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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第九章 『名も無き星の光』
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第九章35 『目覚めの星』



 ――レムがロズワール邸に帰り着いたとき、レムとしては『帰り着いた』という実感は全く得られるものではなかった。


「レム、見える? あれがラムたちの働く、ロズワール様のお屋敷よ」


「私たちの、職場……」


 竜車の車窓から見える景色、明るい日差しの降り注ぐ風光明媚なそれを指差すラムの言葉に、レムは薄青の瞳をぱちくりとさせ、その睫毛を震わせた。

 乗合竜車で工業都市コスツールへ向かい、そこで用意された送迎用の竜車に乗り込むことしばらく――見えてきたのは、しかし見覚えのない『我が家』だった。

 大きな門構えと、その向こうにある立派な屋敷。ヴォラキアの帝都でカチュアと過ごしたベルステツの邸宅、あれよりもさらに豪勢なロズワール邸は、一度目にすれば忘れられないほど雅やかな建物だった。

 それなのに――、


「どう?」


「……ごめんなさい、姉様」


 ゆるゆると首を横に振り、レムは姉の期待に応えられないと不甲斐なく謝る。

 ここまでの道中、様々な目的から別行動となったスバルやエミリアたちと別れ、ラムと二人で屋敷までの帰途を進んできたレム。その間も色々なものを目にしては記憶が刺激されるのを期待してきたが、一度としてその期待が叶えられた例はなかった。

 それはどうやら、レムたちにとっての大事な屋敷も例外ではないようで。


「そう。でも仕方ないわ。だって、今の屋敷でラムたちが働いていたのはずいぶんと前で、レムにとって印象深い屋敷はここではないもの」


「え!?」


「ちなみに、前の屋敷はむしゃくしゃしたオットーが燃やしたからもうどこにもないわ。燃えずに残っていたら、そっちに寄り道するのも考えたのだけど」


「オットーさんが……そんな人には見えなかったのに」


 後出しされた情報に目を回すレムは、ラムの語ったオットー情報にさらに困惑する。

 陣営の内政官であるというオットーは物腰柔らかな印象の人物で、スバルの友人かつ欠かせない仲間、ペトラやフレデリカ曰く全然寝ない人であるとか。そこにさらに、むしゃくしゃして屋敷に火を放つという情報が追加され、人間性が迷子だ。

 人は見かけによらないという話かもしれないが、そうまとめてもいいものなのか。


「あの人もそうですけど、エミリアさんの味方はそういう人の集まりなんですか? ガーフィールや、ロズワールさんも……」


「ロズワール様、よ」


「……ロズワール様も」


「いい子ね。でも、あの三人とロズワール様を一緒にするのは悪い子だわ、レム。ロズワール様は聡明で有能、この世界で最も優れた魔法使いでいらっしゃるお方。それに比べてあの三人は、三人揃ってようやく一人前……いいえ、半人前というところね」


「三人で半人前……」


 オットーとガーフィール、それにスバルの三人を頭の中で肩車させて、レムは魔法で飛べるロズワールを肩車した三人の隣に並べた。そうして並べてみると、レム的にはどのぐらいの差が彼らにあるか知れないが、ラムの言うことに間違いはないだろう。

 未だに記憶の戻る目処の立たないレムにとって、双子の姉であるラムに感じる親近感からくる信頼と思慕、それだけは疑いようのない本物。

 ――過去と今のレムを繋ぐ、確かな縁であるのだから。


「……この考え方は、プリシラさんに怒られますね」


 胸中に生じた苦い思いに、レムは焔の如き緋色の女性の眼差しを思い出す。

 ほんの短い時間で、レムの考え方や歩み方に大きな影響を与えた彼女は、過去のことに拘り、縋ろうとする姿勢を決して良しとしなかった。同じように、信頼感という蜜に身を委ね、ラムにおもねるレムのことも好いてはくれないだろう。

 レムは、プリシラに嫌われたくないし、恥ずかしい生き方もしたくなかった。

 だから、後ろ向きになりそうになる心を叱咤し、頬を叩いて顔を上げるのだ。


「でも姉様、さっきのお話だと、あの屋敷に戻っても私の記憶が戻ってくる手掛かりはあまりないということになりませんか?」


「ふふ、呑み込みが早いわね。賢い妹の存在でラムも鼻が高いわ」


「いえ、そんな……姉様にそこまで褒めてもらえるほどではないかと……」


「ただ、ここにいるラムが誰の姉だと思っているの? レムの姉様であるラムが、そんな手抜かりをすると思うのかしら」


 自分の胸に手をやり、ラムが自信に満ちた顔でそう言い放つ。

 その堂々としたラムの言葉に、レムは自分の見当違いな心配を素直に恥じた。わざわざレムに言われなくても、ラムはそのぐらいお見通しだったわけだ。

 そうなると俄然、気になるのはそのラムの考えの方だが――、


「屋敷に帰るのに、それが目当てじゃないなら……目当ては、人?」


「どうかしらね。答え合わせは……すぐにできるわ」


 そう当たりを付けたレムにラムが微笑むのと、竜車が止まるのはほとんど同時だった。

『風除けの加護』で遠ざけられていた揺れを久しぶりに感じて、ハッとしたレムの前で、颯爽と立ち上がったラムが手を差し出してくれる。


「さ、ついたわ。いきましょう」


「――はい、姉様」


 ラムの手を取り、レムは微かな緊張に弾む胸を押さえ、竜車を降りる。

 ここまで送ってくれた御者にラムが声をかけている傍ら、一歩竜車の前に出たレムは、すぐ目の前にある閉じた鉄門の柵越しに、屋敷と美しい前庭を視界に収めた。


「ここが……」


 薄青の瞳を細めるレム、その目に映った屋敷にやはり見覚えはない。

 それでも、建物に花壇、生垣と屋敷を形作る隅々にまでしっかりと管理が行き届いているのがわかって、それとなく背筋を正される。

 記憶の有無に拘らず、今後、レムがこの屋敷で過ごしていくのなら、その立場はラムやフレデリカたちと同じく、使用人ということになるはずだ。


『いや、レムは毎日健やかで、のびのび生きててくれたらそれでいいんだ』


 一瞬、頭の中のスバルがそんなことを言い出す姿が目に浮かんだが、レムはそうして過剰に甘やかしてこようとする幻影を無理やり追い払った。

 確かに、スバルなら言いそうなことではあるが、今の彼はそれどころではない。

 それこそ、レムとでは比較にならないほど、プリシラを失ったことで心に傷を負った相手を慰めるため、今、彼は――、


「――お? おお、おおお、おおおお!」


 瞬間、いきなり聞こえてきた唸り声に驚かされ、「きゃっ」とレムは後ずさった。

 見れば、声が聞こえたのは柵の向こう、つまりは屋敷の敷地内だ。――そこに、柵を小さな手で掴み、凝然と目を見開いている小さな少女の姿があった。

 愛らしい顔立ちに、長く伸ばされた桃色の髪。十一、二歳くらいに見える小さな背丈を黒の貫頭衣に包んだ少女は、その丸い目を大きく見開いてレムを見つめている。

 その少女に、レムは見覚えがあった。――あの、帝国の惨状の中で。


「あ、あなたは……『大災』を引き起こした『魔女』!」


「あら、リューズ様、お迎えありがとうございます」


 わなわなと震え、自分を指差してくる『大災』の担い手。

 突然の、あってはいけない災いとの再会にレムが驚愕する横から、ひょいと顔を出したラムがそう彼女に話しかけた。その自然な態度に、「え」とレムがラムを振り返ると、『魔女』の方も弾かれたように姉を睨みつけ、


「ラム! よう帰った。よう帰ったが……お主、さらっとしすぎじゃぞ!」


「……ラムに、ガーフやフレデリカのように、リューズ様を抱き上げろとでも?」


「そんなことは言っておらん! それより、その娘は……」


「姉様、この方は……」


 帝国の滅亡を目論んだ『魔女』、その名前はスピンクス。

 しかし、目の前の少女をラムは別の名前――リューズと呼んだ。そのリューズの視線を再び自分に向けられ、戸惑いながらレムはラムを見つめる。

 その二人の反応に、ラムはそっとレムの肩に手を置いて、


「名乗ってあげなさい」


「――――」


 最低限の説明すらないのに、ラムの静かな声音は不思議とレムのささくれ立った心を落ち着かせる。それに自然と混乱をほぐされ、レムはリューズを振り向いた。

 そして息を整え、しっかりと相手の目を見据えながら、


「――レム、です。あなたはリューズさん、でいいんでしょうか」


「……そう、か。そうじゃな。うん、そうじゃ。ワシはリューズじゃよ、レム」


 名前を名乗り、名前を尋ねたレムに、リューズは一瞬遠い目をして、柔らかく頷く。

 その反応と、ラムの態度、それにロズワールの屋敷の敷地内にいることから、レムはようやく、目の前の少女と帝国の『魔女』が別人なのだと確信が持てた。


「だとしても、あまりにも似すぎでは……」


「そうね。この世には自分と似た顔の相手が三人はいるなんて俗説もあるけど、リューズ様の場合はその十倍近くいるわ。つまり、俗っぽさも十倍ね」


「年寄りが感激しとる場面で、なんてことを言うんじゃ」


 その見た目の紛らわしさに言及するレムに、そう答えたラムをリューズが叱咤する。

 やり取りからもわかるが、二人の関係性はかなり気安い。リューズの態度からして、彼女もまた、以前のレムと関係性の深い人物だったのだろう。


「すみません。でも、何も覚えていなくて」


「なんのなんの、謝ることはない。ワシは――」


「――妹よ。ラムと同じ髪の色をしているでしょう」


「た、確かに……! え、でも姉様の妹ということは」


 リューズを遮ったラムから明かされる衝撃の事実。その驚きに度肝を抜かれるレムは、ラムとリューズを見比べ、その髪色に確かな説得力を覚えた。

 しかし、ラムとレムは双子のはずなので、必然的にレムとリューズの関係は――、


「私の、妹でもある……?」


「やめんか、ラム! お主、あれじゃぞ! ロズ坊とスー坊の悪い影響じゃぞ!」


「その二人を同列に並べる? いくらリューズ様でも、していいことと悪いことがありますよ」


「どの口で言うておるんじゃ!」


 可愛い顔の眉を立てて、そう声を大きくするリューズにラムが眉を顰める。その言い合いに目をぱちくりさせたレムは、ようやくラムの冗談だと思い至った。


「言われてみたら、私や姉様の妹だったとしたら、リューズさんに姉様が様付けするのはおかしいですもんね」


「それじゃと、場合によっては父親違いや母親違いで、やんごとない相手の血を引いた姉妹の可能性もあるからの。完璧な反証とは言えんのじゃないか」


「それも確かに……。じゃあ、やっぱり私や姉様の……?」


「違う。紛う事なきラムの悪ふざけじゃ。まったく、困ったもんじゃわい」


 大きくため息をつくリューズに、ラムが小さく舌を出す。

 何やら振り回されてしまったが、思えばここまでの道中も、ラムのそうした茶目っ気にレムはずいぶんと困らされ、同時に救われてきた。

 ともすれば、些細な理由ですぐに沈みがちなレムにとって、自信とユーモアに満ち溢れたラムの在り方は、まさに日向の温かさだ。


「姉様は素敵な方だと思います。その茶目っ気も含めて」


「鳥文で知らされた内容からすれば、再会してそう日にちも経っておらんじゃろうに、こうも手懐けられとるとは……」


「手懐けるだなんて人聞きの悪い。誠意と愛を尽くしただけですよ」


「そのわりには、らしくもなくはしゃぎすぎじゃぞ、ラム。ずっと寝たきりでいた妹が目覚めて、こうして一緒に過ごせるのが嬉しい気持ちはわかるがの」


「――。リューズ様のくせに生意気な」


「お主の照れ隠しは攻撃的じゃから、ワシはともかく、ガー坊には手心を加えてやってほしいところじゃな。さて……」


 微かに眉を顰めるラム。姉がやり込められる珍しい様子にレムが感心していると、鉄門に寄りかかっていたリューズが柵から離れ、


「いつまでも、門越しに話しているのもおかしな話よ。ワシもそろそろ、無事に戻った孫娘たちと抱き合って喜びたいしの」


「孫娘……?」


「リューズ様の渾身の冗句よ。笑ってあげなさい」


「そのぐらい大事に思っておるということじゃろ!」


 そうリューズが唇を尖らせる姿に、レムは戸惑いながらも唇が緩んだ。ラムが笑えと言ったからではなく、リューズの思いやりに自然と険が抜けたのだ。

 もっとも、レムたちよりも幼い見た目のリューズに孫娘扱いされるのは、その思いやり分を加味しても首をひねりたくなる要素だが。


「ベアトリスちゃんもそうでしたが、小さい子が背伸びをしたがる傾向が……?」


「そうね。バルスの膝の上にいるときが、ベアトリス様の真の姿よ」


「あの可愛さですから、納得です」


 スピカもそうだが、子どもは子どもらしく、爛漫と笑っているのが一番いい。ベアトリスに限らず、リューズも背伸びせず、年相応に笑えばどれほど愛らしいことか。

 と、そんな感慨に浸っていたレムは、直後の出来事に一瞬、思考が停止する。


「では皆、門を開けよ」


 リューズがそう言ったかと思うと、ゆっくりと屋敷の鉄門が開き始める。

 それ自体はいい。何の問題もない。問題があるのは、門の開け方だった。


「「――――」」


 門の閂が外され、内側に開いていく扉――それを動かしているのが、リューズの呼びかけに従った複数の人物なのだが、それぞれ髪型や装飾品など、思い思いに違った己の飾り方をしているものの、その全員がリューズと同じ顔をしていたのだ。

 それはすなわち、『魔女』スピンクスと同じ顔の少女たちということで――、


「――っ!!」


 さすがに許容量を超え、レムの悲鳴が高々と上がった。



                △▼△▼△▼△



「あの悲鳴は何事かと思いましたが、納得しました。確かに、初めてリューズ様と、姉妹のピコ様たちをご覧になったら驚かれて当然です」


「そう言ってもらえると、少しだけ救われます……」


 と、そう理解を示した金髪のメイドの言葉に、レムは情けない気持ちで頭を下げた。

 門前でのリューズとの挨拶と、その後の驚愕の出来事――リューズと同じ顔をした十人以上の少女たちの登場に、慌てふためいてしまった自分が恥ずかしい。


「ちゃんと姉様は、リューズ様と同じ顔の人が三人の十倍いると教えてくれていたのに、冗談だとばかり思っていました……」


「ラムのあの言い方だと、レムがそう思うのも仕方ないじゃろう。あれで冗談だと思わぬ方が盲目的でワシはどうかと思うぞ」


「しれっとお話されていますが、リューズ様もご自身を省みられた方がよいのでは? 見た目の可愛らしさで看過できない頻度で問題を起こされると、そろそろ私も手が出てしまいそうになります」


「こ、怖いことを言いよる……」


 静かなじと目でメイドに睨まれ、リューズが縮こまって反省する。その様子にレムもようよう唇を緩ませ、丸めていた背中を元に戻した。

 まさか、屋敷の敷地に入る前にああもバタつくとは思わなかったが、こうしてちゃんと中に通された今、いつまでもくよくよとしてはいられない。

 それにしても――、


「私がうるさくしたせいで、ご迷惑をおかけしました。ええと……」


「――シルフィ・エルマートです。以前はコルニアスでしたが、離縁しまして。このたびは皆さんが留守にされる間、屋敷の管理を任されておりました」


「屋敷の。じゃあ、シルフィさんも私や姉様の同僚だったんですか?」


 静々と腰を折り、そう一礼したメイド――シルフィにレムはそう尋ねる。

 当たり前だが、ロズワールの屋敷で働く彼女たちは、全員がレムの知り合いである可能性が高い。さぞ、自分が眠ってしまったせいで迷惑をかけてしまっただろう。

 しかし、そのレムの懸念に、シルフィは「いえ」と首を横に振って、


「私はまだ新参者ですので、レム様たちと一緒に働いたことはありません。それに、私は辺境伯に雇われたのではなく、ミロード様に雇われています。さらに言えば」


「言えば?」


「私の主は私だけ。そして心の主はエミリア様以外におりません」


 強い意思のこもったシルフィの眼差しに気圧され、思わずレムの頭がのけ反る。

 シルフィの口にした、エミリアへの並々ならぬ忠誠心。それは彼女の案内で通された屋敷の中、玄関ホールや通路、それに今いる応接室などの完璧な手入れ具合からも窺える。外から屋敷を見たときの印象通り、素晴らしい仕事ぶりだ。

 まさしく、心の主とまでエミリアを立てる想いの為せる業、といったところか。


「シルフィさんは、エミリアさんとは付き合いが長いんですか?」


「いえ、出会ってほんの数ヶ月です。それも、直接ご一緒できたのは極々短い時間で」


「それなのに、そんなに思い入れを?」


「その方が心の割合をどれだけ多く占めることになるかは、一緒に過ごした時間の長さよりも、その方が自分に何をしてくれたか、ではありませんか?」


「それは……」


 意外な答えに驚いたレムは、続けられたシルフィの言葉に俯く。

 このとき、レムの頭に過ったのは、スピカやカチュアといった大切な人たちの姿だ。だが、レムが彼女たちと過ごした時間は、記憶がないレムが一から積み上げた関係であることを加味しても、決して長いとは言えない日数だろう。

 それでも、レムは彼女たちをかけがえのない存在だと、そう強く思っている。

 シルフィの言うことはもっともだ。――と、そう納得したがる脳裏にスバルの顔がはっきりと思い浮かんで、レムはきゅっと唇をすぼめた。


「レム様?」


「戸惑っておるんじゃろう。シルフィ、レムの事情は話したはずじゃぞ」


「そう、でしたね。申し訳ありません。私の方に配慮が欠けていました」


「いえ、謝っていただくほどのことでは。――ただ、私の事情です」


 そのレムの答えを聞いて、リューズとシルフィが顔を見合わせる。その親身になってくれる二人には心苦しいが、レムは今の葛藤を話そうとは思わない。

 言った通り、あくまでこれはレム自身の悩みであり、問題なのだから。


「――憂い顔ね、レム。シルフィにイジメられでもしたかしら?」


「――――」


 不意の自分を呼ぶ声に、顔を上げたレムが応接室の入口を見やる。そこに立っていたのは、応接室への案内の途中、用事があるといったん別れたラムだった。

 遅れて合流したラム、その姿にレムは目を丸く見開いて、息を呑んだ。――現れたラムが、見慣れないメイド姿でそこに佇んでいたからだ。


「姉様、その格好は……」


「何度も言ったでしょう? ラムは屋敷の、ロズワール様のメイドなのよ」


 颯爽と桃色の髪を撫でつけ、そう答えるラムにレムは思わず見惚れる。そのレムと同じようにラムを見ながら、リューズが「ほう」と息を弾ませ、


「ラムのその格好を見るのも、しばらくぶりじゃのう」


「そうですね。ラムも長らく旅装が続いていましたから新鮮です」


「新鮮すぎて、制服の着方があちこちおかしいようです。直させていただいても?」


「そう? なら頼むわ」


 瞠目するレムを余所に、リューズは感慨深げにし、シルフィは黙々とラムの身繕いを手伝い始める。そのシルフィの手で制服を整えられながら、ラムは自分を見るレムの視線に片目をつむってウィンクし、


「これがラムやレムが屋敷で働くときのメイド服よ」


「……素敵、だと思います。でも」


「でも?」


「シルフィさんの制服と比べて、少し肌の露出が多くありませんか? いったい、何の違いが……まさか、あの人が関わっているんじゃ」


 ラムとシルフィのメイド服を見比べ、レムは自分の肩を抱いてそう疑念を抱く。

 確かに可愛い衣装だが、違いが明白すぎて意図がわからない。そして思い返せば、スバルは帝国でもたびたびレムの服装に言及し、やれこうすればもっと可愛いだの、こうした工夫を入れたらもっと魅力的だのと、あれこれ言って複雑な気持ちを味わわせてきたものだ。そのときの記憶が、目の前の制服に蘇る。


「他人の服装にも並々ならない執着があったと思いましたが、ここでもそれが……」


「……何やら、誤解が生まれているようですが、ラム様?」


「そうね。ラムとしてはバルスの評判がレムの中でどうガタ落ちしても一向に構わないのだけど、手柄が横取りされるのは面白くないわ」


「手柄、ですか?」


「ええ。このメイド服は、ラムが直々に提案して改造したものよ。全ては……もっと動きやすい制服をラムが着たかったから? だった、はず?」


「どうして急に自信がなくなりおったんじゃ」


 話の最後の部分で、らしくなく自信が萎んだラムにリューズが首を傾げる。そのリューズの指摘に、ラムは「解せないわね」と呟いて、


「自分で自分の意見に納得がいかないなんて、不愉快だわ。たぶん、ラムが制服の改造を提案した理由は、今の出任せみたいな適当なことじゃないはず」


「じ、自分の意見なのにそんなことを!?」


「お仕着せの思惑を感じるわ。……バルスと同じような考えなのが癪だけど、レムに可愛い制服を着せたかった、という方がよほど納得がいくわね」


「なるほど、確かに。頷けます」


 唇に指を当てて、そう推理するラムに何故かシルフィが賛同した。今の話の流れからすると、シルフィも誰かに可愛い服を着せたいと思う衝動があるのだろう。

 実際のところ、レムにまつわる記憶が大勢から消えてしまっている世界では、ラムの感じた違和感の正体と、その正解がわかることはたぶんない。


「だったら、ラムは信じたいものを信じるだけよ。誰に憚ることもなく、ね」


「……姉様は、きっとプリシラさんとも話が合ったと思います」


 狭く小さなレムの交友関係だが、気高く強い女性という意味で、プリシラとラムには眩しく憧れたくなる共通点があった。きっとプリシラが健在なら、レムを通じて二人が仲良くなれた未来もあった。もしくは、天敵のようにぶつかり合うか。

 いずれにせよ、メイド服の件でスバルを疑ったのは筋違いだったらしい。


「でも、全てはあの人が普段から紛らわしいことをしているせいですね」


「スー坊のことじゃとしたら、ボロクソに言われて可哀想にのう」


「リューズさんは、あの人がわけわからないことを言って女装するところを見ていないからそんなことが言えるんです」


「なんと! スー坊は帝国でも女装しよったのか! 懲りん子じゃな」


「女装? エミリア様というものがありながら? どういうつもりなのでしょう。その答えによっては……」


 リューズの反応から、本当にスバルが常習犯だったことが判明。その話を耳にして、厳しめに不快感を示したシルフィと、改めて詰めようとレムは心に決める。

 そのやり取りの傍ら、シルフィによるラムの身繕いが完了。その場でくるりと回ったラムがスカートの裾を翻し、髪を颯爽とかき上げ、


「苦しゅうないわ。いい仕事ぶりね、シルフィ」


「……お褒めに与り、光栄とは言っておきます」


「ラムからの称賛なのだから、素直に受け取っておきなさい。これだけじゃないわ。軽く見て回ったけれど、屋敷の管理も行き届いていたじゃない」


「どうしようもない旦那様の下で、屈従の日々を過ごしてきましたから。塵一つでも床に落ちていようものなら、妻一同、碌でもない目に遭わされます。思い出すだけでも腹が立ちますね。最近、報いを受けましたが」


 ビシッとラムの制服を整え直したシルフィだが、以前の職場――否、環境だろうか。そこがひどかったのが言動の端々から感じられ、レムもとても同情的な気持ちになる。

 と、そんなレムの前に、完璧なメイドとなったラムがそっとお茶のカップを置いた。


「さ、リューズ様とシルフィから質問攻めにあって喉が渇いたでしょう」


「お茶を一杯出すだけでもワシらを悪者にしおって」


「ハッ」


 唇を尖らせたリューズを鼻で笑い、ラムが彼女とシルフィにもお茶を用意する。

 配膳台を廊下に持ってきていたらしいラムは、手際よく二人のお茶を淹れながら、視線でレムには先に飲むよう促してくる。それに従い、レムはお茶の香りを楽しむのもそこそこにカップに口を付け――思わず、目を見張った。


「おいしい……」


「そうでしょう。お茶を淹れるのが、メイドとしてのラムの唯一の特技だもの」


「いっそ惚れ惚れするほどの開き直りでらっしゃいますね。……実際に、これほどのお茶を飲める機会はないので、言うことなしですが」


「フレデリカも、こればかりは敵わんといつも楽しそうに言っておるからの」


 勝ち誇ったラムに、シルフィとリューズも負けを認めてお茶を啜る。

 鼻に抜ける香りと、舌の上の味わいを堪能するレムは、二人の言葉に頷きながら、ふとラムの柔らかな眼差しが慈愛と、微かな期待を宿して自分を見ているのに気付いた。


「――ぁ」


 ラムは明言しない。でもきっと、このお茶の味にも期待がかけられていたのだ。

 これほどの味わい、ラム以外には入れられないお茶となれば、それを記憶をなくす前のレムも堪能していたことは想像に難くない。実際、感動に涙腺さえ潤ませる匠のお茶の入れ方は、レムの体の隅々まで慈しみが浸透していくようだ。

 しかし、それはレムの記憶を刺激し、望んだ結果をもたらすことはなかった。


「とても、本当にとてもおいしかったです。でも――」


 飲み終えたカップをテーブルに置いて、レムは目を伏せたまま言葉を濁す。だが、そんなレムの様子に、ラムは「馬鹿ね」と微笑み、


「ただお茶を淹れただけよ。可愛いレムが謝る必要なんてどこにあるの」


「ラム様の目つきが鋭くて、謝らせてしまったのかもしれません。私の以前の旦那様は気分屋が過ぎる方でしたが、とりあえず謝っておけば上機嫌でしたから」


「……ラムや、シルフィのために二杯目のお茶を淹れてやってくれんか。ワシはこの娘が不憫で不憫で」


「どうしてそうお思いに? 不憫どころか、かつてない自由を謳歌しているのですが」


 微かに眉を寄せ、シルフィが悲しげな目つきのリューズに心外だと告げる。そのリューズの求めに応じて、ラムがシルフィのために二杯目の用意を始めていた。

 そのラムの背中を眺めながら、レムは改めて、強く強く決意する。


「……私は、私によくしてくれる人たちに応えたい」と。



                △▼△▼△▼△



 応接室を出たあと、レムは屋敷のあちこちを気の向くままに歩いて回った。

 足を止めるたび、ついてきてくれるラムが「あそこはバルスが頭から肥料を被った花壇よ」「この柱、ガーフが齧った跡があるわね。あとで叱るわ」「あら、エミリア様とベアトリス様が地面に描いた大精霊様の似顔絵、まだ残っていたのね」と、そこにあった思い出のことを話してくれて、心細い思いを味わう暇がない。


 ただ、そうしたラムの寄り添いと思いやりと裏腹に、レムの背中をぐっと押してくれるような感覚と巡り合うことはなかなかできない。


「あ、またリューズ様と似た子たちが……」


「ピコたちね。『聖域』から出されて、色々と一から学んでいる最中よ」


「……私もあの子たちや、シルフィさんたちと似た境遇ですね」


 やけに老成したリューズと違い、見た目相応に無邪気に見える少女たち――ピコと呼ばれた子を筆頭とした彼女たちは、広いロズワール邸の随所で姿が見られ、シルフィと同じ制服を着たメイドたちの手伝いに奔走している。

 その様子がいたく健気に見える少女たちは、その生まれに人とは異なる宿命を負っていたらしく、今はそこから解放され、違う生き方をしている真っ只中なのだとか。

 一方、その美しさや気品が目を引くものが多いメイドの女性たちだが、聞いた話によると、彼女たちはシルフィと同じ劣悪な環境に置かれていた女性たちで、いずれもエミリアのおかげでそこから脱することができた立場であるらしい。


 リューズの姉妹も、メイドの女性たちも、その生き方を運命に弄ばれ、振り回されているという意味ではレムと同じ立場、そう思えた。

 しかし、そのレムの考えに、ラムは「そうね」と言葉を継いだあと、


「記憶のあるなしに拘らず、新しい道を歩き始めようと決めたなら、大抵の場合はまた始めから積み上げ直していくしかない。レムは何も特別じゃないわ」


「姉様……」


「いえ、間違えた。レムは特別よ。ラムにとって、あまりにも愛おしいもの」


 そう言い直され、レムは与えられる愛情の大きさに恥じらって顔を背ける。

 もちろん、レムもラムには強い親近感と、内から溢れる愛情はあるのだが、レムのものが一なのに対し、ラムからは十も百も与えられている気分で落ち着かない。

 そのもどかしさを抱えたまま、レムとラムとのロズワール邸巡りはしばらく続く。

 そしてやがて――、


「――ここがレム、あなたの部屋よ」


 ラムの手で開かれた扉、彼女が手で示した一室にレムが足を踏み入れる。

 見回ってきた屋敷の中、応接室や食堂、大浴場に秘密の特訓場、談話室に庭園にバルコニーといった場所と比べたら、客室と変わらないそこに見るべき点は少ない。

 屋敷の大きさが大きさなので、一介の使用人に過ぎないレムに与えられた部屋もしっかりとしたものだが、そのぐらいだ。


「――――」


 大きなベッドに、詩集や絵物語の本が収められた本棚。文机は丁寧に片付けられ、そこに瑞々しい花の飾られた花瓶が置かれている。


「一度、そうと気付かず私物を片してしまったときがあったのだけど、バルスが全部引っ張り出してきて、レムはこうしてたって一通り戻したのよ」


「あの人が……」


 本棚の前に立ったレムに、ラムがそうスバルの頑張りを伝えてくれる。

 基本的に、スバルに対して辛口な発言が目立ち、そこにレムも頷ける点が多いラムなのだが、今付け加えた言葉には真摯さしかなくて、レムの胸を打った。

 詩集を抜き出し、ページをめくる。書かれている詩はいずれも見覚えのないものだったが、以前のレムが好んだ、好きだった詩文が綴られているのだろう。何となく、愛や恋を詠ったものが多く見えて、以前の自分の趣味におかしみと恥ずかしさを覚える。


「私は、一年以上も眠っていたんですよね」


 詩集を本棚に戻したあと、そっと座った寝台を撫で、レムは目を細める。

 目覚めぬ眠りにつき、メイドの仕事を果たせなくなったレムに代わり、ラムやフレデリカ、ペトラたちが屋敷の手入れをし、日々、寝たきりのレムの面倒も見てくれたはず。今も寝台の枕やシーツは清潔に保たれ、その丁寧な仕事ぶりが窺える。

 寝台の横、微かに日焼けした床の痕跡は、そこに長く椅子が置かれていた証拠。眠るレムを訪ねた相手が、ここで語りかけてくれていた絵が頭に浮かんだ。

 それはきっとラムであり、エミリアたちであり、そして――、


「――――」


 寝台に座っているレムの隣に、ラムも無言で腰を下ろした。薄紅の優しい眼差しが自分の横顔を見てくるのに対し、レムは目をつむり、首を横に振る。

 聞かれてはいない。でも、聞きたいとは思われているはず。

 この屋敷の全部に、この部屋の全部に、レムの記憶を刺激してくれるものはない。ここにあるのは多くの親愛、それを感じられるものばかりで、何も覚えていないレムに、自分が幸せ者だったことを思い知らせるものばかりだ。


 それを強く強く、瞳が潤んでしまうぐらいしみじみと感じさせられる。

 だからこそ――、


「……姉様、あれがすごく気になるんですが、なんですか?」


 木漏れ日が差し込み、柔らかな空気と思いやりの蔓延する部屋の片隅、そこに置かれた謎の物体――鎖付きの、棘の生えた鉄球の異質さが目を引いた。

 そのレムの問いかけに、ラムは「ああ」と気付いたように息をこぼし、


「あれはモーニングスターよ」


「……もーにんぐ、すたー?」


「ええ。バルスがそう呼び始めて、いつの間にか定着しているけど……あれも、レムが大事にしていたものだそうよ」


「あれを私が!?」


 これまでの思い出話と毛色が違いすぎることを言われ、レムはラムと、それから棘付き鉄球――モーニングスターとを何度も目線を行き来させてしまう。

 させてから、これもラムのお茶目な冗句なのかと納得しかけたが。


「疑う気持ちはラムもわかるわ。でも、専用の布と油まで用意して、あれを毎日磨いてるバルスを見ると、つまらない冗句にしては仕込みが長すぎるとラムは思うの」


「で、でも、あの人ならそれぐらいつまらないこともしそうじゃないですか?」


「そうね。否定しないわ」


 すでにし尽くした議論なのか、レムの反論にラムの答えは諦念気味だ。そのラムの様子にレムは寝台から立ち上がり、そのモーニングスターに歩み寄った。


「意味がわかりません……」


 近付いてみると、鉄球の棘が床を傷付けないよう、ちゃんと手作りの鉄球置き場が用意されていて、細かい配慮が感じられる。同じところに置かれた布と油の容器が、スバルが毎日磨いていたというラムの言葉を裏付けてもいた。

 しかし、だから何なのと言われればそれまでの話で。


「どうせこれも、あの人の悪ふざけ――」


 女装のときと同じで、真に迫った言い方をしているだけの、こう、スバルの趣味が反映されただけの悪質な何かに違いない。

 そう思ったレムが屈んで、その指で鉄球に触れた。――瞬間だった。


「――ぇ」


 不意に、レムの視界がぐにゃりと歪み、思わず床に尻餅をついてしまう。はしたない格好だが、それを恥じらい、構っている余裕はこのときのレムにはなかった。


「う……」


 尻餅をついてなお、終わらない眩暈でぐるぐると視界が回った。

 自分自身がその場にいるのに、床と天井の区別がつかなくなって、世界の白と黒が反転し、見えるものと聞こえる音と嗅ぐわう香りと空気の味わいと肌触りと、そうした五感の混同が起こり、空気が見え、音が香り、匂いに触れて、色が味わわれ、聞こえてくる。


「――ぁ、ぅ」


 感じられる全部が混ざり合い、撹拌されて、レムの過去と現在と未来まで混交する。

 山間の里、剣に貫かれる狼の旗、軋む車椅子の車輪の音に、空を覆い尽くした飛竜の群れ、夜の空を飛ぶおぞましい白い鯨と、炎が照らす宵闇に舞い上がる折れた角、そして懸命な形相で訴える少年、怒る少年、涙する少年、笑う少年――。


「――――」


 やがて、世界を丸ごと作り直すみたいな衝撃は、泡が割れるみたいに突然爆ぜた。


「――――」


 視覚が、聴覚が、嗅覚が、味覚が、触覚が、いずれも見えて聞こえて嗅げて味わえて触れられてと、正しい形で命の在り方を教えてくる。

 その焼き付けられたような強烈な刺激と、それを受けた拍動が自分の体の隅々まで血を巡らせるのを感じながら、レムは一度、二度、三度と瞬きをした。


 いったい、何が起きたのかはわからない。

 ただ――、


「わ……レムは」


 尻餅をついたまま、震える手で自分の頬に触れ、その存在を確かめる。

 指先に触れた感触が消えない。儚く、頼りなく、さらさらと砂で作った城のように崩れていくのが怖くて、レムはそれ以上、指に力を入れられなかった。

 もしも、これ以上を欲張ってしまったら、何もかもが消えてしまう気がして――。


「――――」


 その、拒みようのない不安と恐怖に覆われるレムを、後ろから温かな感触が包んだ。

 息を呑み、振り向くこともできずに硬直する。背中から回された手に抱きしめられ、レムは自分のことで一杯になっていた頭と心を、他に向ける切っ掛けを得た。

 そして最初にそれを向けるのは、自分を後ろから抱きしめた存在――、


「ねえさ――」


「――待って」


「――――」


「まだ、振り向かないで。今、ラムは人生で初めて、自分に失望しているの」


 声を発しかけ、振り向きかけ、その全部を相手に止められ、レムは身を硬くする。

 顔を見られないラム、その回された腕が、かけられた声が、震えていた。それがあまりにも、レムの知るラム像からかけ離れすぎている。


 いつだって、ラムは凛々しく勇壮で、堂々たる姿しかレムに見せてこなかった。

 それは帝国で再会したときもそうだし、ロズワール邸へ帰り着くまでの二人きりの旅路でも、屋敷で働き始めた当初の、角が折れたばかりで負担が大きかったときも、愚かなレムを守るために、焼かれる村で魔女教徒相手に大立ち回りしたときも。

 レムの眼に映り込むとき、ラムはいつでも格好良くて――。


「ごめんなさい、レム。自分が情けないわ」


「姉様……何を……」


「こんなに」


「――――」


「こんなに愛しくて、大切なレムのことを忘れて今日まで生きてこられたなんて、ラムはどれだけ薄情な姉様だったというの」


 その、大きすぎる愛情の持ち主故に悔やむラムの声に、レムは目を見張った。そして、全ての制止を振り切って、レムは身を回し、自分を抱きしめるラムを正面にする。


「――っ」


 潤んだ薄紅の瞳を微かに見張り、ラムが驚いたように自分を見ていた。――その、レムの人生で一番多く、長い時間、見つめた顔に胸が熱くなる。

 確信が持てた。自分がどれだけ幸せ者で、愛おしいものに囲まれているのかを。


「姉様は、薄情なんかじゃありません。レムの方こそ、ごめんなさい。ずっと、ずっと姉様に心配ばかりかけて、姉不孝者です」


「レム」


「全部、ちゃんとわかっています。姉様がどれだけレムのために心を砕き、どれだけ多くのものを犠牲にして、今日まで一緒にいてくれたのか。そして……」


「レム……」


「ただもらうばかりの、弱くて情けないレムが、これからしなくちゃいけないことも」


「――っ」


 正面から見据えたラムの顔、その頬を伝う涙を指ですくい、レムは微笑みかける。それから伸ばした手で姉の頭を引き寄せ、胸に抱いた。

 床にぺたりと座ったまま、姉妹が二人、そっと身を寄せ合い、互いを慈しむ。――否、ずっとラムはそうしてくれていた。レムの方が、それができていなかった。


「姉様、大好きです」


 抱きしめた耳元に唇を寄せ、レムは溢れんばかりの想いをラムに伝える。じわりと熱い涙が胸元を濡らすのを感じながら、レムは声を上げずに涙するラムを抱き続ける。

 ようやく、本当の意味で果たされた再会を心から受け入れながら、レムは過去の自分と今の自分と、持てる全部で愛情を伝える。


 気が済むまで、心ゆくまで、今はこうしてラムと一緒に過ごしたい。

 そうして、埋められていなかった姉妹の時間をしっかりと取り戻せたなら、レムにはしなくてはいけないこと――感謝と愛を、伝えなくてはいけない相手が多すぎる。

 とりわけ、最初に頭に思い浮かぶのは、目つきの悪い黒髪の少年――、


「――スバルくん」


 愛を、伝えるために立ち上がらなければいけない。

 自分はなんて幸せな理由で生かされているのだろうか。――そう、レムは思った。



                △▼△▼△▼△



「――――」


 深々と一礼し、それから顔を上げたメイド服の少女を前に、ペトラは息を呑んだ。

 凝然と目を見張り、強張った体が動かなくなる。現れた彼女の姿に言葉を失って黙り込んだのは、ペトラだけでなく、メィリィも、エミリアも同じだった。

 そうした強制的な沈黙の中、最初に口を開いたのは――、


『――レム』


 実体のないイマジナリースバルが、ペトラと同じ相手を見て立ち尽くす。

 呆然自失とした彼の声はペトラ以外には届かず、悲しいかな、一身に視線を注がれる当の少女も、半透明に透けた彼と視線が合うこともない。ペトラにも、誰にも気付かれない『スバル』を手助けする余裕が、ちょっとない。

 ただ、『スバル』の呼びかけの正しさだけは、保証できる。――そこに立っていたのは紛れもなく、愛おしく大切なレムという少女だった。


「――ぁ」


 瞬間、ペトラの頭の中をスパークが走り、次々と靄がかった意識野が晴れていく。

 引き寄せられる引力、その原因が目の前にあることで、頭の片隅に無意識に追いやられ、忘却の布をかけられていた思い出という絵が、再び意識の回廊に展示され始める。

 そうして展示された全ての色鮮やかな絵に、火花の散るような衝撃を受けた。


 ――ペトラがペトラとして、彼女と接した時間はあまり多くはない。

 たびたび、ロズワールの屋敷から村まで買い物にやってくるメイドの少女。ほとんど接点もなく、言葉も交わしたことのなかった相手だったが、スバルが村に顔を出すようになってからは表情豊かになり、何より、彼女はペトラたちの命の恩人でもあった。――その命を危うくしたのは魔獣を操ったメィリィだったので、それも因果な話。というか、要所でメィリィとその姉は、自分たちの関係者の命を狙いすぎだ。


 ともあれ、ペトラと彼女との接点はそのぐらいの薄いものだ。

 その後、王選の始まりと同時に彼女は『暴食』の大罪司教の被害に遭い、その穴埋めに雇われたペトラは、メイドとしてエミリア陣営の一員に加わった。

 すなわち、彼女の悲劇なくして、今の自分の立場はありえないという話にもなり、それ自体、ひどく複雑な心境ではあったが――、


「レム……レムなの?」


 伏せていた札がめくられ、その絵柄と書かれた内容を確かめ直すみたいに、ペトラの中で次々と彼女に対する無理解だったものが理解に置き換えられていく。

 その傍ら、そうたどたどしい声で彼女を呼んだのは、目を瞬かせるエミリアだった。

 一歩進み出たエミリアは、続く言葉に迷うように何度も唇を開閉させ、


「ううん、ごめんなさい、変な言い方よね。レムがレムなんだってことは、ちゃんと前からわかってて……でも、私が言いたいのはそうじゃなくて」


「大丈夫です、エミリア様。落ち着いて、ゆっくりで構いません。突然のことなのは、レムもわかっていますから」


「――。ええ、ありがとう。色々言いたいことは、あるんだけど、でも」


「でも?」


「……その格好、すごーく似合う。すごーく、レムだわって感じがするわ」


 きゅっと胸に手を当て、紫紺の瞳を潤ませたエミリアがそうレムに微笑みかける。そのエミリアの言葉に、レムが軽く眉を上げ、それから頷いた。

 彼女は誇らしげに、そのメイド服姿の自分の胸を張り、


「姉様が、レムに似合うようにと仕立ててくれた制服ですから」


 そう応じたレムの答えに、腕を組んだラムが満足げに頷いている。


「……これ、いきなり何なのかしらあ」


 そんなエミリアとレムのやり取りの傍ら、顔をしかめたメィリィがそうぼやく。

 彼女の髪から頭を出した小紅蠍が、主人の反応を心配するように鋏を鳴らすと、片目をつむったメィリィが自分の額に手をやり、


「ラムお姉さんの妹さんを見た途端、あの人にウルガルムちゃんを群れごと潰されちゃったのを思い出したわあ。お仕事の失敗の原因じゃなあい……」


「だったら、レムに感謝しておくことね。レムが仕事を失敗させたおかげで、バルス以外の被害者が出なかったから、あなたは今、ここにいられるのよ」


「複雑な気分で、感謝しづらいわあ……」


 自分の肘を抱いたラムの指摘に、メィリィが嫌そうな顔をして舌を出す。

 確かに言い方は悪いが、ラムの指摘は真理でもあった。事実、一時は敵だったメィリィがエミリア陣営に受け入れられているのは、彼女の行いで陣営が受けた被害が最小限で済んだから、というのは間違いなくある。――折しも、スバル以外の被害者が出ていないというラムの指摘は、『死に戻り』の観点からも正しいのが皮肉だ。


「おわかりの通り、レムの姿を目にした途端、以前から彼女を知るものの中でその記憶が蘇りました。再生。私も、リューズ様も動揺を堪えられず。結果、合流が遅れてしまった次第です。告白」


「クリンドの反応は乏しくて面白くなかったけれど、リューズ様の取り乱しようは大げさで見ものだったわ。これはその場に居合わせたものの特権ね」


「なるほど、見ものですか。確かに、珍しいものは見られましたね。納得」


「――。ハッ」


 レムを取り巻くものたちに起こった、彼女の『記憶』の復活。――否、これまでの『暴食』の権能の条件からすると、その出来事は『名前』の復活というべきだ。

 その事実に触れたクリンドが意味深な目をラムに向けると、彼女は明らかに不満そうに視線を逸らし、鼻を鳴らした。

 よくよく見れば、ラムの目元が微かに赤らんでいたことと、クリンドの見もの発言には関連性があるのかもしれない。

 しかし、ペトラはそれに言及しない。――武士の情けではなく、言及できなかった。


「――ペトラさん?」


 ふと、皆の注目を浴びていたレムが、黙り込むペトラを見て、目を見張った。彼女の反応にエミリアたちもこちらを振り返り、ペトラの様子にぎょっとなる。

 彼女たちの反応も当然だ。ここまで一言も発せなかったペトラが、その丸い瞳から滂沱と涙を流し、しゃくり上げそうになる喉を押さえるのに必死でいたのだから。


「ペトラちゃん!? 大変、そんなにめそめそして――」


「――っ」


 その泣き顔に気付かれた瞬間、ペトラは床を蹴り、走り出していた。

 ペトラの涙に驚き、抱き寄せようとしていたエミリアの手を掻い潜り、袖に触れようとしていたメィリィを躱し、状況に置いてけぼりのロム爺の股下を抜け、ペトラは素早い身のこなしで、正面――目を見張ったレムの胸へと飛び込む。

 そして――、


「レム――っ!」


「きゃあ!」


 躱さないでくれたレムの胸に抱き留められ、ペトラは彼女の細身をきつく抱く。ぎゅっと離れ難く、しがみつくペトラを抱き返しながら、レムは目をぱちくりとさせた。


「レム……レムぅ、レムぅ……っ」


 そのレムの反応にペトラはボロボロと、流れる涙を止められないまま、絶対にやってはいけないと決めていた、人前で鼻をすする行為に手を染め、なおも離れられない。

 そうして涙するペトラを支えながら、レムは助けを求めるように周りを見て、


「あの、レムとペトラさんって、私が思い出せていないだけで、こんなに泣いてもらえるくらい仲良くしていたんでしょうか……?」


 と、そう戸惑いの色を隠せない様子で、ペトラの頭を優しく撫で続けたのだった。



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王都でリンガを売っている果物屋の店主を突然の目眩が襲う――!
死者の書のもたらす情緒の温度差に草
レム復活にリューズさん再登場 うむ、感動の場面なのに情報が出揃って今の状態だと不穏だ、
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