13
「……えと」
驚きながらも、何か言おうとした時だ。
「あーっ、ルナ姉じゃん! ひさしぶりっ」
「あら、ディー」
ディーが明るい調子でフードの彼女に声をかけ、駆け寄った。
彼女――ルナーリアさんもフードをおろして、ディーに笑いかける。
僕は、思わず目を見張った。
……これまで何度か見てきた、どこか作り物めいた笑みとは違う、とても暖かな笑顔だった。
服装も普段の華麗で露出度が高いものと違って、どこか地味で、男装めいた露出の少ないものだ。
長い黒髪をゆるくまとめ、化粧もほとんどしていないと、ただの町娘にさえ見える。
「久しぶりね、生活は大丈夫? ちゃんと食べてるかしら?」
「うん、なんとか大丈夫だぜ!」
「そう。何かあったら、神官さまがたに頼るのよ? よくお願いしておきましたからね」
柔らかい声音。
ディーの髪を撫でる指先。
「…………」
あっけにとられてそれを見ていると、ルナーリアさんが改めて色違いの双眸でこちらを見て――
「…………それで、貴方は何故ここにいるの?」
と、怪訝そうな顔で問いかけてきた。
先ほどの慈母のような雰囲気は引っ込み、猜疑と警戒に満ち満ちた雰囲気。
「? ねーちゃん知り合い? ウィルにーちゃんならこれから色街に――っと! あ!」
ディーが慌てて口をつぐんだ。
何かこう、「まずいことポロッと漏らしちゃった」みたいな顔してるけど……え?
「も、もしかしてウィルにーちゃん、ルナ姉のお客?」
「え? えっと……」
「まぁ、そのようなものよ」
僕がなんと答えたものか迷っているうち、あっさりと肯定したルナーリアさんが歩み寄ってきて、僕の手を取る。
ルナーリアさんの肯定を受けてか、ディーが僕に向けて必死に謝罪のジェスチャーをしていた。
どういうこと?
「馴染みの女に黙って、こそこそと他所の妓楼に登る男はね、囲まれてなじられて髪や髭を落とされるのが慣例なのよ?」
ああ、それは怖い……加えて、かなりの不名誉だ。
この時代、男性はとても名誉や体面を重んじる。
女性に不義理を働いて毛を剃られたなんてなったら、人に知られぬようにしばらく家にでも篭もる他ないだろう。
でも、僕は別に貴女の馴染みでは――と目で訴えるのだけれど、ルナーリアさんは「いいから来い」と目で返してきた。
「そういうわけで、この人、借りて行くわ。いいわね?」
「――馬に蹴られたくはありませんからね」
トニオさんが肩を竦めた。
ディーは再三、僕に向けて謝罪のジェスチャーを繰り返している。
「ふふ。とりあえず、行きましょう?」
「えっ、え……」
何がなんだかわからないうちに、僕はルナーリアさんに引っ張られてゆくことになった。
◆
「それで、何でこんなところに居たのよ」
通りを歩きながらの問いかけは、やはり怪訝そうなものだった。
普段の上品な口調ではない、たぶん素の口調。
「ただ単に女遊びに来たって言うなら、気立ての良い子を紹介しましょうか? 年上が良いかしら、年下が良いかしら」
「い、いや、そういうわけじゃ」
「……まぁ、そうよね。あなた妓楼とかで尻込みしそうなタイプだし」
「…………」
自覚があるだけに何も言えない。
そういうお店に来たとして、ブラッドなら喜んで前に進むだろうけれど、僕は一歩、後じさりするだろう。
「サミュエルさんに、救貧事業に参加しないかって誘われて――」
「……? サンフォードの御曹司? あなたこの間、彼と決闘したんじゃ」
「仲直りしたよ。いい人だった」
そう答えると、彼女は少しあっけにとられたようになって、それから苦笑した。
「そういうところは、尻込みしないのね」
「早いうちにしておかないと、どんどんやりづらくなるしね」
謝ったり、お礼を言ったり、仲直りしたり。
そういうことは早いうちにしておかないと、どんどんと日常に取り紛れて「後回しにしてもいいこと」の中に埋没していってしまう。
……後回しの、その回した後がやってこない事というのは、意外と多い。
「とりあえず、下見を兼ねて現状を見に来たんだけど――ルナーリアさんは?」
「私は一時期、この辺で暮らしていたから」
「――この辺に?」
それは、かなり意外な発言だった。
……僕もそう詳しいわけではないけれど、聞きかじった限り、基本的に売春婦と、高級娼婦は違う。
侍祭が経験を重ね実績を積んで司祭となり、司教となるような。
あるいは前世のコンピューターゲームで、キャラクターが上位職へと転職をするのとは、違うのだ。
――売春婦は、高級娼婦にはなれない。
街娼か、妓楼に勤めるか、そのあたりは異なれど、売春婦は基本的に下層の女性がなるもの。
そして上流階級を相手にする高級娼婦は、それなりの社会的階層の女性が十分な技芸の教育を受けてなるものだ。
スタートから違うし、ゴールも違う。
たとえ妓楼でいくら高値がつこうと、それで高級娼婦へと転じられるわけでもなく……同じようなことをしているようでも、連続した職業ではないのだ。
だから僕は、ルナーリアさんもどこかそれなりの社会階層の出身だと思っていた、のだけれど。
「詮索はよして。――親しくもない男に、細かいことを語るつもりはないわ」
そう言われれば、思考を打ち切らざるをえない。
「そういうわけで、知り合いを訪ねてきただけよ」
その言葉に嘘は感じなかった。
実際にディーとも知り合いだったようだし、こうして通りを歩いていても道をよく知っている感じがする。
何よりルナーリアさんには、何も特別な気配がない。
神さまの加護を受けた人たちに感じるような、独特の静かな力の満ちた雰囲気はない。
悪神の眷属に感じるような、あの背筋を粟立たせる戦慄や、湧き上がる警戒もない。
サミュエルさんには色濃い神さまの気配があったから、なんとなく裏面も見えたけれど。
この人は本当に、ただの人だ。
もちろん、ただの人だから安全だなんて言うほど愚かになるつもりはないけれど――多分、この出会いは本当に偶然なのだろう。
「……何事かと、考え込んで損したわ」
ルナーリアさんも僕と似たような結論に到達したのか、そうぼやいた。
「こういう偶然ってあるんですねー……」
「奔放なるレアシルウィアの導きかしらね」
精霊神の神殿前でバッタリ会ったのだから、確かにそうかもしれない。
そのままなんとなく、二人で通りを歩いてゆく。
繁華街から、徐々に色街寄りになって来たのか、脂粉の匂いが濃くなり、薄布をまとった独特の雰囲気の女性をよく見るようになる。
そこかしこに大小の宿。
まだ日も落ちる前だから、嬌声のたぐいはほとんど聞こえてこないけれど――
「そうだ。この辺りを見に来たのよね」
ルナーリアさんが呟いて、僕の腕に身体を絡めるようにしてきた。
「――少し、付き合って下さいませんこと?」
唇を三日月のようにして。
……彼女は、蠱惑的に笑った。
◆
香の煙がゆらりと立ち込める、朱塗りの柱の目立つ妓楼は、どこか異界めいていた。
狭い部屋。
目の前に、衣をはだけた女性がいる。
――手を伸ばす。
「んッ……ぁ、ふ……」
熱を孕んだ声が漏れる。
「はい大きく息を吸ってー、吐いてー」
僕はつとめて呑気な声で、そう言った。
「すぅ、っ、は……げほっ、げほ……」
「呼吸器系の病気で間違いないですねー。――灯火の女神グレイスフィールよ、病の床、暗き褥に灯火を」
意識して心を落ち着けて、祈る。
すぐに目の前の女性の咳は収まった。
「あ、ありがとうございます……あの、お礼は」
「もう頂いていますからお気になさらず。……んー」
どうも憔悴している様子で、肌艶も悪いし、いくつか吹き出物なんかもできていて、病と疲労が美貌に影を落としている。
つい、と指を動かし、宙にいくつかの《しるし》を刻む。
――《清めのことば》。加えて《体力増強の祈り》に、その他ちょっとした予防的な加護をいくつか。
《しるし》を描き、祈りを終えると、少しだけ彼女の顔色が良くなり、吹き出物も消えていった。
「あ、なんだか、体がスーっと……?」
「少し魔法で清めました。でも、あんまり油断せず、できれば近日中にお休みを取って下さい」
「は、はいっ」
「それでは、次の方ー」
ルナーリアさんに引っ張りこまれたのは、妓楼のひとつだった。
何事かと思ったのだけれど、彼女は顔見知りらしい娼婦経由で楼主に話をつけると、あっという間にお勤めの娼婦さんたちの治癒の段取りを整えてしまった。
こうお膳立てをされてしまっては拒むわけにもいかないし、拒む必要もない。
僕はすっかり治療に没頭していた。
「はい、楽にして下さい。何か気になってる症状とかがあれば……」
などと言いつつ、《病癒やし》を中心に加護を祈り。
《清めのことば》や《体力増強のことば》なんかも併用していく。
……しかしまぁ、こうして入り込んでみると、予想以上に酷い。
けっこう半病人みたいな体で仕事してる人がいる。
労働環境や収入の問題で、休めないのだろう。
祝祷術での治療を受けるにしたって、それなりに対価もいるし、そもそも加護持ちの神官はなかなか忙しい。
……それでもここは、そこそこの格の妓楼のはずだから、安い宿や、街娼の状況なんかはもうお察しだろう。
「…………いろいろ酷いなぁ」
「お望みの『現状』はお分かりになりましたかしら?」
数十人ほど捌き終えてつぶやくと、隣に座っていたルナーリアさんがそう言った。
頷く。とてもよく分かりました。
「見事に利用された……かな?」
「高位の祝祷持ちのお人好しがふらふら歩いているんだもの、利用しないのは損じゃない」
彼女は利用したことを否定しようともせず、あっさり肩を竦めた。
僕が嘘を見分けることを知ってか、どうも彼女は最近、言動に素を混ぜてきている感じだ。
「……にしても、頑丈ね。普通の神官なら、十人くらいで青い顔が普通よ?」
「幸いなことに加護が厚くて。それでも数百人くらいになるときっついかなあ」
「ひとりで都合、神官数十人分。……英雄って理不尽ね。ちょっと気味が悪いわ」
「それで助かる人がいるなら、気持ち悪く思われてもいいよ」
マリーだって、多分そう言うだろう。
「段取りをつけてくれて、本当にありがとう」
口元をゆるめてお礼を言う。
なんだか色々と思惑の絡む場面ばかりで遭遇して、かなり警戒をしていたけれど……案外、そういうのが絡まないと彼女はいい人なのかもしれない。
そんな風に思っていたら――ルナーリアさんは、顔をしかめた。
「……?」
「助かる人なんて、いないわよ」
首を傾げる僕に、彼女は吐き捨てるように呟いた。
「今の人たちだって、どうせまた病気に罹るわ。あなたは南の大陸へ帰る」
肩をすくめる。
「誰も助からないわ。……私はちょっと自己満足を兼ねて、知り合いに恩を売っただけ」
「…………」
「あなた、ずっとここにはいられないんでしょ?」
確かに《涙滴の都》へは、一時的な滞在だ。
僕はいずれ、南に戻る。
「その間に、英雄様は何人治せるのかしら。数千人? 数万人? でもその人たちは皆、あなたが去れば元通りよ。――今回は利用させてもらったけれど、この辺りの現状はこの通り」
深入りするものじゃないわ、とルナーリアさんは言った。
色違いの、紫と金の双眸は、僕を射抜くように見つめていた。
「……そうですね」
「あら。……お人好しの英雄さまらしくゴネると思ったら、物分りがいいのね」
「ええ。だって正論ですし」
確かに僕はいずれ帰る。
ホームの《灯火の川港》周辺と違って、治して「また何かあれば呼んで下さい」とはいかないのだ。
だから――
「とりあえず、去っても元通りにならないようにしないとですね」
その辺り、きちっと手を考えないと。
……ようやくとりあえず、一つすることが見えたかもしれない。
深々と頷き、目を輝かせて言うと、ルナーリアさんは眉間のあたりを押さえて俯いた。