転生王女の対話。
色褪せた紙に書かれた文章を、読むというよりは眺めながら私は、ため息を吐き出した。
あの日、ミハイルとイリーネ様が、何を話していたのかは分からない。
魔力に関しての相談だったのかどうか気にはなるけど、直接問いただすのは躊躇われる。何故、ミハイルが魔力持ちであると知っているのかと逆に聞かれても困るし、上手く誤魔化せる自信もない。そしてそれ以前に、あの話し合い以降、どちらにも会っていないので、単純に聞く機会もなかった。
魔王に体を乗っ取られる前のミハイルについては、ゲーム内でも情報が極端に少ない。
故に私は彼が何を思い、どう動こうとしているのか、まるで分からなかった。
「…………」
二度目のため息が零れ落ちた。
駄目過ぎる自分自身に、腹が立つ。
今までの人生は、攻略本があったに等しい。事前に知っているトラップを、避けるだけの簡単な道だった。でもこれからは違う。
フラグをへし折り、不穏な未来を回避し続けてきた結果、ゲームと現在の状況には、かなり大きな違いが生じている。
ゲーム内の知識だけでは駄目だ。
例え指針をなくしても、歩けるようにならなきゃいけない。
「……おい」
「!? ……あっ!!」
背後から唐突に声をかけられ、肩が跳ねる。それと同時に膝の上においてあった本が、後ろから伸びてきた手に奪われた。
奪い返そうと体を捩り、後ろを向いて、私は固まる。
「読む気がないなら、読まなくていい」
不機嫌さを表すように眇められた、薄い青の瞳に射竦められた。一片の温度も感じない声音に突き放される。
背筋を伝い落ちる冷たい汗の感触に震えながら、心の中で呟いた。しくじった、と。
大きめのカウチから身を起こした男は、苛立ちのままに雑な動作で本を閉じる。歴史的にも価値の高い本を粗雑に扱うなと言いたいが、そんな貴重な本を前に、呆けていた私が言える事ではないな。
腰かけていたカウチの端から下りて、床に立つ。
深く息を吸いこみ、腹に力を込める。表情を引き締め、姿勢を正した。
「申し訳ありませんでした。父様」
頭を下げた私を見て、父様は眉間にシワを深く刻む。
「何についてだ」
鋭い声で、問われた。
幼い娘が殊勝な態度で謝っても、纏う空気は僅かたりとも緩まない。そういう人だと分かっていながら、ぼんやりと物思いに耽っていた自分に呆れた。
夜に父様の部屋を訪れるのは、四度目。会話らしい会話はないが、静かに本を読むだけの時間は穏やかで、少し気が抜けていたのかもしれない。そんなものは、愚行の理由にもなりはしないが。
「…………」
返す言葉に詰まり、唇を噛み締める。
立てた片膝の上で頬杖をついた父様は、冷めた目で私を一瞥した。
「何についての謝罪かと、聞いている」
重ねて問われた。
「……ほ、本を」
緊張に、声が震えた。
俯きそうになる己を叱咤し、顎を引く。
「本を、読む気がないのに開いていたことです」
馬鹿正直に、言い切った。
最初に父様の部屋を訪れた時にも、同じような事があった気がする。読めないのかと問われ、読めないけど読む、と馬鹿みたいな答えを返した。
全く進歩がない。
でもしょうかないじゃないか。小細工を弄するほどの頭も度胸もないなら、そのまま挑むしかない。
「せっかく、貴重な書物を閲覧する機会をいただいたのに、別なものに意識をとられ、呆けていました」
申し訳ありません、ともう一度頭を下げる。
父様は呆れ顔で嘆息した。
「……正直であれば許されるなどと思っているなら、勘違いも甚だしいぞ」
言葉は厳しいが、父様の表情と声は幾分か和らいだ。
遠ざけていた本を、押し付けるように私に寄越す。あまりにも簡単に返されて、唖然としたが、我に返ると同時に両手でしっかりと本を抱き締めた。
父様は、テーブルに置いてあった瓶を引き寄せ、残りの葡萄酒を全てグラスに注ぐ。味わう様子もなく呷る姿を眺めていると、座れ、と端的に父様は呟いた。
人一人が座れる程度のスペースをあけて、横に腰かける。早鐘を打つ胸を押さえ、そっと息を吐き出した。
追い出されてしまわないよう、今度こそ集中しようと本を開こうとした。しかし横からの視線に気付き、手を止める。
黙殺してしまいたいが、このまま気にせず読書出来るような胆力は持っていない。恐る恐る視線を向けた。
「何に気を取られていた」
「……えと」
「悩みがあったのだろう? 話してみろ」
言われた言葉が、直ぐには理解出来なかった。目を大きく見開いて、父様の顔を凝視する。
悩みを相談しろと言われた気がするけど……幻聴? 幻聴だよね。そんな訳ないよね?
「と、うさまに……ご相談するような、大層な悩みでは」
「誰が相談を受けると言った。聞くだけだ」
「ア、ハイ」
ですよねー!!
私はムカつきつつも、安堵した。
その傲慢さこそ、父様だ。良かった。一瞬、パラレルワールドに紛れ込んだのかと思ったよ。
しかし安心したのはいいが、何を話そうか。
ミハイルの魔力について話す訳にはいかないし、もっと無難な話題はないものか。
暫し悩んでから、私は口を開いた。
「自分の応用力のなさについて、悩んでいました」
「応用力?」
「はい。私は突発的な事態に弱い。ある程度、予測できるものに備えて挑む事ばかりに慣れてしまい、不測の事態に対応できる順応性に欠けます」
父様は、否定も肯定もしなかった。
話の続きを促すように、視線を私に向ける。
「私は足りないものだらけです。咄嗟の機転が利かず、決断力もない。想定外の事柄が起きると、狼狽えるばかりで何も出来ない。こんなんじゃ、駄目なんです」
たとえこれからの未来が、ゲームとは全く別の方向へ進み始めても、立ち止まって迷っている訳にはいかない。
知らなかった、は理由にはならない。分からなかった、は免罪符になりはしない。
膝に置いた本の上、組んだ手に力がこもる。
「私は、どんな事態にも対応出来るようになりたい」
皮膚に爪が食い込むのを見つめながら、言葉を吐き出した。
「……なるほど」
暫しの沈黙の後、父様は小さな声で呟いた。
顔をそちらへと向け、私は絶句する。予想もしないほど近くに、整い過ぎた父様の顔があった。
際限まで目を見開く私を至近距離で眺め、父は重々しいため息を吐き出した。
「私の娘は、大馬鹿だったのだな」
「…………は?」
五秒固まり、漸く父の言葉が私の脳に届く。
ぴき、とコメカミに青筋を浮かべた私の口から、低い声が洩れた。
今、なんて言った?
半強制的に悩みを打ち明けさせておいて、今、コイツなんて言った?
怒りの形相を浮かべて睥睨する私を見て、父様は、さも不思議そうに首を傾げた。
絹糸のようなプラチナブロンドが、さらりと揺れ、白皙の肌に影を落とす。そんな何気ない動作さえ、まるで絵画のようで、それが余計に癇に障る。
一々美しいんじゃねえよ!! と、意味不明な罵りをしそうになった。
「父様……今、なんて?」
「私の娘が、大馬鹿だと言った」
父様は、子供に言い聞かすように、ゆっくりと言葉を繰り返す。
人の神経を逆撫でするのが、随分お上手ですね。クソ親父が。
「どんな事態にも対応出来るようになりたいだと? 生まれて十年しか経たない小娘が、一体何様のつもりだ」
父様は、呆れを隠しもせず、吐き捨てるように言った。
王女様ですけど!? とか言ってみたい。
でも実際の私は、怒りと羞恥に顔を赤く染め、唇を噛み締める事しか出来なかった。
ムカつく。死ぬ程ムカつくけど、言い返せない。
私が無力で無知なガキである事は、動かし難い事実だから。
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