転生王女の悔恨。
それから、三日程経過した。
ヒルデの怪我は然程深いものでは無く、もう起き上がれるとの事。医師付き添いの元で取り調べが始まるらしい。
ニクラスは監視付で謹慎しているようだが、他国と通じている証拠は未だ発見されていない様子。ヒルデの件も証拠隠滅の為だと決定付けるには、彼女の証言だけでは弱すぎる。水掛け論になりかねないし、何よりルッツ誘拐計画の重要な部分を、ヒルデは知らされていない可能性が高いからだ。
『疑わしきは罰せず』ではないが、伯爵家の子息を証拠も無しに裁くのは難しい。
ただニクラスは、ヒルデを仕留め損なった事で焦っているだろう。
疑われ監視されている状態では、動く事は困難。スケルツ王国に見限られかねない。そしてその状況は恐らく、騎士団的にも望ましくない状況だろう。
蜥蜴の尻尾だけ捕まえる為に、今まで待っていた訳ではないだろうし。
私が邪魔しなければ、もっとスムーズに事件は解決したのだろうか。そう自問自答するが、答えは出ない。
迷惑をかけた分、何か役に立ちたいと思うけれど、私に一体何が出来るんだろう。
沈み込んだ私は、ベッドの中でため息を吐き出した。
今日も引き籠って、一日が終わってしまった。殆ど動かないから、夜になっても全く眠くならないので、本を読んで過ごすが、内容はあまり頭に入って来ない。
――コンコン
「……?」
夜半過ぎ。
そろそろ眠ろうかと言うところで、私の部屋の扉が鳴る。
未婚の、しかも王女の部屋を訪問するには非常識過ぎる時間だ。誰だろうと警戒する私の耳に、予想外の人の声が届いた。
「ローゼ、私だ。入ってもいいか」
「……兄様?」
私は慌てて薄手のショールを羽織り、ベッドを下りる。扉を開けると兄様は何時も通りの無表情で立っていた。
今まで仕事をしていたのか、かっちりした格好のままで。
「……どうぞ」
いくら私が十歳児で妹とはいえ、女性の寝室を夜に訪問するのは如何なものか。真面目な兄様らしからぬ行為だとは思ったが、結局は招き入れてしまった。だって、兄様だし。
「お茶でも用意させましょうか」
「いい」
どさり、とソファーに座った兄様は、おいで、と私を手招いた。
戸惑いながらも私が近づくと、兄様は私の手を取って導く。逆らう事はせずに私は彼のすぐ隣に腰かけた。
一体、何なんだろう。
頭上にクエスチョンマークを乱舞させながら私は、兄様の方を向く。予想よりもずっと近くに、兄様の綺麗な顔があって驚いた。
もしかしなくとも、こんなに近くに寄る事は初めてかもしれない。肌の肌理や瞳の虹彩まで良く見える。
彼のアイスブルーの瞳は角度によって、灰色に見える事を知った。
マジマジと彼の顔を眺める私に気を悪くした風も無く、兄様は私の肩を抱く。
「に、にいさま……?」
ぐいぐいと引かれるままに身を委ねると、体がソファーの上に横たわってしまう。頭は兄様の膝の上に納まる恰好になった。
ち、ちょっと待って……これ、膝枕になってないですか……?
「少し話をしようか」
「それは構いませんが……どうしてこんな恰好なんですか」
動揺する私がおかしいのかと思う程、兄様は通常運転だ。声のトーンも平坦だし、無表情のまま。
これって兄妹なら、ありなのか?そういえば私もヨハンには、膝枕してあげた事あったけど、自分がされるのは初だ。
「時間も遅いしな。眠くなったらこのまま寝ていいぞ」
「……それは」
どうなんだろうか。
兄様の膝枕で熟睡とか、難易度高い。美少年過ぎて落ち着かないし、何より硬い。男臭さなんて微塵も感じさせない兄様だが、体は筋肉質でカッチカチ。やっぱり男の人なんだなぁって思う。
物言いたげに私が見上げると、兄様は瞳を僅かに細めて口元を綻ばせた。
「たまには兄らしいことを、させておくれ」
「……」
大人びた表情でそんな事を言われてしまうと、自分が駄々をこねた子供みたいに思えて恥ずかしくなる。
直視出来無くてフイと横を向くと、息を吐くような笑い声が聞こえた。
「いつも私は、お前達に厳しくするばかりで、甘やかす言葉一つ掛けられないからな」
「そんな事、ありません」
充分甘やかしてもらっている。
そう本気で思っているのだが、兄様は微笑みを苦笑に変えた。
「あるんだ。本来なら母の膝の上で甘えていても許される年頃だと言うのに、私や両親のせいでお前は、悩みも怒りも哀しみも、素直に吐き出せなくなってしまった」
「……」
「ヨハンにはお前がいたが、お前には誰もいない。いや、ヨハンを守ろうとしてお前は更に、大人にならざるを得なかった。……それなのに私も周りも、お前なら大丈夫だと勝手に信頼を押し付けて、弱音を吐く事さえ許してやれなかった」
「兄様……」
「お前はまだ、十歳の女の子なのにな」
兄様は、そう言って私の頭を撫でた。
不慣れな様子で撫でる掌は、硬くて動作はぎこちないけど、温かい。声も眼差しも慈しむように優しくて、何故だか目頭が熱くなった。
「兄様……、……っ!?」
私が強張っていた体の力を抜いた瞬間。
遠くで、ガラスが割れる音が鳴り響いた。
「何っ!?……に、兄様!?」
弾かれたように身を起こす。だがソファーを下りる前に、兄の手に止められた。
「大丈夫だ」
「な、なにが……何が大丈夫なんですか!」
兄様は至極冷静に告げた。
異常を知らせる音は、兄様も聞いた筈。それどころか現在進行形で、城内は騒然となっている。叱咤する怒声に、複数が駆け抜ける足音。明らかに何事かが起きているのに、一体何が大丈夫なんだ。
「ここにいなさい。大丈夫だから」
「……っ」
兄様は真っ直ぐに私を見ていた。
かち合った瞳は、微塵の揺らぎも無く、ただ私を正面から映す。
「ローゼ」
「にい、さま……っ」
腕を引かれ、抱き締められる。喧騒を遠ざけるように兄様は私の頭を抱え、胸に押し当てられていない方の耳を、掌でそっと塞いだ。
もう何も聞こえない。自分と、兄様の心音以外、何も。
今、私がこうして兄の腕の中で守られている間にも、『何か』は起こっている。
おそらくルッツ誘拐計画に関わる何かが、動き出している。そしてそれは、兄の知るところなのだろう。
こうして悠然と構えていると言う事は、現状の喧騒も全て、兄様の予測の範疇内で。兄の元に報告が来ないと言う事は、近衛騎士団も予期していた出来事なんだろう。
目標であるルッツやテオにも、たぶん知らせは行っている。
知らないのは……蚊帳の外は、私だけ。
役立たずな、私だけだ。
「……っ」
何が、何かしたいだ。私には、何も出来無い。
前世の記憶があるからって、未来の出来事が分かっているからって、私自身には、何の力も無いのに。
一人でなんとかしようなんて、自惚れだ。
こうやって、守られていることが、答え。
私は、無力だ。
「……泣くな」
苦い声音が、耳朶を打つ。兄様は耳を塞いでいた掌を滑らせ、私の頬を拭った。
「信頼を押し付けても、知らせず守っても、結局はお前を泣かせてしまう。……私は駄目な兄だな」
「ちがい、ます」
悪いのは兄様ではなく、私だ。
信頼を受け止めるだけの強さも持たず、信頼し全てを預けるだけの柔軟さも持てない、中途半端な私のせいだ。
もっと強くなりたい。
歯痒さとともに強い渇望が、胸の奥底からこみ上げてきた。
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