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魔法使いの婚約者  作者: 中村朱里
おまけ
21/62

      (4)

夜毎続く悪夢について調べるため、国立図書館に通い始めて早数日。

―――――回りくどく言うのはやめて、結論から先に言おう。

悪夢の原因について、未だ何一つ…その解明の糸口すらも、掴めていないという事実を。


「…今日も空振り、ね」


誰にともなく小さく呟きながら、ぱたんと手の中の魔導書を閉じる。本日は精霊の力を借りて行使するという『霊魔法』についての魔導書を読んでみたのだが、それらしい記述は見当たらなかった。せいぜい、“夜精が眠りを運ぶとされている”と言われているらしいということが解ったくらいで、“夢”にまで言及されてはいなかった。

霊魔法により、夜精が眠りついでに悪夢を運んできているのだとしたら、横で寝ているあの男が気付かないとは思えない。圧倒的な魔力を持つあの男の存在に、精霊達は滅多なことでは逆らえない。かつて私とあの男を襲った炎獣すら、今ではあの男の足下に平伏すらしいのだから言葉も無い。

だとしたら他の『魔法』…己自身の魔力による『魔法』、神の力を借りる『光魔法』、魔族の力を借りる『闇魔法』のいずれかか。だがそれでも霊魔法の可能性を捨て切るには材料が足りない。


こうして、いざ目的を持って調べ始めてみて、初めて解ったことであるが、『魔法』というものは、まだまだ未解明な部分が大きいようだ。

今のこの世界に生きる魔法使い達が使う魔法など、『魔法』という大いなるモノの、ほんの一部分に過ぎないのだろうか。だからこそ、我が夫たるあの男も、飽きもせずに研究にのめり込んでいるのかもしれない。

天才と謳われるあの男ですらそうなのだから、幼い頃に少しばかり魔導書を読み囓り、今こうして再び魔導書と向き合っているだけの私の付け焼き刃では、太刀打ちできるはずがないのも当然だ。

元よりそう簡単に原因が解るとは思っていなかったが、こうも目隠しで手探りするような状態が続くと、流石に気が滅入ってくる。睡眠不足がそれを助長させてくれるのがなんとも憎たらしい。


気を抜けばこぼれ落ちそうになる溜息をなんとか飲み込んで、次の魔導書へと手を伸ばす。ここはひとつ、気分を変えて光魔法の魔導書などはどうだろうか。

神の力を借りた魔法故の悪夢だなんてあまり考えたくはない。なんだそれは。呪いか祟りか。自分が信仰深いとは思わないが、不信心という訳でもない。この国の一般的な国民らしく、守護神たる女神をそれなりに崇拝している。いや、ここで『それなり』とか言ってしまうのが駄目なんだろうか。いやいや、でもそれくらいだろう。魔王討伐の一件以来、女神信仰は以前以上に高まってはいるが、それでも……まあいい。

とにかく、万が一ということもありえるし、原因はなくとも改善法は載っているかもしれない。そうであることを願いつつ、テーブルに分厚い光魔法書を広げた、その時だった。


「―――――あら」


窓の外から聞こえてくる、美しく響き渡る鐘の音に、ページを捲ろうとしていた手を止める。この国立図書館を含めた王宮の一角にそびえ立つ時計台の鐘の音だ。からぁん、からぁん、と、魔王の影に民が怯えていた時も変わらず鳴り響いていたその音に、私は光魔法書を閉じて立ち上がった。

テーブルに積み上げておいた魔導書を元の位置に戻し、隣の席に置いておいたバスケットとドレスコート、それに日傘を抱え上げる。


今の鐘が示したのは正午の真昼時。すなわち、昼食を摂るべき時間である。


そう、本日の私は、ただ単に悪夢の原因を解明しにこの場所までやってきた訳ではない。れっきとした、胸を張って、声高々と言える理由があるのだ。


ほぼ毎日通っているために、いつしか顔見知りになった司書官に微笑を投げかけて、図書館から出て回廊に沿って歩き出す。途中擦れ違う衛兵は、あの男特製の魔宝玉のブレスレットを見せることで難無くかいくぐることができる。

貰った当初は、わざわざ私が王宮の内部に足を踏み入れることになろうなんて思ってもみず、使うことなど無いだろうと思っていたのだが、いざとなってみると意外や意外、予想以上に役に立ってくれるものである。何せこれがあれば、面倒な手続きをすっとばして目的地に行けるのだから。

結婚前、父の忘れ物を届けるために王宮にやってきたことは何度かあったが、その都度繰り返される厳重な手続きに辟易させられたものだ。それを思うと、実に便利なものをくれたものだと思う。私を呼び止める衛兵は、このブレスレットを確認した途端、最敬礼を取るのである。「そんなものがどうし…しっ失礼致しました!」という具合に。

私を人目に晒したくないとか思っているに違いないくせに、衛兵に最敬礼までさせるブレスレットをくれるとか、あの男は馬鹿なんじゃないだろうか。…まあ、そんなブレスレットを後生大事に肌身離さず身に付けて、あまつさえ有効活用までしている私も相当の馬鹿なのだろうけれど。


そんな私が向かうのは、もう言うまでもないだろうが、この国の魔法使いにとっての最高峰、黒蓮宮である。

歩みを進めるにつれ、人通りが少なくなっていくのを肌で感じつつ、腕の中のバスケットを見下ろした。その中身は、私が今朝作ったサンドイッチだ。誰のためのものか、とは今更だろう。

朝食と夕食は私と共に食べるため、しばらく気付かなかったのだが、とある協力者―――もとい、あの男の弟子であるウィドニコル少年の密告により、あの男が普段昼食を食べずに仕事をしていると知らされて以来、私はこうしてあの男の昼食を作るようになった。

できる限り手軽に食べられるものを考えて作っては、朝、あの男に持たせるようにしていたのだが、今日は寝過ごしてしまったためにそれができなかったのだ。寝過ごした理由は、まぁ、新婚にありがちな理由だとか例の悪夢の所為だとか色々あるのだが、とにもかくにも、私はこうして昼食を作って届けに来たという訳である。


どうだ、これこそ後ろ暗くも何ともない、立派な理由だろう。

たかが昼食と言うなかれ。この昼食はあの男の分ばかりでなく、ウィドニコル少年の分も含まれているのだ。救世界の英雄ふたり分の健康維持を担っているのだと思えば、その重要性が解るというものだろう。


あの男が私との婚姻を、ひいては私の存在を隠したがっていることは解っている。黒蓮宮は、こんな風に気軽にやってこれる場所でもない。けれどそれでも、今日はそれを許して欲しかった。これまでにも何度かこの宮を訪れたことはあるが、その中でも特に、今日ばかりは。


「…駄目だわ」


睡眠は人間の三大欲求のひとつだと言うが、それが損なわれただけでこんなにも心細くなるものだろうか。

『前』の『私』の常識から鑑みれば、夫の職場に妻が押しかけるなんてどうかしているとしか思えない。幸いなことに、この国において、その辺の事情に対する世間の目は甘いため、それに存分に私は甘えさせて貰っているのだけれども。


あの男の研究室は、黒蓮宮の中でも最奥に位置している。黒蓮宮の中を突っ切っていくのが正規ルートなのだが、それよりも、城の中庭から回り込んで、あの男の薬草園に出た方が早い。それに、そっちの方が人目に付かないで済むので都合が良いのだ。


ここで、持参した日傘の登場である。紫外線はお肌の大敵。例え短い距離であろうとも、決して油断してはならないのだ。

前世ほど化粧品の性能が発達している訳では無い今生においては、こういうマメな努力が物を言う。あの男の隣に立つには、せめてこれくらいの努力をせねばならないと思っている。


そして日傘を開き、柱の間から中庭に降りて、いつの間にやら通い慣れていた道無き道を行く。


歩くこと数分、やがて見えてきたのは、想定通りの見慣れた光景だ。

様々な草木が整然と生え揃う畑の中で、パチン、パチン、と、収穫作業に勤しむ少女の姿がある。顔見知りのその少女に、畑の外から私は声を掛けた。


「ごきげんよう、アーチェさん」

「えっ、あ、フィリミナ様!」


呼びかけにびくりと肩を震わせた少女の顔が、こちらを向いた。驚いたように紅茶色の瞳が見開かれる。ひらひらと手を振ると、彼女はぱたぱたとこちらに駆け寄ってきた。


一本の三つ編みに纏められた髪が揺れるのが、まるで子犬の尾のようで、その微笑ましさに思わず頬が緩む。

なんとも物好きなことに、あの男の庭師などという、とんでもないものを引き受けてくれている勇敢なる少女、アーチェ・マシー嬢は、私の目の前まで来ると、被っていた帽子を取って、ぺこりと頭を下げてきた。


一見して、普通の可愛い女の子であるこの少女。だが、あの仕事に関して妥協を許さない男が、自らの薬草園に立ち入ることを許しただけあって、大層有能であるらしい。

実際、あの男が自ら、たった一人で管理していた時よりも、薬草や香草の質や収穫量は向上しているのだそうだ。

滅多に人を褒めないあの男が、珍しく「悪くない腕だ」と口にしたことを、今でも覚えている。


また、私自身、有り難くも彼女の恩恵に非常に預かっている。

アーチェ嬢があの男の庭師に着任して以来、あの男特製ブレンドの香草茶の種類が増えたのがひとつ。以前、若い女性達の間で流行し、今もなお人気のあるデリアの実をお裾分けして貰い、美味しく頂いたのもまたひとつ。香草としても花としても価値のある早咲きの白花を、あの男を介して目にすることができたのも、またひとつ。


そんな彼女との出会いは、この城の中庭にある湖のほとりで、だった。

今日通ってきた道と同じ道を歩いている途中、湖畔で座り込んでいるこの少女を見つけた。気分でも悪いのかと問えば、返ってきたのは盛大な泣き声。何事かと思った。まるでこちらが虐めたような気になってしまった。

泣き続ける年頃の少女を捨て置けるほど私は非情にはなれず、その横に座って泣き止むのを待つことしかできなかった。何故泣いているのか解らないのでは下手な慰めなどできるはずもなく、私にできた数少ないことと言えば、日々の暇つぶしに刺繍を入れたハンカチを渡して、泣き止むまで寄り添っていることくらいだった。

まさかその少女が、あの男の庭師だったとは。腕の良い庭師を雇ったとは聞いていたが、まさかこんな年若い少女であるとは誰が想像したというのか。


救世界の英雄であるとは言え、“黒持ち”である事実は変わらないあの男の元で、働き続けてくれた少女。彼女が何を思いあの男に仕え続けてきたのか―――なんとなく、想像がついた。

あの時、あの男に彼女が向けた、その熱を孕んだ視線の意味に気付けないほど、鈍くは無いつもりだった。

だからつい、名乗ってしまったのだ。すなわち、フィリミナ・ヴィア・アディナ、ではなく、フィリミナ・フォン・ランセントと。私は、あの男の妻なのであると。


私の存在を隠したがっているあの男の前で自らぶっちゃけるとは、我ながら失敗であったと思うが、その後特にあの男から苦言を呈されることもなかったので、間違った態度ではなかったのだと、そう思いたい。

精神年齢を考えれば、我が子と言っても過言ではない娘さんに対して嫉妬心を抱き、牽制までするなど、我ながら大人げないにも程がある。そんなことは解っている。

けれど、言い訳を許して貰えるのならば言わせてほしい。あの男に本気の気持ちを寄せる存在を許容していられるほど、私は私に自信が無いのだ。未だ公にされないこの身の上、あの男が私を切り捨てると言うのなら、今が好機なのだから。

いくら中性的な容貌で、見方によっては美女にも見えるような容貌のあの男でも、『男』なのである。私よりも若くてかわいい女の子に走っても不思議ではないではないか。


そんなことは起こりえないと思いたいのに、どうしてだろう。いつまで経っても拭い去れない不安が、この胸にある。

こんな風に感じるようになったのはいつからだっただろう。最初はこうでは無かったはずだ。

それなのに、何故―――…


「…フィリミナ様? どうなさったんですか?」

「あ、ああ、ごめんなさい。少しぼーっとしてしまいましたの」


心配の色を宿してこちらを覗き込んでくる紅茶色の瞳に、何やら申し訳なくなる。いい子だ。いい子なのだ。何度かこの薬草園に足を運んで会話を交わす内に親しくなった少女は、本当に心優しいいい子で、だからこそ余計に、初対面の時の私の行動に罪悪感が湧く。

想い人の妻だなんて、彼女にとっては目の上のたんこぶどころでは済まされないような存在だろうに。にも関わらず、アーチェ嬢はいつも快く私の相手をしてくれる。ああ、そのかわいい笑顔が眩しい。自分が如何に狭量な存在か思い知らされる。

大丈夫なのかと言いたげにこちらを見つめてくる彼女に、誤魔化すように笑いかける。こういう時、父譲りの仮面スマイルは便利だ。その名の如く、内心を綺麗に覆い隠してくれる。


「ふふ、ご苦労様。もうお昼ですのに、精が出ますね」

「ええっ!? やだ、もうそんな時間ですか?」

「つい先程、鐘が鳴っていましたよ」

「気付きませんでした…」


そういえばお腹が空きました、と、お腹に手を遣るアーチェ嬢の仕草がこれまたかわいくて、今度こそ自然に笑みが零れた。


「いつもありがとうございます。これ、よろしければどうぞ」


バスケットの中から、ラッピングペーパーに包んで持ってきた焼き菓子を取りだして、アーチェ嬢の軍手を付けた手の上に乗せる。ぱちくりと、その紅茶色の瞳を瞬かせて、私の顔を見つめてくる彼女に、にっこりと笑いかける。


「いつも頑張ってくださるアーチェさんにご褒美です。休憩の時にでも食べてくださいな」

「あっありがとうございます! うわぁ、嬉しいです」


アーチェ嬢は、にこにこと笑って、大切そうに包みを見つめる。ちなみに、その中身は、昨日私が焼いたクッキーである。昨夜、例によって例の如く夜遅くに帰ってきたあの男とお茶をした際にも出したものだが、あの男が何も言わなかったのだから、味に問題は無いはずだ。

アーチェ嬢には、ここに来るたびに、何かしら差し入れをするようにしている。せめてもの罪滅ぼしです、とは言えないが、とりあえず毎回喜んでくれているので良しとする。


「アーチェさん、エディは今日はもうこちらに来ましたか?」


朝早くに仕事に取りかかるアーチェ嬢に合わせて、あの男も朝早くに出勤することが多い。アーチェ嬢が採取した薬草や香草を、新鮮な内に保存するためであるらしいのだが、今日は珍しくも遅い出勤だった。

昨夜の、所謂夫婦の営みと、例の悪夢のため、早起きできなかった私を気遣って、朝食をわざわざ作ってくれたのである。

私とて前世の経験値が上乗せされ、その辺の侍女達よりは高い家事能力を持っているつもりなのだが、あの男はそれすら軽く凌ぐ。本当に、何事も器用にこなしてくれやがる男である。これで愛想とコミュニケーション能力さえあれば完璧なのだが…いや、やめよう。笑顔が眩しい社交的なあの男なんて薄気味悪いだけだ。人間誰しも、何かしら欠点があるほうが好ましいということだろう。うむ。


ひとり内心で頷いて、アーチェ嬢を見遣ると、何やら彼女はきょどきょどと瞳を彷徨わせ、ちらり、と、あの男の研究室の方を窺った。


「あの、フィリミナ様、それが今日は…」

「わぁ、こちらがエギエディルズ様の薬草園ですのね!」


アーチェ嬢の台詞に被さってきた、まるで小鳥の囀りのように可愛らしい声音。アーチェ嬢と一緒になってその声の出所を見遣った私は、思わず息を呑む。


誰もが認めるに違いない美少女が、そこに居た。


年の頃は十五、六だろうか。少女から女性へと変化しようとしている絶妙な頃合いだと窺い知れるその顔立ちは、つい目を奪われるほど可愛らしい。姫様を白百合とするのであれば、この美少女は菫だろう。

さらりと風になびく真っ直ぐな髪は、日の光で微妙に色が変化する赤みがかった金髪。あれがおそらく、ストロベリーブロンドという奴か。初めて見た髪の色だが、その何とも言い難い品のある色合いは、彼女の可憐な顔立ちに一層の彩りを加えている。

髪と同色の長く濃い睫毛に縁取られた大きな瞳は、深紫色で、まるできらきらと光を受けて輝くアメシストのようだ。


突然現れた、まるで花の精のような美少女の存在に固まっていると、美少女の瞳がこちらへと向けられた。そのあまりにも真っ直ぐな視線に、更に動けなくなる。美少女はにこりと笑った。可愛らしい、というただの一言で表現するには、あまりにも勿体ないような、そんな笑みを浮かべる美少女に、言葉すら私は失った。

美形に関しては、あの男を筆頭として、慣れているつもりだった。勇者である青年然り、姫様然り、騎士団長然り。

けれど、この美少女は、私の知る彼らとはまた違った美貌を誇っていた。突き詰めて言ってしまえば、あの男や姫様の方が美しく、その差は歴然としたものなのだろうが、この美少女は、美しい、というよりも、可愛らしい、という方が相応しい容貌をしているため、一概に優劣を付けるのも躊躇われる。


動けなくなったのはその花の精のような容貌の所為だろうか。頭の何処かで妙に冷静に思いながら沈黙を保ち続ける私をどう思ったのか、美少女の口がゆっくりと開く。


この場に新たな人物が参入したのは、ちょうどその時だった。


「お待ちください、勝手に入られては………フィリミナ?」

「…エディ」


ほ、と。安堵の息を吐いてしまったのは、無意識だったと言える。

私の名を呼んだのは、耳に馴染んだ美声。そちらに目を遣れば、黒蓮宮に勤める魔法使いの証である黒のローブを身に纏った、朝送り出した時と変わらない、見慣れた美貌がそこにある。

知らず知らずの内に強張っていた肩の力が抜けていく。差していた日傘を閉じて、夫である男の元へと近付いていく。


「ごきげんよう、エ…」

「何故お前がここに居る?」

「え?」


苦々しげに眇められた朝焼け色の瞳に、私は再び硬直する羽目になった。聞き間違いかとも思ったが、男の表情が、先程の台詞が男の本音であることを否が応にも私に教えてくれる。

公にこそしていないものの、一応私は結婚式も済ませた男の妻であるはずで、今までにもこうしてここに何度も訪れてきたのだから、今更そんな顔をされる謂われは無いはずなのだが。おいこら、これはどういうことだ。

足を止めて男を見つめるが、視線が交わったのはほんの僅かな間に過ぎず、すぐに逸らされる。そして、私から逸らされた朝焼け色の瞳は、アーチェ嬢へと向けられた。


「アーチェ、今日の分は採取できたか」

「はっはいっ!」

「なら今日はもういい。ご苦労だったな。下がれ」

「わ、かりましたっ。失礼します…っ!」


普段よりも男の声が低いことにアーチェ嬢も気付いたのだろう。ぺこりと勢いよく頭を下げるが早いか、彼女はその勢いのままこの場を走り去っていった。

残されたのは、私と、夫であるはずの男と、初対面である美少女である。


「酷いわ、エギエディルズ様。私、あの方ともお話してみたかったのに」

「貴女が気にかけるような者ではありません。それより、早く室内へお戻りください。いくらここが城内であるとは言え、何が起こるか解りませんから」

「あら、もし何か起こっても、エギエディルズ様が守ってくださるんでしょう?」

「それは、そうですが」

「ね? だったら、心配なんて不要だわ」


男の、いつにない態度と行動に、美少女の登場の時以上に固まるしかない私をスルーして、美少女と男は並んで会話を繰り広げている。

夜の妖精のような絶世の美貌を誇る男と、花の精のような美少女の組み合わせ。こんなことを言っている場合ではないのかもしれないが、実に絵になるものだ。正直言って眼福である。


こうなると、男が「何故ここに居る」と言った通り、私の方が場違いな気がしてくるのだから不思議なものだ。いや、本当にこれは居たたまれない。


ううむ、これはどうしたものか。いっそ何も言わずに去ってしまいたいのだが、それはできない。

何せ、あの男が敬語を使うような相手である。魔法使いという存在は、身分から解放された者だとは言われているが、実際にそれができるのは、ほんの一握りの魔法使いだけだ。

その、ほんの一握りの存在の中でも更に選び抜かれた存在であるはずのこの男が、敬語、である。慇懃無礼な敬語の名残がどことなく見えるものの、それでも普段と比べれば随分と丁寧な対応だ。


この男にそんな対応をさせる、この美少女は一体何者なのだろう。

気付けば腕から滑り落ちそうになっていたバスケットを抱え直しながら、ふたりの様子をただただ傍観していると、美少女の顔がふとこちらを向いた。煌めくアメシストの瞳に、間抜け面をした私の顔が映り込む。


「ごきげんよう。あなた、お名前は?」


その容貌にぴったりの可愛らしい声音で問いかけられ、私は慌てて、軽く膝を折り目上の者に対する礼を取った。彼女の身分が正確には分からないため、とりあえずの措置だった。


「お初に御目文字仕ります。わたくしは、フィリミナ…」

「彼女は、フィリミナ・ヴィア・アディナ。魔導書司官のアディナ家と言えば、貴女もご存じでしょう」


私の言葉をかき消すように、男は言った。その台詞の内容の所為で、言葉に詰まって口ごもる私を余所に、美少女が両手を胸の前でぽん、と打ち鳴らす。

こくこくと何度も頷いて、彼女は私をまじまじと見つめてきた。やはり真っ直ぐなその視線は、その可愛らしい顔立ちも相まって、妙に迫力がある。美形の視線には散々慣らされてきたつもりだったが、こうして新たなタイプの美形の視線に晒されると、やはり居たたまれなくなるというか何というか。

曖昧に笑ってなんとか受け流す私に、美少女はその可愛らしい顔をほころばせた。彼女の若さ故だろうか、私に向けられる煌めく瞳はやはり眩しくて、ついつい怯みそうになる。


「まあ、アディナ家の! 噂には聞き及んでいますわ。陛下の覚えもめでたくていらっしゃるのだとか」

「いえ、そのようなことは…」

「ふふ、謙虚でいらっしゃるのね。自己紹介が遅れましたわ。私はルーナメリィ・エル・バレンティーヌと申します。以後お見知りおきくださいませ」

「…!」


その瞬間、息を呑んだ私を、一体誰が責められると言うのか。ちょっと待ってほしい。“バレンティーヌ”だと?

またしても固まる私の前で、美少女は、男の隣で花が咲くように笑っている。ああやはり絵になるなぁ…って、現実逃避している場合ではない。


私は慌てて、先程よりも更に深く礼を取った。手にバスケットを持っていなければ、もっと正式な、ドレスの裾を持ち上げる礼の取り方ができたのであるが、生憎両手がふさがっている今ではそれはできない。だから代わりに、より深く膝を折り、美少女の顔を直視しないように頭を下げる。


「バレンティーヌ公のご息女でいらっしゃったのですか。申し訳ありません。非礼をお詫び致します」


バレンティーヌ家。それは、この国において、指折りの権力を持つ大貴族を示す姓だ。そんじょそこらの貴族とは訳が違う。先程この美少女は、私の実家であるアディナ家を『陛下の覚えもめでたい』と表してくれたが、バレンティーヌ家のそれは、アディナ家のそれを軽く凌駕する。私はあまりまつりごとに詳しくないが、バレンティーヌ家がどれだけこの国の中枢に食い込んでいるかくらいは解るつもりだ。

先程浮かべた苦々しげな表情を打ち消して、今は無表情を保ち続けようとしている目の前の男が、彼女に対して敬語を使っている理由も、これで納得できる。

いくらこの男が、王宮筆頭魔法使いであり、救世界の英雄であり、身分も立場も基本的に気にしない男であろうとも、『あの』バレンティーヌ家に対して、あからさまにすげない態度を取るわけには流石にいかないだろう。


そんなバレンティーヌ家のご令嬢が何故ここに居るのか。

……確信は持てないが、おそらくは、と言った程度までは、想像できてしまう自分が、ここに居た。何故男が私に対して苦々しい表情を浮かべたのかも、これまたおそらくは解ってしまった。なるほど、なるほど。つまりはそういうことか。

頭を下げたまま、内心で頷いていると、頭上から、困ったような声が降ってくる。


「そんな、かしこまらないでくださいまし。どうかお顔を上げて? 私、堅苦しいのは苦手ですの。どうぞルナとお呼びくださいな」

「ですが」

「私がいいと言っているのです。遠慮なんて無用ですわ」

「…はい」


それ以上反論することなど到底できる訳もなく、そろそろと顔を上げると、ルーナメリィ嬢は無邪気に笑っていた。

つくづく、そのままお持ち帰りしたくなってしまうような可愛さである。男と同じく、いっとう上等なお人形のようだ。けれど生気に輝く瞳が、彼女が確かに生きた人間であることを立証している。


「アディナ家のご出身ということは、エギエディルズ様とはそのご関係で?」

「はい。父同士に親交がありまして、わたくし達は所謂幼なじみなのです」

「まあ、なんて羨ましい!」


男を見上げて、くすくすとルーナメリィ嬢は鈴を転がすように笑う。私を含めた世の中の一般人がその笑みを見れば、思わずつられて笑ってしまいそうな笑顔。

にもかかわらず、男は変わらず無表情…いや、正確には、無表情に見せかけた不機嫌な顔だ。ルーナメリィ嬢の笑顔は、誰しもが、大なり小なり心が浮き立ちそうなものなのだが、我が夫の心は欠片も浮き立ってはいないらしい。妻たる私が言うのも難ではあるが、その目は節穴なのかと疑いたくなる。


「エギエディルズ様の小さい頃だなんて、さぞ可愛かったことでしょうに。ねえフィリミナ様、エギエディルズ様は、どのようなご様子だったのですか?」

「…そう、ですね……」


花咲く笑顔で問いかけられたが、私はすぐに答えることはできなかった。どのような、と言われても。

まあ確かに、小さい頃のこの男は可愛かったし、子供には不釣り合いな表現かも知れないが、大層美しい子供だった。

出会った当初は、やせぎすで、振り払いきれない悲壮感を纏っていたが、その憂えた雰囲気すらも美しさに一役買っていた。時が経つにつれて年頃の子供らしくふっくらと身体ができあがると、それはそれは見目麗しい、前にも述べた通りのエンジェルでフェアリーに更に進化を遂げた。

だがその中身は、男の養父であり、今は私の義父でもあらせられるランセントのおじ様相手以外は、誰も、何も、信用も信頼もしようとしない、人に懐かない獣だった。

そんなこの男が、当時、何故私と大人しく読書に勤しんでくれていたのか、正直なところ未だに疑問である。…と、それは置いておいて。


期待に深紫色の瞳をきらきらさせながらこちらを見つめてくるルーナメリィ嬢に、そんなこの男の幼少期をはたしてどう説明したものかと頭を悩ませていると、それまで口を挟んでこなかった男が、一瞬私へと目を向けた。その視線の意味を訳せば、余計なことを言うな、と言ったところか。

男のその視線に、開こうとしていた口を噤む私の代わりのように、男は、その薄く形の良い口を開いた。


「ルーナメリィ嬢。それ以上はご容赦ください」

「あら、照れていらっしゃるのですか? そもそも、エギエディルズ様。私のことはルナとお呼びくださいと、先程も言ったではありませんか」


むう、と頬を膨らませて男を見上げて抗議する美少女の姿は、笑顔とはまた違った魅力がある。どんな顔をしても可愛いものは可愛いものなのだと改めて思い知らされる。美少女を見下ろす朝焼け色の瞳が、すう、と細められた。

私にとっては慣れた男の仕草だが、他の者にとっては恐ろしいものでしかないその仕草。本人に睨んでいる気が有るにしろ無いにしろ、迫力が倍増することには代わりがないその視線を前にしても、ルーナメリィ嬢はめげなかった。うわ美少女つよい。


「私のことをルナと呼んでくださるのなら、先程のフィリミナ様への問いかけは、なかったことにしてあげます」

「―――――ルナ様。これでいいでしょうか」

「はい、エギエディルズ様。次は『様』も無しで呼んでくださいね」

「…検討しておきます」

「もう、エギエディルズ様の意地悪」


嬉しそうに微笑むルーナメリィ嬢に、男は小さく溜息を吐いた。その様子に、自分でも驚く程衝撃を受けている私に、朝焼け色の瞳が改めて向けられる。

何かを言おうとしても、それは言葉にならなかった。は、と唇が僅かに戦慄くのを感じる。何を言おうとしていたのだろう。何を言えば正解なのだろう。考えても正解は見つからず、結果として沈黙するしかない。その私の代わりのように、男は淡々と言葉を紡いだ。


「フィリミナ。それでお前は、何をしに来たんだ?」


用事がなければ来てはいけないのかと言いたくなった。いやまあ確かに、職場に用もなく妻が押しかけるなんて非常識にも程があるが。

ぎゅ、と、腕の中のバスケットを抱きしめる。ここでこれを渡すことなど、しようと思えば簡単なことのはずだ。『昼食を持ってきただけです』。その一言で話は済む。けれど、今のこの男は、それを望まないだろう。それが解る。解ってしまう。

だから私は、バスケットを差し出す代わりに、本日二度目の仮面スマイルを顔に貼り付ける。全く、父は本当に、便利なものを私に教えてくれたものだ。ついでにその存在を、この場の言い訳に使わせてもらおう。


「父に届け物をするついでに、そのお顔を見ていきたくなっただけです。けれど申し訳ありません。お邪魔をしてしまいましたね」

「そ、そんなことっ!」


ぽっとルーナメリィ嬢の頬が薄紅に色付く。ああ、可愛いなぁ。私が決して持ち得ない可愛さだ。

この男や、姫様のような、人間離れした美しさとは違う。確かに人が、人であるからこそ持ちうるその可愛さは、誰もに愛されるに違いない。可愛いは正義だ。『前』の『私』がよく言っていた台詞を思い出して、思わず小さく笑う。

きょとりと深紫色の瞳が瞬いて、朝焼け色の瞳が訝しげに細められた。


「おい、フィリ…」

「では、わたくしはこれにてこの場を辞させて頂きたく存じます。ごきげんよう」


どうぞごゆっくり、とは不敬になりそうなので言わなかったが、心境としてはそんな感じであった。

この場を去るその前に、もう一度深く礼を取る。そしてバスケットを抱え直して、日傘を開き、元来た道を戻るために踵を返した。


私を呼び止める声は、聞こえてはこなかった。


それを良いことに、薬草園を抜け出して、行きと同じく、中庭の道無き道を歩いていく。

腕の中のバスケットが妙に重く感じる。行きにはそんなことはちっとも感じていなかったのに、不思議なものだ。

さて、この行き場を無くした昼食のサンドイッチ。はたしてどうしたものだろう。先程言い訳にした通り、父への差し入れにしてもいいかもしれないが、そこで「何かあったのか」だとか「たまにはこちらの家にも顔を出しなさい」だとか言われるのも面倒だ。うっかり最近の図書館通いについて口を滑らせてしまうかもしれないし、やはり父の元へ行く案は却下だろう。だとしたら。


「…食べてしまおうかしら」


もう、その手しか無い気がした。例えこのサンドイッチが、一人分の量ではなかったとしても、そんなものは些細な問題…とは言い切れないが、しかし、夜にあの男が帰ってくるまでになんとか食べ切らなくては。

これをそのまま夜までとっておいて夕食にするのは気が引けるし、そもそもサンドイッチは夕食に相応しい食べ物ではない。

食べ過ぎもまた紫外線と同様に美容の大敵であるが、なんだか今日は食べたい気分だった。そんな気分にさせられた。決してやけ食いではないとも。ええ、決して。


そして私は、中庭に点在するひとつの東屋へと足を踏み入れた。ベンチに腰を下ろして、テーブルの上にバスケットを下ろす。

勝手に城内の東屋に陣取って昼食を摂るなど、本来であれば厳重注意物なのだろうが、この広い中庭で、人目を敢えて避けるように選んだ東屋が、他人に見つかることなどまず無いと言っていい。ばれなければ問題など無いのだ。


バスケットからサンドイッチを取り出して、口に運ぶ。香草で燻し焼きにした肉の風味と、新鮮な野菜のシャキシャキとした食感に、無意識に目を細めた。

ただ単にパンに挟んだだけだと言うのに、こんなにも美味しく感じるのだから、最初にサンドイッチを作った人は天才だと思う。一人分にしては多すぎる量がバスケットには詰まっているが、これならぺろりといけそうだ。


そのままもぐもぐと租借しながら思い返すのは、当然、先程の一件である。


ルーナメリィ・エル・バレンティーヌ嬢。思い出すだに、可愛らしい御方であった。

あの言動を見るに、彼女はおそらく、あの男に恋心を抱いているのだろうことは、想像に難くない。最後に彼女が見せた、頬を染めると言う可憐な反応がその証のようなものだ。その彼女の前で、あの男が私にランセントと名乗らせなかったのは―――おそらくはまた、私を守るため、なのだろう。


何が、『私を守るため』なのかと、他人には言われることだろう。何を勘違いしているのかと失笑されてもおかしくない。が、これは自惚れではないのだ。


あの対応で守られていると感じるような娘さんなどそうそういないに違いない。

私がそう思えるのは、付き合いの長さ故に、あの男の感情の機微に、他者よりも多少聡くあれるからにすぎない。でなければ、「実家に帰らせて頂きます」という書き置きを現在の我が家であるランセント邸別宅に残して、本当にアディナ家に帰ってやるところだ。


大貴族の中の大貴族と名高い、今日のような偶然でもなければ、私とは縁遠い存在に違いなかったバレンティーヌ家のご令嬢のお相手として、あの男に不足は無い。むしろ優良物件だ。救世界の英雄となったあの男を得たいと、バレンティーヌ家が動いても不思議ではないのである。

そのために、既にあの男の妻である私という存在は、邪魔なものでしかない。何かしらの圧力がかかってくる可能性がある。魔導書司官という特異な職を代々勤めてあげてきたアディナ家出身であろうとも、バレンティーヌ家相手では大した意味を成さない。


だからこそあの男は、私をランセント家の者ではなく、アディナ家の者として紹介したのだろう。自身とはただの幼馴染すぎないのだと言う意図を込めて。それを私がどう思うかなんて、思い付きもしないままに。

全く、本当に仕方の無い人である。再び馬鹿な人という称号を貼り付けたくなってしまう。

精神年齢○歳を舐めるなよ。あの男が思うほど、私は弱くはない。


しかし、それでもやはり、思ってしまうことがある。

本当ならば、バレンティーヌ嬢のような存在こそが、あの男に相応しいのではないかと。


ああ、言っておくが、あの男に同じく恋していたと見られるアーチェ・マシー嬢のことを軽んじる訳では決して無い。

あの子の恋心は、私が嫉妬せずにはいられないくらいに綺麗なもののように見えて、だからこそ初対面であんな態度を取ってしまったのだから。あれは正式に婚姻を結んだばかりの時期だった。その事実に浮かれていた自覚がある。だからだろうか、私は不思議と強気でいられた。


けれど、時が経過するにつれて、少しずつその強気は削り取られていく。愛されているはずだ。あの男の、結婚してから驚かずにはいられない程に増えたスキンシップで、恥ずかしくなるくらいに思い知らされている。それなのに。

これはあれか、この間も思ったが、やはり倖せすぎて怖いというやつなのだろうか。いいや、それとはまた違う気がする。これはそんなふわふわとしたものではなく、もっとどろどろとした、暗く澱んだものだ。

アーチェ嬢と話していた時にも感じた不安がまた蘇り、じわじわと心を侵食していく。おかしい、弱くはない、と思ったばかりだというのに、こんな風に感じるなんて。どうしてこんなにも不安なのか。


気付けば、サンドイッチを食べる手と口は止まっていた。くらりと眩暈がする。誰かの、泣き声が聞こえる。視界に靄がかかっていくようで、まともに座っていられない。


なんとか食べかけのサンドイッチをバスケットに戻し、ベンチの背凭れに身体を預ける。耳鳴りのように泣き声が聞こえる。それは何故だか聞き覚えのあるもののようで、私を更に戸惑わせる。

急激に眠気が襲ってくる。嫌だ。ここで眠ってしまったら、またあの悪夢を見るに違いない。確信を持ってそう言い切れる。止まない泣き声は、煩いはずだというのに、私を夢の世界へと導こうとする。

眠気に必死に抗う私を嘲笑うかのように、次第に瞼が落ちてくる。


ああ、もう駄目だ。そう思った瞬間だった。



「シュゼット?」



その呼びかけに、ぱちり、と瞳を瞬いた。泣き声が遠退いていく。ぱちり、ぱちり。もう二度ほど瞬くと、眠気もまた遠退いていった。シュゼット、とは私の名前ではない。けれど、私のことをシュゼットと呼ぶ、その人物を、私は知っている。


「―――――セルヴェス様?」

「こんなところで何をしている?」


見開いた目の視線の先で、セルヴェス・シン・ローネイン青年が、その紺碧の瞳で私を見つめていた。貴公子然とした端正な面立ちは、訝しげに顰められている。

こんなところ、とは、この東屋のことで、何をしている、とは、私の行動を指す。は、と現状を思い出し、わたわたと私はテーブルの上に置いたバスケットを自分の後ろに隠した。


「いえ、その…」


これは、どう誤魔化したものか。射抜くようにこちらを見つめてくる海の色の瞳は、しっかりばっちりがっちりと、私が隠したバスケットをロックオンしていた。冷や汗がつう、と背筋を伝う。

セルヴェス青年こそ、こんなところで何をしているのかと言う話だが、そういえばここは黒蓮宮の近くなのだ。セルヴェス青年が着ている黒のローブが示す通り、彼もまたあの男と同じく黒蓮宮に勤める魔法使いのひとり。昼休みにここに休みに来たのだとしても何の不思議もない。こうなると、そんな彼と出くわしてしまった、自分の不運を憎むしかない。

口ごもる私に対し、セルヴェス青年は顔を顰めさせたまま、私の後ろに回り込んだ。


「あっ」


という間だった。私が止めるよりも先に、セルヴェス青年は、私が後ろに隠したバスケットを持ち上げて、中を覗き込んでいる。


「これは?」


端的ながらも、言い逃れなど許さないとでも言いたげな力有る言葉に、私は苦笑するしかない。ああもう、この青年のこういうところは本当に、あの男によく似ている。逆らえないのは、その所為なのだろうか。


「…わたくしが、昼食にと作ったものです」

「君が?」


私の答えに、セルヴェス青年が意外そうに瞳を瞬かせた、ちょうどその時だった。ぐうう、と、低い呻り声が、セルヴェス青年のお腹から聞こえてきたのは。

しばしの沈黙の後、セルヴェス青年の白い顔が、見る見るうちに朱に染まっていく。呆気にとられていた私は、徐々に込み上げてくる笑いに、思わず口を押えた。けれど、その笑いは、手で押えるだけでは到底止めきれず、ぷっと指の隙間から噴き出してしまう。そうなってしまえば、もう笑いをこらえる意味など無い。


「っ笑うな…!」

「も、申し訳、ございません…!」


そうは言われても、一度噴き出してしまった笑いは、もう元には戻らないのだ。くすくすと飽きることなく笑い続ける私を、セルヴェス青年はぎろりと睨みつけてくる。が、そんな、羞恥に赤く染まった顔では、迫力も何もあったものではない。

いやいや、そんなに恥ずかしがらずとも、お腹がすくのは健康な証拠、大いに結構ではないか…とは流石に口に出せるはずもなく、目尻に浮かんだ涙を拭いながら、バスケットをテーブルの上に戻しているセルヴェス青年に問いかける。


「笑ってしまったお詫びにはなりませんが。よろしければ、ご一緒にいかがです?」


私の発言は、彼にとっては相当想定外であったらしく、紺碧の瞳が大きく見開かれた。


「……いいのか?」


バスケットと私の顔を見比べて、こちらの反応を窺うように発せられた声は、彼らしくもなく戸惑ったような声音だった。それは先日、彼の顔色の悪さを案じた私の発言に対して返事をした時の声音と、よく似ていた。

そんな彼に頷きを返して、彼が座りやすいように、私はベンチの真ん中に座っていたところを、右寄りに移動する。


「はい。元々一人分ではありませんから」

「いや、僕は…」

「正直、食べきれるか自信が無いのです。セルヴェス様のお口に合うかは解りませんが、もしご一緒してくださるのであればとても助かります」


逡巡し、断ろうとするセルヴェス青年に、畳み掛ける様に言葉を重ねる。駄目押しににっこりと微笑むと、ばつが悪そうにセルヴェス青年の顔が歪んだ。

いくらひとりでぺろりといけそうだとしても、実際にそれをやったら夕飯が食べられなくなることはまず間違いがない。夕飯はあの男と摂ることにしている身の上、それは非常によろしくない。加えて、やはり体型維持の観点からしても、よろしくないのである。

ここでセルヴェス青年と出会えたのも何かの縁だ。見たところ、彼は手ぶらで食事を持っている様子も無いことであるし、ちょうどいい。逃がしてたまるものか。


そんな私の意図を知ってか知らずか、セルヴェス青年は無言で、疲れたように私の隣に腰を下ろした。

サンドイッチをバスケットから取り出して差し出すと、彼は驚くほど丁寧にサンドイッチを受け取ってくれた。そのまま口に運ぶかと思いきや、何やらじっとサンドイッチを見つめているセルヴェス青年に、私は思わず口を開いた。


「味は保障できかねますが、とりあえず、毒は入っていませんよ?」

「…馬鹿か、君は。誰がそんなことを言った」


私の台詞に、セルヴェス青年はむっとしたように私を睨んだ。馬鹿かとは失礼な。ただあまりにも恐る恐るの様子だったから、毒物などではないと言っただけだというのに。ついあの男に対するものと同じノリで言ってしまったが、失言だったということか。

私の困ったような視線に気付いたらしく、セルヴェス青年は、意を決したように、サンドイッチに大きくかぶりついた。もぐもぐと咀嚼し、やがてごくりと飲み込むと、彼はぽつりと呟いた。


「………美味いな」

「ありがとうございます」


飾り気も何もあったものではない台詞だったが、それは何よりの褒め言葉だった。嬉しいことを言ってくれるものである。これがあの男であれば、ひたすら無言のまま食べ続けるだけなのだから。何も言わないと言うことは、口に合っているということなのだと解っているが、それでもたまにはこうして「おいしい」の一言が欲しいものだ。

ついつい嬉しくなって、セルヴェス青年の前にずずいとバスケットを押し出す。嬉しいことを言ってくれる子には、おばさんはサービスしたくなってしまう。


「お好きなだけ食べてくださいませ。まだたくさんありますから」


そう言って、先程バスケットの中に戻した食べかけのサンドイッチを取り出して、私も口に運ぶ。ふむ、やはり美味い。

セルヴェス青年に声を掛けられる寸前まで感じていた眠気や不安は、今は払拭されていた。あれは何だったのだろう。夜毎見る悪夢が、とうとう昼間にまでやってきたか。だとしたら事態は深刻だ。何とかしようと図書館通いをしているというのに、好転するどころか悪化しているとは笑えない。

ともすれば溜息となって吐き出されそうになる息を、サンドイッチと一緒に飲みこむ。横目でちらりとセルヴェス青年を見遣ると、彼は黙々とサンドイッチを食べ続け、気が付けば既に二つ目に突入していた。余程お気に召したらしい。

なんだか嬉しくなって笑みを零す私に、彼はサンドイッチから目を離さないまま、口火を切った。


「シュゼット」

「はい」

「君は貴族だったんだな」


でなければ、こんなところまで入ることは許されない。城勤めの侍女であれば、お仕着せの制服を着ているはず。私服のドレス姿で黒蓮宮の近くにまでやってこれる存在は、そう多くは無い。


そんな内容のことを確認のように告げられて、私は自分の笑顔が凍り付くのを感じた。二の句が継げなくなった。返す言葉など無い。全く以てその通りだ。

セルヴェス青年には、私は偽名しか名乗っていなかった。そんな彼にとって私は、おそらくは平民だと思われていたはずだ。騙すつもりはなかったが、結果としてそうなってしまったことは否めない。


「…はい。一応、末席に名を連ねさせて頂いております。黙っていて申し訳…」

「いや、いい。解っていた。君の所作を見ていれば、それなりの家柄の者だと誰にだって解るものだ」


今更のことだと言わんばかりの表情でセルヴェス青年は言い、三つ目のサンドイッチに手を伸ばす。本当に、気持ちの良くなるような食べっぷりである。


「……然様ですか」

「ああ」


―――――そういえば。

そういえば忘れかけていたが、この青年も、大貴族の縁者だったのだったか。セルヴェス青年が私に教えようとしない、その家名はローネイン。バレンティーヌ家に次ぐ、大貴族の中の大貴族のひとつ。本来であれば、ルーナメリィ嬢と同じく、言葉を交わすことすら私には叶わない相手。

そんな彼にとって、私の所作から身分を読み取ることくらい容易いことだったのだろう。それでも彼は、何も言わずにいてくれたのだ。身分に関して突っ込まずにきたのは、互いに同じ。でも、それでも。


「セルヴェス様」

「なんだ」

「ありがとうございます」

「…?」


何がだ、と言わんばかりに眉を顰める彼に笑いかけ、私もまた、サンドイッチを口に運んだ。


そして、結局サンドイッチはほとんどがセルヴェス青年のお腹の中に収まり、私達はそのまま、あの東屋で別れた。

図書館に戻る気にはなれず、自宅である屋敷に戻り、いつもよりも気合を入れて夕食を作り、いつものようにあの男の帰りを待った。

そうして、あの男が帰ってきたのは、珍しくもいつもよりも早い、世間様でも真っ当に通用する『夕食時』だった。


「お帰りなさいまし」

「…ああ、ただいま」


いつもと同じ、けれどかけがえのない挨拶を交わして、男が脱いだ黒のローブを預かる。

見た目に反して驚く程軽いローブは、王宮御用達の仕立て屋が、黒蓮宮の魔法使いのためだけに作ることを許された一級品だ。

いつ触れても柔らかく心地よい手触りのそれを、皺にならないように気を付けながら畳んでいると、何やら上から視線を感じた。


「エディ? 何かありまして?」


じっとこちらを見つめてくる朝焼け色の瞳が、私の問いかけに、ゆらりと揺れた。こちらからもじっとその瞳を見上げる。そのまま見つめ合うこと十数秒、そろそろ沈黙を保ち続けるのが辛くなってきた頃、先に口を開いたのは、私では無く、男の方からだった。


「怒っていないのか?」

「何をです?」


主語の無い台詞に首を傾げると、朝焼け色の瞳が瞬き、そして苦味を帯びた光を宿す。


「……昼間のことだ」

「ああ、あのことですか。いえ、別に」

「………」


仕方の無いことなのだから、怒る必要などないだろう。そう思いながら笑いかけると、不機嫌そうに柳眉を顰められた。

何故だ、怒ってはいないと言っているのに、どうしてこの男の方がそんな顔をすると言うのか。何たる理不尽な。私が怒っていないのなら、この男にとっては御の字であるはずではないか。それともあれか、この男は私を怒らせたいのだろうか?

昼間のことよりも、今の男の態度の方に腹が立って、挑むように夜の妖精と謡われる美貌を見上げる。


「では、怒っている、と申し上げたら、どうなさいますか?」

「それは…」


男はそのまま、ぐ、と言葉に詰まって、それ以上何も言わなくなる。ほら見たことか。

昼間の一件は、どうしようもないことだったのだ。恐らくはあれがベストの対応だった。元を正せば、いくら昼食を届けるためとはいえ、アポイントメントも入れずに押しかけた私が悪いのだし。だから、いいのだ。無表情と見せかけた気まずい表情を浮かべる夫に、妻たる私は笑いかけた。


「大丈夫です。解っておりますから。仕方の無いことですもの」


でも、いつまでこの“仕方の無いこと”を続ければいいのですか?


そう訊きたくても、この口はそうは動いてくれなかった。

そして私は、その夜もまた夢を見た。


一筋の光すらない暗闇の中、私は立ち竦んでいた。いや、そう表するには語弊があるか。立ちすくんでいるのか、座り込んでいるのか、それすらも解らない暗闇の中に私は居た。

いつもと同じく、やはり泣き声が聞こえる。やめて、と言おうとした。けれど言葉は音にはならずに、ただ闇に溶けていく。

やめて、やめて、やめて。こんな声はもう聞きたくないの。けれどそんな私の叫びはやはり音にならなくて、漣のように止め処ない泣き声に呑み込まれてしまう。

誰が泣いているのだろう。どうして泣いているのだろう。疑問に答える声は当然無く、ただただ泣き声ばかりが世界を埋め尽くす。誰のものとも解らない、けれど確かに知っている泣き声が。


ああやっぱりこれは、とびっきりの悪夢だと、そう思った。

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