25
不死神の《木霊》が消滅して。
実は真の本体である三体目が居たとか、更なる敵がとか、そういう展開もひとわたり警戒して。
その上で、やっと勝利を確信した時、こみ上げてきたのは歓喜というよりも、へたり込んでしまうほどの安堵感だった。
「……よ、よかった……」
戦闘でずいぶん荒れた神殿の床に座り込んで、はぁぁ、と深く息をつく。
強敵だった。それも掛け値なしの。
神さまの《木霊》を撃破したわけだけれど、不思議と達成感があまり湧いてこなかった。
どう考えても、勝因の多くが僕以外のところにあったからだろうか。
ブラッドから貰った高位魔剣、《喰らい尽くすもの》の存在とか。
ガスが既に相手の隠し球であったはずの、《木霊》の片割れを倒してくれていたこととか。
灯火の神さま、グレイスフィールが僕に守護神として加護をくれたこととか。
そしてマリーの守護神である地母神マーテルが、土壇場で数秒だけ時間を稼いでくれたこととか。
更に言えば、これまで3人が分け与えてくれた、剣や魔法、祈りの技術。
そしてそういう戦闘能力よりももっと大切な、人間としての芯のようなもの。
そういうものが積み重なって、なんとかギリギリ、撃退できたのだ。
何かの拍子に僕が死んでいてもおかしくなかったし、どれかの要素が欠けていたら勝ち目なんて無かった。
神さまの加護のおかげであり、そして何より3人のおかげだ。
周囲に恵まれた。
その幸運をかみしめていたら、ぎゅっと抱きしめられた。
「ウィル……ウィル、よく無事で……っ」
焚いた香木の、優しい匂いが、ぎゅっと僕を包む。
「……ウィル、よくやったな」
骨っぽい、柔らかさのない手が、乱暴に僕の髪をかきまわす。
「ふん。血のつながりはないとはいえ、仮にもマリーとブラッドの子。このくらいは成し遂げて当然じゃ」
相変わらずの、素直じゃない憎まれ口。
「マリー、ブラッド、ガス……!」
3人の声に、涙が滲んできた。
心が震える。今更に、達成感を感じる。
そうだ。
僕は物語の英雄みたいに、神さまを倒したかったんじゃない。
ただ、3人を、大切な家族を守りたかった。
前世のように、うずくまったままでいたくなかった。
ただ、それだけを願って、命をかけて戦って。
「うん、やった……やったよ……」
守れた。
ちゃんと、立ち上がって、戦えた。
うずくまったままじゃ、なかった。
3人とも、ここにいる。
……守れたのだ。
「よかった……よかった……」
こみ上げてくる色々な思いに、胸が詰まる。
ぽろぽろと涙がこぼれた。
「みんな無事で、よかった……」
マリーを抱きしめ返す。
ブラッドを、ガスを見た。
笑っていた。
みんな笑っていた。
つられるように、僕も泣きながら笑った。
「よーし、んじゃ改めてウィルの成人祝いも兼ねて、祝勝会だな!」
ブラッドが威勢よく拳を振り回した。
「そうですね、片付けとかは後日でいいでしょうし」
「うむ。ならばとっておきの、200年もののドワーフ火酒をじゃな」
「火酒!? ガス爺さん、んなもん隠してたのかよ!」
「子供に飲ませるには勿体無い酒じゃろうが!」
「ドワーフ火酒? それって美味しいの?」
「うむ、実体がありゃワシが飲みたいくらいじゃ!」
「いいじゃねぇか、フリだけでもよ。めでてぇ席だ!」
「そうそう。ガスも一緒に飲もうよ!」
「ウィル。……飲み過ぎないようにするんですよ? 前みたいなことがあったらもう容赦しませんからね?」
「は、はいっ!」
「目ぇ見開いて真顔で見つめると、お前、超怖ぇのな……」
「ふふ、ブラッドの顔ほどじゃありませんよ」
「はは、違いないわい」
「それでガス爺さん、火酒ってのはどこに……」
そんな風に、わいわい話しながら。
移動しようとしたところで――
マリーとブラッドが、膝から崩れ落ちた。
◆
何が起こったのか一瞬わからなかった。
「マ、リー? ブラッド?」
自分の発する言葉が、やけに場違いに思えた。
「あー……やっぱ、ダメか」
「ダメみたいですねぇ」
2人は何度か立ち上がろうと試みて、足が動かないのか、諦めてその場に座り込んだ。
「仕方ありません。執着も消えて、不死神に魂を売るのも拒否して、善なる神を信仰しながら、なお不死者でいたいです、なんて通るわけがありません」
「ま、そりゃそうだよなぁ。……祝勝会が終わるくらいまでは、目こぼししてほしかったっつーのは本音だが」
「グレイスフィールはものすごく手心を加えて下さっていますよ。本来なら即座に消えていても不思議じゃあありません」
何を言っているのか理解できない。
理解したくない。
「あー、ウィル。……俺とマリーはここまでだ」
「じょ、冗談だよね」
受け入れたくなくて、反射的にそんな言葉が口からこぼれた。
「ふ、二人して、悪戯してるんだよね」
声が震える。
「せっかくのお祝いなのに、ひどいなぁ、もう……」
「ウィル。……あなたは賢いから、分かっているでしょう?」
でも、やっぱり。
頭のどこかでこうなることは理解していて。
そう言われて、見つめられると、もうダメだった。
「…………そういうこと、いきなり言うなら。悪戯だって種明かしして、笑って欲しかったよ」
拒絶の気持ちは、ゆっくりと萎んでいった。
息をつく。
あとに残ったのは、諦め混じりの、虚ろで、寂しい気持ち。
寂寞、ってのはこういう時に使う表現なんだろうか。
「すまねぇな」
「ごめんなさいね……」
マリーも、ブラッドも、似たような気持ちを抱えているのかもしれない。
「……どうにかならないの?」
「なりません。できたとしても、してはいけません」
マリーが首を横に振った。
「お前も言ったろ? 『ちゃんと生きて、そして死ぬ』ってやつだ」
途中でちょっと200年くらい迷ったが、まぁぎりぎりセーフだろ、とブラッドがおどけるように言った。
「それに、親は子供よりも先に死ぬものです。それが自然の、大地の摂理というものです」
マリーが言った。
地母神の神官らしい言葉だった。
「うん、そっか。そうだよね」
それが本来の在りようだ。
僕の守護神である灯火の神さまだって、同じことを言うだろう。
でも、
「……一度だけ、言っちゃいけないことを言うね」
でも、
「それでも僕は、マリーとブラッドが逝くところなんて、見たくない」
◆
嫌だ。
絶対に嫌だ。
見たくない。
マリーとブラッドが逝くところなんて、見たくない。
瀕死の親を前にした子供としても、輪廻と魂を司る神の神官としても、絶対に言ってはいけない言葉。
不死神に対する、あの格好をつけた宣言さえ覆す言葉だ。
でも、言わずにはいられない。
「いつかここに帰ってきた時、またマリーとブラッドに会いたい。
ブラッドと試合をしてやっつけたりやっつけられたりして、馬鹿なことを言い合いたい。
マリーと一緒に家事をして、上達しましたね、なんて言って欲しい。
いつか僕の子供や孫とかを見て欲しいし、その子たちにも僕みたいに色々教えて欲しい」
それが、夢だった。
どこかで半ば叶わぬと分かっていた、甘い夢。
「それなのにもう、いま、消えちゃうなんて。
ここでお別れだなんて、ひどいよ、嫌だよ、耐えられないよ!
2人がいなくなったら、僕はこれからどうやって生きていけばいいのさ……!!」
声が震える。
あとからあとから涙が出てきた。
「いかないでよ……嫌だよ……ずるしてもいいから、残ってよ……」
我ながら、情けない姿だった。
泣いて、わめいて、駄々をこねて。
まるで、子供だ。
でも、それでも、伝えたかったのだ。
「……マリー」
「ええ」
そんな僕を見て。
マリーとブラッドは、視線を合わせて頷く。
それから2人はそれぞれ拳を作ると、僕の頭をこつりと叩いた。
痛くない。軽く小突くような、そんな拳。
「ダメだ、ワガママ言うな」
「ブラッドの言うとおりです。聞き分けなさい」
優しい言葉で、叱られて。
「ぅ……」
それでもう、こみ上げてくるものに、耐え切れなくなった。
「う゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛……っ」
涙が溢れる。
くしゃりと顔が歪んで、視界は涙でぐちゃぐちゃで。
何度も何度も、しゃくりあげる。
こんなに泣くのはいつ以来だろう。
こみ上げる感情は、もう言葉にならない。
「ハハハ、久々に父親らしいことやったな」
「ウィルは、ほんとうに手のかからない子でしたからね」
2人が笑い合っている。
「……なぁ、ウィル。俺たちもお前のためなら何でもやってやりてぇよ。だけど、そりゃダメだ」
ブラッドが僕に向けて、語りかけてくる。
「俺たちが逝ったら、どうやって生きてくんだ、だって?
……それでもなんだかんだ、生きてくんだよ。
もう生きていけない! なんて思ってもな、人間、意外と飯食って寝てりゃ死なねぇし、別の大事なモンだって見つかるんだ」
ブラッドがぐいと僕を引き寄せ、赤ん坊の頃以来はじめて、僕を抱きしめた。
予想通り、暖かさのかけらもない、隙間風だらけの硬い骨の感触だった。
わしゃわしゃと、子供の頃と変わらない調子で頭を撫でられる。
全然心地よくないその感触に、また涙が溢れた。
「外に出たらな。いっぱいダチ作って、綺麗な姉ちゃんの2人や3人はひっかけて、楽しくやるんだぞ」
「ブラッド。不誠実なことを勧めちゃいけません。……ウィル、恋愛や結婚は誠実に、ですよ!」
まったく、とお説教めいた調子でマリーが言って。
それから……と、言葉を継いだ。
「ウィル。あなたは灯火の神に強き誓いを立て、神殺しを成し遂げました。
それは英雄の所業です。あなたのこれからの運命は、波乱に満ちたものになるでしょう」
居住まいを正したマリーの言葉は、まるで託宣を下す神官のような厳かさで。
「損をすることもあるでしょう。理不尽に責められることもあるでしょう。
助けた人に裏切られ、行った善行は忘れ去られ、築いたものを失って、多くの敵ばかり残るかもしれません」
でも、その厳かな雰囲気も、すぐにふわりと和らいだ。
招き寄せられ、ぎゅっと抱きしめられる。
「それでも、人を愛してください。
善いことをしてください。
損を恐れず、壊すより作り、罪には許しを、絶望には希望を、悲しみには喜びを与えてあげて下さい。
そして、あらゆる暴威から弱い人たちを守ってあげて。
……私たちのために、不死なる神に挑んだように」
たぶん、これが最後の抱擁だと分かっているのだろう。
「ウィル。ウィリアム。……私の子。ブラッドと私の、かわいい子。」
僕を抱きしめるマリーの腕は、震えていた。
僕の腕も、震えていた。
「人は、決意一つあれば、何だって始めることができるんです。そのことを忘れないで。
……勇気の精霊と善き神々の加護が、常にあなたとともに在りますように」
ふと、涙のせいじゃなく、マリーの顔が二重にぼやけてみえた。
霊体が分離しかかっているのだろう。
豊かな金髪と、ちょっと垂れ目がちのエメラルドの瞳、ほっそりとした立ち姿。
……淑やかで優しそうな、おかあさんの姿があった。
「結果を信じて前に出ろ。
お前は考えこむとこがあるけどな、悩み過ぎて足を止めるんじゃねぇぞ」
ブラッドの姿も、二重にぼやけて見える。
獅子のような赤毛、戦士らしい鋭い目つきに、隆々と鍛えあげられた肉体。
……野性的で快活な、おとうさんの姿だ。
2人の姿と、貰った言葉を、胸に刻んだ。
きっと、忘れない。
それは神さまの灯火のように、きっと僕の生を照らしてくれるものだから。
そして暫く、無言で居ると……ふと、ごほん、と咳払いの音がした。
振り向くと、ガスが居た。
どこから持ってきたのか、高そうな火酒の瓶と、グラスを4つ浮かせて持ってきていた。
ぽつんと佇むその様子を見て。
なんだかおかしくなって、皆でどっと笑った。
それから4人で、火酒を飲んだ。
4人で酌み交わした初めてのお酒は、喉を焼くほど強い酒精と、芳醇な香りが印象的で。
――――その晩、聖なる灯火に導かれて、僕の両親は輪廻に還った。