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閑話 王子と未来のために出来ること 後編

 会議がひととおり終わった頃には既に日は沈みきり、王城は夜色に染まり始めていた。

 城内中を火を持った召使いたちが忙しなく駆け回り、明かりを灯していく。松明や蝋燭の明かりが城内を照らしだすと、黄金色の優しい光が闇夜の中で存在を主張して、夜色を和らげてくれる。


 けれど蝋燭の明かりが照らす壁に自分の影が映り込むと、それが怪物の影なんじゃないかと、幼い頃は恐ろしく感じたものだ。こんなことを今更思い出すのは、ひよりの家の明るい照明に慣れてしまったからだろうか。


 そんなことを考えつつも、私は夕食までの僅かな時間、兄の執務室を訪れていた。



「来たか」



 兄は私が来たと知ると、キャビネットを開け、中から酒瓶を取り出す。

 そして、グラスをふたつ用意して、そこに酒を注いだ。



「兄上。私はまだ成人の儀を執り行っていないので、酒は……」

「別にいいじゃないか。普通ならとっくに成人の儀をしているはずなんだ。忌々しい邪気の急増期なんてものがなければね」

「そうですが……」



 すると、兄はグラスを私の手に無理やり握らせ、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。



「未来の王がいいと言っているんだ。構いやしないさ。それに、ジルベルタ王国の男児たるもの、葡萄酒の味がわからなくてどうする」



 そして、自分のグラスを私のグラスにぶつけ、一気に呷った。

 兄の喉の奥に瑠璃色の液体が消えていくのを見つつ、ため息を零す。そして、思い切って少しだけ葡萄酒を口に含んだ。



「……う」



 水で薄めた葡萄酒を飲んだことはあるものの、原液そのままを飲んだのは初めてだ。それも、兄が用意した葡萄酒は恐らく年代物で、長時間熟成されたそれは深味もあるが渋みも強い。つまりは、初心者にはいささか難しい味の葡萄酒と言えた。

 兄は微妙な顔をしている私を、ニマニマと楽しそうに見ている。私は湧き上がってきた怒りを兄にぶつけた。



「兄上。わざと飲みにくいものを選びましたね!?」

「あっはっは。うちの弟は、本当に反応が可愛いなあ」

「兄上!」



 ……子ども扱いを嫌がるユエの気持ちが、少しわかった気がする。

 兄は暫く笑った後、すっと真顔に戻った。

 そして、酒が入った瓶を私に渡すと、自分に酌をするように言った。素直に瑠璃色の液体を、兄のグラスに注ぐ。その様子を目を細めて眺めていた兄は、グラスの中身を一気に飲み干し――酔いで頬を赤く染めて言った。



「ずっと夢見ていたんだ。可愛い弟と酒を酌み交わすのをね。今度は、酒の味を語り合いたいものだ。これが、私の新しい夢だ」

「……」



 兄の碧色の瞳が、蝋燭の光を受けてゆらりと輝いている。自分もきっと同じ色をしているのだろうな、とぼんやりと思う。

 初めてまともに摂取した酒精のせいで、体が幾分ふわふわして頬が熱い。そんな私を見て、兄は苦笑している。



「酒で直ぐに酔っ払うところは、まだまだ子どもだな。お前が酒を美味く感じるまでには、時間が必要なようだ」



 そして、兄は私の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。



「……絶対に無事に戻ってこい。戻ってこなくては駄目だ。私の新しい夢を叶えさせてくれ」



 その時、僅かな違和感を感じた。そういえば、忙しい兄とまともに対峙するのは久しぶりだ。兄は浄化を行う順番の調整役として、大陸中を飛び回っていた。だから、一年ほど会えずじまいだったのだ。その一年という短い期間で、身長の差が随分と縮まっている。



「……道化師の予言を聞いた時、思ったんだ。私がお前の代わりに、浄化に赴けばいいのではないかと。まだ、年若いお前の生命を散らすくらいなら」

「兄上、それは駄目です」



 私は兄の言葉を遮った。兄は将来この国に絶対に必要な人間だ。そうあるべきだと、私は思っている。

 だから、邪気の急増期が来たと知った時、自ら願い出たのだ。「死」の可能性が常に付き纏う、邪気の浄化の旅へは、自分が同行することを。

 私は兄の過保護っぷりを可笑しく思いながら、頭の上の手をそっと外した。



「この国の次代の王は、兄上であるべきなのです。たとえ、浄化の旅で私の生命が失われようとも、兄上がいるかぎりこの国は安泰だ」



 そう言ってから、視線を上げる。そして、その時目に飛び込んできた兄の表情に思わず息を呑んだ。

 それは、いつものような余裕たっぷりの笑みを湛えた表情でもなく、王子らしく澄ました顔でもなく、不安で堪らない、純粋に弟を心配するひとりの家族の顔だったからだ。


 ふとその時、脳裏にとある風景が浮かんできた。

 それは、ふたりでこっそり城を抜け出して行った、水の神殿の近くの川の畔。

 夏の蒸し暑い夜、拙い歌を精霊に捧げ、夜空を舞い飛ぶ燐光に見惚れたあの晩の光景だ。



『にいさまはすごい! こんなことができるなんて!』



 まだ、兄のことを「にいさま」と呼んでいたあの頃。当時幼かった私は、自分の知らない不思議な現象をいとも簡単に起こしてみせた兄を、奇跡の技を持つ魔法使いかなにかのように思ったものだ。

 兄は私の言葉に眉を下げると、まとわりつく水の精霊を眺めながら言った。



『これは、やり方を知ってさえいれば、誰でも出来ることだよ。私は何もしていない。知っていることをやっただけだ。きっと、カインもそのうち知りえたことだ。だから、私はなにも凄くない。……凄くないんだ。カインの兄様は、なにも凄いところはない』



 今思えば、兄は迷っていたのだろう。

 その時の兄は、泣きそうな、それでいて不安そうな表情をしていた。

 それは次期王としての重圧故なのか、もしくはまったく別の悩みのせいだったのか。当時の私は幼すぎて、兄の悩みなど知る由もなかった。

 常日頃から優秀な成績を収め、周囲から賞賛されていた兄。兄は私にとって、純粋に憧れの存在で、目標で――。だから、肩を落としている兄を慰めようと、思ったことを口にした。



『にいさまはすごいです。にいさまがすごくないっていっても、すごいんですよ。だって、ぼくのだいすきなにいさまだもの! みんなも、りっぱなおうさまになるっていっているし!』

『……立派な王になんて、無理だよ』



 すると、兄はますますしょんぼりして俯いてしまった。前髪が顔にかかり、一体どういう表情をしているのかすらわからない。今思えば、なんの解決にもならない慰めだ。しかも、兄の傷口を抉っているとも言える発言。けれど、当時の私はそれには気づかずに、兄が中々元気にならないと更に言葉を重ねた。



『にいさま、ふあんなのですか? じゃあ、うーんと。もし、にいさまがひとりでりっぱなおうさまになれないなら、ぼくがたすけます。にいさまがりっぱなおうさまだって、みんなにみとめてもらえるように、ぼくがささえます! だから、きっとだいじょうぶ!』



 それは、子どもがなんの根拠もなく言った戯言。

 水の精霊の青白い燐光が辺りを照らす、夏の夜。その時、兄の頬が真っ赤に染まって、夜なのにとても鮮やかに見えたのを覚えている。



『カインは――』



 そうして、兄は言ったのだ。へらりと、気の抜けた笑みを浮かべて、その後私を力いっぱい抱きしめてくれた。



「カインは、いつだって私の救いだ」



 青年となり、次期王として立派に成長した兄は、あの時と同じような笑みを浮かべていた。



「だから、そんな悲しいことを言うな。私はひとりでは立派な王にはなれないよ」



 けれど、直ぐに笑みは消え、あの時のような不安そうな表情に変わってしまった。

 兄を悲しませたくはない。それも、来るかどうかわからない、未来のことでだ。


 ――ああ、でも。今の私に出来ることと言えば。



「兄上、きっと大丈夫です」



 不安そうな兄に、絶対に生きて帰ると、根拠のない言葉を吐くことだけだった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 いよいよ、浄化の旅へと出発する日取りが決まった。

 道化師の予言にあった未来を変えるため、出来る限りのことはやった。

 いや、出来ることはすべてやり尽くした。もう、この国で出来ることはない。だから、王である父は出発を決断したのだ。

 そのことを聖女であるひよりに告げる。

 延び延びになっていた出発が漸く決まったことに、ひよりは「そうかあ」と気が抜けた返事を返した。



「ひよりは、もう諸々の準備は済んでいるだろう? 出発までの数日、家でゆっくりと過ごすと良い。茜のご飯も暫く食べ納めだ」

「うん。そうするよ」



 ひよりは、うーんと背伸びをすると、椅子から立ち上がった。

 そして、私をじっと見つめて言った。



「――大丈夫?」



 その瞬間、私の心臓が跳ねた。

 どくん、どくんと鼓動の音が高まり、嫌な汗が滲んでくる。

 あの道化師の予言については、聖女であるひよりとその姉の茜には緘口令を布いている。

 あんな最悪の結末を、わざわざ当の本人に知らせる必要はない。無駄に精神的な負担を掛け、浄化に影響が出てはいけないからだ。


 自分が死ぬかもしれない。いや、このままでは死ぬのだということを、意識しながら過ごすこと――それはまるで、首元に死神の鎌を押し当てられながら過ごすような、生き地獄。

 そんな想いを、ひよりにさせるわけにはいかない。



「カイン、ここのところ沈みがちだったもの。何かあったんでしょ?」

「いや、色々と準備が滞っていて、焦っていたんだ。特に何かがあったというわけでは――」

「嘘」



 ひよりはまっすぐに私を見つめて、詰め寄ってきた。

 明るい茶色をした眼差しが私を見据えたまま、みるみるうちに近づいてくる。ひよりは怒りの形相を浮かべ、私のシャツを手で掴む。ひよりから香る甘い匂いが鼻をくすぐり、今度は別な意味で心臓が早鐘を打ち始めた。こんなときでも、正直すぎる心臓には参ったものだが。



「カインのことだもの。私のことを考えて黙ってるんだよね。何か隠してるんでしょう? きっと、私が知らないほうがいいことなんだろうね」



 ――良かった。予言のことは、まだ耳に入っていないらしい。


 内心、ほっと胸を撫で下ろす。

 ひよりは強く見えて、意外と脆い部分がある。自分の死なんて聞いたら、耐えられないに違いないから。


 ――まだバレていないのなら、なんとか誤魔化せそうだ。


 そう思った次の瞬間、ひよりが発した言葉に、私は驚きのあまり言葉を失ってしまった。



「ねえ、私、死ぬのかな」

「!?」

「私じゃないとしたら、カイン? それともふたりとも?」



 ひよりは真っ直ぐに私を見つめ、反応を窺っていた。

 きっとカマをかけられたのだろう。

 ここは落ち着いて嘘を吐くべき場面だ。……なのに、私は動揺のあまり、自分を取り繕うのに失敗した。そんな私を見て、ひよりは憂鬱そうに瞼を伏せた。



「……やっぱり。なぜだか知らないけど、ある日を境に、皆の態度がよそよそしくなったの。城の中は殺気立っているし、護衛騎士や侍女は私を見て涙ぐむし。カインを見る目つきも、皆変わってた。何かあったんだと思ってはいたけど……」



 ひよりの大きな瞳に、みるみるうちに涙が滲む。

 けれど、ひよりは何かに耐えるように大きく息を吐くと、ゴシゴシと袖で涙を拭った。

 そして言った。



「異世界だもの、きっと不思議ななにかで未来を知ったのね? そして、それを覆そうと皆頑張ってる。そのせいで出発が延びたんでしょう。聖女である私が、めそめそ泣いている場合じゃないね」

「……すまない。君に伝えるつもりは」

「そうね。普通に考えたら、お前は死ぬんだなんて、当の本人には言わないよね。指揮を執るカインはまだしも」

「ひよ……」



 なんとかして、ひよりを慰めねば。そう思った次の瞬間、ひよりに抱きしめられていた。

 先程感じた、甘い香りに包まれる。温かな温もりが、じんわりと体に……心に沁みてくる。



「カイン。怖かったね」



 ひよりの優しい声が、すぐ傍で聞こえる。



「死ぬって知って、辛かったね。心細かったでしょう」



 この時ほど、自分の顔がひよりに見えなくて良かったと思えたことはない。

 きっと、この時の私の顔は。



「ちゃんと夜眠れている? 私よりも、まず自分のことを考えてあげなきゃ」



 私の顔は――誰にも見せられないくらい、酷い顔をしていたに違いないから。



「この国の人は、優しすぎるね。聖女である私のことを、大切にしなくちゃって思う気持ちはわかるけどね。私だってこの国のために出来ることをしたい。でも、知らなければなにも出来ないわ。カイン、教えて。未来を変えるために」

「……」

「泣き止んでからでいいから。一緒に考えよう。生きるために。全部終わらせて、一緒にお疲れ様って、笑えるように」



 ひよりが、居てくれて良かった。

 そうお礼を言いたいのに、嗚咽のせいで上手く言葉に出来ない。


 ――そう言えば、自分の死を予言されてから、まともに泣いていなかったことを思い出す。


 そのせいだろうか。私の瞳から溢れ続ける涙は、暫く止まることはなく――その間中、ひよりはずっと私を抱きしめ続けてくれていた。


 そして、漸く涙が止まった頃、お互いの真っ赤な目を見て少し笑ったあと、ぽつりぽつりと予言の話を始めた。


 ――ひより、道化師が言ったんだ。

 そんな未来はまっぴらごめんだって。

 私もそう思うよ。ふたり死ぬ未来なんて、まっぴらごめんだ。

 だから、未来を変えよう。自分に出来ることをして、未来を変えてみせよう。

 そして、一緒に笑顔で帰ってこよう。


 きっと茜は大喜びで、ご馳走を作ってくれるに違いない。

 ふたりで、お腹いっぱい茜のご飯を食べて、泣き笑いをしよう。


 そんなことを話していると、私たちは自然と寄り添っていた。


 穢れ島へ出発する日。先頭を切って進む船の上で、私たちは声援を送ってくれる観衆に手を振りながら、誰にも見つからないように手を繋いでいた。

 冷たい風が吹く晴天に煌めく海の上を、船はゆっくりと進んでいった。

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