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若狭国の入定洞1:揺れる心

「泣くな、泣くな。大丈夫だ」


幼い頃、泣きじゃくる私を、東雲さんはいつもそう言ってあやしてくれた。

まだ小さい私を抱っこして、背中をポンポン叩く。普段は雑な手つきの癖に、そういう時はやけに優しい。そうされると、不思議と気分が落ち着いてきて、泣いて体力を消費していたこともあり、段々とウトウトしてくる。


私が微睡み始めたことを知ると、東雲さんはユラユラ揺れ始める。

東雲さんは、子どものあやし方を、ナナシやご近所の奥さんから教わったらしい。なのにどうしても慣れないらしく、少し不器用な揺れ方をする。


 ゆら、ゆら、ゆら。ゆうら、ゆらゆら、ゆうらり。

 一定じゃないリズムで揺れるものだから、時々覚醒してしまうこともある。けれど、それもまた無性に心地よくて、私は短い腕を東雲さんの首に回すと、ぎゅうと抱きついて目を瞑るのだ。


「なーんも、心配することはねぇよ。俺がいる。俺がいるからな」


子守唄は恥ずかしい。以前、東雲さんがそう零していたのを覚えている。

だから、私を安心させるように、東雲さんは言葉を重ねる。養父が口にする優しい言葉。それと、汗と煙草が混じった、東雲さんの匂い。

それはいつだって私を包み、守ってくれていた。


***


私とにゃあさんは、突然東雲さんが姿を消してしまった後、すぐに幽世に戻ってきていた。消えてしまったのは何かの手違いで、もしかしたら、貸本屋に帰ってきているかもしれない……そう思ったからだ。


 時はすでに、深夜を回ろうとしていた。町は静まり返っていて、幽世の赤っぽい空に薄ぼんやりと照らされている。誰もいない大通りは、まるで他人のような顔をしていた。そこには、私に声をかけてくれるお店の人も、立ち話をしてくれる近所の人たちもいない。普段の熱気が失われた町は、私を容赦なく冷たい空気で包み、決して優しさを見せてはくれない。


 大通りの端の端。そこに、幽世の貸本屋はある。到着するやいなや、私たちは店内や母屋中をくまなく捜した。けれど、何の明かりも灯っていない冷え切ったわが家で、養父の姿を見つけることはできなかった。


 泣きたくなって、道端に蹲る。けれど、何故か涙が出てこない。頭の中を支配しようと蠢いている不愉快な妄想や、胸の中に渦巻くモヤモヤとしたものを、涙に乗せて発散してしまいたいのに、視界が滲みすらしない。そればかりか、胸の奥がぽっかりと空いてしまったような、虚ろな感覚がする。

 

 ――どうしたんだろう。まるで、感情が枯渇してしまったような。


 いや、違う。胸の奥には、複雑な感情が渦巻いている。それを上手く表に出せないだけだ。悲しみと恐怖と後悔と――いろんな感情がせめぎ合って、頭が混乱しているのだろう。そう思い至った時、思わず苦笑を零した。これではまるで、先日までの元祓い屋の少年みたいだ。

 

「……水明に、えらそうなこと言えないな」


 ぽつんと呟く。そして、膝を抱え込んで目を瞑った。

 すると、店の周辺を捜してくれていたにゃあさんが戻ってきた。


「どこにもいないわ、あの馬鹿。まったく手間のかかる親父だこと‼︎」


 すると、苛立たしげに三本のしっぽで地面を叩いたにゃあさんは、私にまた自分の背に乗るように指示してきた。


「どこに行くの?」

「決まってるでしょ」


 そして、向かったのは――私の母代わりで薬屋、ナナシの下である。

 流石にこの時間ともなると、薬屋は店じまいしていた。奥の方から明かりが漏れている。まだ起きてはいるらしい。裏口から回った方がいいだろうかと考えていると、誰かが声をかけてきた。


「……夏織?」


 それは水明で、彼は周りに幻光蝶を侍らせながら、クロと一緒にそこに立っていた。その瞬間、にゃあさんの存在に気がついたらしいクロは、尻尾をお腹に巻いて、ジリジリと後退し始める。薬屋の屋根に登っていたにゃあさんは、チッと舌打ちすると私に言った。


「駄犬の態度、毎度ムカつくわね。ちょっと――お仕置きしてくるわ」

「え。今? 待って……」

「すぐ戻るから」


 にゃあさんはそう言うと、脱兎のごとく逃げ出したクロを追い始めた。……どうも、猫としての本能がクロに敏感に反応するらしい。私は、にゃあさんの姿が見えなくなると、途端に息苦しくなって、顔を顰めた。


 ――にゃあさんが勝手に行動するのはいつものことなのに、どうして、こんなに心細くなるんだろう。まるで、子どもに戻ったみたいだ。

私は深く嘆息すると、気分を切り替えることにして、水明に向かい合った。


「どこかに行っていたの?」


 すると、水明は小さく首を振って「頭を冷やしていた」と答えた。


「……頭? 何か、怒るようなことがあったの?」

「いや、問題ない。もう過ぎたことだ」

「そっか。ナナシに用があるんだけど、入ってもいいかな?」


 私がそう言うと、水明はこくりと無言で頷いた。そして、ポケットから鍵を取り出して、薬屋の扉を開ける。すると次の瞬間、ピタリと動きを止めた。それを不思議に思っていると、水明はおもむろに私に向かって手を差し伸べてきた。


「え……」


 その手に対して、どうリアクションすればいいかわからず困っていると、水明はボソボソと小声で言った。


「――迷子の子どもみたいな顔してる。繋いどけ」

「……」

「何があったのかは知らないが、俺に頼りたい時は頼れよ」


 それを聞いてもなお動けないでいると、水明は私の手をやや強引に繋ぐと、扉を開けて薬屋に入っていった。水明に手を引かれて、一緒に建物の中に入る。


 繋いだ手が熱い。夜の冷気に当てられて、冷え切った体がそこから温まっていくような感覚がする。……ああ、水明が前を向いていてくれてよかった。きっと、今の私はとっても変な顔をしているから、また心配させてしまうもの。

 

 私は、万が一にでも赤くなってしまった顔を見られないようにと、やや俯き加減になって、水明の歩調に合わせて歩き始めた。




 店舗を抜けて、薬屋の中庭に出る。銀木犀の香りで満ちているそこには、やけに険しい顔をしたナナシと、いつもどおりに怪しさ満点の玉樹さんの姿があった。


「おや! 貸本屋のお嬢さんじゃないですかい。東雲には会えましたか。それにしてもどうしたんです、真っ青な顔をして。酷く辛そうだ。ああ、俺も大概ですがねえ」


そう言った玉樹さんは、顔を歪めて自分の体を擦った。

それはどうみても、あの時、にゃあさんが押し倒しただけでは到底できない傷だった。大怪我と言っても過言ではない。全身至るところに湿布が貼られ、包帯が巻かれている。よくよく見ると、丸いサングラスにもヒビが入っている。よほど派手にやられたのだろう。


「フン、自業自得なのよ。この男のせいで、水明たちがどれだけ苦しんだと思っているの」


そう言ったのは、非常に機嫌の悪そうなナナシだ。ナナシは眉を釣り上げて、玉樹さんをじろりと睨みつけている。


「アンタの悪い癖。好き勝手に状況をかき回して、それで満足したら責任も取らずに去る。最低ね。水明からアンタのしたことを聞いた瞬間、殺そうかと思ったわ」

「ははは。耳が痛い。ですがね、姐さん。自分が一石を投じなければ、そこの祓い屋の少年は今ここにいないんですよ。あの時、自分にできることはなかった。後は本人次第。自分が何をしても余計なお世話。これ以上の親切はないでしょうに。赤ん坊じゃあるまいし、おんぶに抱っこというわけにも行きませんでしょう?」

「アンタねえ‼︎」


どうやら、水明がらみで玉樹さんが何かやらかしたらしい。ナナシが顔を真っ赤にして怒っている。普段から戯けることはあっても、あまり感情を乱さないナナシにしては珍しい。それとは対照的に、玉樹さんはうっすらと笑みを貼り付けたまま、飄々としている。そんなふたりを、水明はどこか憮然とした表情で見つめていた。その、複雑なものを抱えていそうな顔に、心配になって声をかける。


「水明、大丈夫?」

「問題ない。アイツの言うとおり、あの男がいなければ、俺は今でも苦しいままだっただろうからな。特に直接何かをされたわけでもないし、恩人は恩人だ。……だが、何というか」


水明は一瞬だけ言い澱むと、今度は玉樹さんに視線を向けて言った。


「あの男、どうにも信用ならない。だから、アレは敵でも味方でもない、そういうものだと理解することにした」

「少年、それはあんまりじゃないですかい? ほぉら。オジサンは、親切ないいオジサンですよ~」

「玉樹、アンタ黙ってなさい。よく言ったわ、水明。この野郎は、絶対に信用しちゃ駄目よ。そうだ。このことは東雲にも伝えておくからね。覚悟しておきなさいよ‼︎」

「うわ。それは勘弁してくださいよ。東雲の野郎、キレると手がつけられなくなるんですよ」


玉樹さんは、心底嫌そうに顔を歪めた。そうだった、東雲さんから原稿を回収する時は強気の玉樹さんだけれど、普段は東雲さんに怒られてばかりなのだ。玉樹さんが何かやらかすたびに、お酒を交わしながら説教するのが定番となっているくらいに。


「何をしたのか知りませんけど、あんまり東雲さんに負担かけないでくださいよ。ただでさえ、最近疲れ切って……」


苦笑しながら言って、途中で言葉を切る。何故なら、息が詰まりそうなくらい胸が苦しくなってしまったからだ。


 ……そうだ。私、東雲さんのことでここにきたのに。


 今の今まで、東雲さんのことを忘れていた自分に気がついて、罪悪感がこみ上げてきて堪らなくなる。自分のあまりの愚かさに、冷や汗が浮かんだ。


「夏織?」


すると、ナナシが心配そうに覗き込んできた。

私は、堪らずナナシに抱きついた。花のような華やかな香りに包まれて、ナナシの硬い胸に顔を埋める。ナナシは私を受け止めると、耳元でそっと囁いた。


「どうしたの? 何かあった? ごめんなさい、玉樹の野郎に気を取られて、気づくのが遅くなってしまったわ。こんな遅くにうちにくるなんて……何かあったのね?」


 ナナシは、琥珀色に優しい光を宿して、私がしゃべるまでじっと待ってくれている。私は、呼吸を整えると、ナナシに向かって言った。


「わ、私。どうすればいいかわからないの。助けて。東雲さんが消えちゃった……!」


そして、みんなに今までのことを話し始めた。

東雲さんを訪ねて、マヨイガに行ったこと。一緒にご飯を食べたこと。東雲さんの夢を知ったこと。東雲さんが――突然、消えてしまったこと。


 すると、玉樹さんが意外そうな声を上げた。


「おや、東雲の奴。内緒にして驚かせると息巻いていたのに、結局教えちまったんですかい」

「アンタは黙ってて。それで? 突然、東雲が姿を消したのね?」

「うん。紙が破れるような音がして……まるで、そこに初めからいなかったみたいに」


自分で口にしておいてゾッとする。そんなわけないのに、今までの幸せな生活が幻だったんじゃないかと眩暈がした。足に力が入らなくなって、へたり込みそうになる。すると、ナナシが私の体を支えてくれた。お礼を言おうと顔を上げると、ナナシが見たこともないくらい怖い顔をしていたので、思わず口を噤んだ。


「玉樹、アンタ心当たりがあるんじゃないの」


すると、玉樹さんは小さく肩を竦めて言った。


「まぁ、それなりに」


するとその瞬間、私を支えていた手が消えた。すとん、と地面に私のお尻が着地するのと同時に、ナナシの姿がいつの間にか玉樹さんのそばにあることに気がついた。ナナシは、玉樹さんの顔に手をかけると、その緑に染めた長い爪を頬に食い込ませた。


「――てめえ。どういうことか、白状しやがれ」


 怒気に溢れ、普段の女性らしい言葉遣いではなくなったナナシは、ゾッとするほどの迫力があった。ギリギリと締め上げられ、顔が歪んでしまっている玉樹さんは、脂汗をかきながら、ナナシの腕を降参とばかりにポンポンと叩いている。


「ナナシ、それじゃ喋られないだろう」

「あら、ごめんなさいね? つい」


 水明が教えてあげると、ナナシはやっと玉樹さんの顔から手を離した。解放された玉樹さんは、涙目になって自分の頬を撫でると、白濁した右目でナナシを見上げて言った。


「ハハ。流石のナナシも、東雲のこととなれば動揺しやがる。なかなか興味深い。……い、いやいやいや、冗談。冗談ですって⁉ そんな、痛いのはもう勘弁してください」


 すると、大慌ての玉樹さんは居住まいを正すと、ゴホン、と咳払いをひとつ。そして、私たちに向かって「心当たり」を話し始めた。


「新しいものが生まれる時というのは、いくらかの反発が起こるものでしてね。今回のそれは、まさにそれでしょう。これは、幽世に変化が起きるのを好まない奴らの仕業に違いありやせん」


 ――幽世の本質。それは「停滞」や「緩やかな変化」だ。

 目まぐるしく変化していく現し世とは違い、この世界には古いものが多く残っている。そもそも、現し世基準からすれば、あやかし自体も古きもののひとつと言えるのだろう。それらが集まり、ひとつの形を成しているのが幽世。変わらぬものが、今もまだ残っている世界だ。


「俺はこうも思っているんですよ。『変わらないもの』に価値を見出す奴らが集まったのが、幽世だとね。だから、そういう考えを持つ奴らは『変わる』ことに対して酷く臆病だ」


 そして、東雲さんがやろうとしていること……書籍の発行は、もちろん初めての試みだ。今まで何も生み出してこなかったあやかしが、自分たちの手で何かを創り出す。現し世で作られたものを享受するだけでは飽き足らず、自分たちから発信する――これが上手く行けば、今後、幽世発の作品がどんどん生まれるかも知れない。


「そうなったら、幽世は活性化するでしょうなあ。創作は議論を生み、考察を深め、感動を呼び、想いを作り出す。きっと、東雲に触発された何人ものあやかしが、筆を執ることでしょう。創作だけじゃない、新しいものづくりに目覚める奴も出てくるかもしれません。自分たちでも何かを創り出せる。その衝撃は、想像するよりも遥かに強い力を持っている。幽世が、根本から変わるかも知れやせん」


 すると、玉樹さんは目をとろりと蕩けさせた。頬を上気させて、口を半開きにする。そして左手を大きく広げると、まるで宙に何かを見ているかのように――熱狂的に言った。


「結果――古いものが淘汰されていく……! 新しいものが生まれたら、古いものが消えていくのは必然! ああ、変化というものは素晴らしい‼ それが生まれる時、結束力が生まれる。今までは、何にも関心を持たずにいたあやかしも、誰かと協力して何かを生み出そうとするかも知れない。美しいことだと思いませんかい……?」


 ――だから、古いものは駄目だ。古いものはすべてを腐らせる。これからはもっと新しいものを作っていかねばならない、と玉樹さんは語った。


「……」


 私はナナシや水明と視線を交わすと、曖昧に微笑んだ。玉樹さんの言っていることは、正しいことのように思える。停滞し、変わらないことによって、消えてしまうものもあるのだ。たとえば、本に遺されなければ、誰にも知られずに消えてしまうマイナーなあやかしのように。彼らの生きた証を遺すためには、誰かが動かねばならないのだろう。


 けれど、同じようなことを言っていた東雲さんと違って、玉樹さんの言葉はどこか簡単に受け入れがたい雰囲気があった。きっとそれは――。


「古いものは捨て去りましょうや。全部を変えていきやしょう? ああ、それがいい‼」

 

 玉樹さんの口ぶりが、新しいものを求めるというよりかは、古いものへの憎悪とも呼べる、粘着質で仄暗い感情で満ちていたからだろう。


 思わず黙り込むと、ナナシが盛大にため息をついた。

 ナナシは、深緑色の髪をかき上げると、渋い顔になって言った。


「アンタがどういう考えを持っているかはわかった。それも……間違いではないと思うけれどね。それにしたって、新しいことを始めるだけで、人に害を与えるほど反発する輩がいるってことよね? 正直、信じられないわ」

「新しいことには、リスクがつきものですぜ? ナナシ」

「……それは、そうかもしれないけれど。まあ、その議論は後にしましょ。それよりも、東雲を拐かした野郎は誰。それも心当たりがあるんじゃないの」


 すると玉樹さんは、綺麗に整えられた髭をショリショリと指で撫でると、どこか考え込んでいるような様子で言った。


「……犯人の目星はついてますがね」

「ほ、本当⁉」


 思わずその言葉に食いつくと、玉樹さんは苦い笑みを浮かべて言った。


「そんなに、養父が心配ですか。何とも微笑ましいことで。まあ、犯人の下へはすぐにでも行けるでしょうが……それよりも先に確認したい場所があるんですが、いいですかい?」

「……それは、東雲さんを助けに行くよりも大切なこと?」

「もちろんでさあ。何せ、そこには――……」


 玉樹さんは、目をうっすらと細めると、白濁した右目で私を見て言った。


「東雲の『本体』がありましてね」

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