4・会場を出たものの
何とか倒れずにパーティー会場を出ることは出来たエレインであったが、ズキズキと痛む足はとうに限界を越えていた。暑くもないのに額からは汗が流れ落ち、奥歯はギリッと音を立てた。壁伝いに慎重に前に進もうとするが、少しでも右足を床に着ければ息が止まるほどの激痛が走る。今日履いてきた靴が、いつもより高いヒールである事がさらに歩行を困難なものにさせていた。
「これもう絶対骨が折れてる……! エヴァンの馬鹿力で抑え込まれた時のあの衝撃は普通じゃなかったもの」
はしたないと思いながらも、ドレスの裾を捲って足を見てみる。すると靴下の上から見ても分かるほど右足首は見事に腫れ上がっていた。加えてエヴァンの力で押し付けられたお陰で、痛めた足を庇おうと無理な体勢になってしまい、膝を強か打ちつけてしまっていた。さすがに裾を膝まで捲り上げることはしないが、恐らく青痣になっているはずだ。
今すぐ家に帰りたいのに、まだ先ほど出て来たドアの前から2~3メートルしか進んでいない。この広い玄関ホールを抜けて外に出てしまえば、一番近い場所でうちの馬車が待っているはずだ。悲しい事に、婚約者が居るにも関わらずエスコートしてもらえなかった私は、自分の家の馬車に乗って一人でパーティー会場まで来たのだ。パートナーも居らず、女一人で会場入りするなど、貴族令嬢としてこんなに恥ずかしい事はない。同時刻に到着したカップル達が、気を利かせて一緒に会場入りしてくれた事には心から感謝した。
殿下も、せめてこれくらいの気遣いが出来る方なら、隠れてサンドラを愛人として囲ったとしても目を瞑ったものを。馬鹿正直にも程がある。サンドラを喜ばせるために人前で婚約破棄をするなんて。彼女への愛の大きさを示したかったにせよ、後先考えず愚かな行動をとるからいけないのです。
外へ繋がる扉までどうやって移動しようかと考えて、顔を上げそちらに視線をやると、第一王子ウィルフレッドが国王の代理で創立記念パーティーに出席するため、丁度この会場に到着したところだった。従者が扉を開け、殿下が玄関ホールに入って来た。
彼とはあまり面識はないが、第二王子フレドリックとの婚約成立の時に、父と一緒に宮殿まで挨拶をしに行き、そこで初めて顔を合わせる事になった。その後はどこかのパーティーで数回鉢合わせたが、王子は皆とにこやかに歓談する中、私とだけ視線を合わせず、声もかけてはくれなかった。
後で聞いた話では、私には第一王子との縁談もあったらしい。彼は側室が産んだ子供のため、第一子であっても家臣たちに軽んじられている。それでも長男を王太子にする考えだった国王は、彼に揺ぎ無い権力を持たせようと、この国で年齢のつり合う令嬢の中から、隣国アルフォードの王を祖父に持つ私を妻にと決めていたそうだ。それが、国王の弟からの横槍が入り、あのフレドリック殿下と無理やり婚約する羽目になってしまった。あの頃の私はエヴァンの事だけでは無く、単純に王妃になどなりたくなくて断っていたのだけれど、父と祖父が渋っていた理由の一つは多分そこにあったのだ。
その他にも私には隣国から数々の縁談が来ていた。アルフォードの従兄弟や重臣の子息など。私にとってはどれも良い話ばかりだった。エヴァンと結婚する事が一番理想的な未来だったけど、アルフォードに行く事が出来れば、私は容姿のことで陰口を叩かれる事など絶対に無かったのに。
これだけ相手が居たにも関わらず、何故一番の貧乏くじを引くことになってしまったのだろうか。
第一王子ウィルフレッドは、そもそもこの私の容姿を好まないのか、弟の婚約者である事が気に入らないのか、理由は良く分からなくても、分かりやすく避けられている。
はずだった。
彼は私のこの状況を見て、心配そうな顔をして足早に近付いて来たのだ。
「どうしたのだ、ラナ。顔色が悪いぞ。具合が悪いのか?」
ドキッとした。
まさかこの人からその名で呼ばれるとは思わなくて、かなり動揺してしまった。この国ではミドルネームを持つ人は少ない。私のミドルネームは隣国アルフォードの風習から、おじい様が付けて下さったもので、おじい様のお母様、つまり私の曾祖母の名を頂いたのだ。アルフォード国内では親しい間柄でなければその名を呼ぶことは許されない。例外としては親友などの気心の知れた相手も含まれるが、勿論その中にこの人は含まれていない。
周囲の人達は私にミドルネームがあることすら知らず、エレイン・ノリスとして認識されている。今日初めてフレドリック殿下にフルネームを呼ばれたが、今まで一度だって呼んだことは無かったくせに、良く覚えていたものだと思う。
そもそも公表していない名前なのに、どうしてこの人は知っているのだろうか? ここはアルフォードではないので、そんな風習に意味は無いのだけど、それでも家族でもない人にそう呼ばれると、まるで親密な関係にでもなったかのように錯覚してしまう。
だから今少しだけ顔が赤いのは、そのせいです。と、声を大にして言いたい。
「殿下、私の名はエレインでございます。どなたかとお間違えではありませんか?」
「ん? ああ、わかっている。だが今はそんな事を気にする余裕はないだろう。さぁ、俺に掴まれ」
ウィルフレッド殿下は手を貸してくれようとしているけれど、もう自力では歩けない程痛みが増しているのです。掴まらせて頂いても、一歩も前には進めません。できれば座ってしまいたい。
私が黙って俯いていると、彼は仕方が無いなと軽く息を吐き、顔を覗きこんできた。
「歩けないのか? では、こうする事を許せよ?」
「ひゃ、で、殿下、お止め下さい!」
私の体は羽にでもなったかの様に、ふわりとウィルフレッドの腕に抱き上げられた。
男性とここまで密着したのは父以外で初めての事だった。パーティーではダンスもしたけれど、いつだって互いの間に拳一つ分以上の隙間があった。それに私の相手をしてくれたのはフレドリック殿下とエヴァン達のみ。しかしそれもこの一年は私の居たその場所にサンドラが収まっていたので、男性と触れ合ったのはほとんど一年ぶりなのです。私の反応が過剰だとしても、これはもう仕方の無い事です。
「降ろして下さい。こんな所を誰かに見られたりしたら、殿下が何と言われてしまうか……。あの、お手数ですが、殿下の従者の方、伝言をお願いします。外にうちの馬車が待機していますので、中で待っている私の従者をこちらに遣して下さい。……で、殿下、いけません、殿下!」
ウィルフレッドはスタスタと歩き、大きな玄関ドアを従者に開けさせて、目の前に停めてある王家の馬車にエレインを乗せた。まるで壊れ物を扱うように、優しくそっと座席に座らせたのだが、ほんの少し右足がどこかに触れてしまい、エレインは声にならない声で叫んだ。
「いっ___!!」
エレインの尋常でない脂汗とこの反応で、どこかに酷い怪我をしていると気が付いたウィルフレッドは、どこが痛いのか即座に聞いた。
「おい、どこか怪我をしているな? どこだ? すぐに治してやるから、どこが痛いのか言え」
エレインは歯を食いしばって痛みに耐えるのが精一杯で、それに答える余裕はなかった。代わりに足首辺りを指差して、そっとドレスの裾を持ち上げた。
「足か? 今は緊急事態だ、悪いが見せてもらうぞ」
そう言ってウィルフレッドは私の前に跪き、スカートの裾を膝下あたりまで捲って患部を見た。するとすぐ、彼がヒュっと息を呑むのがわかった。思った以上に酷い状態で驚いているようだ。
「服の汚れ方からして飲み物をこぼした様だが、誰かとぶつかって転んだのか? それにしてもこれは酷い。たぶん骨が折れているな。会場にはあいつも居ただろう、何故一緒に居たフレドリックに言わなかった? この状態で一人で帰ろうとするなんて無茶な事をして、相当痛かっただろうに」
私が何も答えないでいると、殿下は従者に目配せしてパーティー会場に向わせた。到着が遅れると知らせに行ったのだろう。何にしても、迷惑を掛けてしまった事を謝らなければと思い、顔を上げ、殿下の顔を見た。
良く考えれば、こんなに近くで顔を見たのは初めてだった。黒髪に青紫の瞳。殿下の母君であるご側室のレイラ様は、優しいミルクティー色の髪に青紫の瞳だと聞いた事がある。目の色が吸い込まれそうな程綺麗で、思わず見入ってしまっていた。
でも、この瞳、どこかで見た事がある……? 知らないうちに近くで見た事があったのかしら。
「靴下を脱ぎなさい、治癒魔法をかけてやるから。このままでは歩けないだろう?」
「あ、え? でも、ここでは無理です。スカートの下のベルトを取らなくちゃ……」
いわゆるガーターベルトと言われる物に、ニーハイソックスを止めてあるのだ。スカートをかなり捲らなければ外す事は出来ない。
「分かった。俺が外に出ている間に、右足だけ脱いでおけ」
「あ、あの……」
ウィルフレッドは馬車を降り、小窓にカーテンをかけてドアを閉じた。
本当にこんな所で靴下を脱げと言うの? でも、治癒魔法をかけてもらえる機会はそう無い事だし、お願いしてしまおうかしら。
「殿下、絶対にドアを開けないで下さいね」
「当たり前だ。済んだら声をかけなさい」
私はドキドキしながらも、エイッと思い切ってスカートを捲り上げ、太ももまで露にした。右足だけと言われたけれど、どうせなので左右どちらも脱ぐ事にした。すると、やはり思った通り。打ち付けた膝が酷い青痣になっていた。見てしまうと更に痛く感じる。左足は簡単に脱ぐ事が出来たが、右足は痛くて自分で脱ぐのは無理だった。足首まで下げてくしゅっと溜まった状態で諦め、スカートを整えて外にいる殿下に声をかけた。
「殿下、どうぞ。もう入って大丈夫です」
ウィルフレッドはドアを開け、また先ほど居た位置に戻り跪いた。裾を持ち上げ、足元を見た後、チラッと私の顔を見た。
「一人では脱げなかったのか?」
「痛くて、無理でした」
「俺が脱がせても?」
「こんな事を殿下にさせてしまって、申し訳ありません」
ウィルフレッドは右足を軽く持ち上げ、つま先からゆっくりと丁寧に靴下を引き抜き始めた。
馬車の外から、ヒューバートの声が聞こえた。彼は慌てた様子で、どうやら私を探しているようだった。ノリス公爵家の馬車の方へ行き、主は会場を出てどこへ行ったのかと御者に尋ねている。私が乗っている王家の馬車の扉は開いたままなのに、彼は気付かず一度素通りして行ったのだ。まさかこれに乗っているとは思わなかったらしい。戻ってきて辺りをキョロキョロ確認しながら歩き、開いたままの馬車の中をチラと覗き込んだ。ヒューバートはありえない場所に居るエレインを見て立ち止まり、眉をひそめる。
「エレイン様、なぜそんな所に……? ウィルフレッド殿下、これはどういう事でしょうか。この方が誰なのか、ご存知のはず。弟君の婚約者を、このような狭い場所に連れ込んで一体何をしているのですか」
ヒューバートは怪訝な表情でウィルフレッドに詰め寄った。確かにちょっと状況が悪い。足の治療のためとはいえ、王子が足元に跪いて恭しく私の足を持ち、靴下を脱がせているのだから。
それにしてもヒューバートは、先ほどのあれがあったにも関わらず、フレドリックの婚約者である事をここで持ち出すとは。ほんの少し前に婚約破棄を言い渡された場面を見て居ただろうに。確かに、まだ正式に手続きはしていないのだから間違ってはいないのだけれど、何となくモヤっとしてしまう。
「どういう事かはこちらが聞きたいのだが? 足を怪我した女性を一人で帰らせるとは、婚約者であるフレドリックは一体何をしているのだ! 俺が到着してみれば、彼女は玄関ホールで動けずに、苦しそうに壁に寄りかかって居た。それをここまで連れて来たが、お前に責められるいわれは無いぞ! 第一、パーティーで一体何をすればこれほど髪が乱れて、骨が折れる様な酷い怪我を負うのだ! 答えろ!」
ヒューバートはウィルフレッドが持つ私の右足に視線を移し、目を見張った。時間が経って益々腫れが酷くなったようだ。彼は私を見て顔をこわばらせた。
「エ、エレイン様、いつからですか? まさか、殿下に突き飛ばされた時に? 何故あの時すぐに言わなかったのです。知らずに無理に立たせてしまったではありませんか。歩き方がおかしかったので、エヴァンに押さえ付けられた時どこかを痛めてしまったのではないかと……それで追いかけて来たのです。早く治癒魔法をかけましょう。どうか私にお任せ下さい。ああ、なんと痛々しい……」
ヒューバートの今の言葉を聞いて、ウィルフレッドは首を傾げた。
「おい待て、今何て言った? フレドリックが彼女を突き飛ばしたのか? 女性を、それも自分の婚約者を突き飛ばすとは何事だ! お前が側に付いていながら止める事も出来なかったのか。ヒューバート、俺が来る前に何があったのか説明せよ!」