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閑話 幸せの定義、幸せのありか5:女の事情

「頭が痛くなってきた……」

「でしょうね」


 初めて聞く母親の話。最初こそ目をキラキラさせていた夏織だったが、話が進むにつれて顔色が悪くなってきた。


「お母さん……本当に私のお母さんなのよね……?」

「戸籍まで確認しなかったけれど、おそらくそうでしょうね」


 夏織はがっくりと肩を落とすと、指先で畳を弄り始めた。どうも、脳内で勝手に母親像を創り出していたらしい。現実とのギャップを上手く呑み込めないでいるようだ。


「まあ……確かに、秋穂はちょっと頭が残念だったけれど」

「その言い方酷くない!?」

「事実だもの、仕方ないわ」


 クスクス笑って、目を細めて夏織を見つめる。


「でも、母親としては悪くなかった」

「……そ、そうなんだ」


 夏織はほんのりと頬を染めると、膝を抱いて顔を埋めた。


「お父さんは亡くなってたんだね。残念だな。でも、お母さん、か……」


 夏織は噛みしめるように呟くと、目を瞑った。

 明らかになった自分のルーツ。それは、夏織に少なからず影響を与えているのだろう。


 人間は変わりやすい。母親のことを知った夏織は、きっと昨日までの夏織とはまた別のなにかに変化を遂げる。これからもたらされる情報は、彼女をどう変えていくのだろう。


 ――大丈夫よね? この子ももう大人だもの。すべてを知っても、きっと大丈夫。


 心の中を渦巻いている不安を払拭するように、自分に言い聞かせる。

 すると、目をゆっくり開けた夏織は、あたしに遠慮がちに訊ねた。


「にゃあさん。あの……お母さんがいたなら、どうして私はそのことを知らないの? もしかして、お母さんは今もどこかで生きているの? それとも……」


 そしてなにかを堪えるみたいに唇を引き締めると、重ねて質問した。


「お母さんになにかあったの」


あたしは火鉢に視線を落とすと、ゆっくりと口を開いた。


 

* * *

 


「……迂闊だったわ」


 部屋の隅に積んであった座布団の中に籠城してぼやく。秋穂はというと、座布団の隙間をのぞき込み、必死にあたしを誘い出そうと猫じゃらしを振っていた。


「猫ちゃん。話せるなんてすごいね~。おねえさんとお話ししない?」

「おねえさんじゃなくて、おばさんじゃないかしら。年齢的に」

「辛辣! でもわかる」


 隠すのも面倒だと、開き直って普通に喋る。秋穂はケラケラ楽しげに笑うと、猫じゃらしを引っ込めて、別のものを差し出してきた。


「はあい、海老の天ぷら。いかが?」

「…………」


 香ばしい匂いが鼻について、そういえばしばらくなにも食べていないことを思い出す。途端にお腹が悲鳴を上げて、ため息を零した。


「卑怯だわ……」

「人間様の知能を馬鹿にしたら駄目よ?」


 どこか得意げな声に苛つきつつも、座布団から顔を出す。すると、目の前に天ぷらが乗った小皿が差し出されたので、遠慮なしに齧り付いた。


「……冷たい」

「あら」


 けれども、すぐに顔を顰める羽目になった。猫舌なので熱々は御免被るが、流石に冷え切った天ぷらというのも勘弁してほしい。硬くなった衣、油のべっちょりとした食感に思わず文句を零すと、秋穂はクスクス笑いながらごめんなさいね、と謝った。


「お客様の食べ残しだから。できたてじゃなくてごめんね」

「……残飯を従業員に食べさせるわけ? この宿」

「ううん。私が進んでやっているの。食費も浮くしね。それに居候だから」


 そう言って、秋穂はこれまた硬そうな薩摩芋の天ぷらに齧り付いた。やはり、そう美味しいものではないのだろう。数口食べただけで箸を置く。


「お金がないの?」


 あまりにも悲惨に思えて訊ねると、秋穂はヘラヘラ笑って頷いた。


「節約してるの。将来のために」

「だからって残飯はどうかと思うわ。夫が死んだんでしょう? 死亡保険金とか入ったんじゃないの」

「よく知ってるね? まあ……それなりに纏まった額は入ったんだけど。親友がお金に困っていたらしくって、貸しちゃったのよね」

「……少しでも返済してもらったの」

「ううん。連絡つかなくなっちゃった。きっと忙しいのね」


 ――お人好しが過ぎる……。


 呆れを通り越して、なんだか可哀想になってきた。思わずじっと見つめると、突然秋穂が顔を近づけてきた。その瞳は好奇心でキラキラ輝いて、まるで新しいおもちゃに出会った子どもみたいだ。


「ね、私のことなんかより、君の正体を教えてよ! お話しできる猫なんてすごいじゃない。それも、死亡保険金を知ってる程度には頭がいいみたいだし!」


 秋穂が伸ばしてきた手をひらりと躱して「別になんでもいいじゃない」と話題を逸らそうとする。しかし秋穂は諦める様子はまったくなく、じりじりとにじり寄ってきた。


「教えてくれないなら、勝手に妄想するわよ? あ、もしかして地球外生物? NASAに通報したら大金をもらえたりして!」


 秋穂の目に、尋常じゃない光が宿っている気がして冷や汗が出る。先ほど、お金がないと聞いたばかりだ。秋穂の鼻息の荒さがいやに生々しい。 


「ちょ……待って。落ち着いて。そんなお金になるものじゃないから」

「少なくとも、動物サーカスには売れると思う。ね? 君もそう思うでしょう?」

「本人に同意を求めてんじゃないわよ! 馬鹿なの!?」


 秋穂の手が伸びてくる。このままじゃ、なにをされるかわかったものじゃない。でも、夏織の母親なのだ。迂闊に手を出して怪我をさせてしまったら――。


 思考がグルグル回って正常な判断ができない。そのせいか、あたしは自分に鋭い爪があるのをすっかり失念して、まるでか弱い子猫みたいに目を瞑った。


「……ゲホッ。ゲホッ……」


 けれども、いつまで経ってもその手があたしに触れることはなく、聞こえたのは酷く苦しげな咳き込む声。同時に芳しい匂いがして、あたしはゆっくりと目を開けた。


 まるで熟れた石榴のように色鮮やかな液体が、糸を引きながら秋穂の指の隙間から滴り落ちる。ぽたん、ぽたんと水音を立てて、古びた畳に染みを作っているのは……血だ。


「ゲホッ。ごめん、はしゃぎすぎちゃった……」


 苦しげに咳き込みながらも、けれども懸命に笑顔を浮かべた秋穂に、あたしはどういう顔をすればいいかわからずに、思わず顔を逸らした。




 じっとりと湿気た布団に横になった秋穂は、息を整えると笑顔を浮かべた。


「びっくりさせちゃったね。ごめん」

「別にいいわ」


 前脚で顔を洗いながら答える。すると、秋穂はとても面白そうに言った。


「どうみたって猫にしか見えないのに、不思議。それで、本当に君はなんなの?」

「……まだ、NASAに売ろうと考えてるの?」

「あれは冗談よ。そうじゃなくってね……」


 秋穂は栗色の瞳をうっすらと細めると、軽い口調で言った。


「私は、君が死神なのか確かめたかっただけ」


 あたしは僅かに息を呑むと、じっと秋穂を見つめた。


 ――酷い顔色ね。どことなくやつれているようにも見える。服を脱いだら、かなり痩せているんじゃないかしら。不味そう。それに、食べ応えがなさそうな女。


「……あんた、死ぬの?」


 躊躇せずに訊ねる。すると、秋穂はまっすぐにあたしを見つめ返して言った。


「ええ。死ぬわ。末期がんなの」


 あまりにもあっけらかんとした発言に、あたしたちの間に沈黙が落ちる。

 夫に先立たれ、死亡保険金はだまし取られ、こんな劣悪の状況に落ち着いて、仕舞いには子どもが行方不明になった女。しかも死期まで自覚している。


 なんて不幸、なんて運のなさ、なんて悲惨な人生。

 なのにどうしてだろう?

 この女、目だけは――死んでいない。


 そこに得体の知れない恐怖を感じて、内心の動揺を悟られまいと視線を逸らして言った。


「悪いけど、死にかけの人間の魂を集めるような悪趣味な仕事はしてないわね」


 すると秋穂は拍子抜けしたような顔をして「残念」と答えた。

 部屋の隅に、子どものおもちゃが転がっているのを眺めながら話を続ける。


「あたしはただのあやかしよ。猫のね。それにしても……子どもがいるのに、死神を求めてるだなんて、どうかしてるんじゃない?」


 秋穂はクスクスと笑うと、母心故なのだと笑った。


「自分がいつ死ぬのかを知りたかっただけ。なるべく……あの子に多くのものを遺してやりたかった」

「行方不明だって聞いたけど?」

「よく知ってるわね?」

「チラシ、配ってるじゃない」

「あらまあ。あのチラシ、お化けにまで届いたの。すごいわね」


 秋穂は少し遠くを見やると、お腹の辺りを摩って言った。


「台風の日に行方不明になった娘。普通なら絶望的だと思うのだろうけどね。叔父さんも現実を見ろって怒ってたし。でも、私にはわかる。あの子は生きてる。今もどこかで」

「……どうして、そう思うの」


 すると、秋穂はニッと白い歯を見せて笑った。


「母親と子どもって、妊娠した時からずっとお腹で繋がってるのよ。だからわかるの。あの子とあたしの繋がりはまだ切れてない」


 だから帰ってくるのだと、秋穂は自信たっぷりに言い切った。


「直感ってやつ? そんな不確かなものに縋っているの?」

「不思議なことってあるものよ。実際、目の前にお化けがいるじゃない」


 返す言葉がなくなって口籠もる。すると、秋穂はフフンと得意げに笑った。


「変な女……」

「よく言われるわ」


 思わず零した本音に、秋穂は気を悪くする様子も見せずに、また少しだけ咳き込んだ。

 そしてちらりと時計を見ると、億劫そうに身体を起こす。


「ああ、おしゃべりが楽しすぎて忘れてた。行かなくちゃ……」

「どこに?」

「掃除よ。お風呂掃除。朝一番にお客様が気持ちよく入れるようにしなくちゃね」

「具合が悪いんでしょう? 他の誰かに頼めばいいじゃない」

「駄目よ、これは私の仕事。サボったらお給料を減らされちゃう。叔父さん、そういうところすごく厳しいのよ」


 秋穂は、宿の名前が入った半纏を着ると、フラフラした足取りで部屋の外へと向かった。

 憐れに思うほどに弱りきった様子に、堪らず問いかける。


「ねえ。頑張ったって、すぐに死ぬんじゃ意味がないじゃないの」


 すると、扉に手を掛けたところで、くるりとこちらに振り返って言った。


「私が生きるか死ぬかなんて関係ないわ。母親だもの。私がお金を稼ぐのは全部あの子のため。今の世の中、お金がないと幸せになんてなれないからね……」


 そして笑顔のまま続けた。


「ねえ、猫ちゃん。よかったらまた来てくれる? 私、お化けの友だちなんて初めてだから、とっても楽しいの」


 そして私の返事を待たずに、秋穂は部屋から出て行ってしまったのだった。

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