第一王子の熟考。
※ローゼマリーの兄、クリストフ視点となります。
鈍く頭が痛む。
絶え間なく動かしていた手を止めて、顔を上げる。
腕を軽く回すと、錆び付いた関節が悲鳴を上げた。肩も首も痛い。目も酷使し過ぎたらしく、瞼が痙攣している。
一つ気付いたのを皮切りに、体のあちこちが不調を訴えた。
気休めのように視線を遠くへ投げると、窓の外の景色が赤く染まっていた。いつの間にか、日が暮れていたらしい。
「どうぞ」
コトリと音を立てて、目の前にカップが置かれた。
真っ白な陶磁器のカップの中では、夕空と同じ色の液体が揺れている。
「ありがとう、ヨハン」
「いいえ」
疲れた顔をしたヨハンは、私の机の前で立ったまま、紅茶を飲んだ。マナーも何もあったものではないが、補佐官らは出払っており、執務室には私とヨハンの二人だけ。目の下に薄く隈を作った弟の無作法を、咎める気は起こらなかった。
「酷い顔だな」
「兄上も大概ですよ」
ヨハンは最近になって、私の呼び方を変えた。
両親への呼び方も改めたらしいが、おそらくローゼだけは変えないのだろうなと、漠然と思う。
離れて暮らす妹の顔を思い浮かべたのをキッカケに、癪に障る顔まで思い出してしまった。私達の疲労の間接的な原因である、父の顔を。
ある日、唐突に父上は休みを取ると言いだした。
唖然とする私や側近らが納得して了承する前に、自分にしか出来ない仕事を手早く片付け、他の仕事は割り振り、必要最低限の護衛だけ連れて、さっさと旅立ってしまった。
横暴が過ぎる。
しかし同時に、父上の偉大さを痛感した。
いつも父上が涼しい顔で捌いている定例業務は、私がやると倍以上の時間が掛かる。慣れもあるだろうが、ただ手を動かすだけでは出来ない仕事だ。膨大な知識量があって初めて、手際良く片付けられる。
優秀な右腕であるヨハンと補佐官達がいなければ、早々に音を上げていたかもしれない。
「かなり腹立たしいが、今の私の処理能力は、父上の半分以下なんだろうな」
ヨハンの眉間に深い皺が刻まれる。
貴公子然とした優美な美貌を台無しにするような殺気立った顔で、彼はフンと鼻を鳴らした。
「優秀な兄上なら、あんな老害、すぐに追い抜けます」
自分の親を老害呼ばわりするのは如何なものかと思うが、私怨もあって、窘めるのは止めておいた。
なんせあの自由な国王は、私達を差し置いて、一人だけで娘の見舞いに行きやがったのだから。
夜会に次いで、二度目の抜け駆け。私とヨハンがどれだけあの子に会いたがっているか知っていながら、平然とそんな事をやってのける父上の人間性を疑う。
「そんな日が来るのかは分からないが、もし本当に私がそこまで成長したとしたら、それこそ父上の思う壺なんじゃないか?」
悔しがる姿なんて、まるで想像出来ない。
寧ろ役目は終えたとばかりに速やかに譲位し、さっさと離宮に引っ込みそうな気がする。
そう伝えると、ヨハンは深刻な顔つきになった。
実現してしまったら困った事態にはなるだろうが、そんな顔をする程の事だろうか?
譲位は確定した未来で、遅いか早いかの違いだけ。冷静で優秀なヨハンが、分かり切っている事で焦るとは思えない。
蒼褪めた彼の意図を問うように視線を向けると、ヨハンは数秒の躊躇いを見せてから口を開く。
「……離宮なら、まだマシですよ。プレリエ領に、勝手に家を建てて暮らし始めたりしませんかね?」
「流石にそんな型破りな行動…………、やらないよな?」
顔を見合わせるが、どちらからも否定の言葉は出ない。
『やりかねない』という共通の認識を持った事が、言わずとも分かった。
普段はまともだが、妙なところで行動力を発揮する破天荒な人だ。常識を知らないのではなく、必要ないと思った慣例は堂々と破るタイプの非常識。かなり質が悪い。
「いや、駄目ですよ! あんなのが近くに住むなんて、ほぼ嫌がらせみたいなものじゃないですか。姉様が可哀想だ!」
そろそろ不敬罪が適用されそうな言い草だが、ヨハンは真剣だ。そして、私自身の考えも大差ない。
押しかけてきた実父に冷たくする事も出来ず、困惑するローゼの顔が鮮明に脳裏に浮かぶ。駄目だ、私が何とかしなければ。
「私の可愛い甥か姪にも、悪影響を及ぼすかもしれない」
「絶対に止めないといけませんね」
ヨハンの言葉に、深く頷いた。
「新たに規則を作るか?」
「『前国王夫妻は退位後、離宮にて暮らす事』とかですか? 当然の事だからこそ、わざわざ規則として定めていなかっただけですけど」
「父上なら、不文律を無視しかねない」
「しかし規則を作るにも、父上の退位前に承認させる必要があります。素直に納得しますかね?」
「そうだな。……先に味方を作った方がいいか」
真剣な顔で、私とヨハンは議論する。
しかし結論は中々出ず、使いに出していた副官が戻るまで続いた。
「お邪魔をしてしまって、申し訳ございません」
生真面目な副官は、話し合いの邪魔をしてしまったと恐縮しているが、謝罪したいのはこちらの方だった。
彼は私達が有益な国策について討論していたとでも思っているようだが、全く違う。奔放な父を如何にして閉じ込めておくかという、大きな声では言えない内容だ。
「いや、気にしないでくれ。それより、何か預かってきたんだろう?」
きまりの悪さを誤魔化す為に、咳払いを一つ。
不自然ながらも話の流れを変えると、副官は書類を差し出す。
「はい。アルトマン魔導師長からお預かり致しました」
珍しいなと思いつつ、文字を目で追う。
「何か、急を要する案件ですか?」
「いや、魔法の研究についての申請だな。立案者はルッツ・アイレンベルグで、式典などで使える、実体のない魔法を考案したらしい」
ヨハンの問いに答えると、彼は訝しむように眉を顰める。
「式典で? 自ら見世物になる気ですか?」
「その心配はあるが、安全性と有益性を示すには悪くない案だと思う。魔法を見た事がないせいか、存在を疑っている者もいる。魔導師という地位自体、廃止すべきだと言い出す人間もいたな」
「強大な力を恐れて、国の管理下に置こうとしたのが始まりでしょうに。人間とは勝手な生き物ですね」
ヨハンは嫌悪を隠さずに、吐き捨てるように言う。
書類を手渡すと、カップを置いてから真剣に読み始めた。
「面倒だが、役職に就いている以上、大勢に見える形で成果を出す必要がある。どれほど、不本意でも」
渋面を作ったヨハンを見て、私は苦笑いを浮かべた。
身内以外と接する時は、一片の綻びもない完璧な仮面を被れる彼が、年相応の甘さを見せてくれる事が嬉しかった。
「とはいえ、ルッツ・アイレンベルグの意図するところは別にあるだろうと私は思っている」
「煩いジジイ共を黙らせる為に、見世物になる事を許容している訳ではないと?」
「前にアルトマンが言っていたんだが」
そう前置きをして、私は話し出す。
彼女は魔法の研究と並行して、魔法に関する古い書物の編纂を行っていた。
経年劣化の傷みで欠落したものはまだマシで、魔法が禁忌として扱われていた時代が長かったせいか、焚書の憂き目に遭い、失われてしまった本も多い。
それらを探して解読し、纏め直す事は、想像以上の困難を伴うはずだ。
しかも大変な思いをして編纂しても、未だに魔法を忌避する人間は少なからずおり、日の目を見る可能性は低い。大半の凡庸な人間は、功績とすら認めないだろう。
だというのに何故、努力を重ねられるのか。
不躾な私の質問に、アルトマンは薄く微笑んで答えた。
「『彼等の為ではありませんから』だそうだ」
魔法に関する書物を後世に残す事も、式典で使える魔法の研究も大衆の為ではない。
「全ては、後の世の子供たちの為に。そうアルトマンは言っていた」
私の言葉に、ヨハンは瞠目した。
「私はもう魔力持ちの子供は生まれないのではないかと、勝手に思っていた。しかし、この世に絶対などないと魔導師達は知っていた訳だ」
「これから生まれるかもしれない魔力持ちの子供に、一人ぼっちではないと伝えようとしているって事ですか」
「そうだ。彼等を『神』とも『悪魔』とも呼ばせたくないそうだよ」
「……頭が下がりますね」
「全くだ」
ローゼの子供が生まれると聞いて、私はただただ喜ぶばかりだった。
会える日を楽しみに、日々の仕事に精を出していたけれど、それだけでは駄目だ。私はいずれ、王となるのだから。
未来の子供達の為に、私に何が出来るだろう。