(13)
そうして再び目が覚めた時、私はまたしても、私の知らない状況に陥らされていた。久々の快眠の心地良さをぶち壊すかのような、最悪な目覚めの状況だった。
「……?」
先程まで寝ていたはずの柔らかなベッドとはまるで異なる、冷たく固い石の感触。体温が石にどんどん奪われていき、底冷えするような寒さに身震いする。魔法によって灯されていたはずの灯りはない。周囲はぼんやりと薄暗く、目が慣れるまでに時間がかかった。
どこからか水が滴り落ちる音が聞こえてくる上に、顔を顰めたくなるようなかび臭さが鼻につく。ここはどこだ。私に解るのは、明らかに白百合宮ではない場所に私が転がされていることくらいで、他には何も解らない。身動ぎして身体を動かそうとして、身体に走る痛みに顔を顰める。かろうじて効いていた痛み止めが切れてきたらしい。文字通り身体を焼かれているような痛みだ。奥歯を噛み締めてその痛みを耐えつつ、体勢を立て直そうとして、はたと、あまりにも遅れ馳せながら気が付いた。両腕を、背で縛られているということに。これでは起き上がることもできやしない。
「な、にが……」
カラカラに乾いた口で呟いた言葉が、どうやら私以外に誰もいないらしい空間に虚しく響く。
何が、一体、どうなっているのだろう。こんなあからさまに怪しい場所で、後ろ手に縛られて、石の地面の上に転がされているだなんて。こんなあまりにも非日常的な状況は、そう簡単に受け入れられるようなものではない。
あの男の存在が側に居ないのが、酷く心細く感じてしまう。「ちゃんと側に居る」と言ったくせに、あの台詞は嘘だったのか。――いやいや、この場合、嘘であった方がまだマシなのかもしれない。この状況が、あの男にとってですら不測の事態であることの方がよっぽど恐ろしい。あの色んな意味でハイスペックな男すらも出し抜いて、私をこんな場所まで運んでくることができる相手だなんて、そうそう居やしなしだろう。
痛みを堪えながら、ごろりと寝返りを打って周囲を見回す。鉄格子付きの天窓がこの空間の唯一の光源で、他に灯りらしきものは見当たらない。この薄暗さに慣れてきた目に映る特徴的なものはそれくらいなもので、後は、やはり鉄格子付きの小さな窓がちょうど視線の高さの位置についた扉が、いかにも堅牢な様子で壁に嵌め込まれているだけだ。
ぽたん、ぽたん、と、水が一滴ずつ落ちていく音がやけに大きく聞こえる。ごくりと唾を飲み込む音さえもが、耳にこびり付くようだ。
解らない、解らない、解らない――いくら考えても答えが出ないまま、傷の痛みに耐え続けて、果たしてどれほどの時間が経過したのか。前触れ無く、唐突に、ガチャン!と扉の向こうで、鍵が開けられる音がした。
その重量感を感じさせる音に、私は一体どれだけ頑丈な空間……つまりは牢屋の中に入れられていたのかと、いっそ奇妙なまでに冷静に呆れてしまう自分が居た。いくら救世界の英雄の一人の妻であるとは言え、私個人を見れば、何の力も無いただの女に過ぎない。だと言うのに、こんな牢屋に、ただでさえ負傷していて碌に動けない私を更に縛り上げて放り込んでいる理由など、一つしか思い付かない。それは、私という人間を、より一層貶めるためだろう。
悪夢が終わったと思ったら今度は現実がピンチだなんて、全く笑えない事態である。そもそも、セルヴェス青年が捕らえられた今、こんな風に私にわざわざ手を出してくる輩に、思い当たる節はない。一体誰が、と、地面の上で横に転がったまま、なんとか首を擡げて扉を見ていると、ゆっくりと扉が開かれる。そして現れたその人物に、私は、目を見開かされる羽目になった。
「ル、ナ、さま……?」
その可愛らしい面差しが、天窓から差し込む僅かな光によって浮かび上がった。さらりと流されたストロベリーブロンドが艶めく。髪と同色の長い睫毛に縁取られた、大きな紫水晶のような深い色の瞳が、私を見下ろしている。こんな場所にはこれっぽっちも相応しくはない、一目でその上質さが見てとれる、裾付近にあしらわれたリボンとフリルが愛らしいドレスを身に纏って、ルーナメリィ・エル・バレンティーヌ嬢がそこにいた。
「ごきげんよう、フィリミナ様」
それはまるで、あの男の研究室で出会った時と同じような気安さで。可憐という言葉がこの上なく似合う美少女は、木漏れ日のような笑顔を浮かべた。その笑顔に、一瞬ここが、牢屋だということを忘れてしまいそうになる。
何故、彼女がここに。何故、こんな場所で、そんな風に笑えるのか。彼女の存在と、この場所が、あまりにもちぐはぐで、私は何と言ったらいいのか解らなくなる。
「ルナ様が、どうして」
「気安く呼ばないでくださる?」
「っ!?」
その愛らしい声音が紡いだとは思えないほどに冷たい、完全に私を突き放す言い振りに、息を呑んだ。地面に転がされているという無理な体勢なものだから、ルーナメリィ嬢を見上げようとする首は悲鳴を上げているが、その痛みを凌駕する驚きが私を襲った。
完全に言葉を失い、ただただルーナメリィ嬢を見つめることしかできない私を憐れむかのように彼女は私を見下ろして、ほう、と物憂げに溜息を吐いた。
「もうそろそろ勝手に死んでいてくださるかと思いましたのに。下級貴族の生命力は雑草並みとは本当のことでしたのね」
溜息混じりのその台詞にも、理解が追いつかない。呆然としている私を余所に、ルーナメリィ嬢はほとほと呆れ果てたといった様子で、更なる衝撃の言葉をその薄紅の履かれた唇から吐いた。
「本当に、セルヴェス様ったら、肝心な時に役に立たない御方ですこと」
セルヴェス。その名前に、再び自分の目が見開かれていくのを、他人事のように感じた。私の知る限り、“セルヴェス”と言う名を持つ青年は、たった一人しかいない。それはある意味では、今、あの男の存在以上に、気になる存在であった。セルヴェスとは、私に呪いを掛けていたという大貴族ローネイン家の令息であり、黒蓮宮の魔法使いでもあり、現在は騎士団預かりになっているという青年の名前だ。
ルーナメリィ嬢の言う“セルヴェス”が、私の知るセルヴェス・シン・ローネイン青年なのか。そんな疑問は、私の顔に明らかに出ていたのだろう。くすくすと、小鳥が囀るかのように可愛らしくバレンティーヌ嬢は笑う。
「お察しの通り、ローネイン家のセルヴェス様のことで間違いありませんわ」
明日の天気は晴れですね、とでも言うかのようにルーナメリィ嬢は言うが、私としては内心暴風雨が吹き荒れまくりの状態である。何故、この美少女の口から、彼の名前が出てくるのだろう。何故、彼女は、私がセルヴェス青年と知り合いだということを知っているのだろう。点と点が繋がらない。意味が解らなかった。
「何故、セルヴェス様が……」
我ながら随分と間抜けな声が出たものだと思う。けれどその声こそが、私の今の心境をそのまま映していた。
ルーナメリィ嬢は変わらずただ笑っている。可愛らしい、花のような笑みだ。けれど何故だろう、その笑みに毒気が無ければ無いほど、あまりにもこの場に不釣り合いだ。彼女のそんな笑みは、こんな薄暗い牢屋の中ではなく、明るい日の下でこそ咲き誇るに相応しい。それなのにルーナメリィ嬢は、かび臭い牢屋の中、日の下に居るのと変わらぬ笑顔で、笑うのだ。
「ああ、そうね、貴女は知る由も無かったことでしょうけど。私とセルヴェス様は、お父様が決めた婚約者同士ですの。公にはまだなっていないだけで、いずれ発表されるでしょうね」
「……!」
今度こそ本当に、私は大きく目を見開いた。ルーナメリィ嬢と、セルヴェス青年が、婚約者。唐突に線で繋がった点と点に、目を白黒させる私を、ルーナメリィ嬢は無邪気に、楽しげに見遣っている。
バレンティーヌ家とローネイン家は、共に我が国を代表する大貴族だ。どちらが格上かと問われれば、それはバレンティーヌ家であると誰もが答えるであろうが、婚姻関係を結ぶに当たって問題があるほど身分差がある訳では無い。敢えて問題を挙げるとすれば、大貴族同士が婚姻によって結びつくことによって、我が国における権力の均衡が乱れる可能性があることくらいか。だが、彼女の父……この国の重鎮でもあるバレンティーヌ家現当主で言うのであれば、その問題も解決済みということだろう。
だが、だから何なのだ。やはり私は理解できず、混乱の最中にいた。理解できないというよりは、理解したくないと言った方が正しいのかもしれない。だってそうではないか。先程のバレンティーヌ嬢の言い振りでは、まるで――……
「ねえ、フィリミナ様。私、貴女にお願いがあるんです」
「……お願い?」
「はい」
私の混乱する思考回路に、愛らしい声が割り込んでくる。気付けば石造りの床に落としていた頭を、再びもたげてルーナメリィ嬢を見上げれば、彼女はにっこりと花が綻ぶように微笑んだ。
「私に、エディ様をくださいませ」
まるで、頑是無い子供が、お菓子やおもちゃをねだるかのように。そのほっそりとした両手の指を胸の前で絡ませて、更にルーナメリィ嬢は夢見るようにそう言った。
少し待って欲しかった。理解が本格的に追いつかない。身体の傷も痛かったが、それ以上に不思議と頭の方が痛かった。何をこの美少女は言っているのだろう。「ください」と言われて、「はいどうぞ」と夫をホイホイと渡せるほど軽い女に私が見えるのか。だとしたら結構ショックなのだが……と、現実逃避をしている場合ではない。
唖然呆然愕然と、ただルーナメリィ嬢を見つめるばかりの私に気付いているのかいないのか、そもそもそんなことはお構いなしなのか、彼女はにこにことひたすらに愛らしく笑いながら続ける。
「貴女とは、エディ様の研究室で会ったのが最初である振りをしましたが、本当は私は、もっと前から貴女のことを知っていましたの」
「わたくしの、ことを?」
「はい。とは言っても、別に貴女のことが知りたかった訳ではありません。エディ様について、私の“影”達を使って少々調べさせて頂いたところ、私は、貴女のことを知りました。正直、とても悲しかったです。ようやく私に相応しい方を見つけたと思ったら、既に結婚なされていたなんて!」
それまでの笑顔から一転、大きな瞳を伏せて、至極悲しげにルーナメリィ嬢は肩を落とした。そうは言われても、というのが私の本音である。
彼女の言う“影”とは、主に諜報や暗殺を担う、所謂裏の世界担当の私兵のことだ。大貴族以外にも、力有る貴族や豪商などの多くが“飼っている”と言われている。眉唾物の噂程度にしか思っていなかったのだが、なるほど、本当に実在していたらしい。だがこんな状況で知りたくはなかった。
物言いたげにしている私の顔を見下ろして、ルーナメリィ嬢は再度溜息を吐く。
「セルヴェス様の、あの髪の色をご覧になって? まるで物乞いの老人のようだわ。穢らわしい、中途半端な髪の色をした相手が自分の婚約者だなんて、フィリミナ様、貴女に私の気持ちが解りますか? あの漆黒の髪のエディ様とは大違いよ」
他ならぬ自分の婚約者のことだろうに、何とも酷い言い草である。その台詞から、ルーナメリィ嬢とセルヴェス青年の仲が、お世辞にも良好なものであるとは言い難いことが窺い知れた。いや、そもそも、良好であるのであれば、セルヴェス青年が騎士団預かりになっている今、ルーナメリィ嬢はこんなところで油を売ってなどいないだろう。
セルヴェス青年の、以前私もルーナメリィ嬢同様に「老人のようだ」と表した髪を思い出す。確かにその通りの、白と灰が入り混じる髪ではあったけれど、あの男ほどでは無いにしろ、整った容姿に澄んだ紺碧の瞳は、年頃の少女にとっては充分魅力的に見えるものであると思うのだが。
大体、あの男と比べること自体が間違っているのだ。性別を問わず人を惹き付けてやまないあの美貌は、いっそ人ならざる魔性の者なのではと評されるくらいのものなのだから。
しかし、目の前の少女にとってはそうではないらしい。私が何も言えないのを良いことに、彼女は我が身に降りかかった不幸を嘆いている。
「あんな方と婚約しているなんて、恥ずかしくってならなくて。だから公表するのも、お父様にお願いして、ギリギリまで待って貰っていましたの。でも、それももう限界でしたわ。魔王が復活したのは、そんな時でしたの」
にこり、と少女のかんばせに笑みが戻る。菫の花のように可憐な笑みだ。姫様の白百合のような美貌とは違う種類の、誰もに愛されるべき愛らしい笑顔に、現状の異常さを忘れそうになるが、身体の傷の痛みが、なんとか私を現実に繋ぎ止めていてくれるのだから皮肉なものである。
「婚約発表どころではなくなったのは幸いでした。勇者様も素敵なお方でしたけれど、あの方とでは身分が違いすぎます。いくら救世界の英雄様だとは言え、田舎者の血を当家に招き入れるなんてとんでもないわ。騎士団長様も同じこと。平民相手だなんて冗談でもごめんです」
そんな中で、と、一旦話を切って、ルーナメリィ嬢はうっとりと深紫色の両目を細め、その白い頬を淡く薔薇色に染めた。
「エディ様は素晴らしいお方です。確かに黒持ちは恐ろしいけれど、あれだけ純粋な黒でしたら、むしろ他には無い魅力だと思いますの。他のだぁれも持っていない黒を持つ、美しいあの方こそ、私に相応しいわ」
その台詞には、何の疑念も込められてはいなかった。当然のことを当然のこととして言い放つ、いっそ傲慢なまでの自信に溢れていた。そして、目の前の少女は、それが許されてしまうだけの美貌と権力を持ち合わせていた。
これくらい、と思わずにはいられなかった。後ろで縛られた、かろうじて自由になる手を握りしめる。私もこれくらい自信が持てたなら、と、つい思ってしまった。ルーナメリィ嬢の台詞は勝手極まりないものであるけれど、ここまで突き抜けるといっそ清々しいというか、天晴れであるというか。
ううむ、と内心で唸りつつ、ルーナメリィ嬢を見上げると、にっこりと彼女は笑みを深める。薄暗い牢屋の中、彼女ばかりに天窓の光が集中しているかのように、はっきりと彼女の可愛らしい笑顔が見える。
「だから、セルヴェス様にお願いしたんです。エディ様の妻という分不相応な立場に居る貴女を、呪い殺してほしいって」
「っ」
とは言え、笑みを含んだまま続けられた彼女の台詞に、びくりと肩を揺らさずにはいられなかった。
やはりそうなのか、と、ますます言葉が見つからなくなる。ここまでの流れで、何となく予想はしていたものの、自分の中で予測しているのと、本人に改めてはっきりと言葉にされるのとではやはり違うものだ。ルーナメリィ嬢の瞳に浮かぶ無邪気な光が、私に対する殺意であるのだと、ようやく思い知らされる。子供が羽虫を戯れに殺そうとするかのような無邪気な殺意は、憎悪による殺意よりももっと恐ろしい。
「セルヴェス様は私に逆らえません。初めて出会った時からずっとそうでしたし、これからもずっとそうだと決まっていますわ。当家はローネイン家よりも格上ですし、あの方は三男でいらっしゃって、私のお婿様として当家に迎え入れられる手筈になっていましたから。だから騎士団預かりになったとしても、あの方が私の名前を出すことは無いでしょう。両家の顔を潰す羽目になるような真似をあの方がするはずがありませんもの」
いっそ耳を塞いでしまいたくなるような話だった。ルーナメリィ嬢の話が本当ならば、あまりにもセルヴェス青年が憐れだった。私などに同情など、彼とてされたくないであろうが、それでも、あんまりな話ではないか。
顔を青ざめさせて何も言わない私とは対照的に、目の前の少女はまるで歌うように話を続ける。それはさながら戯曲のヒロインのようだ。天窓の薄明かりをスポットライトに、とうとうと美少女は歌う。にこにこと、自分がどれだけ残酷なことを言っているのか、気付きもしない様子で。
「それに、あの方ったら、元々エディ様のことが身の程も弁えずお気に召さないようでしたから、貴女を亡き者にするにはちょうど良かったんです。だから、調べ上げた貴女の名前をセルヴェス様に教えて、お膳立てをして差し上げました。後は、貴女の知る通りです」
そしてまたしても、ルーナメリィ嬢は、今度はいかにも残念そうな様子で溜息を吐く。
「結局呪いは失敗。それだけじゃなく、せっかく重傷を負ってもなお貴女は生き残るんですもの。本当にしぶといこと」
「あ……」
何かを言おうとして動いた唇が、結局何も言えないまま閉じられる。そんな間抜けな表情を見せる私をくすくすと笑いながら見遣るルーナメリィ嬢が不思議でならなかった。どうしてそんな、虫を殺すどころか触れることすらもできなさそうな笑顔で、恐ろしい台詞が吐き出せるのか。理解ができず、ただ背筋が冷たくなる。
石造りの地面に転がされたまま何とか後退ろうとするも、結局動けず、痛みを悪化させるばかりで、状況は改善されるどころか悪化するばかりだ。
「フィリミナ様、大丈夫ですか? その身体の傷は、まだ完全に塞がった訳ではないのでしょう?」
白々しく言う訳でもなく、本気で心配そうに問いかけてくるのだから余計に質が悪い。唇を噛み締めて痛みを堪えることしかできない私の前に、ドレスが汚れるのも気にせずにしゃがみ込んだルーナメリィ嬢は、そっと気遣わしげに私の頬を撫でた。
「セルヴェス様も残酷なことをなさるわね。一息に殺してさしあげるのが慈悲というものでしょうに」
「っ! のろ、いを、かけることを命じておいて、何を、仰るの、ですか」
「ええ、仰る通りだわ。我ながら随分と遠回りな手段を選んでしまいました。いくら犯人が分からないようにするためだとは言え、こうなることが解っていたら、最初から影達を使っていましたのに」
私の台詞に深く頷いて、ルーナメリィ嬢は、す、と衣擦れの音もなく立ち上がる。
「だからもう、まどろっこしいことは止めようと思いまして」
洗練された所作で立ち上がったルーナメリィ嬢は、くるりとその場で両腕を広げて辺りを指し示すように、まるでワルツのステップを踏むかのように一回転した。そして私をまた見下ろして、小鳥のように小首を傾げる。
「ここがどこだか解りますか?」
「……?」
そう問われても解るはずがない。白百合宮ではないこと、恐らくは牢屋であることが確かなだけで、他に得られる情報はない。私に質問してきたルーナメリィ嬢も、私の答えなど最初から期待していなかったようで、私の反応を待つことなく続ける。
「ここは、バレンティーヌ家が国の各地に持つ別荘の一つ。罪を犯したバレンティーヌ家の者が封ぜられる塔ですの。貴女風情に使うのは勿体ないくらいなのですから、どうか光栄に思ってくださいね」
そう言われて「はいありがとうございます」と答えられる馬鹿が居たらお目にかかりたいものである。話している内容は、不穏極まりないものだというのに、ルーナメリィ嬢の口調は、それに反してどこまでも穏やかで可愛らしい。まるで茶会で交わす会話のように楽しげなもので、だからこそ現状は余計に異様だった。
気が付けば口の中はカラカラに乾いていた。唾を飲み込もうにも、その唾が口内にほとんど無くて叶わない。いっそ悲鳴の一つでも上げてみせればいいのかもしれないが、そうするには、ルーナメリィ嬢の様子があまりにも自然体で、悲鳴を上げようとする私の方がおかしいのではないかと思えてしまう。
「大変でしたのよ、貴女をここまで運ぶのは。セルヴェス様が失敗したことは、私の影達から報告を受けておりました。後は白百合宮で貴女が一人になるのをひたすら待って、ようやくエディ様が席を立たれたところを見計らい、貴女を影達が転移魔法を使ってここへ運びました」
「そ、んなことをしても、すぐにエディ達が気付いて……」
「貴女がエディ様のことを『エディ』だなんて呼ばないで!」
荒げられた声に反射的に震えると、ルーナメリィ嬢はぱちくりと大きな瞳を瞬かせ、恥じ入るように口許を押さえた。そんな仕草もまた、やはり可愛らしくて、こんな場合でもなければ純粋に「可愛いなぁ」と和めただろうに。けれどこの状況は、そんな暢気な感想を許してはくれない。
「ごめんなさい。でも、無礼ではありませんか。私の夫……いずれはバレンティーヌ家の家長となる方に対する礼儀を、アディナ家は貴女に教えなかったのかしら?」
だとしたら魔導書司官の名もとんだお飾りなものね、と、呆れたようにルーナメリィ嬢は続け、にこりと笑む。
「話を戻しましょう。大丈夫ですわ、エディ様達が気付くはずがありません」
「それは、どう、いう?」
「替え玉の死体をね、置いてきましたの。ちゃんと顔や体型は魔法で変えさせたものを。きっと今頃白百合宮では、貴女の容態が急変して急死したことになっています」
「ッ!!」
そんなものまで、用意していたというのか。その死体を一体どうやって調達したのか、だなんて恐ろしくて訊けやしない。可憐に笑むルーナメリィ嬢の口から次々と出てくる衝撃の事実に、私はただ呆然とすることしかできない。
「さぁ、これでもう後顧の憂いは無いでしょう? だからどうか安心なさって。貴女が亡き後は、私がエディ様をお慰めしてさしあげますから」
ルーナメリィ嬢の言葉と共に、彼女の後ろの扉から、上から下まで黒尽くめの人物が何人も入ってくる。顔も体型も隠す衣装を身に纏っているため、性別は分からない。“影”の名が示す通りの姿だ。
ぞ、と今度こそ背筋が凍る。これから何が起ころうとしているのか気が付かないほど、私は鈍くは無い。何とか逃れようと身を捩って、身体を引き裂くような痛みに悶絶する。せめてこの傷が無かったら……いいや、例え無かったとしても、私の力ではこの状況は看破できそうもないのでそうは言っても仕方が無いことか。だが、とは言っても、それで諦められるはずもない。
「やっぱり最初からこうして影達に命じるべきでした。ごめんなさいね、フィリミナ様。無駄に苦しみを長引かせてしまって」
痛みのせいで生理的に滲んだ涙で曇る視界の中でルーナメリィ嬢を見上げると、彼女はやはり初めて出会った時と変わらぬ様子で可愛らしく無邪気に笑っていた。
「でも、これが最後ですから」
私とルーナメリィ嬢の間を区切るようにして、私を取り囲んでいた影達の内の一人が、一歩前に出てきた。どこから取り出したのか、その手には一振りのナイフが握られている。いくら小振りであるからと言っても、そのナイフにとって、人間一人の命を奪うのは容易いことであるに違いない。その証拠のように、天窓の光を反射する光は、残酷なまでに鋭い。その目だけでも分かる鋭さに身体が震えた。このままでは殺されてしまうより他に道は無いのだと、やっと頭が現実に追いついた。
駄目だ。嫌だ。私は、こんなところで死ぬ訳にはいかない。あの仕方の無い男をおいて、死ぬ訳にはいかないのだ。誰に私の死を望まれようとも、決してそれだけは許してはならないのだ。
「……けて」
唇が戦慄いた。私に向かって、銀色に光るナイフが振り下ろされる。反射的に目を閉じて、私は、その唯一の名前を叫んだ。
「助けて、エディ!」
その時だった。風の吹き込む余地など無かった空間に、突如として風が吹き荒れる。けれどその風は私の頬を撫でていくばかりで、私を傷付けることはない。何かが次々に壁に叩き付けられるような音がした。いつまで経っても、私にナイフが突き立てられる気配は無い。
恐る恐る目を開ける。そうして私は、私を庇うようにして、杖を構え、ルーナメリィ嬢と私の間に立ち塞がるその姿に、息を呑んだ。
「やっと呼んだか」
不機嫌さを隠そうとしない美声だった。いつもよりも格段に低いその声音に、我が耳を疑う。どうして、この男が、ここに。呆然と地面に転がされたまま男を見上げることしかできない私を振り返り、かがみ込んで、男は私を助け起こす。その拍子にまた傷が痛んだけれど、それどころではなかった。
「いくらなんでも呼ぶのが遅すぎるぞ」
「エ、ディ」
我が夫たる男の様子は、それはそれは淡々としたものであったが、その声音が、この男がこの上なく怒っていることを私に教えてくれていた。これほどまでにこの男が怒っているのを目にしたのはセルヴェス青年と対峙した時以来だ。眠りに就く前も、この男は泣きながら怒っていたが、それとはまた種類の違う怒りである。あれは安堵と怒りがごちゃ混ぜになったものだったが、今は違う。この男は、今、心の底から、純粋に怒り狂っている。
「どうして」
この男がここまで怒り狂う、その理由は聞かずともなんとなく解るような気がしたが、だからこそ解せない。何故この男は、こんなタイミングで、この場所に現れることができたと言うのだろう。私の問いかけの意図を正確に汲み取ったらしい男は、また淡々と言葉を紡いだ。
「お前に、魔宝玉のブレスレットを渡してあっただろう。あれは俺の杖の魔宝玉の子供石だ。お前が身に付けている限り、その気になれば、お前の居場所も、何をしているかも、俺に筒抜けになる」
「…………」
手首につけているブレスレットの存在を唐突に持ち出され、思わず目を瞬かせた。初耳である。しかも、非常に聞き捨てならない内容であった。なんだその高性能ぶりは。『前』の世界のストーカーなる存在が聞けば喉から手が出るほど欲しがりそうな品だ。そんなものをこの男は私に渡していたというのか。自然と半目になる私に、男は流石にまずいと思ったらしく、気まずそうに目を逸らしてぼそぼそと続けた。
「……実際に使ったのは今回が初めてだから、そんな顔をするな。それに、実際に役に立っただろう」
いや、まあ、確かにその通りなのだが。それで納得できるかと言われればそれはまた別問題だ。これは一度とくと話し合う必要があるなと思いつつ、そういえばそんな場合ではなかったのだったと周囲を見回す。
ルーナメリィ嬢の影達は皆、四方の壁に身体を叩き付けられ、その場に倒れ伏していた。先程の何かが叩き付けられる音とは、彼らが男の魔法によって壁に叩き付けられる音だったのだろう。我が夫ながら随分と器用な真似をするものだ。その中で、ルーナメリィ嬢だけが、先程までの笑みを消して、信じられないと言わんばかりにこちらを見つめ立ち竦んでいる。
私を抱きかかえながら、男は、そんな彼女を肩越しに見据えて、吐き捨てるように言い放った。
「ローネインが吐いたぞ。あいつの背後に、貴様がいることをな。フィリミナが一命を取り留めたと教えたら、あっさりと吐いたそうだ」
「なんですって……!?」
男の台詞に、ルーナメリィ嬢は、驚愕の声を上げた。
「セルヴェス様が、私の意に沿わないことをするはずがありませんわ!」
「いいや、事実だ。こうして俺がここにいることが、何よりの証明だろう。さあ、出番だぞ騎士団ども」
その言葉と共に、男が杖を一振りする。杖の魔宝玉が光を放ったかと思うと同時に、騎士団の騎士達が整然と並び立ってこの牢屋の中に現れる。先頭に立っていた騎士団長殿が、その腰の剣を抜き払い、声を張り上げる。決して広いとは言い難い牢屋の中、その声は朗々と響き渡った。
「ルーナメリィ・エル・バレンティーヌ! 王宮付魔法使いたるエギエディルズ・フォン・ランセントが妻、フィリミナ・フォン・ランセント殺害未遂の罪にて、我らが女神の御名の下にその身柄を拘束させて貰う!」
ルーナメリィ嬢の影達と、騎士団員達の剣が交わる。とは言っても、男の魔法によって壁に叩き付けられるというダメージを負った影達と、万全の状態でいる騎士団員達とでは動きが違う。素人目にも、騎士団員達の方が、圧倒的に、腕も、数も、有利であるように見えた。そんな部下達を余所に、剣戟の合間をかい潜って、男の腕に抱き抱えられている私の元に、騎士団長殿はやってきた。
男の朝焼け色の瞳が、騎士団長殿を睨み付けるが、騎士団長殿はそれをスルーし、私を後ろ手に縛っている縄を、その剣で切った。ようやく解放された両腕に、ほっと息を吐く。痕になっているかもしれないが、とりあえず人心地が着いた気がした。手首に付けているブレスレットの魔宝玉がきらりと光る。これのおかげで助かったのかと思うと、それは確かに非常にありがたいのだが、その機能を深く考えると非常に複雑な心境に陥らされる。
やはりこれに関しては話し合いを、と思いながら、男が私を抱き上げようとするのを制して、その肩を借りて立ち上がった。痛み止めの切れた身体の痛みに足下がおぼつかない。ともすればそのまま座り込んでしまいそうな私を、そっと男が支えてくれる。いつもであればこんな人前で密着し合うことなど恥ずかしくてできるはずもないのだが、今ばかりはそんなことを言っていられない。
そんな私に、騎士団長殿は、普段の余裕ぶった笑みを消して、真剣な表情で話しかけてくる。
「なぁフィリミナ。この件について、エギエディルズを怒らないでやってくれよ」
「え……?」
予想外の台詞に首を傾げると、騎士団長殿は私に向かって深く頭を下げた。
「いくらローネインが自供したとは言え、バレンティーヌ相手に下手な嫌疑はかけられねえ。どうしても犯行現場に直接踏み込む必要があった。エギエディルズが最後まで反対してたのを、俺達がごり押ししたんだ。姫さんにエギエディルズをお前の側から無理矢理連れ出して貰ってる間に、お前をバレンティーヌに攫わせさせた。だから、怒るなら俺に対して怒ってくれ。何せ殺されかけたんだからな。許さなくて構わねえよ」
「……いいえ。いいえ、そのようなことは」
騎士団長殿は、己の職務を全うしただけだ。彼の言う通り、大貴族の中の大貴族、バレンティーヌ家の息女をおいそれと簡単に罪人扱いすることは叶わない。どこの世界においても、権力者とはそういうものなのだ。それくらい私にも解る。だが、本人である私が構わないと言っているのにも関わらず、男というものは面倒臭い生き物である訳で。
「フィリミナが許しても、俺が決して許さんから安心しろ。今後、覚悟しておくんだなアルヘルム」
「ああ。肝に銘じておくぜ」
……これである。本当に面倒臭いものだ。
そんなやり取りを三人でしている間に、いつの間にやら、我が国が誇る精鋭たる騎士団員の手によって、本来であれば腕の立つであろう影達は、その場に取り押さえられ縛り上げられていた。残されたのは、呆然とそれを眺めていたルーナメリィ嬢ただ一人。
「エディ様」
ぽつり、と、その薄紅の唇が動く。
「エディ様は、私を迎えに来てくださったのではないのですか?」
それは、心底不思議そうな声音だった。誰もが何もかもを許してしまいそうになるくらい可愛らしい声音であると言うのにも関わらず、私を背後から支えている男は、忌々しげに舌打ちをする。
「貴様が俺をその名で呼ぶな。虫ずが走る。俺がそう呼ぶのを許しているのは、フィリミナだけだ」
「だったら、フィリミナ様が居なくなれば良いのでしょう? だって、フィリミナ様よりも私の方がもっとずぅっと、エディ様に相応しいのですから」
そうでしょう?と小首を傾げて問いかけてくるルーナメリィ嬢を、男は情け容赦なく睨み付ける。平行線を辿る二人の間を、私は視線を行き来させることしかできない。男の台詞に、そんな場合ではないというのについ喜びを感じて、同時にルーナメリィ嬢の台詞が、ぐっさりと胸に突き刺さった。その矛盾をなんとか噛み締めて飲み干していると、ルーナメリィ嬢の深紫の瞳に、透明な膜が張る。
「何故、何故なのですか、エディ様」
深紫の瞳が瞬きすると共に、ぽろりと一筋の涙が少女の頬を伝う。その透明な雫を拭ってあげたいと思う存在は、この世にごまんと居るに違いない。私とて、こんな場合でもなければ、ハンカチを差し出していたに違いないのだから。はらはらと止め処なく涙を流すルーナメリィ嬢は、雨に濡れる菫のように頼りなかった。そんな彼女が、どうして他人を殺そうなどという真似ができたのだろう。
「私の方がフィリミナ様よりも若くて美しくて可愛くて、貴方によっぽど相応しいではありませんか」
ぐさぐさぐさ、と目には見えない言葉の矢が胸に突き刺さった。いや、確かにその通りなのだが、実際に口に出されると、いくらそれが真実であるとは言え傷付くものだ。
容赦の無い台詞に毒はない。ただルーナメリィ嬢は、真実そう思っているだけなのだろう。それは、幼気な子供の無邪気な残酷さと同じものだ。
「私はただエディ様が欲しいだけなのに、どうして皆邪魔をするのです?」
どうして、どうして、どうして。言葉を覚え始めたばかりの子供のようにルーナメリィ嬢は繰り返す。男が何故自分を睨み付けてくるのか、騎士団長殿達が何故自分を異様なものを見るような目で見てくるのか、欠片も理解できないと言った様子で。
「私は、エディ様が欲しいのです。他のだぁれも持っていない黒の魔法使い様。私だけの王子様」
その両手の指を胸の前で絡ませあって、涙に濡れた顔に、少女は夢見るように笑みを浮かべている。……何だろう。ルーナメリィ嬢を見つめながら、私は内心で、ふつふつと胸の奥底から沸き上がってくる感情に首を傾げた。未だかつて無く強い感情だ。驚きとも怖れとも異なる、もっと別の感情。私を支える男の腕にかけた私の手に、自然と力が入る。それに気付いた男の視線を上から感じたが、私はそれに気付かない振りをして、ルーナメリィ嬢を見つめ続ける。彼女は、誰に止められることも無いのをいいことに、にっこりと男に笑いかけた。
「私なら、エディ様に相応しい妻になって差し上げます。例えエディ様が忌まわしい黒持ちでも、ちゃんと受けいれて差し上げるのに」
相も変わらず可憐な、可愛らしい笑みだ。にこにこと笑みを浮かべながら、自らの言葉に彼女は何度も頷いてみせる。
「そう、そうですわ。エディ様を受け入れて差し上げてあげられるのは私だけなのです。フィリミナ様だって本当は怖がっているのでしょう? でも私は違います。どれだけ恐ろしくても、私は、私だけは……」
ぶちり、と。何かが切れる音がした。
「……フィリミナ?」
男の訝しげな呼びかけをスルーして、その腕の中から抜け出した。痛みにふらつきそうになる身体に、慌てたようにまた男の手が伸ばされるが、それを視線で制すると、驚いたように男は固まった。それをいいことに、歩みを進めて、バレンティーヌ嬢の前に立つ。きょとりと瞳を瞬かせるルーナメリィ嬢に、私は、にっこりと深く微笑みかけた。そして、片手を振り上げる。
ぱぁん!
景気のいい音が、牢屋の中に響き渡った。誰かが息を呑む音がした。騎士団員の多くが、あんぐりと口を開けている。背後にいる男と騎士団長殿の表情は解らないが、おそらくは似たような表情を浮かべていることだろう。目の前では、ルーナメリィ嬢が、私に平手打ちされた頬を押さえて、ぽかんと私を見つめている。何が起こったのか解らないと言った様子に、ほんの少し溜飲が下がるが、私のこのふつふつと煮え滾る感情――すなわち怒りは、到底収まるものではない。
「――手を、出してしまったことを。心より、お詫び致します」
そう言った瞬間、びくりとルーナメリィ嬢の肩が跳ねた。おや、これはなんともおかしなことだ。ただ普通に謝っただけだというのに、これではまるで私が彼女を虐めているようではないか。音こそ派手であったけれど、負傷したこの身体では大して力が込めれなかったから、そう痛くはなかったと思うのだが。そう内心で思いつつ、ルーナメリィ嬢を見つめると、可憐な美少女は、頬を押さえたまま、かたかたと震えていた。その瞳に映る怯えに、これ以上追い打ちをかけるなど正に鬼畜の所行であるに違いないだろうとは思ったが、それでも、言わずにはいられなかった。
「確かにわたくしは、姫様のような優美な白百合でも、あなたのような可憐な菫でもございません。大いに結構。わざわざ口に出して言われずとも、わたくし自身よくよく理解しておりますわ。あなたの仰る通り、エディの隣に立っても、添え花にすらなれない雑草です」
そう言って、更ににこりと笑みを深めると、ルーナメリィ嬢は「あ……」と小さく声を漏らして更に顔を青ざめさせる。脅しているつもりも凄んでいるつもりも無いので、彼女のこの反応は、私にとっては少々不本意なのだが、まあいいだろう。何も言い返してこないのであれば、その分私が言いたいことを言わせて貰うだけの話だ。
「ですが、雑草の生命力を舐めないでくださいな。わたくしのエディを想う気持ちは、雑草同様、誰にも負けないくらい強いものだと自負しております。あなたはエディが黒持ちだからだのなんだのと仰いますが、そんなことは些末に過ぎません」
そう、例えば、かつて男に贈ったハンカチに刺繍した、黄色い花弁を持つ酢漿草の如く。どれだけむしり取られたとしても、私のこの心は変わらない。
“エギエディルズ・フォン・ランセント”をルーナメリィ嬢は欲しいと言う。けれど、駄目だ。私はもう男のことを手放せない。例え男にとって、本当にルーナメリィ嬢こそが相応しいのであったとしても、駄目なのだ。手放せないと、手放したくないと、そう思ってしまうのだ。だって、そうではないか。
「エディがどれだけ性根がねじ曲がっていて、口が悪くて、朴念仁で、冷血漢で、とんでもなく不器用な人間であるか。あなたは、ご存じですか?」
ぶふっと背後で騎士団長殿が噴き出す声が聞こえた。「おいエギエディルズ、お前、言われてんぞ」「……煩い」などという会話もついでに聞こえてくるが、今はそんなものに耳を傾けている場合ではない。
ルーナメリィ嬢の欲しがる“エギエディルズ・フォン・ランセント”は、まるで人形だ。見目ばかりが良い、中身の伴わない、彼女にとって都合が良いだけのお人形。それは正しく、幼子が人形を欲しがるのと同じことだ。冗談ではない。そんな相手に、どうして我が夫となった男を譲れるだろうか。
私の夫となった男は、私の知る“エギエディルズ・フォン・ランセント”は、人形などではないし、そんなお遊びに付き合ってくれるような心の広い人間でもない。ああ、そうだとも。そんなチョロい相手であれば、私とてこんなに苦労はしなかった。そもそも、そんな相手に、こんなにも惹かれることは無かっただろう。私は、男が、私の知る“エギエディルズ・フォン・ランセント”だからこそ、惹かれたのだし、手放せないでいるのだ。
「黒持ちでなくとも、英雄でなくとも、美しくなくとも、それでもあなたがエディを選ぶと言うのであれば、わたくしも正々堂々と迎え撃って差し上げます。さあ、その性根を叩き直して、出直してきてくださいまし」
にっこりと微笑んで言い放つ。言いたいことは言わせて貰った。反論があるならば受けて立とうではないか。そう思いながらルーナメリィ嬢を見つめると、はくり、と、彼女の唇が、何かを言おうとして動き、そして何の音も出さないまま閉ざされた。そして、力が抜けきってしまったかのように、ぺたりとその場に座り込む。そんな彼女を騎士団員が二人がかりで立ち上がらせる。脱力しきった身体を縛り上げる必要性は無いのだろう。先程まで浮かべていた可憐な笑みは無く、それこそ人形のように生気が失せている。可愛らしい美少女の、その、見る者の同情を誘う姿に、これは言い過ぎてしまったか、と、若干後悔する。だがしかし、それ以上のことを散々言われたのでお相子と言えよう。そもそもこちらは殺されかけているのだ。これくらいの反撃で心が折れる程度の覚悟で、二度目の生を謳歌しているこの私を殺そうなどとは片腹痛い。そういうことにしておく。そう、私は生きている。危ないところだったが、なんとか、危機を回避した。私は、生きているのだ。
「……」
「フィリミナ?」
「あ、」
男の呼び声にも、答えることができなかった。その代わりとばかりに、ぞわり、と一気に身体が総毛立った。かたかたと震えていたのは、ルーナメリィ嬢ばかりではなかった。私もまた、彼女同様に震えていたのだ。遅れてやってきた恐怖と、身体中を駆け巡る傷の痛みに、身体の震えはいよいよ止まらなくなる。地面が揺れているかのような、そんな感覚が全身を襲った。
「ッフィリミナ!」
「おい!」
そして、男と騎士団長殿の叫びを最後に、私の意識は闇に沈んだ。
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