ジークムント:短剣
残酷な描写、不衛生な表現があります。ゲロ注意。
死にたくなければ、『ふつう』に振舞え。
奴隷商人らしき男の命令に従い、ジークムントは何とか立っていた。
大柄の男がなにやら商人と話をし、ジークムントを含め何人もの奴隷を購入していった。
腰布だけの姿にされ、両手を前で縛られたまま、男女別に鉄板を張り巡らした馬車に積み込まれる。「黒鉄輸送隊だ。迷宮都市に連れて行かれるんだ。」誰かがそう言っていた。
帝都を離れ、始めの4日は日に一度馬車から出してもらえた。その時に用を足し、水魔法で洗浄され、食事代わりにヤギの乳を与えられた。ヤギの乳には豆や穀物を砕いたものが入っていて、うまいものではなかったが、ジークムントはわずかに体力を取り戻すことができた。
5日目に魔の森に入ったらしい。装甲馬車は激しく揺れた。昼となく夜となく、魔物が襲いかかる。走行を邪魔する魔物だけ排除しているのだろう。馬車は一度も止まることなく走り続けた。日に一度、ほんの僅かな時間だけ馬車が止められ、皮袋に入ったヤギの乳を飲まされる。用を足す時間は与えられない。装甲馬車の床はすのこ状になっており、皆そこに垂れ流す。激しい揺れと饐えた臭いに吐き戻す者が後を絶たず、すのこの下に溜まったモノが馬車が揺れた弾みで飛び散り、頭から降りかかる。
真っ暗な馬車の中、常に聞こえる魔物の声、戦闘を思わせる馬車の揺れに、魔物の牙や爪が装甲馬車につきたてられる衝撃。恐怖と、余りにも不快な環境の中、怪我と高熱で朦朧とする意識。気がふれそうになるたびに、森の精霊の姿を思い出す。姿といってもあやふやな、輪郭だけの淡い光の存在。あの光がジークムントをかろうじて正気に留めた。
荷台の扉が開けられる。「出ろ」と命じられ、馬車から降りる。3日ぶりに降り立ったそこは、牢を思わせる石の塀に囲まれた場所だった。
一列に並ばされ、水をかけられ、「洗え」と命じられる。水は少なく、汚れを落とすというより、臭いを抑える程度の役割しか果たさないが、それでもありがたい。次いでやってきた男に状態を確認される。脚を棒で突かれ、激痛の余り前のめりに倒れる。見ると、黒狼に噛まれ、焼いて血止めした左脚は黒く変色し、倍近いサイズに腫上がっていた。
別の男が髪をつかんで引き立てる。逆らう体力もない。体のあちこちにある傷や傷跡を、棒で突いては確認されていく。あまりの痛みにうめくことしかできない。
確認が終わったのか、しばらくすると大柄な男と腹の出た男が話を始める。
肉壁、鉱山、欠損の男娼、そんなものにすら、なれないのだと男たちは話し合う。
(死にたくない……しにたくないしにたくないしにたくない)
がくがくと体が震える。
これほどいたいおもいをして、これほどくるしいおもいをして、これほどおそろしいおもいをして、それでもしななかったのに、しにたくない。しぬのはいやだ。
この恐怖を、混乱を、真っ暗な絶望を、救ってくれたのは一人の少女だった。
少女のものとなった隷属の焼印を刻まれたあと、再び馬車に乗せられて運ばれる。
「着いたぞ、降りろ」
ジークムントを馬車から出した男が、「お前の主人の持ち物だ」と言って、枯れ草の束を手渡し、「そこの水場で身体を洗え。」と水場を指し示した。
言われたとおり、水場に向かう。清潔な井戸水が汲めるようだ。がぶがぶと腹が膨れるまで飲む。たとえ泥水でも飲める時に飲まなければ、次にいつ水を口にできるかわからない。桶に水を汲み、頭から被る。身体を洗うなど何日ぶりだろう。熱のせいか身体は酷く寒いのに、脚や腕の傷は焼けるように熱い。痛みをこらえて急いで洗う。
足音と話し声が聞こえて、水場の陰からのぞくと、『ご主人様』となった少女が見えた。あわてて腰布で身体を拭いて、枯れ草の束を持って向かう。
前の『ご主人様』だった傴僂の商人は、待たされると酷く怒り、何度も鞭を振るった。言われるままに体を洗い、勝手に水まで飲んだのだが、少女に命じられたわけではない。勝手なことをと怒られるかと思ったが、少女は何も言わず付いて来るように言った。
少女に伴われて建物の中にはいる。どうやら宿屋らしい。そのまま部屋まで連れて行かれる。歩くたびに左脚に引きちぎれるような痛みが走る。熱のせいだろうか、呼吸が苦しく意識が飛びそうになるが、左脚の痛みで正気に戻る。
まだだ。まだ駄目だ。倒れてはいけない。大丈夫だと、使い物になると思ってもらわなければ。俺は大銀貨2枚だと言っていた。大銀貨2枚など、まともな武器すら買えない値段だ。そんなもの、壊れてしまえば修理などせず捨ててしまうだろう。
部屋に入ると座れと言われたが、左脚が腫れてきちんと座れない。傴僂の商人ならば「座ることすらできんのか」と鞭打たれたのだろうが、この少女は何も言わず、何とか座るまで待ってくれていた。
「私は、マリエラと言います。貴方のことはジークとよんでいいかしら?
隷属契約で貴方は私の命令に逆らえない。これはあっている?」
新しい『ご主人様』は『マリエラ』様と言うらしい。
「はい。お好きにお呼びください。ご主人様。
この様な不具の身を拾って頂いたご恩は決して忘れません。
どの様なご命令にも背きません。何なりとお命じください。」
前の『ご主人様』だった傴僂の商人に何度も言わされた台詞を述べ、額を床に擦り付ける。
「犬」「豚」「ゴミ」「屑」。どのように呼ばれようとも、「はい。」と答え、「お好きにお呼びください。ご主人様。」と付け加える。
家畜より酷い、僅かな食事を与えられるたびに、「片目の無い、不具の身を拾って頂き、ありがとうございます」「ご恩は決して忘れません。」と繰り返す。
倒れるまで、いや倒れても繰り返される命令は、「どの様なご命令にも背きません。何なりとお命じください。」と『ありがたく』承る。
顔を上げてはいけない。額を地面に擦り付け、『ご主人様』が去るまで動いてはいけない。
立つこともできないほど鞭打たれたくなければ。傴僂の商人の下で、嫌というほど思い知らされた。なのに。
「マリエラと呼んで。顔をあげてよく見せて。」
新しい『ご主人様』は、顔を見せろという。おそるおそる顔を上げる。髪がべたりと顔に張り付く。これでは顔が見えないから、あわてて髪をかき上げる。
新しい『ご主人様』の手が上がる。殴られる、と反射的に体がこわばる。今まで振り上げられた手がそのまま下ろされたことなどなかったから。しかしその手は、ゆっくりと、本当にゆっくりと動かされ、ふわりと、ジークムントの顔に触れた。
(やわらかい。ひんやりとして、きもちがいい……)
『精霊眼』があった右目に触れ、残された傷跡をなぞる。
その手は、未だに熱を持ち、うずき続ける右腕に触れる。何にやられたのかと問われたので、黒狼と答える。そういえば、傷に触れてくれたのも、ジークムントの怪我の原因を聞いてくれたのも、新しい『ご主人様』が初めてだ。醜く変色し、腫上がった脚も丁寧に見た後、
「まずは、傷口の洗浄をします。」と言った。
新しい『ご主人様』が作り出した薄く光る水がかかるたび、うずき続けた傷から痛みや熱が消えていった。腕も脚も。あれほどの激痛がうそのように消えていく。この不思議な水が放つ光は見たことがある。
彼女は、迷宮都市には絶えて存在しないはずの、『錬金術師』だった。
エンダルジア王国滅亡の物語は、御伽噺のように語り継がれている。栄華を極めた王国に迫り来る魔物の群れと、立ち向かう英雄達の悲劇の物語として。立ち向かう勇者たちを、王国の民を平らげ、さらには魔物同士で喰らいあい、最後の残った一体は、地脈の精霊を飲み干して、後には迷宮が生まれたと言われている。王国から逃げ延びた人々は、再びエンダルジアに集ったが、その地で精霊の声を聞くことはできなかった。
最後の錬金術師が亡くなってからおよそ100年、この地に錬金術師は現れていない。彼女を除いては。
まるで奇跡の物語のようだ、とジークムントは思った。そして、彼にとって彼女は、まさに奇跡のような存在だった。
蔑まれ、汚物のように扱われ続けた身体を、その手で清め、ポーションを与えた。温かい食事を与え、感極まって泣き出したジークムントをやさしく抱き寄せた。獣のようだった姿を整え、人間らしい衣服を与えた。奇跡の御業で、喰われた脚を、積み重なった古傷を癒した。
全てを失った己であったが、素晴らしい主を得た。慈悲深い、奇跡の体現者だ。
(俺がのろまなせいで、洗濯までさせてしまった。雑用など、俺がするべきだった。けれどお怒りにならず、仕事を与えてくださった。貴重な素材だとおっしゃった。大切に洗わねば。)
「よーう、ジーク。昨日ぶり。」
「リンクス、様」
プラナーダ苔を洗うジークムントの前に、リンクスが現れた。いつの間に近づかれたのか、気がつかなかった。
「リンクスでいいって。柄じゃねぇ。それよりさ、脚治ったんだ。良かったじゃん。」
リンクスの糸のような目がすっと開いて、続ける。
「特化型の上級ポーション。」
「なっ。」
マリエラ様と黒鉄輸送隊の商談に、リンクスはいなかった。内容はディック隊長とマルロー副隊長以外知らされていないはず。なぜ、リンクスが。
「ジーク、お前何やってんの?」
動揺を見せるジークムントに、リンクスが鋭い視線を投げかける。
「カマかけたんだよ、馬鹿が。さっきだって、ぼへっと暢気に洗い物か?今なら簡単にマリエラを攫えんぞ。」
「あ……」
ジークムントは慌ててマリエラのいる2階の隅の部屋を見上げ、探知魔法でマリエラの魔力を探る。大丈夫だ。ちゃんといる。周囲に不審な反応も無い。
「やればできんじゃん。お前戦えるんだろ?」
「目……、目を失って、弓が……。」
しどろもどろと、言い訳をするジークムント。リンクスは、「はぁ」と大きくため息をついた後、ジークムントの胸倉をつかみ、まくし立てた。
「お前、何様?
マリエラ、変わった術を使うみてぇだけど、お前、アイツがそんな特別に見えんの?隙だらけじゃん。あんなもん持ってんのに、危機感ゼロなんじゃね?危なっかしくて見てらんねーってのによ、お前まで気ィ抜きやがって。
ナニ?お前にゃアイツが女神様かなんかに見えんの?命を救ってくださった救世主様とかよ?その一個しかねぇ、目ン玉でよく見てみろよ。ただの、どんくせぇ女じゃねぇか。
しょうもねーカマ掛けに簡単に引っかかりやがって。秘密が漏れて厄介なのに狙われたらどうすんだ。また救世主様が助けてくれるってか?違うだろ。お前の仕事なんだよ。
何が目が一個じゃ弓が射れませんだ。ボケ。弓なんざはなっから護衛の役にゃたたねぇよ。別の武器使やいいだろうが。もう、動くんだろ?その右手。どんだけ貴重なモン使って貰ったと思ってやがる。」
ドン、とジークムントの胸にリンクスがこぶしを突きつける。その手には一振りの短剣が握られていた。
「貸しといてやる。使えねえとかぬかすなよ。使えるまで練習しやがれ。
この街に、ソレが無くて死んでいったヤツがどれだけいると思ってやがる。そいつらの分も血反吐はいてモノにしろ。甘えんな!」
ジークムントに無理やり短剣を渡すと、リンクスは裏口に消えていった。
(俺は……、俺は、また間違うところだった……。)
素晴らしい主だ、奇跡の体現者だなどと、マリエラを『特別な主』だと思おうとした。いや、『特別な主に出会えた、特別な自分』だと思いたかったのだ。マリエラは、特別な力を持った、しかし、平凡な少女だ。
愚かさの代償をあれ程払ったというのに、ちっとも成長できていない。
(だが、気づけた。リンクスが教えてくれた。)
預けられた短剣をぎゅっと握りしめる。今後こそ間違うまい。全てを与えてくれたマリエラを守りたいという気持ちに偽りは無い。
ジークムントは漸く前を向いて歩き出した。