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この世界には、壺煮という料理がある。
様々な具と、水、酒、塩、それに香草や香辛料を広口の壺に入れて、煮立てる。
要はごった煮なのだけれど、上手い人が作ると、出汁の旨味と香草の風味、香辛料の刺激が程よく調和して、とても美味しい。
今、僕の目の前には、まさに蓋をされた広口の壺があった。
給仕さんが厚布を手にして蓋を取ると、ふわりと良い香りが立ち上る。
川魚の壺煮だ。
「わあ……」
《灯火の川港》の傍を流れる大河でけっこう安定して取れる、白身の大きな魚。
それに刻んだ季節の野菜と、少し古くなったワインと、岩塩や香草なんかを混ぜて煮込んである。
これに固めの、カビてない雑穀パンと、山羊のものらしい癖のある香りのチーズひとかけに、お湯で薄めたワインがつくのだから、上等な部類の食事だ。
これくらいの時代なんて、栄養バランスとか食べる楽しみとかを放擲した組み合わせがザラにある。
ちょっと何か野菜くずとかを混ぜた主食の粥に、塩っ辛い保存食系のおかずを、一日二食ドカ食い、以上。なんて感じだ。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」を地で行く世界と言えばわかりやすいだろうか。
どころか《獣の森》を治療やら何やらして回ってしていると「これが食事で御座います」と、もっと色々と凄いものを出されて閉口することもある。
調理というのは豊かさの上に成り立つ文化なのだと実感させられた。
もちろん何を出されたって食べるけど、美味しいなら美味しいに越したことはない。
「地母神マーテルよ、善なる神々よ、あなたがたの慈しみにより、この食事をいただきます。
ここに用意された食物を祝福し、わたしたちの心と身体を支える糧として下さい」
すっかりもう習慣になった、いつもの祈り。
「聖寵に感謝を」
祈りが気持ちの切り替えや整理にとても有効な手段だというのは、この世界に生まれてから学んだことだ。
前世でも宗教というのは連綿と何千年も受け継がれていたものだけれど、長く生き残るものには必然、相応のメリット、有効性がある、ということなのだろう。
当たり前といえば、当たり前のことだ。
「それじゃ、乾杯」
軽く、赤茶けた髪を編んだ、ドワーフのルゥさんに杯を掲げる。
ルゥさんも控えめに杯を掲げて応じてくれた。
壷から大きな木匙で、陶器の皿に盛り分ける。
この町には窯があるので、最近は商用に回せない形のいまいちな陶器が、けっこう安価で出回っている。
「……あ、やっぱり美味しい」
ほろりと崩れる魚の白身。
よく出汁の染みたざく切りの野菜。
労働者向けの味付けか、ちょっと塩っけが強いのがお酒と合う。
ルゥさんも同意するように頷いた。
固いパンを、汁に浸して食べている。
美味しそうなので真似た。美味しい。
チーズも癖があっていい。
単体だとちょっと匂いがきつくて濃厚すぎるけれど、パンと合わせて食べると丁度いいくらいだ。
ひとしきり、二人で酒場の料理に舌鼓を打つ。
ルゥさんもだいぶ硬い表情だったのが、美味しい料理に雰囲気が柔らいできた感じだ。
◆
「そういえば、何だってこんなところに居たんです?」
ふと問うたのは、そのことだ。
この人が善意で、あの二人を止めに入ったことについては、まったく疑っていない。
どう考えてもそういう人だ。
けれど、このあたりは人間が多い地域だ。
この《灯火の川港》では、幸い、表だっての大きな種族間対立は起こっていないけれど、それでも文化と生活習慣が違う。
必然、居住地域はある程度の色分けがなされている。
ドワーフの彼が、なぜここに居たのだろう?
「……あ、あの、えっと」
何か言おうとするのを、頷きながら根気強く待つ。
「わ、私は、移住してきたばかりで……」
「はい」
「そ、その、土地勘を掴む? というか――えっと、その」
ああ、探検してたのか、と思いつつ。
あえて自分では言わずに、先を促すように頷く。
「探検、のようなものを……」
やけに身を縮こまらせて、言う。
「別に、おかしなことではないと思いますけれど。必要なことですよね」
「はい……」
この町もそれなりにガラの悪い人はいるけれど、レイストフさん達が睨みを利かせているから、さすがに大通りで大っぴらに無茶苦茶をしたりはしない。
歩いているだけで過度のトラブルが起こらない以上、まず歩き回って土地勘を掴んでおくというのは、割と大事なことだろう。
当たり前なのだけれど、この世界には公共交通機関も、町の詳しい地図も、交通標識も番地の表示もない。
自分の足で歩き回り、見て、頭にたたき込まないと、本当に道が分からないのだ。
……ルゥさんが僕の鍛錬を覗いていたのも、興味があった以外に、領主館の位置確認という意味もあったのかもしれない。
「でも、氏族の人たちが、調整とかで忙しくしてるのに……」
「……ああ、グレンディルさんですか?」
「あっ、はい」
「大丈夫、そっちの方は大凡まとまりましたよ」
別に昔話や苦労話だけ聞いていたわけではない。
アグナルさんを交えて、居住区画の割り当てとか、当座をしのぐのに必要なものの貸与とか、移住希望者の人数や手持ち技能のリストアップとか、そういう処置もそれはそれで進んでいる。
半分お飾りとはいえ、3年も領主をしていたら、ある程度は勘所というか、そいうものも分かってくるものだ。
ともあれ、だから心配しないでいいと伝えると、ルゥさんはなんだか色々な感情のこもった目で僕を見た。
通りで子供から向けられるような、羨望、尊敬、憧れ……それにたぶん、若干の自虐とか卑屈とか、そういうものの籠もった、下から見上げるような目。
「……凄い、ですね」
何となく、見覚えのある目だ。
たぶん、前世で僕もこういう目をしていたことがある。
だからだろう。
「強くて、頼もしくて、差配もできて……ほんとに、私なんかとは」
「じゃ、ルゥさんもやってみます?」
「へっ?」
何となく、放っておけなくなってしまった。
「ある程度の強さは、食べて鍛えれば手に入ります。
ある程度の頼もしさは、振る舞いと場慣れです。
差配だって、人について経験を積めばできるようになります」
そういうのは、一般的な肉体と頭脳と、ちょっとの行動力さえあれば得られるものだ。
前世でも、今生でも。
それが得られないのは……何かに打ちのめされて、物事に対する意欲が折れているか、折られているか。
そういうのが大きな理由であることが多いし、それは誰にでもありえることだ。
僕も記憶からでる知識を見るに、前世は結構賢い部類だったようだし、どこまでかはけっこう意欲的に、うまくやっていた。
どこでどうへし折れたか、へし折られたかは思い出せないけど……
こういうのは意志とか能力とか才能以外に、環境と運も絡むものだ。
どんなに意志が強くて才能がある人だって、悪意ある、残酷で劣悪な環境に不幸にも放り込まれてしまえば、打ち落とされ、叩きつけられ、へし折られることはある。
そしてそこから立ち直れるかなんて、もう巡り合わせ次第だ。
……生は必ずしも素晴らしいことじゃない。美しいことばかりでも、善いことでもない。
人間を貶め苦しめるのが大好きな人がいて、その人が歪んだ原因を見ればまた別の加害者がいて、その加害者の歪んだ原因を見ればまた別の加害者がいる。
そういうろくでもなさも、この世の現実であり、人間の生だ。
あの三人の家族として幼少期を過ごせた僕は、とても恵まれた部類なのだろう。
そういう意味で、あの不死神スタグネイトが、きわめて優秀な不死者のみの理想郷、などと言い出すのも、理解できない話ではない。
もちろん、理解できなくはないというだけだ。
受け入れられるかという話ならば、僕はそれを受け入れられない。受け入れないと決めた。
だから、
「ここで会えたのも何かの縁。
もしルゥさん……ルゥさえよければ、しばらく従士とかそういう形で、僕を手伝ってくれないかな?」
僕は不死神の理想を受け入れないと決めた者として、相応の生き方をしないといけないのだと思う。
ここで「では、さようなら」なんて言わずに。
この、気持ちの折れかけている彼に、手をさしのべられるような。
「…………」
ルゥさんは、差し伸べられた手に目を泳がせ。しばらく逡巡して。
それから、やがて……
「ご迷惑を、おかけ、すると思いますが――」
おずおずと、僕の手を取った。
◆
一応、移住してきたばかりで土地勘がない上に、もう夜なので、ルゥをドワーフ街まで送っていくことにした。
……するとなんだかちょっとした騒ぎになっていた。
なんだろうと思って近づくと、各々灯りを手に、若干殺気立ったドワーフの一団があった。
「若っ!」
彼らはルゥを見つけると、血相を変えてどたどたと近寄った。
「どちらに行っておられたのです!」
「行き先は伝えて貰わねば!」
「みな心配して……」
その他諸々、機関銃のように浴びせられる言葉。
その言葉から、確かに心配していたことは感じられるけれど……
「ぁ、あ……」
ルゥの目がぐるぐるしている。
「ともあれ、無事でよかった!」
「ご、ごめんなさい……」
……あー、うん。
うん。
なんとなく、ルゥの育ちと問題が分かった気がする。
彼はドワーフの、どのくらい偉いかは知らないけれど、貴顕の血筋なのだろう。
ドワーフさんたちの昔話を聞くに、彼らは《くろがねの国》の再興を悲願としている。
失われた故郷を取り戻したい。それは勿論、良いことだと思う。
貴顕の血筋というのは、そのための軸の一つでもあるのだろうし、失いたくないと思うのも分かる。
でも、この場合、それがルゥに対する毒になっている様子だ。
まず成人はしているであろう男が、ちょっと一人で街を見に行って、帰りが遅くなったら大騒ぎ。
たぶんろくに喧嘩もしたことがないくらい守られていて、大切に大切に大切すぎるくらいに育てられている。
……大人たちに守られて育ったお坊ちゃん、などとは思うまい。
前世の記憶。そのどこかで読んだ。知っている。
――過保護と過干渉も、虐待のうちだ。
あれはやるな、これはやるな。
こうするべき、ああするべき。
この選択はこのように選ぶのが正解。
こんな調子で何もかも周りに決められて、決断力も行動力、意志力を育める子供がどれほどいるだろう。
「探検に出た」と言った時、身を縮こまらせていた理由も分かった。
そんなことすら、普通に許されない環境で育っているのだ。
「ともかく今後は、もうこのようなことは……」
ドワーフの一人が、そんな風に話を締めようとする。
ルゥがなんだか窒息しそうな顔で、頷こうとする。
「――失礼します」
そこに、割って入った。
よその家庭の問題ではあるけれど、少なくとも、この状況を継続してのルゥの行く末は見たくない。
……僕のわがままかもしれないけれど、割って入る理由はこれだけでいいと思った。
「わたくしはウィリアム・G・マリーブラッドと申します」
右手を軽く左胸に当てて、古式の簡易な礼をする。あえて、目下に対するものだ。
――相手がたも老齢のドワーフさんたちが多い。その名乗りと動作で察したのか、慌てて目上に対する礼を取る。
「まずは謝罪を。
たまたまお会いしましたルゥ殿と意気投合し、ずいぶんと遅くまで話し込んでしまいまして……」
「い、いえ……!」
領主、とか、あれが聖騎士、とか奥のほうでひそひそ声がする。
力量を図るような視線もいくつかあったので、その辺を見て取れる所作はあえてごまかさない。
自分が強者であると、きちんと示す。
「……本物だ」
「恐ろしく強い」
囁き声がする。
顔に向こう傷のあるドワーフが、うっそりと仲間たちに告げた。
「どころではない。この場のすべて束になっても、へし潰されるぞ」
そ、それは言い過ぎじゃないかな。
流石にちょっと、この場でいきなり全員敵になったら対処に迷って手を誤りかねないし。
ともあれそんな言葉に色を失ったドワーフさんたちを押しのけて、向こう傷のドワーフさんが出てきた。
「ゲルレイズと申す。
若君についての謝罪、確かに承り申した。畏れ多く存じまする」
ぎろりと視線が向く。武人の目だ。
「して、ご用向きは」
「ルゥ殿を、我が従士として迎え入れたく」
即座に切り返す。
……ざわりと、ざわめきが広がった。