第一王子の逃避。
※王太子 クリストフ視点となります。
鳥のさえずりが耳に届く。
視線を向けると、ガラス窓の向こう側に、鮮やかな瑠璃色の羽を持つ小鳥の姿を見つけた。
細い枝に止まっている小鳥は、つぶらな瞳でこちらを見下ろしながら、もう一度鳴いた。口笛に似た柔らかな音は、耳に心地よい。
ちょこちょこと動く仕草の愛らしさもあって、自然と頬が緩む。
締りの無い口元を隠すように、ティーカップを持ち上げた。
真っ白な陶磁器のカップに黄金の水面が映える。一口含むと、瑞々しい味わいが口内に広がり、仄かな花の香りがスッと鼻を通り抜けた。
春摘みの良い茶葉だろう。淹れ方も良いのか、王城で出されるものと比べても遜色ない。
そしてソファーは両親が愛娘の為に厳選しただけあり、とても座り心地が良い。
快適な環境に、美味い紅茶。仕事に追われる事のない優雅な時間。
小鳥を眺めながら、のんびりとティータイムを楽しめるとは、なんという贅沢だろう。
ほぅ、と幸福な吐息を零す私とは違い、向かいの席に座る弟……ヨハンは、つまらなそうな顔をしていた。
「母様ばかり狡い」
ヨハンは小さな声でぽつりと零す。
「そうか?」
「そうですよ! 僕だって姉様のドレスを一緒に選びたかった! 兄様だってそうでしょう?」
一言だけ返すと、ヨハンからは倍以上の不満が叩き返された。その勢いに気圧される。
正直言って私に、その熱意は無い。女性の流行に疎く、センスにも自信が無い私がいたところで役には立たない。
ローゼの着飾った姿は見たいが、語彙の乏しい私の意見は参考にもならないだろう。
しかし、そう考えているのは私だけであって、ヨハンは違う。だから、違う理由の方を口にした。
「身内とはいえ、流石に男は同席出来ないだろう」
「着替えの時まで立ち合いたいなんて流石に言いませんよ。でも、デザインを決める時くらいなら良いじゃないですか」
「試着の度に席を外すのか? あちらの邪魔になるだけだ」
「……」
却下すると、ヨハンは不満顔で黙り込む。
おそらくヨハンも同席は無理だと分かっている。ただ不満を共有したかっただけだろう。
「……母様よりも僕の方が、姉様の事をよく知っているのに」
ヨハンは拗ねた子供のような顔で呟いた。
老獪な高位貴族相手でも隙のない笑顔で渡り合う彼にしては、珍しい。だが自分の前で気を抜いているのだと思うと、微笑ましく、また感慨深い気持ちになった。
幼い頃は、あんなにも嫌われていたのにな。
小さなローゼの背中に隠れて、私を威嚇してきた頃のヨハンを思い出すと、現在の関係が奇跡にすら思える。
義母上にしてもそうだ。公式の場以外では言葉はおろか、視線すら交わさなかったのに。一緒に出掛ける事が出来るようになるなんて、昔の私に言っても信じなかっただろう。
父上も、少し変わったように感じる。以前よりは話しやすくなったような……いや、気のせいか。
……そういえば、怒っているだろうか。
ふと父の顔を思い浮かべた事で、わざと忘れようとしていた事まで思い出す。
妊娠したローゼが領地へ帰ってしまう前に一度、ゆっくり会いたかった。しかし、時間を取ろうにも仕事が山のように積み上がっており、難しい。
どうにか片付けて捻出した一日だったが、義母上とヨハンと日程が被ってしまった。
王家の人間が全員で城を空ける事は出来ない。それを理解しているからこそ、皆で顔を見合わせる。だが誰も、自分が残るとは言い出さない。
本当なら可愛い弟の為に、兄として譲るべきなのだろう。
だが私だって、ローゼに会いたい。顔を見て、おめでとうと伝えたい。公式の場での堅苦しい挨拶ではなく、素の自分の言葉で。
ヨハンはヨハンで、私に譲れとは言えなかったらしい。
気まずい沈黙が流れたが、それを打ち破ったのは義母上だった。なんの気負いもなく、さらりと『なら、三人で行くしかないわね』と言った。
その言葉が示すのは、この場にいない一人を置いていくという事。
顔を見合わせた私とヨハンは同時に頷き、義母上と同罪となった。
「帰ったら、何を言われるやら」
「……嫌な事を思い出させないでください」
独り言のつもりだった言葉を、ヨハンが拾う。
渋面を作った彼は、私と同じく、父上の顔を思い浮かべているのだろう。
「『遊び歩けるほどに暇ならば、仕事をやろう』とか言い出しますよ、きっと」
ヨハンは父上の声音を真似て言う。
特徴を捉えているだけに、止めてほしい。嫌な気持ちになるのは、本当に言われる一度だけで十分だ。
「ラプターとの協定見直しの時も思いましたが、重要な仕事をポンポン投げて寄越し過ぎなんですよ。どうせあと百年くらい生きるんだから、若者に仕事を押し付けないで自分でやればいいのに」
滔々と毒を吐くヨハンに苦笑する。
「期待されている証拠……」
「自分で信じていない言葉を、宥める為だけに使うのはどうかと思います」
「……悪かった」
ギロリと睨まれて、降参とばかりに手を軽く上げた。
「いや、完全に嘘という訳ではないが。正直、父上の考えている事は分からない」
「僕だってそうですよ。一生かかっても理解出来る気がしません。伝統やしきたりを重んじたかと思えば、唐突に思いも寄らない事をやり出すんですから。もし今、突然ここにやってきたとしても僕は、驚きはしな……」
ヨハンの言葉の途中で、ドアが鳴った。
二人で息を詰めて、互いの顔を凝視する。一拍空けてから、視線をゆっくりと扉に移した。
「……はい」
恐る恐る、ヨハンが応える。
「レオンハルトです」
肩の力が一気に抜けた。
入室を許可すると、妹の夫であるレオンハルトが現れた。
見慣れていた近衛騎士団の制服ではないせいか、少し印象が違って見える。
黒のフロックコートにチャコールグレーのウエストコートを合わせた姿は、優雅な貴公子そのもの。前髪を上げているせいか、余計にそう思えた。
年を重ねても衰えるどころか、美貌は凄味を増している。妹の異性を見る目は確かだったと、今更ながら感心してしまう程だ。
「久しぶりだな。元気にしていたか?」
「はい。殿下もお変わりないご様子で」
そう言ってからレオンハルトは、ぐったりとソファの背凭れに寄り掛かっているヨハンへと視線を移し、困惑したように眉を下げた。
「お前を見て安心する日が来るとは思わなかった……」
「あの、ヨハン殿下はいったい……」
「ああ、気にするな」
くだらない妄想と現実が重なりそうになって、慌てただけだと説明するのも馬鹿らしいので適当に流した。
「それよりも、突然訪ねてきてしまってすまなかった」
「どうかお気になさらず。皆様がいらしてくだされば、妻も喜びます」
『妻』という言葉にヨハンはムッとする。子供が生まれてくるというのに、今更、そこに反応してどうするのか。呆れそうになったが、私も少し寂しくもあるので、人の事は言えない。
「それにドレス選びでは、私は役に立てないので、王妃陛下が見立ててくださるのは有難いです。何が一番似合うのか、よく分かっていらっしゃるでしょうし」
少し恥ずかしそうに、レオンハルトは笑う。
近衛騎士団長時代だけでなく、結婚した今もなお根強い人気がある男でも、私と同じなのかと思うと親近感が湧く。
「姉様に一番似合うものを知っているのは僕なのに」
未だにブツブツと文句を言っているヨハンを放置し、レオンハルトにも座るよう勧めた。一人掛けのソファに腰を下ろそうとした彼は、何かを思い出したのか、動きを止める。
「そういえば、今、こちらをお預かりしました」
レオンハルトは、執事から受け取ったのだという手紙を私の前に置く。
「私に?」
「お二人宛てだそうです」
二人とは、私とヨハンの事だろう。
数時間の外出で、わざわざ出先に届けておきながらも、緊急の印はない。首を捻る私の向かいで身を起こしたヨハンも、訝しむような顔をしている。
トレーの上にあったペーパーナイフで開封すると、一枚の紙きれ。半分に折り畳まれた紙を開くと、見慣れた字で短い文章が書かれていた。
「…………!!」
それを目で追った私は、言葉を失くす。
『貸し一つだ。覚えておけ』
気のせいではなく、やはり父上は変わった。
少なくとも昔は、こんな子供っぽい行動をする人ではなかった。その変化が喜ばしいかと聞かれたら、私は全力で首を横に振るが。
既に机の上に積み重なっているであろう書類の山を思い浮かべながら、私は紙切れをヨハンへと手渡した。