幕間 正義の城と悪の巣窟
「ごめんなさい、ヒナ」
「?」
【循守の白天秤】第十支部に帰還した雨剣ルイは、親友の前で肩を落とした。
謝罪を受けた親友──ヒナタは首をかしげる。
食堂の椅子に座る彼女の前には大量の料理。
もきゅもきゅとリスのように口を動かし、こくん、と可愛らしく嚥下する。
その様子に「ワタシのヒナはなんて天使なの」と真顔で考えながら、ルイは説明を始める。
「仕留め損ねたの」
「はあ……」
「昨日、ヒナを恥ずかしい目に合わせた男を」
「───っ!?」
ヒナタの肩が、びくーんっと跳ねた。
「る、ルイちゃん!? そ、その話は……!」
顔を赤らめ、彼女は隊服のスカートをきゅっと引っ張る。
「お、思い出させないで……というか忘れてって言ったよね!?」
「忘れられる訳ないでしょ? あんな可愛い──こほん、可哀想なヒナを!」
「今なにか間違えなかった?」
「肩を落として帰ってくるから任務に失敗したのを気にしてるのかと思ったら、それ以上にスカート──」
「わああああ!?」
「お姫様だ──」
「わー!? わーっ!」
「抱き──」
「もうっ! 怒るよ!?」
「もう怒ってるよ?」
ぽかぽか、と自分を殴るヒナタの尊さに震えながら、同時に親友にこんな反応をさせるような行為をした犯人──〈乖離〉に殺意を覚える。
自分がこの反応を引き出せたならそれは喜ぶべきことだが、どこの馬の骨ともしれない人間にやられたとあっては殺人衝動が止められない。
しかも! よりによって! 男!!
そう思うと、怒りの念は煮えたぎった。
さもありなん、雨剣ルイはとある理由から人間嫌いであった。
ヒナ、と呼び慕うほどに親愛の情を覚えているヒナタが特別なのだ。
女性でも親しい者は彼女だけ。
男に至っては、大が付くほどに嫌っている。
例外は、昔ヒナタと自分が縁を結ぶきっかけをくれた人物くらいか。
まだ会ったことはないが、感謝くらいはしている。同時に嫉妬も。
「おーおー、仲良しだねぇ、お二人さん」
不意に食堂の入り口から声が掛けられる。
二人揃って振り向くと、ここ最近見慣れた上司の姿があった。
セミロングの緑髪を首の後ろのあたりで一つ括りにした、琥珀色の瞳が印象的な美人。
身長はヒナタより大きくルイより小さいが、年齢は不詳で──何より目立つのはその格好だ。
メイド服。
それも、クラシカルなやつ。
ルイを除けば支部で三指に入ろうかという美人なのだが、いかんせん服装のインパクトの方が強い人物である。
「あ、こんにちは、イサナさん」
「はい、こんにちは、傍陽ちゃん」
名を、信藤イサナ。
そして、
「副支部長」
彼女こそが、第十支部の副支部長だった。
「も~、イサナって呼べってのに、堅いなぁ雨剣ちゃんは。空気読め〜?」
面倒くさそうな顔をして肩をすくめる様子からは想像しがたいが、イサナは情報処理や指揮系統を統率している支部の頭脳だ。
支部長が第一支部の呼び出しにより出向中の今、この支部で最も高い立場にいる女性でもある。
戦闘は苦手らしく、本人曰く「虫も殺せない」とのこと。
その真偽はさておき、彼女が来たということは、重要な報告があるのだろう。
「深刻じゃないけど悲報ね。あの〈刹那〉の部下、〈乖離〉って男について」
「……っ」
本日二回目の不意打ちに、ヒナタがやや身構えた。
「残念ながら、監視カメラの映像には映ってなかったよ、顔」
「そう、ですか」
「──えっ? ルイちゃん、あの人の顔を見たの?」
眉をひそめるルイに、ヒナタが驚きとともに尋ねる。
「ええ、まあ。思い出すと虫唾が走る気に食わない顔をしていたわ」
「それ、どんな顔……?」
困惑するヒナタの頭をとりあえず撫でておく。
画角の問題か、あの男の顔が映っていなかったのは残念だ。非常に。
「もし撮れていたなら、すぐにでも指名手配を回してやれたところを……」
「そーだねぇ。なんと言ってもあの〈刹那〉の確認できる唯一の部下だからねぇ」
副支部長も深く頷いた。
だが彼女の口惜しげな表情は、〈乖離〉本人ではなく、その後ろにいる〈刹那〉を意識してのことだろう。
【救世の契り】の幹部【六使徒】とは、それほどの警戒を要する連中なのだ。
かの組織について知られていることは、それほど多くない。
中でも六つの席に坐す幹部陣は、その半数が謎に包まれている。
確認されているのは三人。
第四席〈紫煙〉の化野ミオンと、第三席〈刹那〉。
そして第二席〈絶望〉のゼナ・ラナンキュラス。
第一席、第五席、第六席はいまだ表舞台に現れたことすらない。
判明している三つの席のうち、最も人々に恐れられているのは〈絶望〉だ。
かつての大都市・新宿を一夜にして壊滅させた厄災『幽寂の悪夢』の元凶として、今も人々の心に恐怖の影を落としている。
あるいは最も厄介なのは〈紫煙〉だろう。
【循守の白天秤】も彼女の幻惑に煮湯を飲まされたことは数えきれない。
しかし、全支部の天翼の守護者たちに『最も敵対したくない敵』を問えば、彼女達は揃ってこう答える。
──それは〈刹那〉をおいて他にない、と。
理由は至極単純。
彼女が、強いからである。
それも、圧倒的に。
実のところ、〈刹那〉が現れた事件は少ない。
下手をすれば両手の指で数えられるほどに。
けれど、彼女はその全てで畏怖すべき戦果を残している。
ある時は、数十人の精鋭が守る研究施設をたった一人で制圧し、重要研究対象を奪取した。
またある時は、とある支部の支部長と副支部長を単騎で相手取り、無傷で退けた。
数は少なくとも、そのどれもが正義の天秤の威信に土を付けている。
その〈刹那〉の部下が初めて現れ、しかも早々に顔を晒す失態をしたのだ。
「惜しかったねぇ。でも、ま、あくまで『惜しかった』で済む程度だよ」
イサナはあっけらかんと肩を竦める。とはいえ表情は優れない。
「問題は化野さんちのミオンちゃんに逃げられたことなんだよなぁ……はあ、めんど」
「なに親しげに呼んでるんですか……?」
ため息をついて「だるいだるい」と毒づくメイド服の上司に、ヒナタがジト目を向ける。
その可愛らしさに釘付けになりながら、ルイの頭は未だ〈乖離〉のことで占められていた。
(次に会ったら、必ず仕留める)
主に物騒な方向で。
♦︎♢♦︎♢♦︎
ルイが〈乖離〉への殺意を研ぎ澄ませていた時。
その横で、ヒナタも同様に彼のことを考えていた。
物騒な相方とは違い、彼女の脳裏を占めるのは羞恥である。
異性への免疫が父親+約一名を除いて皆無であるヒナタは、事件から一夜明けた今日にまで羞恥心を持ち越していた。
なにより、直前まで親友に揶揄われていたせいで、鮮烈な記憶が消えてくれない。
(うぅ……。見られ……って違う、おひめ……じゃない、抱きし……違うって!)
次々に浮かんでくる記憶を必死に振り払うも、消し去りたい記憶に限って迫ってくる。
そして、
「……あれ?」
迫ってきた記憶の一つに違和感を覚えた。
それは彼女にとっては幸運で──彼にとっては不運だった。
あの時のヒナタは混乱していて気づけなかった。
けれど、最後の一幕。
──よ、よくもぉ……っ。
──じゅ、充分に時間は稼がせてもらったよ。それじゃあ、またね、ヒナタちゃん。
違和感は疑問へ、疑問は疑惑へと昇華していく。
(わたし、名乗りましたっけ?)
♦︎♢♦︎♢♦︎
指宿イブキたちの集い場であり、馬喰ユイカが店主を務める喫茶店。
そこは【救世の契り】の構成員たちが足繁く通う場所だ。
その中には素顔を隠さない者や、すでに正体が発覚している者など、手がかりを残しすぎる構成員が一定数存在している。
それでも未だ喫茶店が正義の徒によって制圧されていないのは、偏に狙いが分散されているためだった。
平たく言えば、集い場はそこ以外にもあるということだ。
その数、大都市・桜邑中で軽く千を凌駕する。
それは喫茶店であることもあれば服飾店であることもあり、はたまた映画館であることもある。
組織に無関係な人間も頻繁に出入りし、組織の人間も一箇所には留まらない。
組織内にも全てを把握している者は片手で数えられる程度しかいないだろう。
これが【循守の白天秤】からの追跡の手を躱せている大きな理由だった。
では、把握しきれないほどの集い場を持つ【救世の契り】は、どうして一つの組織として機能していられるのか。
それは、地上に無数に存在する集い場が単なる出入り口にすぎないからだ。
悪の組織の本陣は、煌びやかな街並みの地下深くに広がっていた。
千以上の入口はその全てが地下基地へと繋がり、目に見えぬ場所から桜邑という都市に張り巡らされんとしていた。
さながら蟻の巣の如し。
一人の幹部がそう喩えたことによって、いつしかそこは〈巣窟〉と呼ばれるようになった───。
〈巣窟〉は多層構造になっている。
各層には同じ派閥に属す仲間たちが集い、虎視眈々と暴れる機会を伺っていた。
この日も暗い地の底で、それなりの規模を誇る派閥が会合を行なっていた。
「──で、だ。最大派閥でアタマ張ってる〈紫煙〉の奴が帰ってきた。挙句ついに、あの一匹狼の〈刹那〉が部下を持ち始めた。それも男のな」
雑然とした大広間。
その一段高い位置で現状を語っているのは一人の大男だ。
名を〈剛鬼〉。
以前、集い場のひとつ”Café・Manhattan”で幹部〈刹那〉と軽い小競り合いを起こした男である。
彼の前には自身の派閥構成員である十数人ほどの男性メンバーが集まっていた。
男性不遇社会に生まれながら、幸運にも天稟を授かったことで、男女同権主義の思想に至った者たちだ。
「あの〈刹那〉が部下を……っ」
「しかも、男だと!?」
派閥リーダーからもたらされた情報で、最も彼らを驚かせたのは〈刹那〉についてだった。
幹部である〈刹那〉に部下の志願者が後を絶たないというのは有名な話だ。
けれど今まで数年間、彼女は一度としてそれを受け入れなかった。
その〈刹那〉が部下を持ったという。
それも男の部下を。
「流石にこの中に〈刹那〉の部下に寝返ろうなんて日和った野郎はいねェだろう。〈刹那〉のヤツも、これから部下を増やして派閥を作ろうって腹じゃなさそうだったしなァ。だが……」
〈剛鬼〉の部下は男がほとんど。
仮に幹部である〈刹那〉が積極的に部下を取り始めたとなれば、ただでさえ供給の少ない男性メンバーを取り合うことになってしまう。
それは面白くない、というのが〈剛鬼〉やその他のメンバーの内心だった。
「なあ、リーダー。〈刹那〉にその気がなさそうったって、流れようと思うヤツらも増えるかもしれないだろ」
一人の発言に、大男は我が意を得たりとばかりに頷く。
「そうだなァ。最近は、あの銀色女のせいで大きく動けなかったしなァ」
『銀色女』と口にするときに心底忌々しげな表情を浮かべた〈剛鬼〉だったが、その表情が楽しげなものに変わる。
「そろそろ、ひと暴れしても良い頃合いだ」
暗い地下に、どす黒い嗤いが木霊した。