれた咆哮に対し、最も顕著に動いたのはグリフォンだった。
二人の人間に向けて低く構えていた首を持ち上げ、ウォークライの主であるバッシュを視界に捉える。
バッシュを視認して一秒。
バッシュをこの場で最も脅威と受け取ったのか、あるいは自分の獲物を取られると思ったのか、巨大な翼をはためかせて空中に浮かび上がると、一直線にバッシュに向かって突っ込んできた。
きっと若いグリフォンだったのだろう。
老獪なグリフォンであるなら、バッシュを見た瞬間、脇目も振らずに逃走に掛かるだろうから。
もっとも、どちらにせよバッシュがやる気である以上、結果は変わらない。
バッシュは大上段からの一撃を見舞った。
「……グゲッ」
グリフォンは一撃で真っ二つに両断された。
グリフォンと思えぬぶさいくな断末魔の叫び声を上げつつ、バッシュの背後に流れる濁流へと落ちていく。
「……」
バッシュはグリフォンが濁流から上がってこないのを確認した後、後ろを振り返った。
「……え?」
「な、なにが……」
そこには、呆然とする三人がいた。
満身創痍で膝をついているのは、少年だった。
赤黒い肌、額からは角が生えている。
オーガ族の特徴を持っているが、オーガにしては体が小さく、細かった。
あるいは、ヒューマンあたりの血が濃く混ざっているのかもしれない。
少年の脇にしゃがむのは、少女だ。
こちらもオーガで、その上まだ幼いのだろう。
額からは角が生えているが、その角はまだ小さく、体も少年より一回り小さかった。
年齢を想像するなら、十歳に届くか否か、といった所だ。
そして、もう一人。
グリフォンの影に隠れて見えなかった女がいた。
「これは驚きだ。オークが濁流から生えてきた」
その言葉は、内容とは裏腹に、声音に驚きは込められていない、淡々とした口調だった。
しかしながら、鈴を転がすような美声で、バッシュの心を震わせた。
(……なんと美しい声だ)
見れば、恐らくはヒューマンと思しき一人の女が、剣を持って立っていた。
(……なんと美しい体だ!!!!)
そして特筆すべきは、その体つきだろう。
スラリとしたシルエット。
だが、尻と胸のラインは、今までみてきた誰よりも美しかった。
小さすぎず、大きすぎず、描かれた曲線は自然の偉大さを伝えてくるようで、思わず抱きつきたくなるようなプロポーションだ。
性的な意味でも魅力的なのだが、それだけではない。
(しかも強い……)
あの筋肉の付き方は、彼女が非常に優秀な戦士であると察せられた。
美しい筋肉だ。
付きすぎているというわけでもなく、芯まで鍛え上げられているのがわかった。
黄金のような筋肉だ。
ヒューマンの王子ナザールや、勇者レトと比べても遜色無い。
あるいは、バッシュと互角かそれ以上に。
素晴らしい肉体。
生まれてくる子供は、間違いなく強い子供だろう。
オークたちが女騎士を強く求めるのは、強い女が強い子供を産むことを知っているからだ。
強い女に強く惹かれるのは本能なのだ。
あとは顔さえよければいい。
が、目の前の女の顔はというと、隠されていた。
白い布が巻きつけられ、目元以外が隠されていた。
これでは、この最高の体つきの女が、どんな顔をしているのかわからない。
でも、それはバッシュにとって、大した意味は持たなかったのだろう。
「美しいな……」
気づけば、バッシュの口から自然とそんな言葉が漏れていた。
あるいは、ここ最近の女にアタックしてきた経験が、彼にそうしたお世辞めいた言葉を言わせたのかもしれない。
訓練の賜物である。
「美しい……?」
女はキョロキョロと周りと見渡すと、もしかして、と言わんばかりに自分を指差した。
バッシュはこくりとうなずいた。
お前以外に女はいない。
オーガ族の少女はいるが、女というにはまだ幼い。
「ははは、オーク。顔も見ないでなぜ美しいとわかるんだい?」
女は笑うが、やはり淡々としていた。
面白くもない冗談だと言わんばかりに。
「顔など見ずとも、わかろうものだ」
「おっと、これはなんとも軟派なオークだ」
女は、今度はクスリと笑った。
そして、自分の顔の布に手を掛けた。
「……布の下に、こんな醜い顔が隠れていても?」
「むっ……」
仮面の下から現れたのは、醜い痕の残る顔だった。
顔の半分は火傷か何かで爛れ、さらにその上から大きな刀傷がついていた。
無事なのは左目の付近だけであった。
事実、その顔を見て、オーガ族の少年たちは「うっ」とうめき声を上げて慄いた。
それほど、酷い傷であった。
「関係ない、傷は戦士の誇りだ」
そう言えたのは、ここ最近の軟派な旅のおかげだったかもしれない。
旅に出たばかりの彼が最初に見たのが、その火傷で爛れた顔であれば、顔をしかめていただろう。
やはり嫁探しにおいて、顔は重要なファクターであるからだ。
だが、バッシュはこの旅で、様々な美女を見てきた。
ヒューマンのジュディスに始まり、エルフのサンダーソニア、ドワーフのプリメラ、ビーストのシルヴィアーナ……。
どれも顔に傷もなく、肌の美しい者たちばかりであった。
だが、しかし彼女ら以外の美女たちが全てそうだったかと言えば、そんなことは無い。
例えばシワナシの森で目を付けたエルフ達は、顔に大きな傷が残っていた。
しかし、その傷で美しさが損なわれることはなく、バッシュは迷いなくプロポーズを行おうとしたものだ。
そう、美しさに傷は関係ないのだ。
「そうか……この顔を見てもそう言ってくれるのは、嬉しいな」
女は淡々とした口調であったが、口元を緩めていた。
「ともあれ、美しい女を目の前にしたオークの行動は一つか。私を打ちのめし、無理やり犯そうというのだろう? やれやれ、濁流から生えてきたばかりだというのに、お盛んなことだ」
「……いや、合意なき性交は、オークキングの名の元に禁止されている」
「おや、であれば、なぜウォークライを?」
バッシュは、ちらりとオーガたちを見た。
それを見て、女は得心がいったようにうなずいた。
「ああ、そういう……オークでも人助けとかするんだな。となると、さっきのは私の態度を軟化させるためのおべっかか……はは、オークにお世辞を言われる日がくるとは……流石にむかつくな。殺すぞ」
「お前を美しいと言ったのは、本気だ」
「……よくわからないな? お前、いきなり現れて意味不明なことを言っているぞ? つまり、何をどうしたいんだ?」
女は首をかしげた。
しかし、バッシュとしては特に矛盾しているつもりは無かった。
だから正直に答える。
「お前を妻にしたいと思っている」
「ハッハッハッハッハ!」
女は声を上げて笑った。
それは淡々としたものではなく、せき止められたものが溢れたかのようだった。
「いや失礼。唐突なプロポーズで笑ってしまったが、馬鹿にしたわけではない。私はこんな顔になった時、誰かの妻になることは金輪際無いなと諦めたんだ。実際、それから誰かに言い寄られたことも無かったしね。だから、初めてなんだ。こんな顔になってから、そんな真剣な顔で言い寄られたのは」
「……」
「しかも、私はそれをまんざらでもないと思ってしまっている。そんな自分が面白かったんだ」
それは、今までにない好印象だった。
ある意味、プロポーズが受け入れられたとも取れる返答だったからだ。
「ならば……」
「だがなオーク、人助けとプロポーズは両立できんぞ。特にこの状況ではな」
女はそう言って、視線を横に外した。
彼女の見る先にいたのは、二人のオーガ族。
不安そうな顔でバッシュを見ていた。
「……」
「まぁ、お前はオークだ。彼らを助けるついでに私を打ちのめし、好きなように犯せばいいだろう」
「先程も言ったが、合意なき性交はオークキングの名の元に――」
「うん。君はオークキングの決めた掟を忠実に守る、育ちの良いオークのようだ。オークの顔の区別はつかないが、よく見れば顔もハンサムに見える。いや、これは好意を向けられたからそう感じるだけかな? それはさておき、オーク、真面目なのは結構だが、杓子定規にすぎるのは良くない。私は『勝ったら好きにしていい』と言ったんだ。それは合意じゃないのかな?」
難しい質問だった。
ここにゼルがいれば、すぐにでも相談したことだろう。
そしてゼルは、その質問に明確な答えをくれたはずだ。
「そういうわけだ、さぁ、かかってきたまえ」
女は掌を上にむけ、ちょいちょいとバッシュに手招きをした。
「……なぜ、俺を挑発する?」
「なぜって、私の愛騎のグリフォンを殺されたんだ。このあと歩いて帰らなきゃいけない。その腹いせに、君も斬ってやりたいと思うのは当然だろう? でもまぁ私も面倒くさい性格でね、せっかく今の私を美しいと言ってくれた相手に、乗り気で剣を振るうことができないんだ。君の方から来てくれたら、仕方ないなと剣を振るえる」
「……そういうものなのか」
「ああ、そういうものさ。あ、グリフォンのことは、あまり気にしなくていいよ。愛着はあったけど、思い入れはない。短い付き合いだったしね。敵討ちだのなんだのと、真面目にかまえてくれなくていい」
バッシュはというと、混乱していた。
女の言葉の意味や、話の流れがわからない。
自分は一体なにをしたかったのか。
そもそも、まだ状況が飲み込めていないのだ。
「さて、どうするんだ? オーク、君さえよければ、私はこのまま立ち去ろうと思う。そこの二人は、面倒だから殺そうと思っていたのだけど、君が立ちふさがるのであれば、仕方ないと諦めよう。私を美しいと言ってくれた君が立ちふさがるのだからね、いや本当に仕方がない」
最後に、女はバッシュに選択を迫った。
「……ぬぅ」
バッシュは混乱しつつ考える。
選択肢は二つだ。
女へのプロポーズを続行し、女を妻とする。
プロポーズを諦め、水の精霊の願い(多分)を聞き入れて、少年と少女を助ける。
(わからん!)
あるいは、この場に誰か、例えばかの『豚殺し』のヒューストンでもいれば、惑わされるなと言ったかもしれない。
両立する方法はあるはずだし、女のいう「自分を倒せばヤっていい」というのは合意だ、双子を助け、女を倒し、両方を手に入れろ。あなたならそれができるはずだ、と。
事情を知っていればの話だが。
しかしこの場にはバッシュしかおらず、女の話術で選択肢が狭められたバッシュには、考えつかない。
二者択一だ。
本来であれば、バッシュは前者を選択しただろう。
女はまんざらでもないと自分で言っていた。
この場にゼルの支援は無いが、それでも言葉を尽くせば妻となってくれるかもしれない。
今までに何度もチャンスはあったが、その中でも最大級のものだと言えよう。
なにせ、プロポーズを受け入れてもらえたのだから。
そもそも、バッシュの旅の目的は妻を手に入れることだ。
その目的が達成できるなら、見ず知らずのオーガの子供の命など、安いものである。
しかし、つい先程、水の精霊に命を救われたのも事実だ。
水の精霊は何かしらの願いを、バッシュに伝えようとしていた。
バッシュに何かをさせたいのだ。
それはただの勘にすぎないが、恐らく間違いない。
でなければ、水の精霊がバッシュを助ける理由は無いのだから。
バッシュにふさわしい妻を娶らせるために、こんな所に運んでくれたのだと考えられるほど、今までの人生でバッシュは精霊に愛されてはこなかった。
となれば、やはり二人の命を救うことが、精霊の願いなのだろう。
精霊の願いを蔑ろにすれば、大きな災いが起こる……。
となれば、
「俺は、この二人を助ける」
「そうか、なら私はこの場を去らせてもらおう。これでも忙しい身の上でね、やることがあるんだ」
「ああ」
「ではさらばだ。そっちの二人も、これに懲りたら故郷に帰るんだね」
女はそう言うと、土砂降りの中を走り出した。
ぬかるみに足を取られることなく、一瞬で森の奥へと消えていく。
かなりの足腰だ。
やはりバッシュの最初の見立て通り、相応の戦士だということだろう。
「あ、まっ……」
そんな女の背中に、少年が手を伸ばしかけ、しかし力なくその手は落ちた。
大雨で作られた水たまりにびちゃりと落ちた手は、悔しそうに握られる。
そんな少年は、ややあって顔を上げ、バッシュを見た。
「あの、助けていただき、ありがとうございました……」
少年の言葉に、バッシュは頷く。
しかし、余計なお世話だったのかもしれない、とも思った。
なぜなら、少年はうつむきながらも、震えていたからだ。
隣にしゃがみ込む少女も、若干ながら嫌悪感の混じった表情でバッシュを見ていた。
オーガはオークと同じく、戦士として生きる者が多い種族だ。
時に、はぐれオークたちのように戦いを求め、あるいは戦いに死に場を求めることも、珍しくはない。
それを邪魔した形になったのかもしれない。
しかし次の瞬間、少年は勢いよく立ち上がり、言った。
「先程の太刀筋、感服いたしました! 俺を、あなたの弟子にしてください!」
唐突な言葉は、雨音にかき消され、響くことは無かった。
だが、確かにバッシュの耳に届いていた。