ムジナの価値
「しっかしなー、こういう仕事の時こそムジナ爺ちゃんが便利だったんだけどなー」
ゴブリンは足跡を隠していない。数も多いし、つい昨日の痕跡だ。柔らかい森の土はしっかりと道筋を示している。
正直、これなら僕でも辿れる。チッカなら雑談しながらでも余裕だろう。
「ムジナ爺さんが? なんで?」
「あの爺ちゃん、町の周辺の地形ならなんでも知ってたからね。ゴブリンがいそうな場所くらい、安酒一杯で聞き出せるんだよ」
……なるほど。薬草採取で何十年も歩き回っているのだから、ムジナ爺さんは町の周辺に詳しいだろう。大雑把な場所さえ分かれば、ゴブリンがねぐらにしそうな場所も予想がつくのではないか。
「あー、なんかそれ知ってるぜ。酒とか肉とかよく奢られてたよな、あの爺さん。俺は利用したことねぇけど」
「アンタの前の仲間の二人、爺ちゃんの常連だったよ」
「……マジか」
ウェインが今更知る新事実に愕然とする。たしか、ミグルとラナって人だったっけ。結婚して冒険者を辞めてしまった二人。
「ムジナの存在は貴重だった」
シェイアがぽそりと呟く。
「店の棚に多種の薬が揃っているのも、それが都より安く買えるのも、ムジナのおかげ」
「あー、それは俺も世話になってるわ」
「…………」
薬草採取は薬師ギルドからの常設依頼。採取した薬草は納品されるはずだ。
その薬草は調合されて、薬となって冒険者の店や武具屋の棚に並ぶのだろう。ムジナ爺さんの仕事はそうやって、冒険者たちの元へ還ってきていた。
ムジナ爺さんはもういない。町の周辺の地形が全部頭に入っている人も、薬草採取で薬の在庫を支えてくれる人も、いなくなってしまった。
冒険者は困るだろう。冒険者の店も困るだろう。それくらい、あの人は重要な人だった。
「静かに」
チッカが口元に人差し指を当てて警告した。
「ゴブリンが一旦、この辺りで集合した痕跡があるね。地面へ八つ当たりするような荒々しい足跡がいくつか。ずいぶん悔しがってるのが伝わってくるけれど、ここから先の足跡に左右への広がりがなくなって、歩き方もゆっくりになってる。……きっと、ゴブリンはここで爺ちゃんの捜索を諦めたんだ」
しゃがみ込んで地面を睨んだチッカが、まるでその光景が見えているかのように解説する。……足跡からそんなことまで推測するのかと驚いたけれど、説明されて改めて地面を見ればたしかにそのように想像できるのだから、これはもう舌を巻くしかない。
「血の色と臭いに興奮していたのがやっと冷めて、疲れたとか腹が減ったとか言い出すころ。たぶん近場の適当な場所で休憩したはず」
「なら、その休憩場所を仮拠点にしている可能性もある」
シェイアの言葉に、槍を持つ手が震えた。
それはつまり、すぐ近くにいるかもしれない、ということ。ムジナ爺さんを殺した邪悪な魔物どもがもう目と鼻の先にいるかもしれない。
「チッカ、隊列どうする? そろそろ俺が前歩くか?」
「このままでいいよ。先に見つけるから」
ウェインの申し出を断って、チッカは先を進む。僕らはその小さい背中を追う。
森の中を奥へ進んでいく。より鬱蒼としてきて蔦の絡んだ木々の枝葉が行き先を阻むけれど、チッカは枝を切り落として道を作るようなことはしなかった。小さい彼女は、ゴブリンが通った道なら苦もなく通り抜けることができる。
しかしそれだと、僕はともかくウェインやシェイアは通りにくい。少し迂回したり、地面に手を突いて潜ったりすることも多かった。……それでも枝を切り落としたりしなかったのは、少しの音も立てたくないからか。
会話もなくなって、視線と手の動きだけで行動する三人についていく。これまでとは明らかに違う様子に、本当にゴブリンがこの先にいるのだという実感が湧いてくる。
見たことはない。けれど人間の子供くらいの大きさで、緑の肌で醜悪な見た目をしているらしい。
そして、邪悪なのだそうだ。
土で汚れるのも構わず、チッカが地面に伏せた。ウェインも身を低くし、シェイアはその場で立ち止まる。
僕もウェインに倣って地面に片膝を突く。
くぃ、と。チッカが親指でこっちに来いと指示する。ウェインがゆっくり、本当に慎重に、金属鎧の音を最小限にしながら膝立ちで進む。
僕の革鎧は、動いてもあまり音がしない。けれどそれでも慎重に動いた。ドクンドクンと自分の心音が聞こえるくらい、自分の呼吸音が響くのではないかと心配するくらい、静かに動いた。
二人が隠れている背の低い藪まで移動して、隙間から覗く。
そして……それを見た。
「ゴブリン……」
絶対に向こうには届かない声量で、カラカラになった喉を震わす。
一際大きな木があった。幹が太く、根が高く複雑に張り出して、葉陰が広く覆っている。
ぽっかりと空いたうろに一匹。根に腰掛けているのが二匹。根を枕にしたり、根と根の間で寝転んでいるのが三匹。合計六匹。聞いたとおりの、緑の肌に小柄な体躯。
向こうだってつい昨日仲間を二匹失っているハズなのに、そんなことはもう忘れたのだろうか。呑気に寝ていたり、下卑た笑い声をあげて何事か話していたり、その様子に悲嘆の様子は欠片も見受けられない。
……仲間を殺されて、怒りはしたのだろう。だからムジナ爺さんを追いかけた。腹に剣を突き刺し、死に至らしめた。
けれど哀しみはしなかった。仲間に対しそんな情を持ち得る心などなくて、だからゴブリンどもは昨日のことなどとっくに忘れ去り、何事もなかったかのように談笑し惰眠を貪っている。
そもそも仲間を殺されたことなんかどうでもよくて、ただムジナ爺さんが人間だから殺されたのではないか。―――否応なしにそんなことを考えてしまう、そんな光景だった。
腹の底で暗い炎が湧き上がるような、嫌な感覚があった。呼吸が上手くできなくて、槍を握る手が痛いほど強張って、奥歯を噛み締める。
静かにしないといけない。そんなことを思う理性が邪魔だった。できることなら叫び声を上げて槍を振りかぶって走りたかった。そうしないのがムジナ爺さんへの裏切りのようにすら感じた。
それでも……じっと息をひそめる。僕ではあの数と戦っても負けるだけだ。それではなんにもならない。僕がやることは分かっている。やらねばならないことは、分かっている。
「―――……殺してやる」
槍を握りしめ、ゴブリンどもを睨み付けて。
黒焦げの臓腑を震わせるように、呟く。