獣のように
スゥ、と息を吸った。
フゥ、と息を吐いた。
息を吸い、息を吐く。それを繰り返す。
一つ息を吐くごとに、余計な感情をそぎ落としていく。
一つ息を吸うごとに、心の純度を上げ向きを修正していく。
リルエッタとユーネは行ってしまった。パーティを解散し、ゴブリンが待ち伏せているかもしれない先へと進んで行った。
彼女たちは僕を置いていった。ついてくるなと暗に語っていた。僕はただ立ち尽くすことしかできなかった。
―――けれど、どうしても一人で帰る気にはなれなかった。
足は後退を拒否し、乾いた喉は怒号を上げよと訴え、強張った身体は頑なに進むべき先を向いていた。
「……僕は、ムジナ爺さんのようにはできなかった」
フゥ、と息を吐く。足の震えが止まる。
ムジナ爺さんはあの三人組を止めた。あの時は五人もいたのに、みんなで下山を選べた。
僕には彼女たちを説得することができなかった。たった二人で進ませてしまった。
スゥ、と息を吸う。背負いカゴを外して、獣道の脇に投げ捨てた。……あれはもう、今日はいらない。無事に帰れたならそのときに回収すればいい。
「それでも、今回は、あの時とは違う」
ギリ、と力一杯に槍を握りしめる。ガリ、と歯が軋むほどに噛み締める。
思い返すのは怒りの記憶。心が焼け爛れるような、どうしようもない慟哭の衝動。
僕は、これから死にに行く。……そのために足を動かす原動力など、怒りという感情の他に知らなかった。
息を吐くごとに他の感情を捨てていく。
息を吸うごとに憤怒の薪をくべる。
「なにも知らないまま終わっていた、ムジナ爺さんの時とは違う!」
湧き出る怒りに染め上げた心のまま、足を踏み出す。そのたった一歩を動くまでにずいぶん時間がかかった。けれど踏み出せば、次の一歩はすぐに出た。
向かう先を睨む。先へ進んだ背中を追いかける。
二人を行かせてしまって後悔した。だから反省しよう。僕は間違っていた。
冒険を甘く見るド素人など、首根っこを掴んで引きずってでも下山させるべきだったのだ。
「あの分からず屋!」
さらに怒りの薪をくべる。足は加速し、ついに走り出す。
駆ける。駆ける。駆ける。
頬を小枝が打つのもかまわず、身を低くして獣のように疾駆する。
自分の中の酷く冷静な部分が計算している。ゴブリンどもが待ち伏せていたとしても、前を行く二人に注意がいっているはず。多少音を出したところで僕が見つかることはない。
動き出すのにかなり遅れてしまった。何度も頭を最悪の光景がよぎり、そのたびに振り払う。
可能な限りの全速力で走る。
上り坂を蹴り上がり、なだらかな下り坂を落ちるように抜けて、木も草もやたらと生い茂る獣道を縫うように走破して。
「――――――っ!」
辿り着き、目の前に現れた光景に、僕の怒りは限界を超えた。
ゴブリンが三匹。戦況は見るからに劣勢。
ユーネは長柄のメイスで二匹を牽制しているが、なんとか近づかせないように振り回しているだけでまるで攻撃が当たる様子はない。リルエッタにいたっては呪文の詠唱もむなしく、魔術が発動する前に棍棒で短杖を弾き飛ばされた。
目に飛び込んできたその絶望的な景色を前にして僕は、自分の心のタガが外れる音を聞く。
「なにを―――」
獣のように加速する。両手で槍を振りかぶった。教えてもらった基本の型など無視した。
思考は白く、視界は狭く、時はやけにゆっくりで。
ゴブリンが棍棒を振りかぶる。恐怖に固まるリルエッタへと振り下ろす。―――その間際、跳び込むように背後から首を刺し貫いた。
「―――やってんだお前らあっ!」
グリッ、とゴブリンの喉に刺さったままの槍を捻る。ゴギン、となにか硬いものが折れる鈍い音が槍を通して響く。
思いっきり地面を踏みしめる。そのまま力任せにぶん回す。壊れた玩具のようにゴブリンの顔が有り得ない方を向いて、目と耳と鼻と口から血反吐を撒き散らす。ブチブチというなにかが千切れる音と共に、頸椎を貫いた槍の穂先を肉と皮を破るようにして抜いた。
吹き出したゴブリンの鮮血が、驚愕と恐怖に青ざめるリルエッタの頬と衣服を汚す。―――生きていることだけ確認して、それ以外はどうでもいいと動きを止めず次へ踏み出す。
声を上げたからユーネの方のゴブリンはこちらに顔を向けていた。……だというのに、ユーネまでもが僕の出現に驚いている。その間抜け面に頭の血管がビキリと痛む。
攻撃に転じるなら敵の気が逸れた今だろうに。
自身の勢いを止めることなく、手の内で槍を滑らせた。石突きに近い場所を両手で握り、槍を可能な限り長く持つ。
こうすれば射程は最も遠くなり、最も強く威力が発揮され、そして攻撃を外した時には致命的な隙が発生する。
知ったことか。
「おおあああっ!」
雄叫びを上げながら横薙ぎに槍を振るった。手短な方の一匹が慌てて短剣を構え、その攻撃を受けとめる。木製の槍の柄に錆びた刃が食い込む。
これでもかと歯を食いしばった。踏ん張る足に力を込めた。胸の内で暴れ回る怒りをそのままに、短剣が食い込んだ槍を強引に振り切る。
僕が出せる最大威力の攻撃を受け止めきれず、ゴブリンは自分の短剣の背で顔面を強打して、呆然とこちらを見るリルエッタの横まで吹っ飛んだ。
「ガアアアアアアッ!」
怒声が聞こえた。中途半端に高くてしわがれた、耳障りな醜い声。とっさに振り向く。
三匹目のゴブリンが突撃してきた。力任せに短剣を突き出してくる。どうやら最も脅威なのは僕だと認識したらしい。怒りに歪んだ顔で突っ込んでくる。
後ろへ跳びながら短剣をかわす。次の突きは右斜め後ろに下がって避ける。さらに振るわれる腹を狙った攻撃はかろうじて槍で受けた。―――マズい、完全に間合いに入られている。この距離だと槍の長さが逆に仇となって攻撃しにくい。……距離を取りたいけれど、僕が後ろにさがるより前に出るゴブリンの方が速い。
四度目の攻撃も槍で受ける。さっきのより重い衝撃が手に伝わり、二の腕まで痺れる。思わず苦悶の呻きが漏れる。
ゴブリンの口角が上がるのが視界に入って、ちくしょうと吐き捨てたくなった。ついさっきまで怒りに溢れていた顔が、もう緩み始めているのに酷い苛立ちを覚えた。間合いの有利を確信されているのが、その醜く歪んだ笑みを見ただけで分かった。……たったそれだけでこのゴブリンが、自分の仲間が倒されたことをもはや忘れていることも理解した。
一匹目は背後からの奇襲で倒せた。二匹目はまだ相手の体勢が整っていなかった。けれど三匹目のコイツには、いきなり不利な間合いを強いられている。
さらなる一撃が襲い来る。すんでの所で槍の柄で受ける。有利を確信したことによる、しっかりと体重を乗せた重い一撃だった。
たまらず体勢が崩れてしまい、出したくもないうめき声を漏らして、そして―――バキッと乾いた音がして、槍の柄のほぼ真ん中辺り……さっき短剣が食い込んだところから先がへし折れた。
今度こそゴブリンが口を開けて嗤った。唾液の糸を引いた黄ばんだ乱杭歯を見せてこちらを嘲笑う声を発し、勝ち誇るように大きく短剣を振りかぶる。
体勢を崩した僕には、その一撃を避けることはできなくて―――それでも、目は閉じなかった。