幕間 指宿イブキ・上
原作『私の視た夢』における『指宿イブキ』は第一話で呆気なく主人公『傍陽ヒナタ』に捕まってしまう。
彼のその後については『わたゆめ』では描かれなかったので俺は知らない。
別に興味もない。
既に未来を変えてしまった俺にとっては関係のない話である。
では、過去ならばどうか。
未来が変わるより前、つまり俺が『イブキ』になるより前。
普通に考えれば、俺の体の中には『わたゆめ』と同じ『イブキ』が入っていたはずだ。
けれど、恐らく記憶が戻るより前から、この世界の指宿イブキは『イブキ』ではなく俺だった。
八歳になるまで前世の記憶を思い出せなかっただけだろう。
理由は明快で、七歳より前の記憶を遡っても、好みや感性などが丸っきり一緒だからである。
別人であれば差が出るはずのそれらが全く同じとなれば、元より同一人物であったと思うより他ない。
では何故、俺は前世の記憶を忘れていたのか。
一時期「世界の裏で大きな陰謀に巻き込まれて……!」とか思ったりもしたが、多分そんなことはない。
記憶を引き出せるほどに脳が発達していなかったのだと思われる。普通に。
うん、だって冷静に考えて、乳幼児の脳が前世の自分と同じように働くわけがないし。
これを詳しく説明すると──脳における基本単位である神経細胞は網目状に結びついて情報伝達を行っており、これらは出生時には既に成人と同程度あるのだが、この段階では相互の繋がりができておらず……と、面倒くさい感じになるので割愛。
ともかく記憶自体は保持していたものの、それを取り出すことまではできなかったということ。
想起に耐えうるまで成長したところで〈幽寂の悪夢〉を受け、記憶が蘇ったという感じだろう。
だから、これから幼馴染に語るのは『指宿イブキ』の過去じゃない。
間違いなく俺の──指宿イブキの物語だ。
♢♢♢♢♢
母が亡くなったのは、俺が生まれてすぐのことだった。
自分の子供が男児だったことで、その将来を憂いた母は心を病んだ。
もともと病弱だったこともあって、そのまま呆気なく逝ったのだという。
イブキという名前も、元は女子に付ける名として考えていたらしい。
物心着く頃には母の遺品どころか遺影すらなかった。
理由は知らない。
亜麻色の髪と翡翠の瞳が母譲りであることは、父から聞いた。
父は、母のことはよく語ったが、自分のことはあまり語らなかった。
だから俺が彼について知っているのは、表面から読み取れる情報だけだ。
顔立ちが整っていたこと。
運動神経が良かったこと。
天稟を持っていなかったこと。
そして、天稟を持つ実の息子を羨んでいたこと。
七歳の誕生日から豹変した父は、それまでの優しかった父を忘れさせるには充分だった。
「さあ、今日で六回目の検査だ。もう緊張しなくなってきたんじゃないかい?」
「……うん、そうだね、父さん」
飾り気のない鉄壁の廊下を歩いていく。
俺と手を繋ぐ父は優しげな笑顔を浮かべ、けれど、その目の奥にはどす黒い欲望が渦巻いていた。
やがて見えてきた扉は鉄製で、その冷たげな有り様は繋がれた手の温もりを忘れさせた。
「失礼します」
断って部屋に入る父に続く。
中央には、白衣を着た痩せぎすの男がいた。
画面を見ていた彼が振り返る。
「おお! 来たかね、指宿氏」
「どうも今回もよろしくお願いします」
「いやいや、お願いするのはこちら側だよ。実験に協力してくれて感謝する」
実験。その言葉を聞いて、いますぐにでも帰りたくなる。
すると、それに気づいた白衣の男が腰を落として、俺の両肩に手を置いた。
「そんな顔をしないでくれたまえ。これは、これからの男性の未来にとって重要なことなんだよ」
「…………」
「なぜ男に天稟が目醒めないのか。男でありながら神に選ばれた君のような子を調べることで、それが分かるはずなんだ。そうすれば男でも天稟を授かるための条件が分かるかもしれない。分かるね?」
渋々頷くと、白衣の男は笑って、
「では、まずこれを」
──電子画面を見せてきた。
「うぁ……っ!?」
目に幻痛を覚えて顔を逸らす。
「と、そうだったね。君は目が良すぎるんだったか」
男は思い出したように言う。
ゆっくりと目を開けると、──目の前に男の顔があった。
「……っ」
「ふぅむ……やはり目に何かあるわけではない。他の子にそういった症状が見られるわけではないし、単に目が良すぎるだけなのかな」
男は立ち上がりながら、
「まあ、いい。それも含めて、今日の実験を始めようじゃないか」
俺の肩を抱いて、別の部屋へと移動する。
歩きながら彼が口火を切った。
「君はやけに頭がいい。知識量は年相応だが、思考力ならばそこらの大人と大差ないだろう。君には期待しているよ」
「ありがとうございます……」
「うんうん、殊勝な態度だ。我が子にも見習ってほしいものだね」
そのまま彼はいつものように俺を連れていき、──その先のことは、あまり面白い話ではないから語るつもりはない。
触りだけ説明しよう。
天稟がどのようにして目醒めるのかには、いくつかの説がある。
そうした多種多様な説を、男女それぞれの研究者が唱えているものだから、研究所の数も増えるというものだ。
そうした研究所の中で、ここの主任である男のグループが提唱している説は『願望説』と一般的に呼ばれていた。
天稟が目覚めた時、強い負荷がかかることでそれを跳ね除けんとする『願望』が力となって発露すると言う説。
実際、天稟に目醒める七歳くらいの頃に感じていたことが、そのまま天稟となって発現するパターンは多いようなので、あながち間違ってもいないのかもしれない。
しかし、そんなものは幼い頃の俺にとってはどうでもよかった。
理由はその実験内容にある。
願望説は「強い負荷がかかる」ことに着眼している。
そのため天稟に目醒めた子供に負荷を与え、そこから生まれた脳波を採集。
その脳波を天稟を持たない七歳くらいの子供に与えることで、天稟を発現させようという実験を主として行なっている。
それは、ほとんど拷問に等しい。
泣いて叫んで訴えてもそれは聞き入れられず、自分にとって苦痛であることを永遠にされ続ける。
何度も実験を繰り返す頃には、生半可な痛みじゃ動じない程度には苦痛耐性を得てしまう。
それくらい過酷なものだった。
電子機器が嫌いなのも、これが原因だったりする。
元々苦手ではあったが、嫌うほどではなかった。
最近では(推しを見るために)微妙に克服しつつあるが、それでも不要に見たいとは思わない。
その程度には苦手意識を植え付けさせられた。
そんな実験を終えて、ほとんど疲れ果てて歩く帰り道。
ここらへんは海や湖が近いこともあって、幅の広い川が多い。
そこに架けられた大きな橋を歩いて渡っている時だった。
「……もう行きたくない」
思わず溢れた吐露に、
「なんてことを言うんだ……!」
父は激昂した。
「何度も言っているが、もう一度だけ言おう」
「いたいっ」
手を握っていた父が俺の腕を引っ張り上げて、顔を寄せる。
「天稟には人の命を救うような治療系のものがある。中には怪我だけではなく、病気にだって応用できるものもある。だが、圧倒的に数が少ない。だから、どうすればそういう天稟に目醒めるのか、そもそも天稟が目醒める仕組みは何なのか、僕たちは知る必要があるんだ。そうすれば……っ」
言葉に詰まった父が、乞い願うように言った。
「そうすれば──母さんを助けられたかもしれないのに……!」
俺は、何も言えずに父の形相を見ていた。
彼は激昂しているのではなかった。
ただ、涙を流せずに泣いているだけだった。
だから俺はただ謝って、それから父も俺に謝った。
その日は何も起こらずに、三時間かけて家まで帰った。
それから半年もしない頃。
父が死んだ。
天稟に関係するわけでも何でもなかった。
ただの若年性脳卒中だった。
医者には多量の飲酒が原因だと言われた。
ほとんど初めて会う親戚には「昔は酒嫌いだった」と言われた。
──それから俺は、広い家で独りで暮らすことになった。