精霊王とおもてなしご飯7
繭の外へと出てきた精霊王は、どこか気が抜けたような表情をしていた。
それまで、飲んで食べて寛いでいた私たちは、とうとう現れた精霊王の姿に思わず息を呑む。
私の家族たちは、精霊王の姿を見ること自体が初めてだ。男性とも女性とも言えない精霊王の姿に、両親や祖父母は戸惑っているようだった。
精霊王は、特に抵抗するわけでもなく、フォレに手を引かれてやってきた。
ぼんやりとした眼差しで、「核」たちと私たち家族を見回した精霊王は、特になんの表情を浮かべることもなく、用意された席に素直に座った。
「最近、母上は塞ぎがちだったでしょう。母上が元気になるように、宴席を用意したのじゃ。ほら、母上のための特別席! ふっかふかの、手触りがいいものばかり揃えたのじゃ。きっと母上もお好きだと思うてな」
フォレが地球から取り寄せをした、色とりどりのクッション。きっと彼女の趣味なのだろうクッションの中には、動物の形をしたものまで混じっている。
そのおかげで、精霊王の席はクッションに埋もれるような形になっている。流石に多すぎやしないかと言ってはみたけれど、母上はこうした方が喜ぶと譲らなかったのだ。すると、精霊王の下に衣装を着替えたアクアが近寄り、優雅に一礼した。
「さあさ、お母様。私の歌と踊り。ヴィントとボーデンの笛と太鼓の音。どうぞ堪能くださいませ!」
アクアは艶やかな笑みを浮かべると、再び舞い始めた。
精霊たちは歌や踊りを好む。精霊を喚び出すときに、歌や踊りを奉納するのはそのためだと色んな人に教わった。けれど、真実は違ったらしい。
彼らの口から語られた真実は、切なくて苦いものだった。
――母上が、人間の歌に聞き惚れていたことがあったから。
――母上が、人間の踊りを見て手を打って喜んでいるのを見たことがあるから。
全ては精霊王のために。彼らの行動原理のすべては、精霊王に帰結する。
だから人間から捧げられる歌や演奏を参考にして、いずれ最高の歌や演奏を精霊王に捧げるために、技を研鑽してきたのだという。
しゃん! しゃん! しゃん!
アクアの手首足首に着けられた鈴の音が、夜桜で淡く桃色に輝く舞台を、更に色鮮やかに変えていく。優雅に、すべらかに、艶やかに――薄衣一枚を纏ったアクアは、まるで世界中のあらゆるものを誘惑するが如く、全身を躍動させて舞い踊る。
アクアの動きに合わせ、沢山の水の精霊が宙を舞う。青い燐光をたなびかせている、おびただしい数の水の精霊は、踊りに合わせて宙に青色の帯を創り出すのだ。
歌と踊りとともに楽器を奏でるのは、ヴィントとボーデンだ。
ヴィントが手にした一本の笛。笛の軽快な音色に、ヴィントの肩にとまった風の精霊が一緒に歌い始める。ボーデンが打ち鳴らす小さな太鼓。お腹の底に響くような、リズミカルな太鼓の音。ボーデンの足下には、小さな太鼓を手にした大地の精霊が現れ、一緒にリズムを刻んでいる。
巧みな技で奏でられる精霊たちの演奏。それは、聞くものの心を捉えて離さない。
精霊王の前で披露する。ただそれだけのために、彼らの数百年……いや、数千年を掛けて磨き上げられた、歌や踊り、演奏。これならば、精霊王もきっと満足するだろう……そう思ったのだけれど、ちらりと当の本人を覗き見て落胆する。精霊王の表情には、特に変化は現れていなかったのだ。
その時、フレアが上空に向かって魔力の塊を打ち上げた。
それは、踊りや歌が苦手だというフレアに、祖父が提案したことだ。夜桜に花火なんて、春と夏が一気に来たみたいで最高じゃねえか、というのが祖父の言だ。
ぱあん、と打ち上がった花火の閃光が、夜空を明るく照らす。演奏や歌は花火の音に紛れて聞きづらくはなるのだけれど、逆光のなか、弾ける火花を背景に優雅に踊るアクアの姿は、幻想的で妖精めいた神秘さを持ち合わせて見えるものだから、なんとも絶妙だ。
けれど、それも精霊王の心を動かすことはなかったらしい。相変わらず、無表情で精霊王はそこにただ座っている。
「母上、ご馳走も用意したのですよ。どうぞ召し上がってください」
ぼうっと無感動に踊りを眺めている精霊王を見つめていたフォレが、畏まって料理を差し出した。その様子を、私たちは固唾を飲んで見守る。
お皿の上には、色とりどりのおいなりさん。黄金色の卵で飴色の鰻をたっぷり巻いた、う巻き。食べごたえたっぷりの唐揚げに、巾着かぼちゃ。アスパラのベーコン巻きに、鳥の照り焼き。精霊界で獲れた、鯛もどきのお刺身。それに、フォレとフレアが作ったハムとかまぼこのお花が散らしてある。
これも、母上が食べるのだから見栄えが良いようにと、フォレたち「核」が頭を悩ませながら盛り付けたものだ。
フォレはまっすぐに精霊王を見つめ、そっと皿を差し出した。
そんなフォレを、精霊王はまたぼんやりと見つめ返し――徐に口を開いた。
「……それは、なに」
その瞬間、私は自分が震えているのに気がついた。
精霊王から冷たい覇気のようなものが放たれ、芯から肝が冷えるような……眼前に涎を垂らした肉食獣が迫っているような――そんな感覚がする。
冷たい汗が背中を伝い、本能がこの場から逃げ出せと頻りに警鐘を鳴らしているのに、体に力が入らずに、指先ひとつ動かすこともままならない。
そんな中、フォレは気丈にも精霊王から目を逸らさずに居た。体は震え、顔色も悪い。けれど、紅葉のような小さな手はしっかりと料理の皿を支え、精霊王が料理を食べてくれるのを、今か今かと待っている。
「は、はは……うえの、お食事です。あ、あちきも作ったのじゃ。とっても、美味しいのですよ……」
フォレの言葉に、精霊王はちらりと私に視線を寄越した。その虹色に輝く不思議な眼差しは、どこまでも冷え切っていて温かさの欠片もない。
精霊王はフォレに視線を戻すと、うっすらと笑みを浮かべた。
「だれも、そんなものをよういしろなんていっていないよね? それに、いったはずだよ。にんげんにはかかわるなと。にんげんには、され、と。……ああ」
そして、次の瞬間。精霊王は皿を手にしたままのフォレの手に触れた。
「おまえは、なんてわるいこなんだろう。わるいこは、いらないね?」
「……!!」
すると次の瞬間、フォレの手が精霊王が触れた部分から、みるみるうちに色を失い始めた。同時に、ぴしりぴしりと軋んだ音が聞こえる。同時に、色を失った部分に、細かな亀裂が入っていく。
「は、母上……」
「なんて、ばかなこ。どうして、いいつけをやぶったの」
精霊王は、慈愛の笑みを浮かべて、戯れにフォレの体を手のひらで撫でていく。精霊王が触れた部分は、途端に色を無くし……石化する。
「……フォレ!!」
「茜! 駄目だ、危険だ……!!」
慌ててフォレの下へと行こうとするも、体に力がまったく入らずに中々動き出すことが出来ない。それでもなんとかフォレの下へと行こうともがいていると、蒼白になった父が、震える体で私を行かせまいと羽交い締めにしてきた。
「やめて。止めないで……!! フォレが。フォレが……!!」
「駄目だ。俺たちは失敗したんだ。たかだか人間が、神に関わるべきじゃなかったんだ……!!」
だから、頼む。行かないでくれと父が私に懇願する。けれど、ここでフォレが石化していくのをただ見ているだけだなんて――!
すると、精霊王が私たちの方を見て片眉を上げた。
「――なんだ、これ。たましいののこりかす? ……めざわりな」
そして、大きく腕を横薙ぎに振った。
「……うわっ」
「きゃあ!」
「お母さん! お父さん……みんな!!」
すると、どうしたことだろう。両親、祖父母がまるで煙のように掻き消えてしまったのだ。
「……や、やだ。お父さん、お母さん……じいちゃん、ばあちゃん……っ!!」
ひとり取り残された私は、途端に頭の中が真っ白になってしまい、その場に蹲る。
体の震えが、噴き出す汗が止まらない。両親と祖父母がいてくれたお蔭で保たれていた精神のバランスが崩れ、一気に不安と恐怖が襲ってくる。
――ああ。精霊王から注がれる視線が怖い。大切な家族を、いとも簡単に消し去ってしまった精霊王が、どうしようもなく怖い。……父の言う通り、神のことになんて関与するべきじゃなかったのかもしれない。でも、でも……妹を助けるためには……!!
そのとき私の脳裏に浮かんできたのは、太陽みたいな笑顔を浮かべた、可愛い妹の顔だ。
「ひより……! ひよりが待っているんだ……!!」
私は、ここで死ぬ訳にはいかない……!!
決意を胸に、歯を食いしばって顔を上げる。けれど、視界に入ってきたのは、冷笑を浮かべた精霊王の姿だった。
「さあ。そこのめざわりなにんげんも、けしてしまおう。それでおしまい。ぜんぶ、ぜんぶおしまいだ」
精霊王は、再び私に向かって手を向けた。
――そのときだ。
「母上。駄目。茜は、あちきの大切な友達なのじゃ。消されるのはあちきだけで良い」
フォレが、私を庇うようにして立ち塞がった。
よろよろと危なげな足取りのフォレは、半身を石にされつつも、尚も料理が盛られた皿から手を離さない。
「あちきは悪い子じゃ。母上の言いつけも守れない、兄様たちや姉様たちのように、母上を歌や踊りやらでもてなすことすら出来ない。それなのに、押し付けがましく人間の料理を食べろと言う。なんて、我儘。なんて、悪い子。母上、ごめんなさい……」
もしかしたら、体中が痛むのかもしれない。フォレは息も絶え絶えに、時折顔を歪めながら、精霊王に向かって一歩踏み出した。
「母上。あちきはもう、母上にとっていらない子。捨ててくれてもいいのです。でも、これだけは……」
すると、よろめきながらも歩いていたフォレの片足が完全に石になってしまい、粉々になって崩れてしまった。当然、バランスを崩して転びそうになってしまう。ぐらりと傾いだフォレの体が、地面に激突するかと思い、見ていられずに思わず目を瞑る。けれど次の瞬間、フォレの下に風のようにヴィントが現れ、その体を支えた。
「まったく。我らが末子は、相も変わらず手がかかる」
「ヴィント、すまぬ。ああ、料理は無事か?」
ヴィントはフォレの体勢を直すと、尚も皿の上の料理が崩れていないか気にしている末子を、眩しそうに目を細めて見つめた。
「フォレ。ほら、大丈夫? 頑張って」
「僕もいるさ。さあ、共に母上の下へ」
「……」
気がつくと、他の「核」たちもフォレの傍に寄り添っている。ボーデンは、丸太よりも太く見える腕をフォレに伸ばすと、その小さな体を大事そうに抱えた。
「兄様たち、姉様たち。ありがとう……」
「『家族』だもの。さあ、一緒に行きましょう」
「うん。うん……」
フォレは声を震わせながらも、『家族』にお礼を言い、精霊王にまっすぐに向き合う。
突然、「核」たちに囲まれた精霊王は、状況が理解できないのか困惑気味だ。
「おまえたちも、わるいこ?」
「そうかもしれませぬ。我らも、フォレと同じ気持ちですから」
「お母様、料理というものには、作ったものの気持ちが篭っているんですって。食べてくれる相手に対する、あったかい気持ちが」
「僕もね、フォレと一緒に花の飾りを作ったんだ。どうだい、可愛いだろう? 母上の為に頑張ったんだ……」
「核」たちの声は、どこまでも優しい。精霊王に対する気持ちが、溢れんばかりに込められたその声は、聞いているだけの私の心さえ温かくさせてくれるほどだ。
けれど、精霊王は自身に注がれる温かな感情に、戸惑い混乱している。
「なんなんだ。おまえらは! ……なんなんだ、いみがわからない」
そう言うと、精霊王は一歩後ずさった。その表情には、どこか怯えがあった。
「あちきたちは、母上と『家族』でありたい。ただそれだけじゃ」
「かぞ……? なに。しらない。わからない! わからないことをいうのは、やめろ!」
「母上。我らは母上が好きなのです。母上に笑っていて欲しい。ただそれだけなのです」
「核」たちの言葉に、精霊王はふるふると頭を振った。虹色の瞳に涙をいっぱい溜めて、自分に向けられる感情を、視線を、言葉をすべてを拒否するかのように。
「うそだ!! いったい、なんなんだ!! なにがもくてきだ!! おまえも、おまえも、おまえも――みんな、いらない!!」
精霊王が絶叫すると、「核」たちの体が、一斉に石化し始めた。
ぴし、ぴしり。氷にヒビが入るときのような、そんな軋んだ音が何重にも重なって聞こえる。それは、「核」たちの体がひび割れる音だ。彼らの体が、壊れようとする音だ。
「みんな……!! 駄目……!!」
思わず声を上げると、ボーデンに抱えられているフォレと目が合った。
フォレの小さな体は、もう既にほぼ石化してしまっている。けれど、フォレは苦しむ様子もなく、とても優しげな笑みを浮かべていた。
そして、ボーデンと視線を交わすと、最後の力を振り絞って精霊王へと近づき――その手に、無理やり料理の盛られた皿を押し付けた。
「何が目的だと、そう聞きましたね、母上。ふふ。そうじゃなあ、勿論、あちきにも目的はあるのですよ」
――ぴし、ぱしん。
フォレの顔に大きな亀裂が走る。弾けた欠片が、地面に落ちてコツン、と小さな音を立てた。
「あちきをいらないと母上が思うのなら。捨ててくれてもいいのです」
――ぴし、ぱしん。
石化した片腕が、粉々に割れて地面に落ちる。フォレは、残された片腕を精霊王の頬に伸ばした。
「それでも、あちきは母上のことが大切だから。大好きだから。……愛しているから。だから――」
――ぴし、ぴし、ぴし。
「母上にも、あちきを愛して欲しかったのです……」
そして、精霊王の涙に濡れた頬を指先で拭うと。
がら、がら、がらと、石化した体が崩れて、地面に落ちた。
「フォレえぇぇええぇぇ!!」
私は夢中になってフォレに……フォレであったものに向かって走り出した。
始めはふつうの木の精霊に擬態して現れたフォレ。私を精霊王の下へと連れて行くと言い出したフォレ。私の作ったご飯を、ほっぺたを真っ赤にして食べ、顔をふにゃふにゃに緩ませたフォレ。私を精霊界に連れて行きたくないと泣いたフォレ。
フォレとの思い出が、まるで走馬灯のように脳内を駆け巡る。
フォレはいつだって、精霊王の愛を求めていた。
いつだって、精霊王に愛されたいと、精霊王の為に動いていた。
それだけだ。フォレが欲しがったものは、ただそれだけ。
『――我らが末子は、誰よりも母上に似ている』
ふと、ヴィントの語った言葉を思い出す。ああ、そうか。そういうことか。
本当に、フォレは精霊王に似ている。
全身に力が上手く入らない。けれど、私は懸命に四肢を動かした。でも、どうしても体が上手く動かず、すぐに転んでしまう。地面に顔が擦れ、血が滲む。手足だってもうボロボロだ。けれど、直ぐ様顔を上げて、這いつくばるようにして必死で前に進む。
その間にも、ヴィントや他の「核」たちの石化は進行し、彼らの全身も石に成り果てようとしていた。
そんな状況であるにも関わらず、「核」たちの表情は穏やかだ。
「母上……俺も、母上を愛しています」
「私もよ。お母様。大好き……」
「僕もだ。生んでくれてありがとう」
「……すき……」
彼らはそれぞれ自分の言葉で、精霊王に自分の気持ちを伝えると、体の小さなものから崩れていった。
――最後に、巨躯を持つボーデンが崩れ落ちると、もうもうと白煙が上がり、一時視界が白く染まった。やがて、白煙が収まると、そこには料理の盛られた皿を手にした精霊王が、瓦礫のなかにぽつんと取り残されていた。
取り残された精霊王は、ぼんやりと前を向いたまま、動かない。
――私は、唇を強く噛みしめると、動かない自分の体に鞭を打ち、地面を這いつくばるようにして、漸く精霊王の足下に辿り着いた。そして、その足に縋り付くと、拳を何度も何度も打ち付けた。
「……どうして!」
「……」
「どうして、愛されたいと願うならば、あなた自身が愛さなかったの!!」
「……」
「どうして、創造神しか見てこなかったの! どうして、あなたのそばには、惜しげもなく愛を注いでくれる存在がいたことに、気が付かなかったの……!!」
「……」
「どうして……! どう、して……フォレ……!!」
――ああ、もっと。もっと私に力があれば。もっと早く、精霊王のことに気がついていれば。
私は地面に転がる石の欠片に気がつくと、それを思い切り抱きしめ、咽び泣いた。
ひらり、ゆらりと風に乗った桜の花びらが、残された私と精霊王にまるで雨のように降り注いでいた。