幕間 水底で嗤う
幕間は三人称です。
隠世の世界は常夜の世界。町の灯りが遠ざかれば、途端に濃密な闇に包まれる。人家は勿論、灯りを発するものはなにひとつない。月明かりが照らすものの、そこまで遠くを見通せるわけでもない。
けれども、木々の虚、石の影、水溜りの中、古びて朽ちてしまった井戸。
其処此処で、無数の瞳が外の様子をじっと伺っている。姿が見えないのにも関わらず、そこに誰かがいると確信出来るほどには、雑多な気配に溢れている。
――耳を澄ませば、誰かの息遣いが直ぐ側で聞こえる。気を抜けば、あっという間に命を刈り取られ、骸には腹を空かせたあやかしどもが集るだろう。
それが隠世。光に満ち溢れた現世の裏側の世界。そこの本来の姿だ。
*
ここは、隠世の町から少し離れた、とある川辺。
遠くには、町の明かりがぼんやりと見える。隠世の怪しい夜空の光を反射して、現世ではありえない複雑な色合いを持つ水面に、町の明かりが映り込んで宝石のように輝いている。
そこで、ひとりのあやかしが暑気払いをしていた。
そのあやかし――鵺は、頭が猿、胴体が虎、尻尾が蛇の異形だ。取り合わせの動物は違えど、西洋で言うキマイラのような姿をしている。源頼政に退治されたと言う逸話が在るそのあやかしは、凶悪な牙がずらりと並んだ口から、長い舌をべろり、べろりと伸ばして、川の水を飲み、更には盗んできた桃の実を齧った。
夏の暑さは、あやかしとあれど中々堪える。
今日は特に暑さが厳しかった。普段は涼しい山奥で一族集まって暮らしている鵺は、夏の賑やかさに誘われて町へ降りてきたものの、早々に後悔していた。
餞別だと家族から貰った僅かな小銭は、作り物めいた笑みを浮かべた商人の口車に乗せられ、あっと言う間にすっからかん。屋台で買ったのは、里では味わえぬ町の味。興味の赴くままに口にした食べ物は美味くはあったが、やはり人の血肉に比べると物足りない。
屋根がなければ寝られないほど、体も心もやわな作りをしてはいないが、山中とは余りにも違う環境、軽すぎる財布は鵺をどこか落ち着かない気持ちにさせた。
――これは、大人しく里に閉じこもっているべきであったか。
一族の幼子を殺した土蜘蛛を討ち、気分が高揚するまま、何も考えずに出てきた結果がこれだ。鵺は、深く嘆息すると、大きな月が浮かぶ空を見上げた。
「ひょう……」
里で見るのと同じ月に、堪らず故郷が恋しくなって、人の悲鳴によく似た淋しげな鳴き声を上げる。けれども、近くに同胞がいるわけはないのだから、それに応えてくれる声はない。益々寂寥感が募り、ふと視線を落とすと――己の前脚に何かが絡みついているのに気が付いた。
それは銀糸だ。月明かりよりも白い糸が、水辺から鵺の脚に向かって伸びている。
鵺が糸を知覚した次の瞬間、勢いよく川に向かって脚が引っ張られた。
鵺は思い切り四肢を踏ん張ると、川の中に引き摺られまいと抵抗する。その間にも、次から次へと水中から現れた銀糸は、鵺の体に絡みついていく。
やがて、鵺の全身に銀糸が覆うようになると、力の均衡は崩れた。ずる、ずる、と徐々に川の方へと鵺の体が引き摺られ始める。みるみるうちに水面が近づき、濁った水が爪先に触れる。水の冷たさ、得体の知れない何かが己を捕らえようとしている事実に、鵺は心底震えた。腹の底から湧き上がる恐怖に背中を押され、堪らず姿が見えない誰かに向かって叫ぶ。
「や、やめろ。わっしを殺してみろ。里の同郷が許さぬ。どこまでも追いかけ、同胞の幼子を殺した土蜘蛛のように、腸を引きずり出し、地獄の釜へと突き落としてくれるわ――!!」
勿論、それは虚勢だった。里の中で被害に合った幼子ならいざ知らず、里から遠く離れたこの場所で喰われようとも、同胞は動いてはくれないだろう。
ああ、もう駄目だ――そう思った瞬間、ふと己を引っ張る力が弱まっているのに気がつく。同時に、聞きなれない声が耳に飛び込んできた。
「……蜘蛛を殺したのかや。ああ、それは面倒じゃのう」
それは、嗄れた老婆の声のようで、艶めいた娼婦の声のような声。それでいて、女の昏い部分を煮詰めて固めたような嫌らしさを伴っている。
ケタケタと女が笑う声が辺りに響き渡ると、鵺に絡みついていた銀糸が解けて、水中に消えていく。鵺はそれに気が付いた瞬間に、情けない悲鳴を上げてその場から逃げ去って行った。
その場に残ったのは、静かなせせらぎの音、虫の声――それに女の落としたため息。
「……あやかしどもめ。人間のように群れおって。復讐だのと追われては堪らぬ。どこかに、はぐれはおらぬかのう? ひひ、ひひひ……」
その時、ちゃぷん、と何処かで魚の跳ねるような音が聞こえた。すると、女の声も聞こえなくなり――隠世はまた普段の姿を取り戻し、闇の中で有象無象がぞわりと蠢くだけとなった。