転生公爵の夢幻。(2)
ごくり、と自分の喉が鳴る音で我に返った。
吸い込まれそうな黒を凝視し過ぎたせいで、一瞬、意識が飛びかけた。慌てて頭を振って、自分の頬を強めに叩く。
ギィ、と軋んだ音を立てて扉が開いた。
長方形に切り取られた黒い空間が眼前に現れる。差し込んだ光は吸い込まれ、いくら近付いても、一寸先の景色すら見えない。
躊躇いながらも一歩踏み出すと、足元で水音が鳴った。
「!」
扉の縁から、黒い液体がじわりと漏れ出している。
ゆっくりと広がったソレが、私のつま先を黒く染めた。驚いて、反射的に後退りそうになったけれど、どうにか踏みとどまった。
粘度のある液体が、とぷんと私の足を吞み込んでいく。
得体の知れないものを前にして、引き攣った悲鳴が零れ落ちそうになる。けれど私は歯を食いしばって、本能的な怯えを捻じ伏せた。
『下がって!』
「……」
『何しているんだ!? 下がれ、早く! 貴方まで汚れる!』
「いいわよ、別に」
『良くない!』
何一つ思い通りにならない私に、相手も苛立っている様子だった。語気を強め、叫ぶように何度も『下がれ』と繰り返す。
『っ、貴方の大切な子まで巻き込む気か!?』
「!」
踏み出しかけた足を、思わず止める。決意を固めたはずなのに、その言葉に迷いが生じた。
私の決断の代償は私自身で払うつもりだ。
けれど関係のない仔猫を私の事情に巻き込むのは、本意ではなかった。
『それでいい。貴方は間違ってない』
私の迷いを正確に読み取ったのか、降ってくる声は安堵したように声の調子を和らげた。
『ほら、下がって。帰ろう?』
「……」
優しく促す声には答えず、私は唇を噛みしめる。戻りたくないけれど、進むことも出来ずに、ただ立ち尽くす。
『もう何も考えなくていい。引き返すだけでいいから』
嫌だ。
『帰って、ゆっくり休もう』
嫌だ。
『ここの事は忘れて』
嫌だ!
『貴方は貴方自身と、その子の幸せだけ考えよう』
嫌だ……‼
心の中で叫ぶけれど、声には出せない。進む事と引き返す事が、この子達のどちらかを選ぶ事と同義ならば、私は選べない。
追い詰められ、俯く私の心を揺さぶるように声が降ってくる。選べと急かす。
嫌だ、選びたくなんてない。どちらも私の大切な子なのに……‼
『さぁ!』
「……っ!」
ぐっと歯を食いしばり、目をきつく瞑る。
それと同時に、「にゃあ」と可愛らしい声が聞こえた。
「……え?」
もぞり、と腕の中の塊が動く。
目を開けると、秋空みたいな青い瞳とかち合った。
「あなた……」
唖然とする私の目の前で、白い仔猫はのんびりと欠伸をする。ぐぐっと体を伸ばした仔猫は、私の腕からぴょんと飛び降りた。
「ちょ、ちょっと待って」
扉の向こう側へと歩いていこうとする仔猫を、私は慌てて抱き上げる。特に抵抗せずに腕の中に収まってくれたけれど、大きな目で見上げて「にゃあ」ともう一度鳴いた。
行こう、と催促するみたいに。
「……一緒に来てくれるの?」
「にゃあ」
「……そっか、分かった」
『何を言っているの⁉ 早く、引き返せって言って……』
「にゃあ!」
上から降ってくる声を遮るように、仔猫は一際大きな声で鳴いた。
『うるさい!』と言ったように聞こえたのは気のせいだろうか。
なんだか可笑しくなって、私は喉を鳴らして笑う。
『だ、駄目だってば。ねぇ、止めてよ』
狼狽えている声を無視して、私は仔猫と共に黒い部屋へと足を踏み入れた。
視覚は役に立たないので、仔猫を抱えていない方の左手で周囲を探りながら、ゆっくり進む。
『本当に駄目なんだよ』
壁伝いに歩いていると、随分、狭い部屋である事に気付いた。
一つ手前のがらんどうの空間の四分の一もないかもしれない。探す側からすると有難い事だ。
ぐるりと部屋を回ってきてしまった。端にいないのなら、中央を探すしかない。
「こっちに掴まってくれる?」
「にゃあ」
「爪立ててもいいから、絶対に離しちゃ駄目よ」
抱えていた仔猫を頭の上に乗せてから、その場に膝をつく。
『何してるの⁉』
私には自分の姿が見えないけれど、声の主には見えているらしい。四つん這いになった私の今の姿は、きっと泥遊びをする三歳児より酷い有様だろう。
「転んだら危ないでしょう? 貴方やこの子を圧し潰したくないし」
手探りで床を探すと、ざぶざぶと水音が立つ。
『だから帰れって、何度も言っているのに!』
「嫌だって、こっちも何度も言っているわ」
『……っ、僕の事情も知らないで!』
「教えてくれるなら、ちゃんと聞くわよ」
それで諦めるかどうかは、また別の話だけれど。そう心の中で付け加えた。
『……』
葛藤するような沈黙が流れる。その間も私は休むことなく、手を動かし続けた。波紋を広げながら、床の上を這う。
『……いんだ』
「え?」
『……消えないんだ』
「何が?」
『魔力が、消えないんだよ……! こびりついた汚れみたいに、どれだけ落とそうとしても落ちない!』
「…………」
ふと、指先に何かが触れる。
『世界から魔力は消えかけているのに! もう魔力持ちなんて、誰にも必要とされていないのに! こんな力を持って生まれたら、迷惑をかけるだけなのに……っ!』
逃がさないよう、両手で囲う。
掬いあげるように小さな体を持ち上げると、さっきまで腕の中にいた仔猫と同じくらいの重さがあった。
濡れてペシャリと萎んでいるけれど、たぶん手触りも一緒。
「毛色は黒かな? それともお揃いの白? まぁ、洗ってみれば分かるか」
だらんとされるがままになっている仔猫に、顔を近付ける。
黒い闇の中で青い瞳だけが輝いて見えた。じとりとこちらを見つめる宝石みたいな瞳に、私の能天気な笑顔が映る。
『魔力持ちは、世界に望まれてない。皆に嫌われ、憎まれて、きっと貴方も……いやに、なる』
潤んだ青い瞳を隠すように、仔猫は俯く。
私は驚かさないよう、静かに仔猫と額を合わせた。
「ごめんね」
『……っ』
ひゅっと息を呑む音がして、小さな体が強張る。
「私はまだ、世界を少しも変えられていないわ。相変わらず、世間は魔力持ちに冷たいし、表立って迫害する事はなくても、偏見は残っている。……きっと貴方にもたくさん、嫌な思いをさせてしまうと思う」
『…………』
「理想ばかり大きくて、実現するにはきっと何十年……、もしかしたら、一生かかっても出来るかどうか分からないわ。でも」
大きく息を吸い込む。
震えそうになる声を張り、宣言した。
「絶対に諦めないから」
『……っ』
「貴方達が当たり前に笑えるような世界になるまで、お母さんは戦い続ける。……だから、その、……頼りないかもしれないけれど、側にいさせてほしいの」
最後は情けない懇願みたいになってしまった。
反応が怖くて、そっと盗み見るように視線を向けると、ぽとりと何かが落ちる。ぼたぼたと続けて落ちるソレが、黒い水面に波紋を描いた。
『……別に、嫌われてもいいんだ』
大粒の涙を零しながら、黒い仔猫は呟く。
『誰にでも好かれたいなんて、不可能だし。どうでもいいやつに嫌われても、全然、構わなくて』
ぽつり、ぽつりと涙と共に静かな声が零れ落ちる。
『ただ、家族に嫌われるのだけは、嫌、なんだ。……そんなの、耐えられない』
ズズッと鼻を啜るような音が鳴る。
くしゃりと顔を歪めた仔猫に、私は頬擦りをした。
「大好きよ」
呼応するみたいに頭の上の白猫が鳴く。
「お父さんとお母さん、お兄ちゃんかお姉ちゃんも。それからお祖父ちゃんやお祖母ちゃんに伯父さん達も、かな。とにかく、沢山の人が貴方を待っている」
だから、どうか怖がらずに生まれて来てね。
そう伝えると、しゃくり上げていた仔猫は、小さな声で「み」と鳴いた。