閑話 幻光舞う幽世で、想うは大切な人のこと2
「あら、炎症が酷いわね。薬を出すわ。水明、薬を調合してくれる?」
「わかった」
「クロは、お客様にお茶菓子を出してね」
「うんー!」
俺に指示を飛ばしたナナシは、患者とにこやかに話をしながら、他に必要な薬を用意し始めた。すると、酷い口内炎で苦労していたらしいあやかし「垢舐め」は、ほう、と安堵の息を漏らして、頭を下げた。
「安心した。ありがとねえ……。最近は、垢を舐めるのが辛くて、辛くて。これでまた、元気に舐められるわ」
「働きすぎよ。胃が疲れてるんだわ。少し休んだ方がいいわよ」
「そうしたいのは山々なんだけどね。ひとり暮らしの男の家だと、風呂に垢がたんまりなもんで。どうにもこうにも止められなくて……」
垢舐めは、長い舌をぬるりと動かすと、「ウッ」と顔を顰めた。どうやら、口内炎が染みたらしい。ナナシは鮮やかな深緑色の髪をさらりとかき上げて笑うと、大陸風の服から伸びた長い足を組み替えて言った。
「ほんの数日休むだけよ。それだけで、また元気に仕事ができるんだから。休むことは大切なことなのよ。後々、結局は自分のためになる。無理は禁物よ。体だけじゃなくて、心まで擦り減ってしまうわ」
ナナシはそう言って、茶目っ気たっぷりにウィンクを投げた。艶めいた雰囲気を持つナナシがそれをすると、やけにしっくり来るから困ったものだ。涼しげな琥珀色の瞳、深緑色の長い髪に、普通よりは遥かに小ぶりな頭、それに捻じくれた牛の両角――少々、普通の人間の感覚からすると特殊な見かけをしているけれども、ナナシはそれすらも妖艶だと思わせる魅力を持っている。きっと、そこいらのうぶな男性なら、今の一撃で首ったけになっていたかもしれない。
けれどもウィンクの相手は、一見すると嗄れた老婆のような姿をしている垢舐めだ。垢舐めは、ナナシの色気に当てられるどころか、プッと小さく噴き出すと肩を竦めた。
「そうだねえ。そうしよっかね」
「今日は、口内炎に直接塗る薬と飲み薬を出すわ。使い切っても治らないようならまた来てね。別の病気だと困っちゃうもの」
すると、垢舐めは満面の笑顔になって、大きく頷いた。
――幽世には、厳密に言うと医師はいない。
何故ならば、大多数のあやかしたちは、たとえ重症を負ったとしても自力で治癒することを選ぶ。キジムナーたちのように、自然の中で生きている者たちほど、その傾向は顕著だ。感覚が野生の動物に近いのだろう。現代に生きる人間からすれば、非常に素朴な生活をしている彼らにとって、医療機関というものは決して身近なものではない。
けれど、幽世の町には「薬屋」が存在した。幽世の町には、頻繁に現し世に出入りしているあやかしも多く、医療機関に馴染みがある者が多かった。同時に、祓い屋とのトラブルを抱えているあやかしも少なくなく、怪我の頻度も地方のあやかしと比べると多い。
よって、幽世一大きなこの町では、治療に対するニーズがあった。
「薬屋」では、名の通りに薬を販売するだけでなく、簡単な治療行為も請け負っている。それらを取り仕切っているのは、「ナナシ」だ。名が無いから、ナナシ。どこか大陸を思わせる恰好をしているナナシは、謎めいた雰囲気を持っている。
そして、クロと再会し、祓い屋を廃業することを決めた俺に、一緒に薬屋で働かないかと誘ってくれたのもナナシだ。
「うーん! これで、今日の診察は終わりね。ご苦労さま」
垢舐めが帰ると、ナナシはぐんと背伸びをした。秋は、冬ごもりの準備を始めたあやかしたちが、一冬ぶんの薬を貰いにくるため割りかし忙しい。けれども、それもピークを過ぎるまでだ。ここ数日は客も少なく、幾分かはゆっくりとすることができた。
「水明、中庭でお茶にしましょ。クロちゃんに準備をお願いしてあるの。夕食の支度はそれからでもいいでしょう?」
「ああ、わかった」
俺は、調合台の前から離れると、庭に足を向けた。
薬屋の店内は、どこか異国の匂いがする。複雑な、それでいて美しい文様の中華風の欄間に、鮮やかな赤を基調とした小物があちこちに飾られ、正方形の小さな戸棚がいくつも並ぶ薬棚が、調合台を囲むように設えられていた。
白い土壁に沿うようにして置かれた戸棚には、様々な薬の材料が入ったガラス瓶が置かれ、その種類は数え切れないほどだ。乳棒や乳鉢の置かれた調合台には、薬効が記された書簡が並び、店内には独特の匂いが充満している。
店の奥には、四方を部屋で囲まれた中庭があった。それは確か、中国――特に北京市街などでよく見られる、四合院と呼ばれる形式だったと思う。中庭を中心に、東西南北に部屋を造る独特な様式で、かつて中国ではそこに一族で住んでいたらしい。
北側にある「正房」は、この家の主人であるナナシが住んでいる。俺たちは東側にある「東厨房」の部屋を使わせて貰っていて、西側の部屋にはナナシの大量の衣類が収めてあった。そして、南側は薬屋の店舗となっているのだ。
「水明! こっちこっち!」
中庭に足を踏み入れると、俺の姿を見つけたクロがはしゃいだ声を上げた。中庭に用意されたテーブルには、ナナシご自慢の中国茶が用意されている。
俺は、ゆっくりとクロの下へと向かった。途端に甘い香りが鼻を擽る。それは、庭に植えられている銀木犀の香りだった。花の盛りはそろそろ終わるはずだが、濃緑の葉の間から顔を覗かせる白い花からは、まだまだいい香りが漂ってくる。銀木犀は、金木犀よりは香りが控えめだ。その香りは優しく、そして、押し付けがましくない程度には甘い。
中庭を彩るのは、何も銀木犀だけではない。薬用にもなる秋の花々があちこちで競うように花をつけ、庭は雑多な色で溢れている。竜胆、吾亦紅、彼岸花……不思議なもので、それらの花の命は現し世よりもずっと長い。
芳しい香りで包まれ、花で彩られた中庭を照らすのは、幽世の不思議な空に浮かぶ星々。そして――渡り廊下に下げられた、鳥かごに閉じ込められた光る蝶たちだ。星々と蝶の明かりにぼんやりと照らされた、秋の匂いに溢れた中庭は、いつだって俺を優しく受け入れてくれる。
「ああ、喉が乾いちゃった」
椅子に座ると、するとそこにナナシもやってきた。
ナナシは、鼻歌交じりに中国茶を淹れると、くいと一気に飲み干した。
「くぅ~~‼ 効くわ。やっぱり、仕事終わりにはコレね‼」
その瞬間、ナナシが纏っていた艶やかな雰囲気が霧散してしまった。
すると、それを見ていたクロがぼそりと呟いた。
「仕事終わりのオッサンみたい」
「あら、そうかしら」
ナナシは、ちらりとクロに視線を向けると、匂い立つような艶やかな笑みを浮かべた。そして、やけに筋肉質な腕を伸ばしてクロを抱き上げると――額の中央にある、第三の目をカッと開いて凄んだ。
「確かに、生物学上は男だけれど‼ アタシの心は乙女なのよ‼ だから、そういう風に言うのは止めてくれるかしら。乙女の心は、豆腐よりも脆いのよ‼」
「嘘つけー‼ オイラ、その豆腐がコンクリート製だって知ってるんだからな‼」
「コンクリートだって、ショベルカーにかかれば壊れるでしょうが⁉」
「それを脆いって言うのは、ちょっと無理があると思うよ……⁉」
――そう。ナナシは一見、美女に見えるオッサンだった。
女性の恰好をしているのは、ただの趣味なのだそうだ。本人曰く、「美女の方が何かと便利」らしい。……一体、何が便利なのだろう。そこは、知らないでいた方が平和に違いない。
クロとナナシの、騒がしい声が中庭に響いている。
ここにきた当初は大人しくしていたクロだが、最近はこんな風に遠慮しなくなってきた。体調を崩したりもしたが、ここのところは楽しく過ごしているようだ。調子に乗って、ナナシに対して減らず口を叩くのが玉に瑕ではあるのだが……。
「オッサンだけど、ナナシは見たこともないくらい綺麗だから、オイラ困っちゃうんだよなー! 性別って何だろうって悩んじゃって! もう。やめてよね!」
「……えっ、あ。うん。綺麗とは思ってくれているのね?」
「当たり前でしょー⁉ ナナシは綺麗だよ」
クロは、さも当たり前のように言って、ヒュンヒュンと尻尾を振っている。すると、ナナシは満更でもない様子で笑うと――丁寧な手付きでクロを椅子の上に下ろして、自分のぶんの茶菓子をその前に置いた。
「クロちゃん、これあげるわ」
「わあい! くれるの? やったー!」
……と、まあ。問題の減らず口も、こんな風に大概がクロの天然な発言で終止符を迎えるので、一時の戯れだと思って見守ることにしている。
「そういえば、水明」
すると突然、ナナシがこちらを向いた。ナナシは、茶器を片手に俺の様子をじっと窺っている。
「最近、眠れてないんじゃない?」
「……。どうしてそう思う?」
「うなされている声が、アタシの部屋まで聞こえてくるのよ。ねえ、もし眠れないなら、お薬を調合してあげましょうか」
「なに?」
「眠れないのは、辛いわよね。効き目が穏やかなものを用意するから、今日から飲んでみない?」
確かに、毎夜のようにうなされて起きている。そのせいで、消耗しているのも自覚している。だが、俺はそれでもいいと思っていた。この幽世で熟睡するなんて、命取りだ。
ここは、あやかしたちが跋扈する世界。人間を喰らうような者たちがすぐ傍にいるというのに、熟睡なんてしていられない。
「いや、いい」
「本当に?」
「ああ、問題ない」
すると、そんな俺をナナシはどこか淋しげに見つめていた。そんな時だ。
「あ、いたいた! こんばんは!」
薬屋の中庭に、ある人物が入ってきた。
茶色がかったボブカット、まんまるの黒い瞳に、丸っこい鼻の女性。秋らしい暖色のチェックのワンピースを着たその人物は、村本夏織――貸本屋の娘で、俺と同じ人間だ。
夏織は、俺と目が合うと、途端に顔を綻ばせた。そして、ひらひらと手を振ると、こちらに遠慮なしに近づいてきた。
――うっ。
すると、俺の膝の上にひらりとクロが乗ってきた。
「あ、夏織ちゃんだ。どうしたのー?」
「クロ! 今日も可愛いねえ。あのね、ナナシにお薬を貰いにきたんだよ」
「へー。あ、よかったら隣に座りなよ。お茶、美味しいよ」
「ありがとう!」
夏織は機嫌よく俺の隣の席に座ると、ナナシと何やら話し始めた。
俺は、こっそりと安堵の息を漏らすと、夏織から視線を反らした。すると、クロが小声で話しかけてきた。
「大丈夫? 緊張してる?」
「――……してない」
「そう?」
クロは俺の膝の上に座ったまま、頭を逸して、つぶらな瞳で見上げてくる。左右に揺れている尻尾が、俺の腹部をまるでビンタしているような感じになっていて、何だかやるせない。
――調子に乗ってるな、コイツ。
俺は深く嘆息すると、クロの喉元に手を伸ばし――優しく撫でてやった。
「む⁉ ふわ~……」
すると、クロは途端に腰砕けになって、俺の膝の上で横になった。そのまま、いいところを撫でてやると、クロは気持ちよさそうにクネクネと体を動かしている。俺をからかうなんて百年早い、少しは反省しろと更に腹を撫でていると、ふと誰かの視線を感じて顔を上げた。
「相変わらず、仲いいね~」
夏織が、やけに嬉しそうに俺たちを見ている。それが何だか恥ずかしく感じて、顔を顰めた。
「……別に。相棒だしな」
「そっか」
なおも楽しそうに俺を見ている夏織に、若干ムッとする。すると、夏織は小さく噴き出すと、「邪魔しちゃった?」と更に笑った。
「……それよりも」
一瞬、その笑顔に見惚れそうになった俺は、慌てて話を逸した。腹の底からじわじわと広がってきた得体の知れない感情は無視することに決めて、さっきから気になっていたことを尋ねる。
「薬を貰いにきたなんて、どこか具合が悪いのか?」
すると、夏織はフルフルと首を横に振った。
「私が貰いにきたのは、『蝶避け』の薬なの。明日、ご贔屓さんのところに配達に行くんだけど、そこは幻光蝶が多いから、飲んでいかないと大変なことになるんだよね」
「ああ、なるほど。そういうことか」
納得した俺は、渡り廊下に吊るされた鳥かごに視線を向けた。そこにも、何匹かの蝶が囚われている。
ここ幽世には、幻想的な光を纏う霊体の蝶が棲んでいる。
その名も「幻光蝶」――。
幻光蝶は、常夜の世界にあって、明かり代わりに使われている。熱を発しないのに、炎よりも明るいから、というのが理由のようだ。電気が通っていないこの世界では、かなり重宝されている。しかし、時間が経つと燃え尽きるようにして消えてしまう。なので、蝶を補充する「蝶守り」という職業があるくらいだ。
そんな幻光蝶だが、とある特徴で幽世では知られている。
それは、人間に惹かれて寄ってくる、というものだ。
夏織も、俺も人間だ。だから、外に出ると多くの蝶が寄ってくる。薬屋では、ナナシの調合した蝶避けの香を焚いてあるから、それほどではない。しかしそうじゃない場所ともなると、多くの蝶に纏わり付かれて、そこだけ現し世かと錯覚するほどに明るくなるのだ。
幽世は、あやかしたちが住まう世界だ。基本的に人間は住んでいない。俺たちのように「稀人」と呼ばれ、定住した人間もいるにはいるが、普通、幽世に迷い込んだ途端にあやかしどもの腹に収まってしまうからだ。何せあやかしには、人間の肉を好んで食べる者も多い。
常夜の世界で、否応なしに蝶に好かれてしまう人間は嫌でも目立つのだ。あやかし共の牙から逃れるのは、余程のことがないと難しいのだろう。逆に、あの蝶さえいなければと思わなくもない。
「どうして、あの蝶は人間に寄ってくるんだろうな」
「さあ……? 何でだろうね。不思議だよね。私たちから何か出てるのかな」
夏織は、腕に鼻を近づけて、スンスンと自分の匂いを嗅いでいる。あの蝶は、人間の発するフェロモンなどに反応しているのだろうか。一度調べてみるのもいいかもしれない。そんな風に思っていると、突然、何かを思いついたのか、ナナシがこんなことを言い出した。
「そうだわ、水明も行ってくればいいじゃない!」
俺は、じとりとナナシを睨みつけた。ナナシは、時折とんでもない思いつきをする。先日は、沖縄に無理矢理同行させられたばかりだ。どうせ、今回もその類だろう。
「……何でだ。明日も仕事があるだろう」
「最近、お客も少なくなってきたことだし、アタシひとりで平気よ。一度くらい、行ってみればいいわ。あそこは――とても、興味深いところよ」
ナナシは、透き通った琥珀色の瞳の奥に不思議な光を宿して、俺をじっと見つめている。その様子に不安を覚えた俺は、ぐっと眉根を寄せた。どうやら、いつもの思いつきとは違うようだ。祓い屋であった俺の直感が告げている……これは、何かある。
「……興味深い? どういう意味だ」
「どういう意味も何も、そのままの意味よ。興味深いの」
この薬屋は、どこか得体の知れないところがある。夏織の母代わりだったらしいが、あやかしはあやかしだ。世話にはなっているものの、まだ俺は、夏織ほどあやかしを信じきれていない。
「ねえ、水明。行ってらっしゃいよ」
ナナシの浮かべる笑みが、どうにも胡散臭く感じて仕方ない。
――こいつは一体、何を企んでいる?
ひとり考え込んでいると、その時、底抜けに明るい声が耳に飛び込んできた。
「え、水明もきてくれるの? それはいいね、一緒に行こうよ!」
それは夏織だった。
あまりにも呑気な様子の彼女に、小さく舌打ちをする。何があるかわからないというのに、この女は危機感がまるでない。
……守ってやらないと。
俺は深く嘆息すると、夏織に同行することに決めた。
すると、ナナシは満足げに頷くと――。
「……よかった。じゃあ、ゆっくりしてきなさい」
どこか切なそうに、笑った。