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閑話 幻光舞う幽世で、想うは大切な人のこと6

 ――翌朝。今日はあいにくの雨だった。冷たく、糸のような雨が四方を部屋で囲まれた庭を濡らしている。絶え間なく、雨音が庭に……そして部屋の中に満ちて、空中の汚れをすべて洗い流してくれるようだ。


「また、今日もひとりで出かけるの?」


 そんな中、自室で出かける用意をしている俺に、クロは、「くうん」と物悲しげに鳴いた。俺は、クロの傍にしゃがみ込むと、その体を抱き上げた。


「心配するな。仕事は順調だし、最近は俺も稀人として認められてきて、ひとりで出かけても、危険な目にあうことは少なくなった」

「でも、何があるかわからないじゃないか。できれば、途中まで送らせてくれよ」

「駄目だ。この仕事は、ひとりでと言われている」


 俺がそう言うと、クロは不満げに尻尾をゆっくりと振った。

 ……ああ、自分を心配してくれている。俺は、そのことをしみじみと実感すると、クロの暖かな毛に顔を埋めた。


「……何て言ったらいいかわからないけど、この仕事はひとりでやるべきだと思うんだ。きちんとやり遂げられたら、ちゃんとできるようになる気がする」

「――何を?」

「怒ることを、だ。クロ」


 クロは俺の言葉を理解できないのか、キョトンと首を傾げた。

 俺は小さく笑うと、クロの鼻と自分のそれをくっつけた。


「大事な人を馬鹿にされたり、傷つくようなことを言われたら、きちんと怒れるように」

「もしかして、この間のことを気にしてるの? オイラ、全然気にしてないよ」

「そういうことじゃないんだ。これは俺の問題だから。だから――待っていて欲しい」


 すると、クロはつぶらな瞳を潤ませると――ぺろりと俺の鼻の頭を舐めた。それがくすぐったくて、小さく笑みを浮かべる。すると、クロは調子に乗ったのか、小さな前足を俺の首もとに乗せて、更に俺の鼻や口を舐めた。

 ――ぺろり、ぺろ、ぺろり。


「こら、クロ。くすぐったい。やめろ……」

「いいだろ、これくらい。これがオイラたちの愛情表現なんだから‼」


 ――ああ、こういう方法もあるのか。

 俺は小さく笑うと――もう一度、クロを強く抱きしめた。


「今日も仲がいいわね」


 声がしたので振り返ると、部屋の入り口にナナシが立っていた。ナナシは、俺と目が合うと、手に持った薬の袋を掲げた。


「これ、今日のぶん」

「ありがとう」


 それを受け取ると、ナナシはまじまじと俺を眺めた。


「水明。――最近は、よく眠れている?」

「相変わらずだ。こればかりは仕方ない」


 すると、ナナシはおもむろに俺の髪に触れた。


「――寝癖。もし……もし、水明が薬を飲んでもいいと思ったなら、すぐにでも相談して頂戴。本当は、飲まないで眠れるほうがいいに決まってるんだけど」

「……わかった」


 どうも、心配させてしまったらしい。俺は小さく頷くと、「すまない」と礼を言った。すると、ナナシは眉を下げて笑った。


「はやく、この世界を信じられるといいわね」


 驚いて、ナナシの顔を凝視する。


「わかっていたのか」

「そりゃあね」


 ナナシは、「それも仕方ないことよ」と少し淋しげに笑っている。


「アンタは、あやかしと敵対していた祓い屋なのだもの。人間とアタシたちは何もかもが違う。すぐに信用できなくたって仕方ないと思うわ」

「……それは」

「ここで育った夏織とは違うんだからね。ゆっくり、時間をかけて歩み寄って行ければいいと思ってる。大丈夫、アタシもアンタに信じて貰えるように努力するわ」


 ナナシは柔らかく微笑むと、「今日も頑張んなさい」と部屋を出ていった。

 思わず、その後を追いかけて部屋を出る。声をかけようとしたけれど、何を話すべきかわからなくて口を閉ざした。


 ――信用。そして、信頼。信じる心。


 ……多分、俺はクロに対してはそういう感情を抱いているように思う。

 でも、その他の相手にそういう感情を抱くには、どうすればいい。心を預けられる相手だと、どうやって判断するんだ。

 感情というものは、あまりにも複雑すぎる。これじゃあ、人形であった時の方がマシだ。

 誰か――俺に答えを教えてくれ。


 俺は強く手を握ると、ナナシの後ろ姿を見つめた。

 その時、ふと甘い香りが鼻をくすぐった。それは銀木犀の香り。銀木犀が庭中に放っているその香りは、押し付けがましくない程に甘く、どこまでも優しかった。




「ああっ、ああああぁぁあぁあああああああ‼」


 女性の下を訪れるようになって、五日目。

 初めは穏やかだった女性は、時折、発作的に感情を乱れさせるようになっていた。


「ああっ‼ 私の可愛い子……‼」


 女性の叫びが、座敷牢に響いている。それを聞く度、あんなに落ち着いて見えても、女性の魂は転生に耐えられないほどに傷ついていたのだと実感する。どうやら女性は、子どもに関して、悔恨の情に駆られているようだった。おそらく、何か不幸なことがあったのだろう。

 感情に疎い自分でも、子どもに何かあれば悲しみに暮れるだろうことは想像に難くない。しかし、女性はただ悲しんでいるだけではなかった。


「どうしてっ……‼ 私……私さえ、あの子の傍にいてやれたなら……‼」


 女性はそう言って、座敷牢のあちこちに自分の体を打ち付ける。ドォン、と激しい音がして、柱が揺れてパラパラと石片が落ちてくる。


「あの子を守れなかった私に存在価値はあるの。愛する子を幸せにできなかった私に‼」


 女性が抱いていた感情――それは「怒り」だ。

 彼女は、苛烈すぎるほどの怒りを自分自身に向けていた。


 一度、怒りの感情が暴走し始めると、自分では押さえきれなくなるらしい。そうなると、女性はいつだって自分を傷つけ始めた。その様子はあまりにも異常で痛々しく、初めて見た時は思わず助けを呼んだほどだった。


 けれども、生者ではない女性にとって、自身を傷つける行為は特に意味はないらしい。体は傷つかず、痛みも感じない。それは、自身に罰を課すように自傷行為をしている女性にとって、非常に虚しいものなのだろう。次第に、子どもへの謝罪の言葉に変わるのが常だった。


 そんな女性を、俺はただ見守ることしかできなかった。

 彼女の事情や悲しみ――そして、怒りを理解していない俺が何を言っても、通じないと思ったからだ。俺は何もできずに、女性が落ち着くまでひたすら待ち続けるしかなかった。


「……どうして……っ‼」

「……」


 今日も、徐々に女性の言葉が嗚咽に変わっていく。

 俺は、今日貸し出す予定だった本を強く握りしめた。女性はとても辛そうで、その苦しみを一刻も早く和らげてやりたいと思った。だから、俺は本を手に女性が落ち着くのを待っているのだ。今は怒りに染まっている彼女も、この本を手に取ってくれさえすれば――きっと、またあの穏やかな声を聞かせてくれるはずだから。


 ――何せ、この本は彼女を救うための「蜘蛛の糸」。あの人を救うための唯一の希望だ。


「おやまあ。今日も派手にやったね」


 するとそこに、八百比丘尼がやってきた。その瞬間、座敷牢の中に煙草の匂いが漂い始める。俺は顔を顰めると、八百比丘尼をじろりと睨みつけた。


「――……ひとつ聞かせろ。前に言っていた、俺に『ぴったり』というのは、どういう意味だ。あの人のように、コントロールできないほどの激情に振り回されて、正気を失うのが『怒り』なのであれば、それを教えてやろうとお前は俺をここに寄越したというのか」


 八百比丘尼に詰め寄る。すると、八百比丘尼は俺の顔に煙草の煙を吹きかけてきた。思わず、それを思い切り吸い込んでしまい、むせてしまった。どこか苦さが混じった独特の香りに顔を顰めていると、八百比丘尼は「フン」と不機嫌そうに顔を顰めて、「自分で考えるんだね」と俺を突き放した。


「何もかも教えるほど、私は優しくないんだよ」

「ゲホッ……だ、だが……」

「だが、も何もない。アタシは、ただ仕事をしているだけ。それに、心や感情ってもんは、その人だけのものさ。真似たって、その感情を手に入れたことにはならない」


 八百比丘尼は、すうと瞳を細めると、俺を冷たく見下ろして言った。


「ねェ、少年。感情ってもんは、劇薬みたいなもんさ。沈んだ心をみるみるうちに癒したかと思うと、途端にどん底に落とすこともある。ちっともコントロールできやしない。それがあるおかげで、人間は幸福を感じるんだろうが、時に感情が人を殺すことすらある」

「――……何がいいたい」

「アンタが欲しがっている『感情』さえなければ、きっとこの座敷牢は空っぽだったはずってことだよ」


その時、突然女性が格子戸に体を打ち付けた。


「ああああぁぁあぁああぁ‼︎」

「うるさいね。叫んだって哀しんだって、泣いたって……何も変わらない。今更足掻いたって、無駄だって気づくんだね」


八百比丘尼は、怒りと悲しみでのたうち回っている女性に、冷たい視線を注いでいる。 俺は、どうにもやるせなくなって言った。


「無駄じゃない。馬鹿なことを言うな。俺が毎日届けている本を読めば――救われるのだろう? あの本こそ、この人を救うものだ。その証拠に、本を届けると、とても落ち着くように見える」


 すると、八百比丘尼は肩眉を上げて、呆れたように笑った。そして、女性がいる座敷牢を眺めると、どこか気だるげに言った。


「その本じゃあ、この魂は救えないよ」

「え?」

「言ったじゃないか。救えない魂もあるって。本だの、映像だの、思い出だの……それだけで救える奴なんてほんの一握りだよ。……ああ、哀しいねェ。哀しいよ。この世は、どうしてこうも哀しいことばかりなのか」


 そして、歌うようにそう言うと、踵を返して俺に背を向けた。


「救いなんて、滅多に転がってるもんじゃないんだよ」


その後ろ姿は、どこか寂しそうで。黒い衣で包まれた彼女の背中が、小さく見えた。


「――……何でだ」


 俺は、今日女性に渡すはずだった本をじっと見つめて、八百比丘尼に向かって叫んだ。


「この本が彼女を救えないのなら、どうして俺に持ってこさせたんだ‼︎」


すると、八百比丘尼はぽつりと言った。


「救えるものなら、救いたい。そう思ったからねェ。……何はともあれ、金は払ったんだ。残りの日数も頑張るんだね」


そして、ヒラヒラと手を振ると、去っていってしまった。


「救えないとわかっているのに、救いたい? ……どういうことだ」


何がなんやらわからない。頭の中がグチャグチャして、大声を出して滅茶苦茶に暴れたい気分だ。


「――どうしたの?」


すると突然、女性が声をかけてきた。知らぬ間に、発作的な衝動が収まっていたらしい。まるで先ほどまでの激情を忘れてしまったかのような女性は、格子戸の奥から白い手をすらりと伸ばすと、手招きをした。

ゆっくりと女性に近づく、そしていつものようにその手に薬と本を乗せようとして――「違う」と言われてしまった。


「おばさんに触るのは、嫌?」


女性はそう言うと、クスクスと笑った。

どうやら、手に触れろということらしい。俺は、一瞬躊躇したものの、恐る恐るその手に指先で触れた。


――その手には、まるで体温がなかった。

まるで、石壁を触った時のように冷え切っている。けれども、青白く、たおやかなその手は、吸い付くように滑らかで、触り心地がいい。

 

俺が触れると、女性は自ら手を伸ばして、するりと俺の手を撫でた。


「温かい手ね。まるで、あなたの優しさを表しているみたい」

「――ッ‼︎」


俺は、勢いよく手を引くと、激しく首を振った。


「俺は優しくない。ろくに怒れもしない、感情を表に出せない人形が、優しいはずがないだろう」

「人形?」

「そうだ。俺は――感情を殺せ、人形であれと父親に……その周囲に育てられた」


……ああ、胸が苦しい。

この苦しさは、「愛」由来のものではないことはわかる。息苦しく、目を回してしまいそうな、膝を抱えて蹲って耐えたくなるほどの苦しさ。夏織の言うとおりだ。苦しさにも色々とあるらしい。思わず、顔を顰めて俯いていると、女性が言った。


「ねえ、もう少しこっちにいらっしゃい」

「……?」

「格子戸に寄りかかるみたいに。そう、ありがとう」

 

何となく、言われた通りに格子戸の近くに座る。すると、女性は暗い闇の向こうから両手を伸ばして――俺を抱きしめた。あまりのことに、驚いて固まっていると、女性はゆっくりと言った。


「いい子ね。いい子……本当にいい子ね。人形だなんて、辛かったでしょう」


そう言って、俺の耳元に口元を寄せると、まるで小さな子どもに語りかけるような口調で言った。


「感情が上手く表せなくて、困っているのね。でも、何も焦ることはないわ。知っている? 人間はね、一番最初に泣くことを覚えるのよ」

「……?」

「驚いて泣いて、お腹が空いて泣くの。赤ん坊だもの仕方ないわよね」


女性はクスクスと笑うと、話を続けた。


「そして、次は笑うことを覚えるの。最初はね、心が伴わないのよ。『新生児微笑』とか『生理的微笑』なんて言われるもので、神経の反射で笑ったように見えるの。でも、次第に笑い方を覚える。楽しいことを知って、愛する人の顔を覚えて笑う。自分の中から溢れてくる気持ちを伝えようと、大好きよって笑うの……」

「そうなのか」


どうやら女性は、子どもの発達のことを語っているらしい。人は初めから豊かな感情を持っているものだと思っていた俺は、その話に興味深く耳を傾けた。


「それで、一番最後に覚えるのが怒りの感情。その頃になると、もう赤ちゃんじゃないわね、幼児って言ったらいいかしら。幼児はねぇ、本当に自由に怒りを撒き散らすのよ。イヤイヤ期なんて言われて、親はとっても苦労するんだから」


女性は格子戸越しに俺を抱きしめる手を強めると、どこか噛み締めるように言った。


「あなたが怒れないのは、ごくごく当たり前のこと。人は順番に成長していくものなのよ。大丈夫、あなたは笑えているし、泣くこともできる。怒れなかったんじゃない。まだ、怒ることを覚えていないだけ。怒りの感情を覚えるまで、もう少し。そういう感情を育てるにはね、本が一番。だから、たくさん本を読みましょう。だって――」


――あなたの人生は、始まったばかりなのだから。

女性はそう言うと、俺の手首に何かを着けた。


「これ、お守りよ。黒い玉と赤い玉が綺麗でしょう。私の大好きな色。よかったら受け取って。どうか、あなたの人生に幸運がありますように」

「……」


……ああ、まただ。

 また、胸が苦しい。この苦しさは何だ。鼻の奥がツンとして、何故だか唇が震える。


「…………どうして、そう思うんだ」

「なあに?」

「どうして、俺の人生が始まったばかりだと思う?」

「だってあなた、子どもと同じ成長過程を経ているでしょう? 泣いたり、笑ったりはできる。でも、怒ることはまだできない」

「俺は、お前の前で泣いたことはないはずだ」

「そうね。この間は、何となく雰囲気で笑っていると思ったけれど、今日は違うのよ」


女性は、俺の髪をゆっくりと撫でると、小さな声で言った。


「だって、あなたの温かい涙が、私の腕を濡らしているもの」

「〜〜ッ‼︎」


俺は、嗚咽が漏れないように奥歯を噛みしめると――女性の腕に、そっと自分の手を添えた。女性の腕も、手と同様にとてもひんやりとしていた。けれども、その冷たさはどうにも心地が良くて、俺はしばらくの間、その場を動けずにいた。

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