ティターニア視点 チョコレートよりも甘く 後編
花畑に転がりながら空を見上げると、ゆっくりと大きな雲が風に乗って流れていくのがみえる。
広い花畑を渡る風は、草花だけでなく私達をも優しく撫でていく。風に煽られて、私の長い髪がふわりと風に乗って靡いた。
心地よい日差しが、私を眠りへと誘う。うとうとと微睡みに身を任せようとした時――彼の声がして、私を一気に覚醒させた。
「ねえ。……いいのかな。今更だけれど」
「なにがじゃ?」
彼は酷く不安げな声でそう言った。
「なんていうのかな、私と君のこと。君は――後悔しないかい?」
「後悔?」
私は上半身を起こして、隣で寝転ぶ彼のほうを見た。彼はじっと神妙な様子で空を見つめていた。いつも柔かな笑みを浮かべている彼の、普段はあまりみせることのないその表情からは、何か迷いがあるのだということが解った。
「私の命は有限だ。君と違ってね――私はいつか死ぬ。それは理解しているだろう?」
「……そんなこと言われずとも」
「もし、私がこのまま君と一緒にいるとして、私の寿命が尽きたとき、君はどうするつもりなんだ?」
「……」
「いまは若いけれど――やがて年老いて枯れていく私は、いつまでも君のとなりに居ていいものなのかな」
「……」
「なにより、その時君はきっと泣くだろう? ……それは、嫌だなあ」
彼は泣きそうな顔をすると、顔を両手で覆ってしまった。
――ああ、あの紅い色が隠れてしまった。
なぜだかその時、私はどこかずれたことを考えていた。
薔薇のように、夕日のように、宝石のように美しいその紅が隠れたことがとても不満で――私は身体を起こすと、彼の腕を取り払ってのしかかった。
そしてケルカの額に自分の額を合わせる。私の白金の髪がまるでカーテンのように彼の周囲を覆った。
間近に見える美しい紅色に満足して、思わず息を漏らす。
……ああ、やっぱりこの色は、私の心を掴んで離さない。
「妾は、今まで何人もの夫を見送ってきた」
「……それは知っているよ。私は7番目なのだろう?」
「そうじゃ。今まで六人の夫の死に立ち会った。誰も彼もが、妾を愛してくれたよ。誰も彼もが妾に最後まで優しくしてくれた」
そういうと、彼は不機嫌そうに顔を顰めた。もしかしたら、嫉妬してくれているのだろうか。そうだったなら嬉しいが、複雑でもある。私にとって過去は過去。私を一途ではない、心移りが激しいというふうに揶揄するものもいる。……確かに生涯ひとりだけに愛を注いでいるわけではないから、そう言われても仕方がないことなのだろう。
――私は妖精のなかの妖精。妖精女王。
気が向いたらヒトの棲み家に忍び込み、酒を強請りながら世界中を飛び回る。今晩の寝床も明日の行き先もなにもかも風まかせ、きまぐれの根無し草――……。
けれども、私の心だけはきまぐれなんかではない。
私が愛するものは常にひとり。そのひとりだけに心を捧げ愛を与える。
それが私。それが私の愛の在り方。――それが、私という人外。
そして、今現在愛しているのは、私の目の前にいるこのヒト。彼だけだ。
彼に私の心が、そして気持ちが届くようにと、彼の額に唇を落とす。私の心は、恋心はお前のものだよ、とそっと頬に手のひらで触れた。
そうすると、私の心が少しは伝わったのだろうか。彼の頬がほんのり赤く染まった。
「沢山言葉を貰ったよ。好きだ、愛している。そんな言葉を。
……けれども誰も彼もが、妾が戯れに――……永遠に共に歩まないかと誘うと、顔を引き攣らせ黙り込んでしまう。
ヒトは所詮ヒト。……人外にはなりとうないらしいのう」
「……」
私は彼の紅い瞳を覗き込んだ。
彼の瞳は大いに揺れていた。なんてわかりやすいヒトなのだろう。
彼はとてもではないが隠し事が出来るような人間ではない。
それに彼は古の民だ。エルフほど、死後の世界に憧れを抱いている人種はいないだろう。
そんな彼に私の都合で「永遠に共に生きろ」などと言えるはずがない。
まあ……ヒトを人外へと変えるなんて、滅多に出来るものではない。よほど強い願いや、祈り、想いが無いと無理だ。当の本人が拒絶しているのならば、それは到底無理なこと。
私は、彼の胸元に耳を寄せて、鼓動に耳を傾けた。
どくん、どくんと力強い音が聞こえてきて、それがとても心地よい音なのだと気がつく。
……けれども、この鼓動もいつかは止まってしまう。置いていかれるのが嫌なのであれば、恋をしなければいい。愛さなければ、永遠の時の中で生きる人外として楽なのは違いない。
けれども、どうしても惹かれてしまうのだ。
魂が、相手を見つけると全力で寄り添おうとしてしまうのだ。
ヒトは愚か。けれども、それ以上に私の方が愚かなのだ。……恋に狂った妖精ほど、手に負えないものはない。
「この音が止まるときまで。一緒に居られればそれでいい。
愛しいこの生命が散るまで。……傍に置いてくれればいいのじゃ」
胸が苦しい。いつか来る別れの時を思って、心臓が悲鳴を上げている。
「……君、は」
「まあ、そんな顔をするな。傍に置くと言ってもな、何も年がら年中一緒に居ろなんて言わぬ。妾は妖精の女王。きまぐれな女王。ひとどころには留まらずに、常日頃から世界中を巡る人外。それが妾という存在。きまぐれこそ妾の本質――。
だから、気が向いたときにお主のもとへと立ち寄る。その時に――愛を与えてくれればいい。
なんなら、普段は忘れていてくれてもいい。偶に逢った時に、雨のように愛を注いでくれれば――」
彼は私の顔を強張った顔で見ると、酷く寂しそうな――辛そうな表情をした。
ああ、いけない。彼にこんな表情は似合わない。彼に似合うのは、陽だまりの下で優しく微笑む、そんな表情だ。
「笑え、ケルカ。妾はお前の笑顔が好きじゃ」
「……君、は……」
「泣くなよ、馬鹿め。お前が死ぬまでまだ随分と時間がある。先のことを悲観して泣くよりも、今を楽しんで笑えばよい。それが、妾の夫として相応しい振る舞いじゃ」
どくんどくん。彼の鼓動の音が聞こえる。
私は手のひらで彼の胸をそっと撫でると、目を瞑って彼が生きている証の音に耳を傾けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ぱちりと目を開けると、花畑なんてどこにもなく、そこには板張りの古びた天井があるばかりだった。
身体を起こして辺りを見回す。……ああ、ここは友の棲み家。あの花畑ではない。
……随分と懐かしい夢を見た。
あれは、ケルカと夫婦の契りを交わしたすぐ後のことだ。
私の姿は変わらないけれども、ケルカは今と違って随分と若かった。
「……ケルカ」
愛しい彼の名前を呼ぶ。けれども、あの優しい声が返ってくるはずもない。
どうにも胸が苦しくなってしまって、私はそれを紛らわそうと新しい菓子に手を付けた。
透明な包装に包まれている、『チョコレート』。
茜が「これはちょっと高価なチョコなので、大事に食べてくださいね」と、真面目くさって渡してくれたものだ。
中にはいっているチョコは見た目は白いことを除けば、なんの変哲もない『チョコレート』。『ホワイトチョコレート』と呼ばれるとりわけ甘い菓子だという。
茜が言うにはこの中には乾かした果実が入っているらしい。
なにがどうして高価なのかわからないけれど、きっと色々と違うのだろう。
「……ふん」
私はその包装を乱暴に破ると、中の『チョコレート』をひとつ指先で摘んだ。
随分と大きな菓子だ。先程のナッツが入ったものよりもふたまわりほど大きい。
ひとくちでは無理だろう――そう思った私は、前歯でその『チョコレート』を齧った。
……ざくっ
すると、中にはいっていた乾燥した果実が乾いた音をたてた。
そして、その果実の周りを包んでいた『チョコレート』が口の中に広がった。
先程まで食べていたものと違って、これは随分と甘い。とろりと濃厚な乳の味が広がる。その甘味は若干喉の渇きを覚えるくらいだ。そして、その『チョコレート』に包まれていた果実は随分と甘酸っぱい。
甘い『チョコレート』に、酸っぱい果実。その2つが合わさると、丁度いい具合になるからなんとも不思議だ。
――甘い、甘いのう……。しかし、これもなかなかいける。
そう思った私は、『チョコレート』の断面を見た。
そして――思わず、息を飲んだ。
純白のチョコレートに包まれていたのは――……紅い、濃い紅色の果実。
……ああ、なんて美しい紅。
なんてことだろう、胸の苦しさを解消するために『チョコレート』を食べたはずなのに。
もっと苦しくなってしまうなんて。
「……茜め。帰ったら覚えておくがいい」
絶対に茜が意図してやったことではないとわかっていても、私はそう呟かずにはいられなかった。
私は指をくるくると回して魔力を纏わせる。
すると、どこからか涌いてきた妖精たちが、私の指に纏わりついた。
すこし眠ったお陰で回復した魔力を、寄ってきた妖精たちに渡した。
そして、ケルカを探すように命令をする。
「探しておくれ。妾の愛しいあの人を。
見つけておくれ、彼の命が尽きる前に。
――願わくば、冷たい雪が舞い落ちて、冬の寒さに凍える前に、彼の温もりに包まることが出来るように……」
色とりどりの妖精たちは、まるで返事をするようにくるりくるりと私の頭の上を何度か旋回すると、窓の外へと向かって飛んでいった。
私はそれを見送った後、体中を包んでいる倦怠感を振り払うように、グラスに残っていた酒を飲み干した。
甘い、甘い異界の菓子を口の中で溶かしながら、先程の夢の内容へと思いを馳せる。
極上の甘味『チョコレート』。
それよりも尚、甘い彼との幸せなひとときを、もう一度垣間見れるのならば、眠るのも悪くない。
私はそう思って――そっと瞳を閉じて、心地よい眠りが訪れるのを待った。