(8)
あの地下室で、魔族と対峙してから数日が経過したが、生憎のことに、現状にさしたる変化は無い。
悪夢は変わらないまま―――いいや、むしろ悪化したと言うべきだろう。碌に眠れていない私の元に、澱んだ暗闇は音もなく、昼夜を問わず、ふとした瞬間に忍び寄ってくる。逃れようとする私を光の差さない真黒の中に突き落として、止め処ない泣き声の渦に捕らえようとする。
ぶっちゃけて言ってしまえば、眠らないでいることが、今の私ができる唯一の対抗策らしいのだが、いくら前世の記憶を持っているという特殊な事情を抱えているとはいえ、私はあくまでも一介の人間に過ぎない。ずっと眠らずにいることなどできるはずがないのである。
人間の三大欲求の内の一つに数えられるのが睡眠欲だ。それが満足に得られないだけで、こんなにも自分が弱くなるものだとは思わなかった。これまで積み上げてきた私という存在が、がりがりがりがりと削り取られていくようだ。今のところなんとか原形を留めているものの、やがては摩耗しきって瓦解してしまうだろうことが、自分のことであるからこそ容易に想像がついた。
そんなことは冗談でもごめんなのだが、かと言って何か抵抗する術がある訳でもなく、非常に歯痒い思いをさせられている。
大した対抗策も見いだせずに、ただただ漫然と日々を過ごすしかない私に対し、夫たるあの男は、あらゆる書物をひっくり返し、文字通り東奔西走状態だ。
これまでは、与えられるがままに受けていた仕事を、最低限にまで減らし、ウィドニコル少年に任せられる仕事は彼に押しつけ、その分空いた時間を、私に掛けられた呪いについて調べるのに費やしている。あの、ワーカホリックを地でいっていた男が、である。
自宅にまで資料を持ち帰り、睡眠時間を極限まで減らし、食事の時間すらも惜しんでいる様子は、私ではなく男の方が先に体調を崩してしまいそうで、正直私は気が気でない。だが、それを言っても聞いてくれる相手ではないことも重々承知の上であるので、これもまた非常に歯痒くてならない要因のひとつだ。
―――本来、呪いというものは、その呪いの効果を発揮するために力を貸している魔族が滅されれば解けるというのが一般常識であるらしい。だが、私に掛けられた呪いは、そんな単純なものではなかった。
姫様はこの呪いを『花の種』と称したが、ここにきて改めてその表現の的確さに納得する。魔族の力によって創られ、私の魂という苗床に蒔かれた『種』は、魔族の手から完全に離れているのだそうで。魔族を殺しても呪いは解けるものではなく、その『花の種』の原理を創り上げた術者に直接解かせるしかないのだと。
なんというか、非常に執念を感じさせる呪いである。あの男の頭を悩ませるほどの呪いなど、そうそう創れるものではないだろう。
魔族との契約において、いくらあの男曰くの“下級魔族”相手だとは言え、契約の条件に自身の名前を出させないようにさせるなど、そうそうできることではないのだそうだ。まるで最初から、『我が国筆頭魔法使い』を相手取ることを念頭に入れて創られたかのようにすら思える。その予想は、恐らくは間違ってはいないのだろう。エギエディルズ・フォン・ランセントという魔法使いは、それだけの存在として、世に知らしめられているのだから。
それほどに恨まれているのは、私だろうか。それとも、あの男だろうか。どちらであるにしろ、早い内にこの呪いを解いて頂きたいというのが本音だ。
…正直なことを言えば、私はそろそろ限界なのだろう。そう、他人事のように思う。
悪夢に溺れ死ぬだなんて、現実味が無くて首を傾げたくなるが、それを為し得てしまうのがこの世界だ。
そんな中でも私は、強がりを言って、何でもない振りを装ってしまう。あまり意識したことはなかったのだが、それは、あの男に言わせれば、私の悪癖であるらしい。
呪いに掛けられているとばれて以来、あの男は私の行動に逐一目を光らせている。その視線をこそばゆいと表すか、あるいはうざいと表すかは、この際言わずに置いておくが、どちらにあるにしろ、あの男に私は大変心配を掛けさせてしまっている。まあ確かに、逆の立場であったら、私とて同じような反応をするに違いないのだろうけれど。
目を閉じれば、夜でもないというのに、すぐに睡魔がやってくる。瞼の裏の真黒よりも、深く、暗く、澱んだ闇が私の視界全てを覆う。とぷん、と足下が緩んで、そのまま沈んでいきそうになる。
そう、こんな風に。
『……………』
ああ、やっぱり。そう呟いたはずの声は、音にはならなかった。
辺り一面に広がる暗闇は、汚泥のようにどろりとしていて、自由に身動きが取れない。どこか前で、どこが後ろで、どこが右で、どこが左なのか。どちらが上で下なのかすらも解らない暗闇の中、かろうじて踏み出した足は、そのままどぷりと沈み込む。
あ、と思った時にはもう遅い。そのまま私の身体は前へと倒れ込み、暗闇の中に沈んでいく。
どこまでもどこまでも落ちていく暗闇の中、不思議とはっきりと見えるのは、私を置いていってしまう、私の大切な人達の姿だ。
そしてその中でも、やはり一番目を惹き付けられてしまう、あの男の姿。
暗闇の中、月のように星のように輝き浮かび上がるその白き美貌。汚泥のような黒とはまるで違う、艶めく漆黒の髪に触れるのは、いつしか私の特権になっていた。汚泥を掻き分けるようにして手を伸ばす。届かないと解っているのに、手を伸ばさずにはいられない。
そんな私を差し置いて、軽やかに駆け抜けていく少女の姿がある。長く美しいストロベリーブロンドの残像が目に焼き付く。躊躇うことなくあの男の腕に飛び込む美少女の姿に、その誂えたかのようなお似合いの姿に、私は固く目を閉じた。
違うのだと解っている。あれは幻だ。呪いが見せる幻なのだ。そんなことは重々解っているのだ。
あの男の妻は私で、私だけだとあの男は言ってくれた。その言葉を疑う訳ではない。私自身、あの男のことを想う気持ちは誰にも負けないという自負がある。けれど、それでも。それでもどうして、私、は。
―――た。…った…!
ああ、泣き声が聞こえる。
ゆっくりと、それでも確実に落下していく浮遊感が、気付けばなくなっていた。暗闇の底に立ち竦み呆然とする私の視線の先で、『彼女』が座り込んでいる。
こちらに気付くことなく泣きじゃくる『彼女』の方へ、ほとんど無意識に足を踏み出した。暗闇が震える。『彼女』が顔を上げて、私を見た。涙に濡れる焦げ茶色の瞳が、私を見据えて睨み付ける。
―――出て行って!
『ッ!?』
叩き付けられたのは、悲鳴のような拒絶の声。同時に、泣き声が一気に遠退いていく。無理矢理意識が浮上させられる。泣き声が耳の奥で、私の中で反響する。
ぐるぐると視界が回る。暗闇しかないというのに、おかしなもので、世界が回っているのが解る。ぐるぐる、ぐるぐると、回る、まわる。目を閉じることすら叶わない。そうして、さいごにみえたのは。
「フィリミナ!」
「………エディ?」
名前を呼ばれて、反応するまでに、少し時間がかかってしまった。フィリミナ。それは、私の名前だ。
私の顔を間近で覗き込んでいる男を前にして、ぱちぱちと何度か瞬く。うむ、相も変わらず腹が立つくらいにお綺麗な顔だ。
どうやらまた眠ってしまっていたらしい。ここ数日、気を抜けばすぐに居眠りしてしまう日々が続いている。今だってそうだ。夕食を終えて、リビングのソファで香草茶を飲んでいて、それを飲み終わってからの現実の記憶が無い。うっかりカップを割るようなことにならなくて良かったと思いつつ、そのままぼんやりと男の顔を凝視する。
しみ一つ無い、白磁器の如き肌理細やかな肌の上に唯一目立つ、左目の下の傷。消そうと思えば消せるらしいのだが、教訓と反省の意味を込めて敢えて残しているのだと聞いた。「…お前を泣かせてしまったからな」と、ぽつりと呟かれたことを覚えている。そんなことは気にしなくていいのにと思うのと同時に、ほんの少しだけ、確かに嬉しいと思ってしまった私は、世の中の美を愛する賢人達からさぞかし罵倒されることだろう。
ただしこの男の場合、例え傷があろうとも、その美貌に何ら陰りが無いのだから、傷を残すことに果たして意味があるのか無いのか、若干疑問ではある。むしろ傷がある分、人間味を帯びて、親しみやすくなった気すらするのだから、美形とは実に得なものだ。
まあ、傷があろうとなかろうと、この男がこの男であることに変わりはないので、私にとってはさしたる意味は無い。
「――ミナ。フィリミナ、大丈夫か」
「…あ、ら?」
ゆるりと首を傾げる。何度か名前を呼ばれていたことに、今更ながら気付いた。その、明らかに寝惚けていると解る私の反応に、男は、安堵したような、或いは苛立たしげな、何とも言い難い表情を浮かべて、やがて深く溜息を吐いた。
「魘されていたが、大丈夫かと訊いているんだ」
「わたくしが、ですか?」
「他に誰がいる」
「ああ、そう…そう、ですね」
大丈夫か否かと問われると、あまり大丈夫ではないのだろう。けれどそれを馬鹿正直に話す気にはなれなかった。曖昧に微笑むと、男の眉間に皺が寄る。
朝焼け色の瞳が放つ鋭い視線にいくら晒されようとも、今更動じることはないが、それでも男の言いたいことが解るだけに、私は身体を縮込ませるしかない。
「…わたくし、そんなにも魘されていたでしょうか」
逆に問い返せば、男はその秀麗な容貌に険を帯びさせたまま、こくりと頷いた。そして、その白い手が、私の頬に伸びる。思わずびくりと身体を震わせるが、そんな私の反応をスルーして、男は、私の頬にかかっていた髪の毛を耳に掛けさせてくれた。
その驚くほど丁寧な仕草につい固まってしまう私を余所に、男は、ソファの前に置かれたローテーブルにその手に持っていた分厚い魔導書を置いて、私の横に腰を下ろす。
「無理はするなと言っただろう。それに、眠る時は俺の側で眠れと言っただろうが」
「そう、でしたね。申し訳ありません。お邪魔してしまってはいけないと思いまして」
「…俺は、お前に謝らせたい訳じゃない」
「申し訳…」
反射的に口から飛び出そうになった二度目の謝罪の言葉に、はたと気付いて口を押える。じろり、と朝焼け色の瞳が私を見据え、やがて男はその瞳を伏せて小さく溜息を吐いた。
「お前の呪いは、夢を媒介にして、そのままお前を眠りの中に捕え閉じ込めるものだ。迂闊に眠れば、そのまま起きられなくなり、そのまま、」
「衰弱死、ですか」
「……そうだ」
淡々としているようで、その実、この男としては驚くほど深刻なその口調に、事態の重大さを改めて思い知らされる。私の『衰弱死』という言葉に、男はその秀麗な容貌を舌打ちせんばかりに歪めた。白く骨ばった手が、私の頬に触れ、こつん、と私の額と男の額が軽くぶつかり合う。
「眠るな、とは言わない。そんなことは不可能だと解っている。だが、できる限りでいい。俺のいない場所では眠らないでくれ」
言外に、「頼むから」という言葉が聞こえた気がした。この男にしては随分と殊勝な態度である―――とは、妻である私が言うには少々酷な台詞だろうか。
どうやら、今回の事態において、この男が受けたダメージは本当に甚大であるらしい。こんなにも後悔と悔恨に苛まれている男の姿を見るのは、それこそ、この背中の傷を負ったあの事件以来ではなかろうか。
自分の所為だと思い込み、自責の念に捕われて、自分のことを疎かにしてしまうのがこの男だ。普段は散々、冷徹だの、非情だの、血も涙も無いだのと言われているこの男は、滅多な事では他者を自分の内側へと入れない。だが、一度受け入れてしまえば、その人々に対して非常に甘い。それは大変、ものすごく、非常に解りにくいのだが、明らかに甘いのだ。その内側に足を踏み入れさせてもらっている私に対して、この男がこうなるのも無理は無いと言える。だが、しかしだ。
額を小突き合せたまま、私もまた男の頬に触れる。その顔色と感触は、その本来の美しさを知っている身からしてみれば、あまり良いとは言えないものだ。陰りを帯びたその顔もまた美しいけれど、この男の本来の美しさと比べると、それを素直に賞賛することなどできるはずがない。
「エディこそ、ほとんど寝ていらっしゃらないのでしょう? 食事だって、わたくしが作っても、少ししか食べていらっしゃらないではありませんか」
よくよく見てみれば、目の下にはうっすらと隈ができている。この男に呪いのことがばれてから、たった数日のことだというのに、心なしかその頬がこけているように見えるのは気のせいでは無いはずだ。私も他人のことを言えた義理ではないが、それでも一言物申したくなってしまう。
「わたくしのことでエディが尽力してくださること、正直嬉しくないと言えば嘘になります。けれど、あなたがそれで身体を壊されてしまうことの方が、わたくしはもっとずっと嫌なのです」
食事は本を読みながらの片手間に済ませて、睡眠は私よりも遅く寝て早く起きて。そうして、朝になって、眠る私を起こしては、心底安堵したように微笑むのだ。この男のそんな微笑みなど非常に貴重であり、こんな場合でもなければ私も素直に微笑み返せるのであるが、生憎そんな場合ではない。今日も無事に目覚めることができたと、ほっと安堵するばかりだ。
まあとにかく、寝食を疎かにしまくっているこの男が、そんな日々を今後も続けていけば、私よりも先にこの男の方が身体を壊してしまうことが目に見えていた。
「だが、そう悠長なことなど言っていられない。俺は、何があろうと、お前を失いたくはない」
間近で囁かれる、その熱烈な告白に、顔が赤くなっていくのを感じた。
これが、本人が意識してやっている告白ならばいざ知らず、無意識に爆撃してくれやがったのだから手におえない。常の毒舌はどこへやったのかと問い詰めたくなるような台詞である。けれどそれで誤魔化される訳にはいかない。
気恥ずかしさに悶絶しそうな身体を抑え込みつつ、必死に真面目な顔を取り繕って私は続けた。
「でしたら、食事と睡眠を、きちんと摂ってくださいまし。そうしてくださったらわたくしも、できる限りの努力をさせて頂きますわ」
「………解った」
「ありがとうございます」
微笑んで離れようとすると、いつの間にやら頬から離れて背中に回されていた男の腕に力が込められた。あら?と首を傾げる暇もなく、そのまま抱き締められる。
細いくせに、確かに男性のものだと解る腕の力で抱き締められ、少々息苦しいが、それ以上に心地よい。温かな安心感に身体が満たされていく。それこそ、このまま眠ってしまいそうだ。気を抜けばあの泣き声が鼓膜を震わせようとするのに、この腕の中でならそれが無くなるようで、近頃の睡眠不足も相俟って瞼が落ちてくる。
「フィリミナ、待て。まだ寝るな」
「……は、い」
男の腕の中でそのまま気持ちよく眠ってしまおうとしていた意識が、男の声によって現実に引き戻される。
ふわふわと夢の世界に旅立とうとしていた意識をなんとか立て直し、力の緩んだ腕の中から抜け出して、隣の男を見上げる。すると、男は、片手の掌に余裕で収まる、小さな布袋を私の目の前に突き付けた。きょとりと目を瞬かせる私に、「手を出せ」と男は続け、言われるがままに手を出した私の掌にそれを落とす。
見たところ、何の変哲もない、所謂お守り袋のようである。首からかけられるようになっているのだろう、長い紐で括られた紫色のその袋の中身は、一見からは窺い知れないが、感触からして、何か硬いものが入っているようだった。
「開けてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
男の頷きに促されるようにして、お守り袋の口を括っている紐を解き、中身を掌に落とす。そして目にしたその物体に、私はあの魔族と対峙した時と同じように、息を呑まされることになった。
「これ、は」
それ以上の言葉が出てこなかった。眠気など一気に吹き飛んだ。
お守り袋の中身、それは、この男があの魔族を滅した時に地に落ちた、正八面体の物体だった。つるりとした硝子を思わせる表面は、あの魔族と同じ、お世辞にも綺麗とは言い難い赤黒い色。それに幾重にも巻き付いているのは、細い白銀の糸だ。物体そのものだけであれば、不吉としか表現できない物体の気配を、白銀の糸が不思議と緩和させている。
何故これが、という私の疑問が、言葉にせずとも伝わったのだろう。男は私の手から、物体を持ち上げて、私の視線の高さまで掲げてみせた。
「これはあの魔族の核だ」
「核…?」
いまいちピンとこず、首を傾げる私の手に、男は物体を戻した。なされるがままにその物体を受けとって、まじまじと見遣る。見れば見るほど、不吉な印象を見る者に与える物体である。硝子でも、金属でも、ましてや貴石の類いでもないこの正八面体の物体は何なのか。
男の顔と、物体を見比べて、結局首を捻るばかりの私に、男は聞き捨てならないことを言ってくださった。
「ああ、核だ。魔族の命の宿るものとでも言うべきか」
………ちょっと待て、なんだその禍々しい説明は。
思わず窓から外へぶん投げてしまいたくなった私は間違っていないはずだ。明らかに危険物であるとしか思えない説明に対して私が物申す前に、男は更に続ける。
「名前こそ聞き出せなかったが、あの魔族がお前に呪いを掛けた者と繋がっていたことは事実だ。本来ならばこれも消滅させたいところだったが、あれは口を割らなかったからな。だからこの核を残した。これが、犯人へと繋がる糸口になる。全く忌々しいが」
今度こそ盛大に舌打ちをしつつ、男は私に向き直る。朝焼け色の瞳に、微妙な表情を浮かべた私が写り込んでいる。
いちいち口に出さずとも、私の言いたいことなど御見通しだろうに、敢えてそれを無視した我が夫は、その人間離れした中性的な美貌を引き締めて、私の手に魔族の核なるものを握り込ませた。
「お前としては不本意だろうが、これを持っていろ。犯人と接触すれば、これは必ず反応する。そういうまじないを掛けた」
「反応、ですか。それはどのような?」
「実際に反応すれば解る」
男の台詞は明らかに言葉が足りないが、これ以上問いかけても答えてくれることは無いだろう。この男が『反応すれば解る』と言うのであれば、その通りであるに違いない。こちとら素人なのだからもう少しくらい説明してくれてもいいと思うのだが、まあここは目を瞑ることとしよう。
「…解りました。ちなみに、この核に巻き付いている糸は何なのですか?」
改めて、手の中の、魔族の核だとかいう物体を見つめる。禍々しい色をしているからこそなのか、物体に巻き付いている白銀の糸の美しさがより一層映えて見えた。ただの糸では無いことは確かだ。それに、なんだかこの糸に見覚えがある気がする。だが、それが何なのか思い出せない。むむ、と眉根を寄せる私に、男はあっさりとのたまった。
「姫の髪だ」
「…ッ!?」
なんですと。
一瞬遅れてやってきた理解に、核から顔を上げて男の顔を凝視する。姫様の、御髪、だと?
一体何がどうしてそうなったのか、全く以て理解不能である。姫様と、ランセントのおじ様もといお義父様に関することに対しては、人一倍反応を示してしまう自覚のある私としては、今のこの男の発言は決して聞き逃せない。どういうことかと視線で訴えると、私の反応は予想通りだったと言わんばかりに、男はひとつ溜息を吐いた。
「いくら核だけの存在となったとは言え、魔族は魔族だ。そんなものを四六時中持っていて、悪影響が無いとは限らない。その対抗策だ。女神の加護を受けている姫の髪には、それだけで聖性としての力が十分に宿っているからな。魔族の捕り物における媒介には、これ以上無い聖具だ」
「だ、だからと言って、そんな、姫様の御髪を頂くなんて…」
「安心しろ。俺から言うまでも無く、自分から快く提供してきたぞ」
「……それは、姫様には、改めて御礼を申し上げなくてはなりませんね」
こんな不吉なものを持っていることに対して抵抗が無いとは決して言えないが、姫様にまでご協力頂いたのならば、私が言えることなど何もない。大人しくこれを持ち歩くことがベストなのだと言えよう。
とは言え、『反応』とは。どのように反応するかも分からないせいか、やはりいまいちピンとこない。大体、男の言葉をそのまま鵜呑みにして噛み砕くと、つまりは、犯人と接触しない限り、この核は全くの無用の長物ということになるのではないか。
未だ掴めぬ犯人像は、どう足掻いても、いくらこの男が側に居てくれるとしても、どうしても私を不安にさせる。恐らくは魔法使いなのだろうという予想が立てられるくらいで、それ以上の情報は無く、誰が呪いを掛けたのか解らない中で、この核がどこまで役に立つのだろう。
「―――これは、仮説だが」
私の不安を汲み取ったのか、男はゆっくりと口を開いた。
「呪いを掛けた犯人は、恐らく、お前の近くに居る可能性が高い」
「え…?」
予想外の台詞にきょとりと目を瞬かせる。近くに居るとはどういうことなのだろう。そんな怪しい存在など、身の回りで見かけた覚えは無いのだが。
私の言葉にはしていない疑問に答えるように、男は淡々と続ける。
「姫は『花の種』のようなものだと称したが、それは正しい。普通の呪いであれば、その『花の種』の世話をするのは魔族になる。だが、今回は、魔族は『種』を蒔いただけで、それ以上のことはしていないようだ。ならば、『花』を育てているのは術者本人なのだろう」
解るような、解らないような。専門職、しかもその中でも最高峰の人材が言うのだから間違ってはいないに違いないが、それでも理解しきれないものが確かにある。
花を育てるにあたっての世話役が、通常であれば魔族であるところを、今回は術者本人であることは解った。だが、それでどうして“私の近くに居る”ということになると言うのか。
「お前の名前を起点にした呪いである可能性が高い、とは前に言ったな。実際にその通りだった訳だが、それは、犯人である術者が、お前自身を知っているということと同意義という訳では無い。何せ、これだけの呪いを創り上げた術者だ。お前を知っているのであれば、もっと用意周到な呪いが掛けられたはずだろう」
淡々とした声音はどこまでも冷静であるというのに、その朝焼け色の瞳は、確かに怒りの光を宿して輝いていた。怒りを押し殺すために表情が削ぎ落ちたかんばせは、男性とも女性ともつかない中性的な美しさを以て、見る者を圧倒するだろう。年を経る度にどんどん凄絶さを増していくその美貌は、衰えることを知らない。
美形は三日で飽きると言うが、やはりあれは嘘だなと内心で呟く。見慣れることはあるかもしれないが、飽きることはない。美しいとは、そういうことなのだろう。
…と、そんな余所事を考えている私に気付いているのかいないのか、男は更に言葉を重ねた。
「魔族が滅されてもなお続く呪いは、術者が直接お前に干渉していると考えられる。犯人が意識しているかどうかまでは解らないが、呪いが悪化していっていることから、そいつはお前に近しい位置に居ると考えるのが自然だ。呪いとて魔法の一種だからな。術者と距離が近ければ近い程、多かれ少なかれ、影響は受けると言える」
「はあ…」
そうですか、と頷くことしかできなかった。とにかく、要約すると、私の側に犯人が居て、その犯人と接触した際に、この核は反応を示すらしい、と、そういうことか。
此方側から攻めることができない現状はもどかしいものがあるが、それでも、右も左も解らないまま闇雲に魔導書をひとりで漁っていた時と比べれば大進歩である。やはり最初から相談すべきだったのだと後悔しても遅い。後で悔いるからこそ後悔なのだ。
核をお守り袋の中に戻し、口を結んで、首から下げて胸元からドレスの下に隠していると、ふと視線を感じた。ん?と首を擡げると、男はいつになく沈痛な面持ちで私を見つめていた。
「…頼りにならないと思うか、俺を」
予想外の台詞に、ぱちり、と目を瞬かせる。言うに事欠いて、何を言い出すのかこの男は。ついつい訝しげな視線をその美貌に向けると、男は苦く笑った。
「筆頭魔法使いと言われておきながら、妻の呪いひとつ解けないで、手をこまねいている様は、さぞ滑稽なことだろうな」
自嘲気味にそう吐き出す声音は、この男らしくもなく…それこそ、かつてのあの事件の時のように気弱なものだった。そんな男の額を、ぴんっと指先で弾く。朝焼け色の瞳が、驚いた様に見開かれた。言葉を失っている男を前にして、私は口から零れそうになった溜息を飲みこむ。全く、何を馬鹿なことを言っているのだ、この男は。
「何を仰るのですか。わたくしがこうして未だ悪夢に負けずにいられるのは、誰のおかげだと思っていらっしゃるのです?」
この男が、今、呪いを掛けられた当人である私以上に尽力してくれていることを知っている。誰よりも何よりも私を優先してくれていることを知っている。私のことを自分の事を放り出して心配し、誰よりも想っていてくれていることを知っている。
そんな男の温かな手が、私を現実に引き留めてくれているのだ。その様をどうして、滑稽などと呼べるだろう。もし文句があるのであれば、そいつには是非前に出てきて頂きたい。このことに関しての喧嘩であれば喜んで受けて立とう。
微笑みつつ男に身体を寄せると、男はくしゃりと顔を歪めて、その顔を隠すように私の肩に顔を埋めた。男の腕が、私の腰に回る。そのままぎゅうと抱き締められた。顔の真横にある男の黒髪に私は指を絡ませて梳く。
「…お前は、もっと俺を責めるべきだ」
ぼそぼそと呟かれた台詞に、つい微笑んでしまった。肩に触れる男の吐息がくすぐったい。
「あら。エディこそ、わたくしを責めるべきではありませんか?」
「何を責めろと言うんだ」
「黙っていて事態を悪化させたのはわたくしですもの」
「だがそれは気付かなかった俺の責任でもある」
「それくらい、この生活を楽しんでくれていたのでしょう? だから、お相子です」
生活感を感じさせないこの男が、私との生活をそれだけ楽しんでいてくれたのなら、これ以上のことは無い。私と居ることで安らいでいてくれたのなら、それはとても喜ばしいことだ。
だと言うのにこの男は、そんな私の気持ちにも気付かないで、顔を上げて、心底呆れたように言い放ってくださった。
「この、お人好しが」
失礼な。妻たる女に対してなかなかな言い草である。お人好しのつもりなど毛頭無い。私とて相手は選んでいるのだ。その、選ばれた中でも、いっとう特別なのが自分なのだという自覚は、この男には無いのだろうか。…無いのだろうな、とすぐに結論が出た。でなければ、こんな発言が出てくるはずがない。
のろのろと顔を上げて私を見つめる我が夫に、私はいつものように笑いかけた。
「頼りにしております、旦那様」
その言葉に一瞬目を見張り、やがて男は、ようやく口元に笑みを履いた。その不敵な笑みに、安堵する私がここにいる。自然と零れる笑みに、男もまた自然な笑みを浮かべて、私の頬のラインをなぞった。
「―――ああ。当然だ」
そうして自然に重ね合わせた唇は、不思議と甘かった。