(6)
そして、時折私的な茶会にフィリミナを招いたり、手紙の遣り取りをしたりするという平穏な日々の中、予想だにしない事件が起こった。堅苦しい公務を終えて、紅薔薇宮の私室でひとり休んでいたクレメンティーネの目の前に、突然エギエディルズが転移魔法を使って現れたのだ。
正直、何事かと思った。曲者扱いして影を呼び出そうかと思ったくらいだ。けれどその考えは、エギエディルズの腕の中で、意識を失っているフィリミナを見て吹き飛んだ。
「フィリミナを、助けてくれ……!」
魔王討伐の旅の最中から、エギエディルズという男が他人を頼ることを良しとしないことは解っていた。元々他人に頼るまでもなく自力でどんな問題も乗り越えてしまうだけの能力が男にはあり、また、それに相応しいだけの誇りを持ち合わせていた。そんな男の、普段の冷静さをかなぐり捨てた、血を吐くかのような声音に、これは只事ではないと直感した。というか、王族の私室に問答無用で転移魔法を使ってくるような事態が、『只事』であるはずがないだろう。
とりあえず己のベッドにフィリミナを寝かせて、その青褪めた顔を覗き込んだクレメンティーネは、言葉を失った。只人には視えないものまで嫌でも見せてくる自分の目に映ったのは、弱々しく輝くフィリミナの魂と、その魂の光をすべて吸い上げようとしている茨のような禍々しい光。
呪詛だ、と。
誰に言われるでもなく、クレメンティーネは確信した。そしてそれは、エギエディルズもまた解っていたことだったのだろう。だからこそ彼は女神の愛し子と謳われる巫女たる自分の元にフィリミナを運んできたに違いない。
両手の拳を血の気が失せるほどに握り締め、無言のまま自身の妻を見下ろしているエギエディルズを、クレメンティーネは鋭く睨み付けた。
「エギエディルズ……貴方は一体、フィリミナの何を見ていたのかしら?」
怒りに声が震えた。少し見ない間に、フィリミナは随分と痩せ、生気が失せているようにクレメンティーネの目には映った。クレメンティーネの言葉に対する返答はない。だが、その沈黙こそが何よりの答えだった。
ここでエギエディルズを責めることなど、いくらでもできる。けれどそれがどれだけ意味の無い行為なのか、クレメンティーネには嫌でも解ってしまった。エギエディルズを責めてもフィリミナにかけられた呪いは解けないし、何より、エギエディルズを誰よりも責めているのは、他ならぬ彼自身なのだから。
「エギエディルズ。少し席を外しなさい」
「っだが!」
「夜分にそんな大きな声を出すものではないわ。ひとまず別室でお茶でも飲んで、落ち着いてから出直していらっしゃい」
これは命令よ、と強く言い切ってみせると、エギエディルズは歯痒そうに盛大な舌打ちをして、踵を返して隣室へと消えていった。
そうして、改めてクレメンティーネは、ベッドサイドの椅子に腰を下ろして、深い眠りに沈んでいるフィリミナを見下ろした。
見れば見るほど禍々しい呪いだ。術者の執念をこれほどまでに感じさせる呪いなどそうそうないだろう。クレメンティーネにとって解けない呪いであるという訳ではなかった。けれど、それは、煉瓦に根を張る茨を無理矢理引き剥がすようなものだ。煉瓦の隙間に根が残ってしまうか、茨ごと煉瓦が崩れ落ちてしまうか。どちらにしろ、無事では済まない。
「……もっと早くに、頼ってくれればよかったのに」
ぽつりと呟いた台詞は、フィリミナには届かない。だがこれが、クレメンティーネの掛け値無しの本音だった。ここまで呪いが進行する前に自分を頼ってくれれば。そうでなくとも、フィリミナの夫であるあの男が、もっと早くに気付いていれば。それらはすべて結果論だが、それでもそう思わずにはいられなかった。そんなにも自分やエギエディルズは、フィリミナにとって頼りない存在だったのだろうか。――いいや、違う。きっと、そういうことではないのだろう。フィリミナが、穏やかですぐ他人に靡くと見せかけて、その実、他人とは少々ずれたところで変に強情であることを、クレメンティーネは長くはないが短いとも言い切れない付き合いの中で気付いていた。どうせ今回のことも、その強情さが発揮された結果だろう。
手を伸ばして、血の気の失せたフィリミナの頬を撫でる。肌の肌理細かさには定評のあるはずの彼女のものとは思えないほど、その感触は乾いていた。
クレメンティーネは、フィリミナのことを友人だと思っている。フィリミナとエギエディルズの結婚式がきっかけで、その後のお茶会で不覚にも涙を見せてしまったことが呼び声となり、フィリミナの人柄に惹かれた。失えない、失いたくない友人だ。だからこそ、此度の件において、どんな協力も辞さないことを、クレメンティーネはフィリミナの寝顔に誓った。
自らの髪を提供することに躊躇いはなかった。世間では女神の御髪とも謳われる貴重な聖具。今まではせいぜい己の光魔法の触媒として使うくらいしかしてこなかったが、この時クレメンティーネは、フィリミナの役に立てることに心から感謝した。
日々の公務をこなしながら、クレメンティーネは待った。必ずやってくるであろう、この事件の転機を。フィリミナが犯人と接触した際には、必ず自分もその場に転移させることを、エギエディルズに約束させて。
そうして、時は来た。それも、最悪の形で。
フィリミナは此度の件の犯人であるセルヴェス・シン・ローネインの凶刃に倒れ、エギエディルズは魔力を暴走させた。
吹き荒れる膨大な魔力の奔流の中、光魔法の結界を身に纏い、エギエディルズのその秀麗な顔を、クレメンティーネは容赦無く張った。こちらを見遣ってくるエギエディルズの呆然とした顔は、普段であれば「まあ、なんて間抜け面なのかしら」とでも言って笑い飛ばしてやったのだろうが、その時はそんな場合ではなかった。むしろ、そんな局面においてそんな表情を浮かべるエギエディルズに対して、クレメンティーネは怒りを覚えた。
「なんて顔をしているのかしら。己が今すべきことを、履き違えている場合ではなくてよ!」
クレメンティーネの叱責にもなお動こうとしないエギエディルズを放置して、フィリミナの治療に専念した。思った以上に深い傷は、いくら治癒光魔法をかけても回復は芳しくなかった。だが、それで諦められるはずがない。こんなところで大切な友人を失うなど、冗談ではなかった。
やがて遅れ馳せながらに正気を取り戻したエギエディルズの治癒魔法の力添えもあり、白百合宮に運ばれたフィリミナは小康状態にまでなんとか回復した。だが、それはあくまでも身体の問題だ。魂を蝕む呪いから解放されるか否かは、最早フィリミナ自身の精神力にかかっていた。
フィリミナが目覚めるかは五分五分……いいや、もっと確率の低い賭けだった。医務室に、眠るフィリミナと、その側を片時も離れようとはしないエギエディルズを残し、別室でアルヘルムと待機しながら、クレメンティーネは祈った。本当はずっとずっと大嫌いだった女神に、生まれて初めて心から祈った。フィリミナを、助けてくださいと。
呼び鈴が鳴った時、一にも二にもなく、医務室に駆け込んだ。そこで目にしたのは、穏やかな表情で眠るフィリミナと、そんな彼女を安堵の表情で見つめるエギエディルズ。その場にへたり込んでしまいそうになったクレメンティーネの身体を支えたのは、クレメンティーネ自身の矜持だった。
そして、この事件は終わるかのように見えた。セルヴェスを尋問していたアルヘルムの口から、大貴族たるバレンティーヌ家の令嬢、ルーナメリィの名が出るまでは。
ローネイン家のみならずバレンティーヌ家まで関わっているとあっては、そう簡単に捨て置く訳にもいかなくなった。セルヴェスを罰すればいいというだけの問題ではなくなってしまったのだ。だが、セルヴェスの自供だけでバレンティーヌ家の令嬢を捕らえる訳にはいかない。例え、王族であるクレメンティーネの権力を持ってしてもだ。
「なあ、姫さん」
「……何かしら」
青菖蒲宮の尋問室の前で、いつになく硬い声で話しかけてくるアルヘルムの方を、クレメンティーネは見ることができなかった。彼が何を言い出そうとしているのか、解っていたから。
アルヘルムが提案しようとしていることは、為政者としては必要なことだ。けれど、フィリミナの友人としては、許しがたいことだった。
唇をきつく噛み締めて、クレメンティーネは俯いた。アルヘルムは何も言わず、クレメンティーネの言葉を待った。この男のこういうところは嫌いではない……というか、割と気に入っている部分であるのだが、その時ばかりは全くありがたくなかった。普段はふざけた態度ばかり取るくせに、こういう時は誰よりも冷酷になれるのが、アルヘルム・リックスという男である。
「――いいわ。あたくしがエギエディルズをフィリミナから引き離しましょう。その間に貴方方がすべきことは、もちろん解っているわよね?」
「御意に。恩に着るぜ、姫さん」
「礼なんてやめて頂戴。それをあたくしが受け止めるのは、全ての片を付けてからの話よ」
フィリミナの友人であると自負しておきながら、そんな彼女を危険に晒そうとしている自分に無性に腹が立った。けれど、こうするより他に、クレメンティーネには思いつかなかったのだ。
そして、クレメンティーネは、エギエディルズを呼び出した。案の定渋ったエギエディルズを、フィリミナには騎士団の精鋭を護衛に付けるからと嘘を吐いて。最終的にはこれは命令であると無理矢理説き伏せ、フィリミナの眠る医務室からなんとか連れ出した。
「一体何の用だ」
「ご挨拶ね。フィリミナの容態も落ち着いたのだから、少しは気を楽にしたらどう?」
不機嫌さを隠そうともせず問いかけてくるエギエディルズに、クレメンティーネは笑った。
クレメンティーネの言葉に対するエギエディルズの返答はなかったが、その沈黙こそが全てを物語っているようだった。こんなところで無駄話をしている暇があったら、少しでも長くフィリミナの側にいたい――そんな思いが明らかに透けて見えて、クレメンティーネとしては最早苦笑するしかない。そして、あたくしだって、と内心で付け足す。あたくしだって貴方と同じ思いよ、と。
けれどそれを口に出すことはできなかった。獲物が釣れるまでは、なんとしてもこの男をここに足止めしておかなくてはならなかった。
「セルヴェス・シン・ローネインは、貴方も予想しているでしょうけれど、今は騎士団預かりとなって尋問中よ。貴方も当事者であることだし、その気があるなら、尋問に参加する許可を出してあげてよ?」
「いや、必要無い」
「あら、意外だこと。貴方なら自分から参加したがると思っていたのに」
フィリミナを傷付けた存在を、この男が許すとは到底思えなかった。てっきり自ら参加させてくれと言い出すと思っていたのだが、これは予想外だった。
琥珀の瞳を瞬かせるクレメンティーネに、エギエディルズは唇に弧を描いた。確かにエギエディルズは、凄絶とすら呼べる笑みをその美貌の上に浮かべているというのに、朝焼け色の瞳は、全く笑っていなかった。
「俺にやらせれば、尋問が拷問に変わるぞ?」
「……それもそうね。先程のあたくしの発言は、撤回させてもらうわ」
瞳に底冷えする光を宿した上での、嘘でも冗談でも誇張でもないに違いないエギエディルズの発言に、クレメンティーネは溜息を吐いた。この男、ようやく冷静になったように見せかけて、その実、未だ全く冷静になっていない。
この時間が、ルーナメリィがフィリミナに魔の手を伸ばすように仕掛けたための時間だと知れたら――非常にまずいことになるのではなかろうか。今更ながらクレメンティーネはそう思わされた。焦りを顔に出さないだけの顔芸を身に付けている己に感謝していると、エギエディルズはそんなクレメンティーネの内情など知る由もなく、苛立たしげにこちらを睨め付けてくる。
「それで、いい加減本題に入って貰おうか。まさかこんな与太話をするために、俺を呼び出した訳ではないんだろう?」
その低い声音は、クレメンティーネに、これ以上の時間稼ぎが難しいことを教えてくれていた。舌打ちしたい気持ちを押し殺しつつクレメンティーネはエギエディルズを見つめ返す。クレメンティーネの琥珀の瞳と、エギエディルズの朝焼け色の瞳が交錯した。だが、それはほんの一瞬で、は、と小さくエギエディルズが息を飲む。何かを探すようにその美しい瞳を惑わせ、そして射殺さんばかりに、クレメンティーネのことを鋭く睨み付けた。
「姫、まさか……!」
驚きと怒りが入り混じるその声に、クレメンティーネは、敵がようやく罠にかかってくれたことを知る。クレメンティーネが口を開くよりも先に、エギエディルズは勢いよく踵を返して走り出す。彼の行き先がどこであるかなんて考えるまでもない。
ゆっくりとエギエディルズの後を追い、クレメンティーネは遅れてそこに辿り着く。フィリミナが寝かされていた、医務室に。そこで目にすることになったのは、怒りも露わにアルヘルムの胸ぐらを掴みあげているエギエディルズと、己を掴み上げるエギエディルズの迫力に物怖じせずに彼を見つめ返すアルヘルム、そんな二人を止めることもできずに、ただ周りを囲んでいることしかできていない騎士達。そして。
「フィリ、ミナ……?」
呆然とした声が聞こえた。それが自分のものであるということに、クレメンティーネは遅れて気付く。ベッドの上に寝かされているのは、確かにフィリミナだった。青褪めた顔に生気は皆無で、彼女が顔を合わせる度に見せてくれる穏やかな笑みはまるで想像できない。フィリミナは、物言わぬ物体になっていた。彼女は、確かに、死んでいた。
フィリミナをわざと一人にすることに対し、クレメンティーネは否を唱えなかった。むしろ自分から進んで協力を申し出たようなものだ。けれどそれはあくまで、フィリミナが無事であることが前提にあった。フィリミナが死んでしまうことになるなんて、浅はかにも、考えてもみなかった。
豪奢なドレスが皺になることも気にせず、クレメンティーネはその場に座り込んだ。フィリミナ。フィリミナ。あたくしの、初めての、大切なお友達。そんな彼女が、自分のせいで――……と、溢れそうになる嗚咽を両手で押さえると、エギエディルズが盛大な舌打ちをした。
「何を勘違いしている。こんな紛いものの、どこがフィリミナだと言うんだ」
「え……?」
座り込んだままエギエディルズを見上げると、突き放すようにアルヘルムから手を離したエギエディルズは、宙から杖を取り出した。歌っているかのような魔法言語の詠唱が始まる。杖の核を成す、エギエディルズの瞳と同じ、朝焼け色の魔宝玉が光り始める。その光が、フィリミナの遺体を包み込んだ。
「――っ!」
その時息を呑んだのは、クレメンティーネだったのか、アルヘルムだったのか。フィリミナの身体から光の被膜が剥がれ落ちていく。それは、あっという間の出来事だった。数度の瞬きの後、ベッドの上に残されていたのは、フィリミナではなく、どこの誰とも知れない女性の遺体だった。体型は確かにフィリミナに似ているものの、髪の色も顔立ちもまるで違う死体が、そこにあった。
「アルヘルムから話は聞いた。これは大方あの小娘の配下の誰かだろう。見上げた忠誠心と言ったものだな」
皮肉げにエギエディルズは言い放ち、アルヘルムとクレメンティーネを交互に睨み付けた。
「もしもフィリミナに何かあったら、その時は覚悟しておくことだ」
相手が騎士団団長であろうと、この国の姫君であろうと、そんなことなど関係ないと言外に含んだ言い回しに、医務室の中にぴりりと緊張が走る。アルヘルムとクレメンティーネは頷いた。頷くことしかできなかった。
思わぬ失態を見せてしまったことを恥じながら、クレメンティーネは慌てたようにこちらに手を差し伸べてくる騎士達の誰の手を借りることなく、一人で立ち上がる。
やがて、エギエディルズの杖の魔宝玉を介して、クレメンティーネは、ルーナメリィが自らフィリミナに語るルーナメリィの所業を聞くこととなった。
「……とんだ『お嬢様』もいたものね」
怒りを通り越して呆れてしまう。その呟きに、反射的に頷く騎士達が何人かいた。ちらりとそちらをクレメンティーネが見遣れば、彼らは慌てて表情を取り繕うが、クレメンティーネの琥珀の瞳は、しっかりと彼らの反応を目に留めていた。無礼であると、それを咎める気にはならない。騎士達のその反応こそ、正しいものであるに違いないとクレメンティーネは思ったからだ。
クレメンティーネからしてみれば、ルーナメリィはお花畑の住人であるとしか思えない。自分の足元で咲く花が、どういう経緯で、どんなものを糧にして咲いているかを知らないから、ルーナメリィは躊躇いもなくその花を踏み躙る。
「お、おい。エギエディルズ、大丈夫か?」
「何がだ?」
「何がだってお前……おいこらちょっと待てっ!」
ルーナメリィの声が流れ続ける杖を持ち、無言で立ち上がるエギエディルズの肩をアルヘルムが慌てて掴む。
「放せ」
「誰が放すかよ! 放したらお前、すぐにでも転移する気だろ! おいお前ら、黙って見てねえで手伝え! エギエディルズを抑えろ!」
「は、はいっ!」
淡々とした、どこまでも冷え切った声音を発するエギエディルズを、アルヘルムに続いて騎士達が四方八方から取り押える。日々鍛錬を積んでいるこの国の精鋭たる騎士達幾人を相手にしても互角の力を発揮して杖を振るおうとする魔法使いの姿は、端から見ればさながら喜劇のようでもあった。
あらまあ、と場違いにも呑気にその様子を見守るしかないクレメンティーネの耳に、フィリミナの叫びが届いたのは、その時だった。
――助けて、エディ!
「ッ!!」
朝焼け色の瞳が爛と輝いた。同時にカッ!と鋭くエギエディルズの杖の魔宝玉が強烈な光を放つ。目を開けていられない。その場にいる誰もが目を瞑り、次に目を開いた時には、エギエディルズの姿はその場から綺麗に消え去っていた。
そうして、幾ばくかの間を置いて、アルヘルムを筆頭とした騎士達の姿もまた、その場から?き消える。あれだけの人数を相手取って、遠隔転移などという高度な魔法をこともなげにしてのけるのは、流石王宮筆頭魔法使いといったところか。
置き去りにされる形になってしまったが、仕方のないことだ。フィリミナの無事を確かめたい気持ちは山々であったけれど、あのバレンティーヌの令嬢が住む花畑が、無残に刈り取られていくのを見たがるほど、クレメンティーネは悪趣味ではないのだから。
だから、フィリミナの元に駆け付けることができない代わりに、彼女が彼女の夫と共に戻ってきたら、笑顔で出迎えようと心に決める。それが、クレメンティーネにとって大切な友人であるフィリミナに対してできる、最良の行為であると信じて。
* * *
そして、フィリミナはクレメンティーネの元に帰ってきた。意識を失い、エギエディルズの腕に抱かれた状態で。今度こそ片時もフィリミナを放そうとしないエギエディルズの額を人差し指で小突き、瞳を伏せているフィリミナの顔を覗き込んで、その顔色が思っていたよりも悪いものではないことに心底安堵した。傷口が開いただとか、呪いが再び蝕んだだとかいう訳ではなく、極度の緊張からやっと解放されて気が抜けた末の眠りだろう。そうエギエディルズに告げると、彼もまた、ほんの僅かであるが、その肩から力を抜いたようだった。
クレメンティーネが、目覚めたフィリミナとようやく対面できたのは、それからしばらく経ってからのことだ。
セルヴェス・シン・ローネインとルーナメリィ・エル・バレンティーヌの処罰がようやく決まり、それを知らせにいくという名目での見舞いだった。
「ルーナメリィ・エル・バレンティーヌは、ヴァルトルーズ領のカシューディン修道院へ。セルヴェス・シン・ローネインはローネイン領の僻地の、名もないような小さな神殿へ送られることが決まったわ」
クレメンティーネの言葉に、ベッドの上で上半身を起こしていたフィリミナの表情が強張る。
「ヴァルトルーズ領のカシューディン修道院、ですか」
「ええ。貴女も聞いたことがあるかもしれないけれど、数ある修道院の中でも、特に戒律が厳しいことで知られる修道院よ。バレンティーヌのあの娘の今後の態度によっては、また俗世に戻ってくるかもしれないわね。呪いの直接的な実行犯であるローネインの方は、生涯封じられることになるでしょうけれど」
クレメンティーネにしては随分と手ぬるい処罰だと思わずにはいられない。本来であれば極刑にもなりえる二人が、このような処罰に落ち着いたのは、目の前のフィリミナ自身の助命嘆願によるものばかりではない。大貴族の直系筋である二人の助命嘆願は、彼らの実家からも届いていたのだ。
父である王とその側近達は、これを好機とばかりに助命嘆願を受け入れた。バレンティーヌ家とローネイン家に対する、大きな貸しができたとほくそ笑みながら。その意見には同感だと思ってしまう自分もまた、所詮フィリミナの友人である前に王族という生き物であるのだろうと自嘲しながら、つい「ごめんなさいね」とクレメンティーネはフィリミナに謝ってしまった。
嫌だわ、と思った。この謝罪はフィリミナに対するものではない。クレメンティーネが、自身の罪悪感から逃れるための謝罪だ。その証拠として、予想通りに頭を振り、「ありがとうございました」と淡く微笑むフィリミナに安堵している自分を、クレメンティーネは感じていた。
大貴族ニ家に対して大きな貸しができたと笑うことでなんとか崩れそうになる表情を取り繕って、そしてクレメンティーネはフィリミナに問いかけた。
「まだエギエディルズは面会謝絶なの?」
その言葉に、フィリミナの微笑みが苦笑に変わる。その苦笑に、どうやら自分の見立ては間違っていなかったらしいことをクレメンティーネは知った。
「流石貴女の家族と言うべきかしら。あのエギエディルズ相手によくやるものだわ」
敢えて何も言わないのか、それとも何も言えないのか、言葉の無いフィリミナに、クレメンティーネは流し目を遣って笑う。
あの呪いの一件以来、エギエディルズはフィリミナの家族によって、フィリミナとの面会を尽く跳ね除けられているのだという。
エギエディルズの弟子であるウィドニコルからクレメンティーネが聞いたところによると、「毎日羽ペンが折れるんです……。ボキッ、ボキッって、毎日折れる量が増えていっているんです……!」と自らの身体を抱き締めてぶるぶると仔犬のように震えていた。
かわいそうに、とは思うが、あくまでもそれは他人事だ。クレメンティーネの知ったことではない。むしろ、あの男はもう少し痛い目を見ればいいのだとすら思っている。けれど。
「わたくしとしましても、そろそろ許してほしいと思っているのですけれど……」
なかなかそうは言えなくて、と微笑むフィリミナの様子が、どうにも寂しげだったから。だからクレメンティーネは、エギエディルズのためではなく、大切な友人であるフィリミナのために、一肌脱ぐことにした。
とある晴天の日、魔王討伐の旅に出る前のように、クレメンティーネはエギエディルズを東屋に呼び出した。
「一体何の用だ」
クレメンティーネの側付きの侍女や、護衛の騎士が、ぎょっと目を見開いて純黒の魔法使いを見つめ、そして見てはいけないものを見てしまったと言わんばかりに目を逸らす。
クレメンティーネはクレメンティーネで、微笑みの裏でこれは随分と重症だと思う。今までのエギエディルズであれば、どれだけ不機嫌だろうが苛立っていようが、最低限の礼儀は弁えており、慇懃無礼に見えようとも、一応は臣下としての礼を払っていたのだが、今のエギエディルズにはそんな余裕も無いらしい。仕事に私情は持ち込まない男だと思っていたのだけれども、これはフィリミナに会えないことが相当堪えているようだ。
手のかかる男だこと、と内心で呟きつつ、にっこりとクレメンティーネはエギエディルズに笑いかけた。
「あたくし、夜会を開こうと思っているの」
「……は?」
どういう意味かと訝しげな表情を浮かべるエギエディルズを余所にして、クレメンティーネは侍女に用意させた羽ペンを、一枚の羊皮紙に滑らせた。そしてそれを、エギエディルズの鼻先に突き付ける。反射的に紙を受け取り、それに目を通し始める男に、クレメンティーネは続けた。
「あたくしが懇意にしている仕立屋よ。まだ表には出てきていないけれど、腕は確かだと保証するわ」
お膳立てはしてやった。この後どうするかはこの男次第だ。
無言で羊皮紙を握り締め、一礼して去っていったエギエディルズを見送って、クレメンティーネは紅茶を口に運んだ。不味くはない。及第点と言って差し支えないだろう。けれど、フィリミナのいれてくれる紅茶の味を知ってしまった今では、どこか物足りなく感じてしまう。
またあの紅茶を飲むためにも、何より、フィリミナにもうあんな表情をさせないためにも、エギエディルズには頑張って貰わねばならない。
「お手並み拝見といきましょうか」
クレメンティーネの呟きを理解する者はその場には居なかったが、構いやしなかった。味気ない紅茶を飲み干して、クレメンティーネはくすくすと笑った。