獣人の国と、労りのカレーライス 前編
森と獣の国テスラ。
針葉樹の森で国土の大部分を覆われたその国は、豊富な森の資源によって、林業の国として栄えている。
その国には、もちろん人間もいるけれども、住まう人々の多くは獣人。
獣人とは、半人半獣のヒト族で、普通の人間のように二足歩行をするけれども、見えている顔や脚は獣そのもの。何故か手だけは、人間と同じ5つに指が分かれている。
そんな獣人たちが大勢行き交う街に、私たちは到着していた。
「わあ……」
思わず口をあんぐりと開けて、高くそびえる木々を見上げる。
街の中に幾本も立ち並ぶ、高く高く、空に向かって聳え立つ巨大な針葉樹。
その大きく太い幹に、ぼこぼこと沢山の穴が開いているのが見える。
どうやら、その針葉樹の中に獣人たちは住んでいるらしい。小さな穴には木枠の窓が取り付けられていて、鉢植えに可愛らしい花が植えられて飾ってあったり、洗濯物が紐で吊るされて風でなびいていた。
入り口らしき扉がついている穴もある。その大きさは大小様々だ。小さな鼠の獣人が出てきた扉は、私の腕が通るかどうかも怪しいほど小さいし、エプロンを着けた熊の獣人が出てきた扉は、見上げるほど大きい。
それぞれの扉はパステルカラーで統一されていて、そこに住んでいる獣人の種類が判るように。デフォルメされた獣の顔を象った印がどの扉にもつけられていた。……表札の代わりなのだろうか。
大きな木に住まう獣人たち。それは、昔読んだ、動物たちが住まうおとぎ話の世界にそっくりで、私はついつい街並みに見惚れてしまった。
「あんまり口を開けていると、虫が飛び込んでくるよ」
余程間抜けな顔だったのだろう。ジェイドさんが笑いながら注意してくれた。
……虫は嫌!
ここは深い森のなかだ。確かに沢山虫が飛び交っている。
私は慌てて口を閉じると、先行するジェイドさんの後を追った。
ジェイドさんと街の中を歩いている途中、おかしなものが目に飛び込んできた。
針葉樹の大木が聳え立つ街並みの中で、何本かの木が黒く煤けて燃え尽きていた。沢山のロープが貼られて、鎧を着た兵士がその前で誰かが入り込まないように見張っている。まるで規制線の貼られた事件現場のような有様だ。
「……不自然に、何本か焼けていますね」
自然災害や火事で燃えたにしても、燃えた木の場所が飛び飛びだし、数が多い。けれど、放火と考えるには、これだけの数が燃えているのに、街の警備が随分と少ないような気がした。
……それに、その木は燃やされてから随分経っているようだった。黒焦げになっている木の根本から、小さな若芽がちらほらと芽吹いている。蔦植物も幹に絡みついていて、木の上の方は黒焦げで崩れているのに、根本周辺だけが鮮やかな緑色に染まっていた。
「……ジェイドさん。あれは……?」
私が質問すると、ジェイドさんは迷ったように言い澱んで――少しの間、逡巡したあと、ゆっくりとした口調で私に説明してくれた。
「……おそらく、穢れてしまったから破棄したのだろうと思う」
「……破棄?」
「時折、空を飛ぶ穢れた魔物が襲来するときがあるんだ。邪気に当てられた魔物は、穢れ地を増やすために、邪気を振りまく。それに当てられたものは、燃やして破棄するしかない」
「じゃあ、あれは邪気に……?」
「――聖女様が、その場に居れば邪気を祓えるから、燃やさなくても済むのだろうけれどね。あの木は燃やされてから少し時間が経っているようだ。……聖女様がこちらに来る前に、穢れたのだろう」
……その木にも、周囲の他の木のように沢山の穴が開いている。煤で汚れた割れたガラス窓がそのまま残っているし、ぽっかりと開いた穴の奥には、煤けて真っ黒になってしまった家具が見えた。――嘗ては、この木も獣人が住処としていたのだろうことが伺える。
私は足を止めて、その木を見上げた。
妹が居れば、この木は燃やされずに今も誰かの帰る場所であったのかもしれない。
……この木を、きっと妹も目にしたはずだ。
私はその時の妹の気持ちを想像してしまって、思わず顔を顰めた。
妹も浄化に出発する前に滞在させてもらったという、来賓用の館がある。そこに私たちは訪れていた。
「ようこそいらっしゃいました。茜様」
館に入ると、奥から出てきたモノクルを着けた白髪が美しい女性が、私に向かって深く礼をした。
私も慌てて、その人に頭を下げると、ふっ……と、その女性は優しく微笑んだ。
「わたくしの名は、サリィと申します。元々、ジルベルタ王国に籍を置く貴族なのですが、ここテスラの地にて、ジルベルタ王国との中継ぎという名誉ある仕事を賜っております。どうぞ、よろしくお願い致します」
「小鳥遊 茜です。先日、妹もお世話になったとか。その節はありがとうございます」
「いいえ。聖女様をもてなすのはわたくし達の努め。聖女様には多大なる犠牲を強いているのです。当たり前のことですわ」
サリィさんは、そういうと菫色の瞳を細めて、手で口を隠してころころと笑った。
……なんだか、とても上品で綺麗な人だ。
「騎乗用の大鷲たちは、館の屋上の鳥かごにご案内しておきましたわ。おろした荷物はどうしましょうか?」
「早速、調理を開始したいので、厨房に運んでいただきたいのですが」
「わかりましたわ。騎士様。では、そのように」
そんなやり取りをジェイドさんとサリィさんがしている間、私はどうしても通りの様子が気になって仕方がなくて、窓のある方向をちらちらと盗み見ていた。
……リゼルさんの話だと、今日中には妹もこの街まで戻ってくる筈なのだけれど。
そんな私の様子に気がついたのか、サリィさんが私に声をかけてくれた。
「聖女様がお戻りになるまで、まだかかるかと思いますわよ」
「……はい。わかっています。いつ頃、戻るかわからないのでしょうか」
日本に居たときは、携帯電話で直ぐに居場所や到着時間を連絡できた生活をしていたから、いつ到着するのかもわからず、連絡も取れない現状がなんだかもどかしくて、そわそわしてしまう。
焦りが顔に出ていたのか、サリィさんは私の手をとって、ぎゅ、と安心させるように強く握った。
「先に戻った兵達からも、聖女様に何かあった等の話は出ていません。……大丈夫ですわ」
「……はい」
「それに、先触れも来るでしょうし……それ以前に、聖女様が帰ってきたら、茜様に報告が行かなくとも、きっと直ぐにわかりますわ」
そう言って、サリィさんは微笑んだ。
優しくそう言われたけれど、どうしても焦る気持ちが収まらなくて、私は曖昧に笑みを返した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
館の厨房を借りて、妹が帰ってくる前に料理を作っておくことにした。
きっとお腹を空かせて帰ってくる妹に、美味しいご飯で出迎えてやりたいからね。
……今日のメニューはカレーだ。
日本人の国民食カレー……。
定期的に食べたくなる、大人から子供までみんなが大好きなカレー。
こちらに来てから、カレーは数回しか作っていない。結構な量のカレールーは買い貯めてあるけれど、それにしたって在庫は有限だ。いまや我が家のカレーはご馳走扱いになっている。万が一カレールーが切れたら、スパイスから作ってもいいのだけれど、カレー作りに必要なスパイスを薬草売りに依頼するにしても、欲しいスパイスの説明がなかなか難しく……。
インド人並に普段からスパイスに接していれば違うのだろうけれど、一般的な日本人である私にとって、カルダモンやら、ウコンを異世界で見つけられる気が全くせず、スパイスからの手作りカレーは早々に諦めた。
毎週カレーでもいいと豪語するほどのカレー好きの妹のお腹は、そろそろカレー欠乏症の禁断症状に襲われている頃だろう。
……それに。単純に、私の作るカレーは亡くなった母の味。家族の思い出の味だ。きっととても喜ぶ。
私は妹の喜ぶ顔を想像して、頬を緩ませた。
……よし!うじうじ妹を心配していてもきりがない!
妹のために美味しいカレーを作ろうじゃないか!
私は腕まくりをして、厨房へ向かった。
今回のカレーを作るにあたって、皮肉にも一番苦労しそうなのは、白いご飯を炊くことだ。
電気が通っていないこの街で、まさか炊飯器を使うわけにもいかない。
それは予想できたことなので、出発前に鍋でご飯を炊く練習を随分としてきた。
初めは固くなりすぎたり、底が真っ黒けになったり。大変だったけれど、一応普通に炊けるようにはなったと思う。
お鍋で炊くときに重要なのは、予め、炊く前にお米をしっかりと浸水させておくことだ。
炊飯器であれば、研いですぐのお米を炊いてもそれなりに美味しく出来上がるけれど、鍋だとどうしても味が落ちてしまう。だから、お米を研いだらしっかりと水に浸けておく。
そうすると、実は鍋で炊いたご飯は20分もすれば炊きあがる。炊飯器よりもずっと早く炊けるし、味もとても美味しく仕上がるのだ。
お米を研いで浸水させた私は、その間にカレーの調理に取り掛かった。
ジェイドさんにじゃがいもと人参の皮を剥くのをお願いして、私は玉ねぎを切って炒め始める。
――じゅわわわ。
バターを入れたフライパンの上で、玉ねぎからでた水分が弾けていい音がした。
玉ねぎを炒めることは、カレー作りで重要なことだ。ゆっくりと弱火で、焦げ付かせないように気をつけながら、木のヘラで丁寧に炒める。これを怠ると、どこか一味足りないカレーになってしまう。
炒めていると玉ねぎが段々と透き通ってきて、しんなりとしてきても終わりではない。それから更に炒めていると玉ねぎがきつね色に色づいてきた。
こうすることによって、玉ねぎの甘みが引き出されて、カレーにコクを与えてくれる。
それをだいたい一時間くらいかけて、玉ねぎの色が濃い茶色になってとろとろになるまで丁寧に、丁寧に炒めていった。
「……疲れてないか?代わろうか」
ジェイドさんが心配そうな様子で声をかけてくれた。
確かに一時間も立ちっぱなしで、玉ねぎを炒め続けている。しかも火が燃え盛っている竈のせいで、厨房はかなり暑い。私の額からは幾筋もの汗が流れているし、腕もだるくなってきていた。
けれども、私は首を横に振って、ジェイドさんの申し出を断った。
……今日はなんだか自分自身で手間を惜しまずに調理したい、そんな気分だ。
「また、貴女は……」
「へへ。ごめんなさい。ジェイドさん。でも、今日は頑張りたいんです」
私がそう言うと、ジェイドさんはため息を吐いて、私の汗を布で拭いてくれ、そして飲み物を「無理はしないように」と、困り顔で差し出した。
ジェイドさんの気遣いに感謝しながら、飲み物を受け取ると、私は一気にそれをぐい、と煽った。
ジェイドさんの用意してくれたのは、レモンのような果実の汁と少量の塩を入れた果実水だ。ほんのりすっぱくてしょっぱいその果実水は、とても冷たくて美味しかった。
玉ねぎが炒め終わったら、次はお肉だ。
牛肉、豚肉、鶏肉……各家庭で、色々使う肉の種類はあるけれども、うちはだいたい鳥のもも肉を使う。
つまりはチキンカレーだ。更に煮込む際にたっぷりのトマトを入れて煮込むのだ。
少しだけ酸味が感じられるチキンカレーは、母がよく作ってくれた味。私と妹にとっては食べ慣れた味だ。
フライパンは温める前に、鶏肉の皮目を下にしてフライパンに並べておく。そして、それを火にかけたら暫く触らないで置く。
すると数分すると油のぱちぱちと弾ける音がしてくるだろう。皮からじんわりと染みてきた鶏肉自身の脂で、皮がこんがりといい色に焼けた合図だ。そうしたら、鶏肉をひっくり返す。
そして反対側も焼けたら、鶏肉を一旦取り出して、他の野菜を炒めていく。
大きめにカットしたじゃがいも、にんじん。あとは、マッシュルーム。
このマッシュルームは、ジェイドさんと王都のバーで食べたのと同じマッシュルームだ。
肉厚で美味しい茸は、秋が旬なだけあってとても香りがいい。
カレーに入れると香りは飛んでしまうけれど、良い出汁は出してくれるだろう。
フライパンに残った鶏の脂でそれらを炒めたら、月桂樹の葉もそこに加える。
月桂樹の葉は肉の臭み取りや、香り付けによく使われる。煮込むときに水と一緒に入れるのが一般的な使い方だ。
けれども、月桂樹の葉は油で炒めると香りが一気に立つ。香りが出にくいハーブなので、一度熱したほうが効果的だと、私は思う。
野菜全体に脂が回ったら、そこに鶏肉を戻して、少し混ぜ合わせる。
そして、具材をフライパンの端に寄せて、空いたスペースに油を追加する。
フライパンを傾けて、油だけが温まるようにしたら、そこに粉のカレー粉を投入するのだ。
カレー粉はルーとは別に用意したもの。赤い缶入りのカレー粉が有名だけれど、あれでいい。カレー粉を入れると、辛味に深味がでるとは母の言葉だ。
油で熱するのは、月桂樹と理由は一緒。油を加えることで、カレー粉は一層香りが立ってくるのだ。
カレー粉をフライパンに投入して、それが熱した油に接すると、しゅわしゅわと泡を噴いて、一気にいい香りを放ち始めた。
ここまで調理すると、厨房の中はカレーらしいスパイシーな香りで包まれた。
「――……まあ。なんていい匂いなのかしら」
声がしたので、厨房の入り口の方を振り向くと、サリィさんがひょっこりと顔を覗かせていた。
「サリィさん」
「茜様、先触れが来ましたわ。もうすぐ、聖女様がお帰りになります」
どきん、と私の胸が高鳴る。そして、お腹の底からじわじわと嬉しさが昇ってきた。
――もうすぐ、妹に会える!
「あと二時間ほどだそうですわ。……間に合うかしら?」
「充分です!ありがとうございます!」
「ふふふ。それは良かったですわ……。それにしても。なんとも食欲をそそる香りですわね」
サリィさんは、私に報告を終えたあとも、すぐには帰ろうとせずに厨房の中にゆっくりと入ってきた。
そしてフライパンの中を覗き込むと、人差し指を下唇に当てながら、興味深そうに見ている。
……これは、どうみても誘って欲しいという意思表示にしか見えない。
「……サリィさんも、食べますか?」
「まあ!わたくし、その言葉を待っていましたのよ!」
サリィさんは私の言葉に、ぱっと顔を輝かせた。
そして「楽しみにしていますわ!」と、鼻歌交じりに厨房を去っていった。
機嫌良さそうに、小さなお尻をふりふりと振って歩く後ろ姿は、なんとも色っぽい。
……なんてあざとい!でも、美人だから許される気がする……!!!
大人っぽい女性に久しぶりに遭遇した私は、サリィさんの後ろ姿を見ながら、大人の女性の立ち振舞いに関して考え始めた。
具材が炒め終わったら、鍋に移して、更にトマト缶を入れる。そして、足りない水分を具材に被る程度の水を入れたら煮込み始めた。
煮込んでいるうちに浮いてくるアクを取りながら、簡単なサラダも作っておいた。
サラダは邪道と言われるかもしれないけれど、フルーツサラダ。秋が旬の、しゃくしゃくで瑞々しい林檎を、薄切りにしてから薄くカットする。それにマヨネーズとお酢と塩。キャベツも千切りにして一緒に和えて、黒胡椒を振る。林檎の酸味とマヨネーズのコクがぴったりマッチした、辛いものに添えるにはぴったりのサラダだ。
あとは、具材が柔らかくなるまで煮込んだら、月桂樹の葉を取り出して、そこにルーを入れる。
完全にルーが溶けたら、とろみが出るまで煮込んで、最後にケチャップとソースを少々。……これが隠し味だ。
これで、小鳥遊家特製チキンカレーの出来上がりだ!
カレーの味見をしていると、遠くで誰かが騒いでいる声が聞こえた。
――なんだろう。
そう思って、厨房から廊下を覗き込むと、大使館の職員がバタバタと忙しそうに走り回っているのが見えた。
……もしかして……!!!
どうやら私の予想は当たっていたらしい、パタパタとサリィさんがこちらへ走ってくるのが見えた。
「――茜様!」
私はサリィさんが何か言う前に、エプロンを適当な場所に投げ捨てると、館の入り口へと向けて走り出した。
……妹が帰ってきた!
ひしひしと感じる妹に会える予感に、私の胸はどうしようもなく高鳴った。