総帥閣下の焦り。
※レオンハルト視点となります。
その日は特に何事もない、平穏な一日だった。
午前は通常業務を捌き、昼食後は新規事業の計画書に目を通す。ローゼは用事で街に出ているが、夕方になる前には帰ってくる予定だ。
ちらりと時計を確認すると、三時過ぎ。そろそろ帰ってくる頃かなと頭の隅で考えていると、部屋の扉が鳴る。入ってきたのはローゼにつけた従者の一人だった。
普段は冷静な男の、やや焦った様子に自然と眉間に皺が寄る。
胸の内側をザラリと撫でられたような不快感の正体はおそらく、『嫌な予感』と呼ばれる類のものだ。
「診察? ローゼが?」
「はい。医療施設でクーア族のお二人と休憩をとられていたのですが、どうやら気にかかる事があったご様子でして。お二人の勧めで、助産師に診ていただく事になったようです」
ローゼの帰宅が遅れるという報告を詳しく聞いてみれば、話はどんどん不穏な方へと流れていく。
午前中に会った時は、元気そうだったのに。
急遽、助産師の診察を受けるほどの何かがあったのだろうか。
居ても立っても居られず、席を立つ。
「レオンハルト様、どちらへ」
「ローゼを迎えに行く。留守は頼んだ」
放たれた矢のように飛び出そうとするオレに、側近が声を掛ける。使用人が慌てて手渡してきたコートを羽織ると、そのまま部屋を出た。
馬車を用意させようと思ったが、待つ時間が勿体ない。厩舎に向かうと、初老の馬丁が目を丸くしていた。
慌てて帽子をとり、慣れない様子で頭を下げる。
「レオンハルト様、どうなされたので?」
「馬を一頭借りたい。アイゼンはすぐ出せるか?」
「え、ええ。お待ちください」
オレの勢いに気圧されつつも、馬丁は頷く。
厩舎の中へと入って行った彼は程なくして、馬の手綱を引きながら戻ってきた。
凛々しい青毛馬は、騎士時代の相棒である『アイゼン』。オレ個人が所有する馬ではなかったが、婚姻に伴い、王家より賜ったものの一つだ。
「今、鞍を付けますので」
「このままでいい」
「えっ?」
手綱を受け取り、裸馬に跨る。
茫然と立ち尽くす馬丁を置き去りにして、オレは馬を駆った。
すれ違う騎士や遠くに見える使用人、門番も何事かと驚いていたが、説明する心の余裕がない。
ローゼに何かあったのかと思うと、不安で胸が潰れそうだ。
彼女とお腹の子の無事を祈りながら、無我夢中で駆け抜けた。
かつてない速さで医療施設まで辿り着いたオレは、馬車止めに近付く。プレリエ公爵家の家紋が刻まれた馬車の傍には、見慣れた顔ぶれが揃っていた。
「ローゼ!」
名前を呼ぶと、手前にいた騎士達が振り返る。その中の一人であるクラウスは、オレを見て、やや呆れたように眉を顰める。
しかし同時に、安堵しているようでもあった。
「預かります」
クラウスの申し出に、即座に手綱を渡す。
大柄な騎士達をかき分けるように進むと、ローゼがそこにいた。
「ローゼ」
もう一度名前を呼ぶが、視線が合わない。
どんな顔をしているのか見えないから、余計に不安になる。
何があったんだと、すぐにでも問い質したい。
けれど、そんな事をすれば、ローゼを追い詰めるだけだ。
心を落ち着かせる為に、静かに深呼吸を繰り返す。
「ローゼ。帰ろう?」
ローゼを驚かせないよう、そっと背中に腕を回し、馬車へと導く。
馬車の扉が閉まる前に、クラウスに『馬を任せる』と合図を送ると、彼は渋い顔をしたが頷いた。
馬車の中で、ローゼは一言も喋らなかった。
屋敷に戻ってからも、中々話そうとはしない。普段は朗らかな妻の異変に、使用人達にも動揺が見られた。
簡単に食事と湯浴みを済ませ、寝室にはオレとローゼの二人きり。
ベッドの端に腰かけたローゼに、ぴたりと寄り添うように座る。急かさず、ただ黙って待っていると、ローゼは独り言のように小さな声を零した。
「……別に、何かあった訳じゃないの」
「うん」
「体調も悪くないし、お腹の子供も順調だって先生はおっしゃっていたわ」
「うん」
「母子共に健康ですって」
「良かった」
「そうね、良かったわ」
花が萎れるように、ローゼは俯く。
震える彼女の手を、包み込むように握った。
「他には?」
「え?」
「ローゼは何か、気になった事があったんだろう?」
怖がらせないよう、なるべく穏やかな声で聞いたつもりだ。けれど、ローゼの震えが大きくなる。
「不安があるなら、教えてほしい」
オレは味方だと分かってほしくて言葉を続ける。
妻の不安を和らげる事すら出来ない自分が、不甲斐なくて歯痒かった。
オレがもっと饒舌で気が利く男だったら、ローゼも安心して打ち明けられただろうに。
忸怩たる思いを噛み締めていると、ローゼの手が動き、オレの手を握り返した。
「……あの、あのね」
「うん」
「たぶん、言っても意味が分からないと思うの。私も、自分の事なのによく分かってないし」
混乱しているのか、ローゼの口調がいつもより幼い。
たどたどしいながらも、必死に言葉を探しているようだった。
「それでも、聞きたい。教えてくれる?」
そう返すと、ローゼはくしゃりと顔を歪める。
今にも泣きだしそうな顔の彼女は、震える声を零した。
「……じゃ、ないって」
「え?」
「ふたごじゃ、ないんだって。私のお腹の子、一人なんだって」
双子じゃない。そう言ったのと同時に、ローゼの目から大粒の涙が零れ落ちた。
「助産師さんが、診て、くれたけど。双子の可能性は低いって、そう言われて」
しゃくり上げながら、ローゼは言葉を続けた。
「子供が元気なら、一人でも二人でも、嬉しい。それは嘘じゃない、のに。わたし、なんで悲しいの? もう一人、どこ行っちゃったのって、どうしてそう思うの? 分からないよぉ……っ」
「ローゼ……ッ!」
聞いているこちらの胸が苦しくなるような、悲痛な声でローゼは慟哭した。オレは思わず手を伸ばし、ローゼの体をかき抱く。
「ローゼ、大丈夫、大丈夫だ」
背中を摩りながら、何度も繰り返す。
こんな言葉では、何の慰めにもならないと分かっていながらも、他にかける言葉が見つからない。己の無力さに、吐き気がした。
そうして日付が超える頃、泣き疲れたローゼは気を失うように眠りに落ちた。