子爵令嬢の憂鬱。
※ミハイルの姉、ビアンカ視点となります。
悩んでいても、呆けていても、同じように時間は進む。
考えは全く纏まっていないけれど、あっという間に三日後になってしまった。
予定通りならば、後一時間もしないうちにカロッサ商会の若夫婦がやって来る。
吐きそうなくらい緊張していて、朝から何も喉を通らない。こんな思いをするくらいなら、さっさと顔を確認してハッキリさせたい。
でも同時に、結論を出すのが怖いとも思う。
私は実家にいた頃から、義母とも義兄とも殆ど関わっていない。
そのせいか彼等の事は苦手でも、憎んではいなかった。全ての元凶は父であり、義母も義兄も被害者だと思っていたし、苦労しているのも知っていたから。
でも、もし本当に義兄がミハイルに何かしたのだとしたら、私は義兄を許せないと思ってしまう。
私達の母を追い詰めておきながら、大切な弟まで傷付けるのかと糾弾してしまうかもしれない。私は、それが怖かった。
今まで綺麗事で蓋をしていた醜い感情が、溢れ出てしまいそうで恐ろしい。
「ビアンカ、そろそろだけど大丈夫?」
私の顔を覗き込んだヴォルフは、不安そうに眉を顰めた。
自覚は無かったが、どうやら私は酷い顔をしているらしい。
「大丈夫よ」
「不安だわ。もし駄目そうなら、強引にでも割り込むからね」
信用ないわねと笑っても、ヴォルフの表情は晴れなかった。
「ビアンカさん。私達は同席しませんが、近くに待機はしていますので。どうか無理はしないでください」
マリーちゃんも心配そうな顔をしている。
それでも止めないのは、私の意思を尊重してくれているのだろう。
止めるというヴォルフも、無理はしないでというマリーちゃんも、根底にあるのは同じ優しさと気遣いだ。私は本当に恵まれている。
「ありがとう、マリーちゃん」
「何かあったら、すぐに呼んでくださいね。頼もしい仲介人を派遣します」
意気込む仕草も可愛らしいマリーちゃんの隣で、彼女の夫が「仲介人です」と手を上げる。微笑ましい夫婦の遣り取りを見て、緊張が少しだけ緩和された。
「ちょっと、アンタ達。来たみたいよ」
「!」
ヴォルフの言葉を聞いて、私達の視線が受付へと集中した。
確かに受付の前に、一組の男女がいる。ただ、壁に隠れるように立つ私達の位置からは、まだ後ろ姿しか見えない。
小柄な女性の横に立っているので長身に見えるが、おそらく男性の身長は平均的な百七十前後。体形は細身で、髪は癖のある赤毛だ。
義母は明るいストロベリーブロンドだったが、マルセルは父の血が入っているせいか、もっと濃い色をしていた。
赤銅色と呼ぶのだろうか。……丁度、受付の前に立つ彼と同じような色だ。
妻の代わりに受付を済ませ、待合室の椅子に座るまでの短い距離でも背に手を回して支えている。
身重の妻を気遣うような仕草が随所に見られた。
そんな男が、こちらに近付いて来る。顔が判別出来る距離まで、来てしまう。
ああ、嫌だ。知りたくない。
せめて、どうしようもないクズだったら良かったのに。父のようにどうしようもない男なら、躊躇なく責められるのに。
私はただミハイルの味方として、敵を排除するだけだと割り切れたら良かった。
男は妻に手を貸して座らせてから、自分もすぐ横に腰を下ろす。
正面を向いた男の顔が、あっさりと確認出来てしまった。
目尻の下がった緑の瞳に、優しげな印象を与える眉。
整った目鼻立ちと、少し薄めの唇。飛び抜けた美形では無いが、繊細な顔立ちは人目を引く。
年齢不詳、且つ中性的。
いくつになっても少女のような雰囲気を持つ義母に、そっくりだった。
「……マルセル」
苦い想いを噛み締めながら、私は小さく呟く。
眉間に皺を刻んだヴォルフは、無言のまま、私を隠すように前に立つ。
「一旦、引いて、出直すのも手よ」
「……行くわ」
私がそう言うと、ヴォルフもマリーちゃん達も苦い顔になる。
でも私の意志が固い事を理解してか、それ以上、止める事は無かった。
「じゃあ、私達はこっちにいるから」
話し合いの為に空けてある部屋の、隣の部屋をヴォルフは指差す。マリーちゃんは何か言いたげに私を見ていたが、旦那さんに促されてヴォルフの後に続いた。
やがて、カロッサ夫妻の番が来た。
マルセルは付き添おうと立ち上がるが、診察室から出てきた看護師がその役割を代わる。彼は待合室の椅子に、再び腰掛けた。
ゆっくりと深呼吸を繰り返してから、足を踏み出す。
マルセルの傍に近付き、声を掛けた。
「……久しぶりね」
「え? ……!」
呆気に取られていたマルセルは、私の顔をまじまじと眺める。すぐに、目の前にいるのが誰であるか気付いたらしい彼は息を呑んだ。
「話があるの。少しでいいから、時間を貰えるかしら?」
「…………」
黙り込んだマルセルは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「すぐに終わるわ。貴方が戻るまで、奥様には看護師が付いているよう手配もしてある」
じっと私を睨み付けていたマルセルは、目を伏せ、諦めたように溜息を吐く。
「端から僕には選択権なんて無いじゃないか」
小声で吐き捨てたマルセルは、席を立った。
大人しくついて来た彼と共に、別室に移動する。
「掛けて」
椅子を勧めるが、マルセルは首を横に振る。
閉めた扉に背を預け、立ったままの彼は話を促すように私を見た。どうやら、余計な話をするつもりは無いらしい。
それは私も同じだったので、早速、本題を切り出した。
「前回の奥様の診察の時に、ミハイルに会ったのよね? 貴方、あの子に何を言ったの?」
「……やっぱり、その件か」
マルセルは渋い顔で、独り言を零す。
「相変わらず、ベッタリな姉弟だね。ミハイルも独り立ちしたかと思いきや、弱虫は治ってないのか。虐められたから助けてお姉ちゃんって泣きつかれた?」
マルセルは馬鹿にしたように肩を竦める。
一瞬、カッとなって怒鳴りそうになったが、寸前で堪えた。
マルセルの意図は分からないが、わざとこちらを煽るような言葉と仕草をしていると感じた。ならば彼の思惑になど、乗ってやるものか。
「貴方って人を見る目が無いのね。ミハイルが私に泣きついた事なんて、一度も無いわ。あの子は辛い事があっても、一人で黙って耐えるの」
マルセルはつまらなそうに舌打ちしたが、反論は無かった。
「そんなミハイルを放っておけなくて、私が勝手に干渉しているだけよ。今回もそう。ミハイルを問い詰めても絶対に何も言わないだろうから、貴方に直接聞きに来た。ねぇ、マルセル。貴方はミハイルに何を言ったの?」
「…………」
マルセルは何も答えない。
私と目を合わせたまま、ただ無言を貫く。
長い、長い沈黙が続いた。
焦れた私はマルセルの言葉を引き出す為に、ずっと考えていた事を口に出した。
「まさか、実家の後継問題じゃないわよね?」
「……は?」
虚を衝かれたように、マルセルは目を見開いた。