32 神罰
結局の所、俺はアビーの説得を諦めた。
アビーだけじゃない。アシタやゾイ、エヴァは勿論の事、幼いスイまでもが、ジナはそのまま死なせるべきだと言ったのには驚いた。
「なんと酷い事を……」
俺には五徳と呼ばれる五つの戒めがある。
『公正』『奉仕』『慈悲』『慈愛』『無欲』の五つだ。これらは神官の『五徳』。或いは『五戒』とも呼ばれる。
一つ、偏りがなく正しいこと。
一つ、私心を捨てて力を尽くすこと。
一つ、情けと憐れみの心を持つこと。
一つ、慈しみ、労りの心を持つこと。
一つ、多くを望まず、欲張らないこと。
まぁ、具体的に言って聞かせる筋合いはないが。
「……誰にでも過ちはある。冷たいやつらだ……」
人というものは、若き日の過ちを卒業するかせぬ内に、新しい過ちを犯す。それ故、罪を赦す事は難しくない。……まぁ、程度にもよるが。
俺は右手で聖印を切った。
俺は死にかけたが、実際に死んだ訳じゃない。ジナを罰する事はあっても、死なせるのはやり過ぎだ。況してその方法が放置とは……
「振り返って見よ。そこかしこにお前たちの犯した罪が散らばっている。無慈悲の罪がお前たちを捉える日がない事を祈る」
皮肉を吐き捨てると踵を返し、長屋を出た。
すると、ぞろぞろと俺の後に付いてくる。雁首並べて厚かましいやつらだ。
「ちょ、ディ。待ちなって……」
最早、語るべき事はない。
アビーやスイがすがるように伸ばす手を振り払い、俺はジナの元へ急いだ。
『転がしてある』、とアビーが言った通り、ジナは長屋の庭に捨て置かれたまま、無造作に転がっていた。
身体中を咬み破られ、手足をへし折られたジナの様は、エヴァの壮絶な怒りを想起させた。
「慈悲は掛ける。だが、同情はしない」
そう呟くと、背後でエヴァが安堵する気配があった。
「……酷いな」
骨折もそうだが、それより出血が酷い。意識はなく、浅く早い呼吸を繰り返すだけだ。適切な処置をせず、放置すれば間違いなく死に至る。
すぐさまアスクラピアの蛇を呼び出し、術を発動させようとした俺だったが……
ジナの額に浮かぶ紋様に目を剥いた。
「なんだと!? これは……」
固く目を閉じ、生死の境をさ迷うジナの額に『逆印』が刻まれている。
「ど、どうしたのさ。何かあったのかい?」
突然、動きを止めた俺と、倒れ伏すジナの間とを行き来するアビーの視線だったが、ややあってそれに気付いた。
アビーは嬉しそうに言った。
「あれまあ、こりゃアスクラピアの逆印じゃないか」
アスクラピアの『逆印』。文字通り、聖印を逆に刻んだものだ。
「ちょっとちょっと! あんたたちも見なよ。アスクラピアの逆印だ! 本当にあったんだねえ。あたしも実際に見るのは初めてさ!」
聖書では、かつて軍神アルフリードに刻まれたという強力無比な『呪印』だ。この印を刻まれた者は母に見放される。蛇の癒しは届かない。一切の回復術を受け付けない。
つまり……俺の力で治せない。
「まぁ、神官を殺ろうとしたんだ。当然と言えば当然かね。たまには神さんも粋な事をなさるもんだ」
「そんな馬鹿な……」
母は超自然の存在だ。あれが俺だけを贔屓するとは思えない。俺の負傷が原因で逆印が刻まれたとは思えない。だが、ジナの何かしかの行動が母の逆鱗に触れた。
――『アスクラピア』――
聖書では『青ざめた唇の女』。その本性は蛇。復讐と自己犠牲をこよなく愛する。
そう。母は復讐にも加護を与える神だ。
この逆印は俺が刻んだものではない。そもそも、俺に出来るような術じゃない。だとすると母がやったのだ。
この者に慈悲は必要ない。捨て置いて死なせよ。
というのが、しみったれた母のお言葉のようだが……
「まさか。有り得ん……」
アシタにゾイ、エヴァもスイも珍しいそれを見ながら、感心したように頷いている。
エヴァが晴れ晴れとした笑顔で言った。
「あたしは正しい事をしたんだ」
複雑な気分だが……そうなる、のだろう。
エヴァがどのような憎しみからジナを害するに至ったかは分からないが、母がその『復讐』に加護を与えた事は間違いない。そうでなければ、ジナに逆印が刻まれる事など有り得ない。
……エヴァが『変身』したように見えたのは、あれは気のせいなどでなく、あれこそ母の加護だったのだろうか……
分からん……人の身である俺には分からん。神の考える事は分からん。
しかし……だ。
「スイ、部屋に戻って俺の鞄を持って来い」
オリュンポスに向かう時は必ず携行している鞄の事で、中には医療に必要な道具が一式入っている。
「スイ……?」
スイは俺の言葉に首を振り、アビーの背中に隠れる事で拒絶の意思を示した。
アビーはジナの逆印を指差した。
「あんたは優しいねえ。でも、これが神さまの思し召しってやつなのさ。今回は諦めな」
「神さまの思し召し……?」
なんだ、それは……
この異世界に於いて、神官『ディートハルト・ベッカー』として生きる俺は、癒しと復讐の女神『アスクラピア』を母と呼び、確かに信仰している。しかし……
(これは違う……!)
神さまとやらのいい所も悪い所も、人の運命に干渉しない所にある。少なくとも、この『俺』はそう思うのだ。
母と子。
子は……母の言いなりなのか……?
俺は、その『神さまの思し召し』とやらに、唯々諾々として従わなければならないのか……?
「ないな。それはない」
例えば、俺にはやらねばならないと決めた事があったとする。
お袋に駄目だって言われたからって、止めるか? それは大人がする事じゃない。意志のある人間がする事じゃない。
その初めの一歩を踏み出した時、人は初めて何者かになったと言える。
「お前らの力は借りん。だが、俺の邪魔だけはするな」
しみったれた母の手から離れ、一人前の男になる。
斯くして俺はその一歩を踏み締める。
ジナの元へ歩み寄り、先ずは応急処置を開始する。
服を破き、傷口を確認した後は圧迫による止血を行う。その後は側臥位に体位を変換し、肩枕の姿勢で気道を確保する。
そこでアビーの鋭い声が飛んだ。
「――止めな、ディ! そこまでだよ!!」
「やかましい。邪魔だけはするなと言ったのが、聞こえなかったのか?」
まずは鞄だ。俺の鞄がいる。術が使えない以上、治療は俺の知る医学的な知識が主流になるだろう。とりあえず、鞄だ。薬がいる。薬が使えれば、まずは差し迫った危機を脱する事が出来る。それから……
様々な処置、起こり得る可能性について考えながら、鞄を求めて長屋に戻ろうとした俺だったが――
「ディ、止めな! これは命令だよ! まさか、あたしの命令が聞けないなんて言わないよね……!?」
俺は鼻で笑った。笑って言った。
「くたばれ」
一人で往くという事に勝る知恵も能力も、世界中の何処にも存在しない。
アビーは悲しそうに言った。
「……あんたは、本当に優しいんだねえ。でも駄目だよ。これだけは許せない。お前たち……!」
俺はディートハルト・ベッカー。アスクラピアの子と呼ばれる一人の神官だ。
アビーの命令に、アシタ、ゾイ、エヴァ。更には幼いスイまでもが俺の行く手を阻もうと立ち塞がっている。
アシタが言った。
「止めるんだ、ディ! これはアスクラピアの意思なんだ。これがこいつの運命なんだ!」
俺は鼻で笑った。
「死ね」
強く肩を突き飛ばすと、アシタは思ったより簡単によろめき、俺に道を譲る形になった。
相変わらず中途半端なヤツ。
力があっても、一人で道を決められない。己に命じぬ者は、いつまで経っても奴隷に留まる。
困惑するエヴァは、アビーやアシタに忙しなく視線を流しながら、それでも俺の行く手を遮ろうと立ち塞がって来る。
「退け。またゴミ箱に戻りたいか」
「……つっ」
エヴァは、はっと息を飲み、怯えたように引き下がる。
そのエヴァに代わり、前に出たのはゾイだ。細っこいが万力のような力強さを持つ手で、俺の手首を捕まえる。
「……駄目だよ、こんなこと。アスクラピアの力を失ったら、ディはどうするの……?」
そう言えば、ゾイだけは初対面のその時から俺に良くしてくれた。だが、その言い方は気に入らない。
「だからどうした。神官じゃない俺には、なんの価値もないか? 神官じゃない俺は特別じゃないとでも言いたいのか?」
「……」
ゾイは否定も肯定もしない。ただ悲しそうに目尻を下げるだけだ。掴んだ俺の手首を離さない。
言い訳は好きじゃない。
だが、たった一つの言葉が何よりも大切な意味を持つ時もある。ゾイは沈黙の使い途を間違えた。
「……」
俺もまた沈黙を選ぶ。
最早、語るべき何事もない。だから俺は――
いつだって独りでこの道を踏み締めて往く。
母の戯れる指が、虚空に俺の名を描くその日まで。
「ああ、ディ……ディ! お前にだけはやりたくなかったけどね……あたしの言う事を聞けないヤツはお仕置きだよ!」
アビーの手には大振りのナイフが握られている。
勿論、俺は鼻で嘲笑った。
「やってみろ。耳の聞こえん猿に使う言葉なんぞに持ち合わせはない」
「……っ! 出来ないと思ってんのかい? ナメるんじゃないよ!!」
母よ……
あんたの子が、いつまでも従順なだけの子だと思わないでいて欲しい。
俺は俺で、自分の考えを持ち、自分の道を選ぶ事の出来る一人の人間なのだから。
◇◇
何処へ行ってもいい。
何をしたっていい。
お前がお前自身である以上、いつも。
人は、結局の所、己の持つ資質に逆らえないように出来ている。
お前の進む道もそうだ。
何処へ行き、何をしようとも、結局、お前は私の元へ戻るように出来ている。
《アスクラピア》の言葉より。
◇◇