廃墟の亡霊
コツ、コツ、コツ……と足音が響く。剥き出しのレンガの床は硬く、寒々しい。
短杖に灯された魔術の明かりは橙色で、暗い屋内をぼんやりと照らしている。蜘蛛の巣が張った天井や、宙を舞う埃が見えるのは少し嫌だけれど、優しい色の明かりがあると少しだけ怖くなくなった。
「鉄格子の門扉も、入り口の鍵も壊れていたのだもの。宿に泊まるお金もない食いつめ者や流れ者がいてもおかしくないわ」
「ですねぇ……。恐い人がいるかもしれませんー」
かすかにカビの臭いがする廊下に、リルエッタとユーネの真剣な声が反響する。彼女たちは周囲を確認しながら、慎重に歩を進めていく。
それはいい。とてもいい。油断するより全然いいのだろう。
「……ところで、なんで二人とも僕の肩を掴んでるの?」
一番前を進む僕は両肩をがっしり捕まえられて、歩きづらくてしかたがなかった。
これじゃ槍も構えられないんだけど。
「だって、ゴーストって結局はマナで留まってる死霊だもの。魔力を散らしてあげればいいんだから、魔術があればゴブリンよりも楽に対処できる相手だわ。けれど人はそうもいかないでしょう?」
「神聖魔術って人族には全然役にたたないんですよねー……」
「……さっきまで余裕そうだったのに」
暗がりの廊下を進んでいく。積もった埃に残された足跡は、うっすらしていてあまりハッキリは見えない。ただ足跡の群は時折あっちに行ったりこっちに行ったりしながらもほぼ一方向に向かっているようで、追いやすいことは追いやすかった。
「……人の足跡か」
ハッキリとは言い切れないけれど、足の指の形とか分からないから裸足ではないと思う。靴を履くヒト型の魔物もいるらしいが、普通に靴を履いた人のものという見方が本線だろう。
なら……もし人を見つけたとして、どうするべきだろうか。
まずは会話するべきだろう。
あなたは誰ですか。どうしてこんなところにいるのですか。僕たちは噂の真相を確かめるために雇われた冒険者です。ここの土地は近々売られる予定なので出て行ってもらえませんか。
先の三つは雑談みたいなものだけれど、最後の一つは伝えるのがちょっと難しい。相手が荒っぽい人だったら、言い方を間違って怒らせたら最悪―――戦闘になるかもしれない。
もし、戦闘になったら。……人と、戦うことになったら。
ニグとヒルティースとの戦いを思い出す。油断してこちらを馬鹿にしていても、僕より強かった二人。
勝てる可能性はあったと思う。一つ違っていれば、僕の攻撃は当たっていたはずだ。
けれど、彼らと戦って勝つとしたら―――殺さずに、なんて余裕はない。
「もし人と戦うことになったら、逃げようね」
肩を掴む後ろの二人にそう言うと、返答は明確だった。
「そうね。異論はないわ」
「ただの調査依頼ですしねー」
彼女たちもそこまでする気はないらしい。安心した。
「ここの扉も開いているわね」
足跡が向かっているのは、玄関ホールから右へ行った長い廊下だった。そこに並んだ扉は開け放たれているところもあれば、隙間が少しだけ開いているところもあって、閉められている扉にも鍵はかかっていなかった。
今回はちょっとだけ開いている扉で、僕が開くと軋むような音を立てた。……もういいけれど、ユーネは最初の一回以外に扉を開けてくれてない。たぶん予想外の足跡に自分が言った役割を忘れちゃったんだと思う。
「なにもないね」
リルエッタが明かりを差し込むと、本当になにもない室内が見通せるようになる。
引っ越しの際にあらかた持ち出されたのか家具の類は残っていないようで、おかげで探索はしやすいけれどすごく不気味だった。
「足跡もこの部屋には立ち寄ってないもの、当然ね」
リルエッタも部屋を覗き込む。声が近くって、横目で見るとチェリーレッドの髪が頬をくすぐってくるほど近くに少女の顔があった。ちょっとびっくりする。
「でも、全部屋を確認しないとー。依頼ですからねー」
ユーネも僕の上から乗り出すように部屋の中を覗く。彼女は僕たちの中で一番年上だから、その分だけ背が高い。
「一応、このあたりで魔力感知の魔術を使ってみるわ」
リルエッタがそう宣言して、部屋の中に入ると肩掛け鞄から大きめの一枚布を取り出す。
正方形に織られた布には二重の円が描かれていて、その円の間に細かい文字が書かれていた。……魔術陣というやつだ。
近場にある濃い魔力の場所が分かる、という魔力感知の魔術。あの魔術陣にはその精度と範囲を上げる効果があるらしく、彼女は玄関ホールでも一度使用していた。
あの布はいちいち術式を書かなくても使えるように用意して来たらしいが、つまり昨日の時点で彼女はこの屋敷調査の依頼をするつもりだったらしい。
「魔力感知って、探査の魔術となにが違うの?」
「探査は範囲が広いけれど、だいたいの方角しか分からないし設定した対象以外のことは分からないのよ。その点、魔力感知は術者の感覚を研ぎ澄ますものだから、範囲は狭いけれど得られる情報量は全然違うわね」
不死族はだいたい魔力で動くと彼女は言っていた。ここにはゴーストがいるかもしれないという話だけれど、魔力感知ならゾンビやスペクターがいても分かるってことだろう。……それはかなり便利だ。警戒がしやすくなる。
魔術はやっぱりすごい。冒険者にとって本当に有用な特技なんだと感心してしまう。
リルエッタが明かりを灯した短杖を小脇に抱え、床に布を敷く……ちょっと躊躇った。どうやら埃だらけの床につけるのが嫌らしい。そういえばさっきの玄関ホールでも嫌がってた。
意を決したように布を床に敷く。悲しそうな顔が優しい橙色の明かりで浮かび上がる。
―――……こういうところ、もしかしなくても彼女は冒険者に向いてない気がするんだよなぁ。
はぁ、と息を吐いて気を取り直し、リルエッタは短杖をかまえた。呪文を詠唱する。
「……なにも感じられないわ。ゴーストの類がいるのなら、ちょっとした残滓でも感じ取れるはずなのだけれど」
「いないってことですかー?」
「広い屋敷だもの、まだ分からないわ。油断せずにいきましょう」
ユーネと僕に注意を促して、リルエッタは床に敷いた布を回収する。念入りに叩いて埃を払って、悲しそうな顔で肩掛け鞄にしまった。……あの鞄、お気に入りなのかな。
彼女の言うとおり、足跡の主とゴーストのどちらも警戒したまま、僕らはまた廊下へ戻る。コツ、コツ、コツと足音を響かせながら、次の扉へ向かう。
「……ゴーストと足跡の人が一緒にいることってあるかな?」
怖い想像をしてしまって、思わず声に出してしまった。
「そのときは、ゴーストに憑依されて乗っ取られている人が襲ってくるわね。ユーネの出番かしら」
「え、ええー……まあ、詠唱時間さえ稼いでいただければー」
「神聖魔術ならなんとかできるの?」
「はい、邪悪なものだけを浄化する奇跡なのでー」
なるほど……。けど、時間稼ぎかぁ。
一般人がゴーストに乗っ取られて襲ってくるとして、死霊が槍を恐がってくれるだろうか。牽制しても立ち止まってくれなかったらどうしたらいいんだろう。
「歩けないように槍で足を怪我させる……とかかなぁ。やりたくないけど」
「……そうね。状況次第ではユーネの神聖魔術を試してもいいけれど、基本は退却するべきかしら。そういう被害者がいても無傷で救出できる自信はないわ」
「でもー、ゴーストにあんまり長く憑依され続けると、意識が混ざったりして危険なんですよねぇ……その場合はなんとか挑戦するべきだとユーネは思うんですがー」
この想定に怯えていたユーネだったけれど、退却には反対のようだ。もし自分の手で救える相手なら、救いたいのだろう。
ただ、これは調査の仕事。それをやっても報酬は出ない。そして、いくら冒険者だからって無駄に危険を冒すのは得策ではない。
―――けれど。
「……一回」
僕は槍を握る手を意識する。
「そのときは神聖魔術一回分だけ、なんとか時間を稼ぐよ」
―――冒険者パーティのリーダーの仕事はね、パーティを輝かせることだよ。
そんな、ペリドットの言葉を思い出した。
できるのなら。やりたいのなら。やるべきと感じたのなら。
このパーティならそれが可能であるというならば……仲間を信じて挑戦する。
それが輝くってことだと、感じたのだ。
「……この依頼の成否には関係なくても、できるかどうか試しておくのは悪くないわ。次の仕事で活かせるもの」
渋々ではあったけれど、リルエッタも賛成してくれる。
たぶん内心では、退却を提案したのも不本意だったのだろう。彼女は真面目だから、できるだけきっちりと仕事を終わらせたいに違いない。
「わ、分かりました。ユーネ、がんばりますねー」
方針が決まって、むん、と気合いを入れるユーネ。それはいいけれど、僕の左肩を掴んでる手に力を入れるのはやめてほしい。
「あ」
橙色の明かりに、次の扉が浮かび上がる。どうやら突き当たりの角部屋で、扉はしっかりと閉まっていた。
……そして、足跡は扉の前まで続いている。
「この先ね」
リルエッタがそう呟くと、緊張に生唾を飲み込む音が聞こえた。たぶんユーネのもの。
薄く積もった埃についたハッキリしない足跡だったけれど、ここにきて靴の形が少しだけ見て取ることができた。どうやら扉の中に入る跡と出てくる跡がある。往来がある、ということだ。
それが分かったのは、このあたりだけ跡が妙にばらけていたため。なんだろう、とちょっと不思議に思って、けれどそれを口にする前に、ユーネが僕の肩から手を離して前に出る。
「と……扉を開けるのは、そういえばユーネの仕事でしたー。い、いきますよー」
こんな時に思い出したのか……。彼女がドアノブに手をかけるのを見て、抱いた疑問は頭の端っこに追いやった。
僕は槍を構える。
扉が開く。
「うわっ……!」「キャッ!」「ひ、ひぃー!」
三者三様の悲鳴が響く。
開いた扉のすぐ向こう側に、橙色の明かりに照らされて、白い人影が物も言わず佇んでいたのだ。
「ご、ゴーストっ? 二人とも下がって!」
「あなたも下がりなさいキリ! ゴーストに武器は通じないわ!」
「あ、あああアーマナ神さまどうか加護を加護を……!」
三人でパニックになりかけながら、バタバタと廊下を戻る。心臓が破裂するかと思った。扉のすぐ向こうにいるなんて聞いていない。
距離をとっても、白い人影は追ってこなかった。扉の向こうに佇んだままじっとしているようだ。薄気味悪くって不気味な姿でただそこにいた。
「……どうしたんだろう? 不死族って、生者を襲うんだよね?」
「あの部屋から出られない……とかでしょうかー?」
あまりに動かないので槍を構えたまま疑問を口にすると、ユーネも不思議そうな声を出す。
あの部屋から出られない。ゴーストのことはよく分からないけれど、そういうのはありそうだな、と思った。あの部屋で死んだとか、特別に思い入れがあるなにかがあるとかで、囚われているのではないか。
「…………いえ、違うわ」
ユーネの推測を否定したのはリルエッタだった。彼女は掴みっぱなしだった僕の肩から手を離すと、コツコツと足音を立てて廊下を進んでいく。
「ちょ、え? 危ないよリルエッタ!」
慌てて注意するけれど、彼女の歩みは止まらない。仕方なく僕は追いかける。
いきなりどうしたのだろうか。もしかして操られている? だとしたら大変だ。どうにかしないと―――
躊躇うことなく足を進めたリルエッタは扉の前まで辿り着くと、迷いもせず白い人影に手を伸ばす。
そして。
「やっぱり」
バサリ、と。少し黄ばんだ白いシーツを剥ぎ取ったのだ。
その下にあったのは手すりが壊れた椅子と、その椅子の背もたれに立て掛けられた、穂の部分がずいぶん寂しくなった古いホウキ。
「敷地内に入った子供が白い人影を見て逃げ帰ってきた……噂の中にそんなのがあったわね。まったく、人騒がせだわ」
―――……つまり、ここは近所の子供たちが、度胸試しの遊び場にしていたらしい。