第七章107 『チシャ・ゴールド』
突き飛ばされ、微かに頬を硬くしたのが鬼面越しにわかる。
きっと、多くのものがその真意を取り違えるだろう表情。賢すぎるが故に、省くべきでない言葉を省くことも多い皇帝は、その表情すらも口数が少なかった。
おそらく、この表情の意味を正しく受け取ることができるのは、長年、この皇帝と一緒にやってきた自分ぐらいのものだろう。
「ああ、それとも――」
この皇帝が、あらゆる意味で神聖視している妹君であれば、それも見抜くのだろうか。
いずれにせよ、比較の意味のない話だ。
この瞬間、この切り取られた刹那の場に、居合わせたのは自分だけなのだから。
△▼△▼△▼△
「チェシャ・トリム、貴様は俺のために死ぬことができるか?」
初めて顔を合わせたとき、名前を名乗って最初に求められたのは、自分の命の使い道についての答えだった。
当時十四歳だったチェシャは、自分のことを早熟な子どもだと考えていたが、自分よりも二つ年下のその少年と出会い、考えを改めた。
真の早熟とは目の前の少年のことであり、自分のそれは思い上がりに過ぎなかったと。
「――――」
問いを投げかけたあと、少年はこちらとじっと、その黒瞳で見据えてくる。
影を抜き出したような黒い髪と黒い瞳はどちらも、多様な人種が暮らすヴォラキア帝国でも一般的とは言えない身体的特徴だ。目の色は違うが、自分も生まれつき黒い髪の持ち主であるチェシャは、それを揶揄されることも多いので共感できる。
などと、共感するのはいかにもおこがましいだろう。
身体的特徴の特殊性など、目の前の少年の有する特性からすれば些事に過ぎない。外見的特徴の一致なんてどうでもよくなるほど、その出自を一般と程遠いところに置いた少年は、早熟の極みのような在り方にさえも相応の裏付けがあった。
そうあることを求められ、そうでなければ生き残れないという特殊な立場。
それが――、
「――ヴィンセント・アベルクス皇子」
それが彼の名前であり、名前の後ろに付けた肩書きが生まれ持った彼の立場だ。
黒髪の少年――ヴィンセントは、このヴォラキア帝国を統べる皇帝、ドライゼン・ヴォラキアの実子であり、いずれ帝国の頂に立つ可能性を分け与えられた存在。
もっとも、同様の資格を与えられた彼の兄弟は二十人以上いるのだが、それで目の前の少年の貴き血が薄れることはありえなかった。
ともあれ――、
「――――」
何故、自分がそんなやんごとなき相手と対面し、同じ竜車に乗り合わせるような事態になってしまったのか、チェシャは我が身の行動と成り行きを振り返る。
切っ掛けは、何のことのない人助けだった。
街道の溝に竜車の車輪が嵌まり、立ち往生している場面に出くわした。押しても引いてもと苦心する竜車、その車輪に板を噛ませて梃子を用い、深々と傾いた竜車が溝から抜け出す手伝いをした。
それがたまたま、このアベルクス領の領主の竜車であり、乗り合わせていたのが『アベルクスの奇跡』で実権を握ったと名高い、ヴィンセント・アベルクスだった。
ちなみに『アベルクスの奇跡』とは、領主であったアベルクス家に長年仕えた家臣が起こした反乱であり、他家と内応した見事な戦略だったにも拘らず、御年十一歳の少年の指揮に敗北、一族郎党が皆殺しにされた事件だ。
それまで、皇子の一人ではあっても目立った名前の聞かれなかったヴィンセントは、右往左往する家人と兵を即座にまとめ上げ、類稀な手腕を振るい、勝利したと。
反乱を起こした家臣の敗因は、ヴィンセントを敵ではなく、ただの首を刎ねるだけの勲章と勘違いしたことであり、結果、身の丈に合わない理想を破られて滅んだ。
そうした事実と噂が広まり、とんでもない人物だと尾ひれ背びれが付いた相手だ。
チェシャも、関わり合いになることはあるまいと、平凡な帝国民の一人として噂だけ耳に入れていた立場だったのだが――何の因果か、噂の張本人を目の前にしている。
そして投げかけられたのだ。――自分のために死ねるかと。
「――――」
その、問いかけの真意がチェシャには判然としない。
そもそも、こうして竜車に乗せられたのは、車輪を抜け出させる手伝いをしたことへの礼と、屋敷に招かれたことが理由だった。
無論、チェシャに拒否権はない。内心で嫌がっても、断れる余地は皆無だった。
故にひと時のことと観念し、こうして招かれた竜車に足を踏み入れたところへ、最初のヴィンセントからの問いが投げかけられたのである。
ただ竜車の道行きを手伝っただけの相手、それに向ける言葉としては不適切。しかし、相手は生まれながらの皇子であり、人に傅かれる生涯を送ってきた人物だ。
にも拘らず、直近で家臣の裏切りに遭い、怒りのままに一族郎党を全滅させている。十二歳の少年が極度の人間不信を発症するには、十分な経験だ。
ほんの行きずりの相手にすら、忠誠を確かめなくては気が休まらないのかもしれない。
すでに沈黙は十数秒に及んでおり、この時点で十分以上に不敬と言える。
相手は目上の存在どころか、文字通り、雲の上の存在だ。そもそも、なんと答えるべきかも、なんと答えてほしいのかもわかり切った問いだった。
当然、欲される答えは『できる』の一言。
チェシャもまた、この帝国を生きる臣民の一人として、将来的な暴君の可能性を秘めた皇子の逆鱗に触れまいと、絶対の忠誠と永遠の隷属を誓うべき場面だ。
だからチェシャは、分不相応な距離で向かい合う皇子へと深々と頭を垂れ――、
「――申し訳ありませんが、それはできかねますなぁ」
と、絶対に言ってはならない返事を、してしまっていた。
「――――」
頭を下げた姿勢で、チェシャは自分の口走った内容の愚かしさに己を呪った。同時に、またやってしまったと自制心の足りない自分の頭を抱えたくもなる。
この短気な性格が理由で、故郷の村の権力者と問題を起こし、追放される羽目になったというのに。この性格を直さなければ先はないと、何度も何度も自分に言い聞かせてきたというのに、それでも是正できない。
挙句、一番やってはいけない相手に、一番やってはいけない返事をした。
自分の愚かしさで身を亡ぼすという、最も馬鹿な死に方の一つだ。
だが、自分のために死ねるかなどと上から目線で問われ、望んだ答えを望まれたように返すなんて白々しい真似、とてもできなかった。
心が折れ、自分という矜持が死ぬなら、命があろうと死んだも同じだ。
ヴォラキア帝国の流儀はあまり好きではなかったが、そこは自分も帝国の男だった。
だから、この答えにも悔いはない。
強いて言うなら、この同情すべき理由で人間不信を発症した少年に、まるで八つ当たりのような気持ちで言い返したのは申し訳なかった。
それもこのあと、怒りのままに首を刎ねられたら消える罪悪感だろうが――、
「それでいい。以降も、そのつもりで俺に仕えろ」
「――。はい?」
「返事のつもりなら語尾を上げるな。疑問符を付けているように聞こえるぞ」
「間違ってそう聞こえたのではなく、過たずそう聞かせたのですよ。……当方を、処刑されたりはなさらないので?」
「今しがた徴用したものをか? 何の意味がある」
片目をつむって、正面のヴィンセントが不機嫌そうに眉を顰める。
先の忠誠を誓わない発言よりも、聞き返したことの方に苛立ちを覚えられるのは納得がいかないが、チェシャは自分の立場について冷静に考え直した。
何故か、ヴィンセントは先のチェシャの無礼を見過ごしてくれるらしい。
それどころか、どうやらチェシャを臣下として召し抱えようと考えているようだ。
「いえ、やはり意味がわかりませんが? 皇子はこれから命を奪う相手に、そうした悪趣味な冗句を述べるのを好まれるのですか?」
「貴様の方こそ、どうしてそこまで頑なに俺に殺されたがる。そちらの方がよほど不可解であろうが」
「畏れながら、皇子は逆らうものには容赦のない方と知れ渡っておりますゆえ」
口にしてから、これも言うべきではない類の言葉だと自分を戒める。
しかし、一度無礼を働いたのだから、どこまで働いても誤差の範囲と、チェシャはここにきて自分の命を天秤に載せた開き直りへと転じた。
書を嗜むように、新たな知識を蓄えるように、思いついた理論を実践するように、この皇子が何を考えているのかを紐解いてみたい。
その結果、死んでしまうなら死んでしまうで、致し方ない。
と、そんな自暴自棄と受け取られかねない心境に突入したチェシャに対し、ヴィンセントは「ああ」と合点がいったように頷いて、
「先の反乱の一件であれば、族誅はすべき見せしめだ。後々、同じことを考える輩が現れぬよう首輪がいる。恐れは、最も有効的だ」
「最初に反乱を兆した臣下、その先鋒となった部隊を八つ裂きにし、ことごとく道へ並べたことも?」
「死なねばならぬ命であれば、その命は最大限の効果を発揮すべきだ。――人とは、効率的に死ななければならん」
竜車の車内で頬杖をついて、そう答えるヴィンセント。その壮絶な考え方と実現力に、チェシャは静かに言葉を呑み込む。
チェシャが話題に挙げたのは、ヴィンセントが家臣の反乱を鎮圧するに至った最初にして最大の決定打――敵の先遣隊の惨死と、その屍の残虐な扱いだ。
生きたまま引き裂かれた苦悶の亡骸、それが戦場に並べられ、囚われたもののことごとくが同じ目に遭うと噂され、決起した奸臣に内応するはずだった他の臣下たちは、前もって結んでいた密約を反故にし、静観を保った。
唯一、退路のなかった最初の奸臣は、その血濡れた策略を駆使するヴィンセントへと挑み、他の兵と同じ地獄を味わって死んだ。その一族郎党も。
当然、その行いが広まれば、ヴィンセント・アベルクスとはさぞかし残虐で、血に飢えた皇子なのだろうと認識されるわけだが――、
「――あるいは、あの御噂もご自身で?」
「少なくとも、貴様が俺を過剰に恐れるのであれば、俺の望みと外れてはいない」
「ははぁ、それはそれは……」
ますます、十二歳とは思えないヴィンセントの考えに舌を巻く。
それと同時に、たとえヴィンセントに無礼を許されたとしても、自分では彼の望んだ役割を果たせないだろうともチェシャは思った。
「俺が、貴様に何を望むと?」
そのチェシャの胸中を読んだように、ヴィンセントが次なる問いを投げてくる。
最初のものより曖昧で、しかもチェシャ自身の内側に尋ねる必要のある謎かけ。確かに、望まれても無理だというなら、何を望まれるかは明かさなくては。
しかし、難題だった。
皇子の立場にあり、いずれ帝国の避け難い儀式に臨むことになるだろうヴィンセント。彼がこの、一介の帝国民でしかないチェシャに何を望むだろうか。
「当方にできるのは、溝に嵌まった車輪を抜くお手伝いくらいですなぁ」
「それでいい」
「ほほう、この先も当方の力が必要と思われるほど、何度も何度も溝に嵌まられるおつもりでおられるのですか?」
ひどく挑発的で、不敬もここまで極まったかと自賛したくなる物言い。
だが、それを聞いたヴィンセントは表情を小揺るぎともさせず、
「そうだ。この先も、俺は幾度も溝に嵌まることになる。それを全て避けることはできない。だが、溝に落ちたまま抜け出せずにいれば待つのは死だ。落ちた溝から抜け出す手立ては、何度だって必要となろう」
「……車輪の話のはずではと問いたい次第」
「俺は最初から、話の本筋を偽って話したつもりはない」
とんでもない話をされていると、チェシャは命を脅かされたのとは異なる悪寒で、ようやく自分が規格外の存在と話している実感を得た。
加えてその規格外の相手が、何故か自分を異様に高く評価しているとも。
これだけ無礼な態度を取り、失礼な口を利いて、不躾な言葉の応酬をしても、それでも命を取らないとするのだから。
それはチェシャへの評価というより、ヴィンセント自身の信義によるものか。
いずれにせよ、今朝、粗末な宿で目覚めたときには思いもよらなかった展開だ。
「――――」
頬杖をついたヴィンセントは、押し黙ったチェシャの態度に片目をつむった。
どことなく、こちらをやり込めた感慨に浸っているようにも見える憎たらしい態度。もはや抵抗しても無駄だと、恨めし気に相手を見返し、ふと気付いた。
「皇子は、両目を同時に閉じられないのですなぁ」
「それだ」
「は?」
尖った顎に手をやり、何の気なしに口にしたチェシャにヴィンセントが頷いた。
その指摘の意味がわからず、チェシャが首を傾げると、
「俺が貴様を処刑しない理由が欲しいなら、それが理由だ」
それで説明し切ったと、そう言いたげなヴィンセントを見て、腑に落ちる。
この早熟で、大人顔負けの策略を自由に使い、ヴォラキア帝国の皇子としての資質を遺憾なく発揮する少年は、それでも十二歳だった。
――周囲が自分と同じぐらい賢いと、そう無邪気に期待しているのだから。
△▼△▼△▼△
――チシャ・ゴールド。
それがヴィンセントに召し抱えられ、アベルクスの屋敷に迎えられたチェシャ・トリムがもらった新しい名前だった。
「故郷には家族がおりますゆえ、当方の名前が知れ渡ると無用な煩いが生まれるやもしれません。皇子が気掛かりを皆殺しにしてくださるなら話は別ですが……」
「貴様はどうしても俺が血に飢えていることにしたいらしいな。まさか、巷で俺が『鮮血皇子』などと呼ばれているのは貴様の仕業か?」
「はて、恐れを利用する戦略だと認識していた次第。聞いた話では、親が子の躾に持ち出すそうですなぁ。聞き分けがなければ鮮血皇子が現れると」
「俺が現れ、それでどうなる。何もせぬぞ」
「いえ、当方のように無理やり召し抱えられるのでは? おお、恐ろしい」
「あまり口が減らぬようであれば、その虚名を貴様の血で真にしても構わぬぞ」
ヴィンセントとのやり取り、それは本気とも冗談ともつかない類のものだ。
必要であれば、ヴィンセントは他者の命を費やすことを厭わない。だが、不要なのであればそれをしない。命に拘らず、金銭や現物でも同じこと。
彼にとっては等しく、いずれも有限の資源なのだと、付き合ってわかった。
名前をチシャ・ゴールドと改めたのは伝えた通り、チェシャ・トリムの出世をよく思わない故郷のものが、残した家族に累を及ばせないか不安だから。
かといって、家族が何かされたとしても助けにいきたいとは思えない。
薄情と思われようと、それが自分と家族との距離感であり、決定的な場面で自分を守ってくれなかった家族への、できる限りの配慮だった。
家名のゴールドは何の冗談か、ヴィンセントに逆らい、族滅された奸臣のものだ。
ヴィンセントにとっては、無礼な口を利くチェシャへのささやかな腹いせだったのかもしれないが、そのせいで巷では、族滅したゴールド家の人間を一人だけ生き残らせ、自分の傍で飼い続ける屈辱を味わわせている、と噂されており、それがますますヴィンセントの『鮮血皇子』としての地位を確固たるものにしていた。
一方、名前の方は近い響きでと希望したところ、ヴィンセントが一文字だけ省いたものを提案してきた。断る理由もなかった上、どうやらこちらは嫌がらせでもなかったらしいので、ひどく安直とは思いつつもすんなり受け入れた次第だ。
なんにせよ、チェシャ改め『チシャ』として生まれ直した日々は、その頭でっかちさと人付き合いの悪さで他者から疎まれたチシャにとって、悪くなかった。
それこそ、故郷の村とは比べ物にならないほど書物に恵まれ、課題も多い。
不向きな畑仕事や狩りといった、できないことで理不尽に蔑まれるものと遠ざけられた暮らしは、それだけでも千金の価値があった。
ただし――、
「次の溝だ、チシャ。役立ってみせよ」
そう言って、竜車の車輪とは桁外れの難題を持ち込んでは、解決方法が見つかるまで延々と議論を持ちかけてくるヴィンセントには苦しめられた。
ヴィンセントの恐ろしいところは、その行動力だった。
同じ目の数、同じ頭の数しかないにも拘らず、ヴィンセントには世界がどう見え、どう捉えられているのか、同時並行であらゆる課題に取り組んでいた。
領内のあらゆる問題の解決に駆り出されるのが領主の務めとはいえ、十二歳の少年に求められる内容としては過酷の一言であり、頼れる大人の不在は哀れですらあった。
しかし、そうした外側からの印象は、ヴィンセントの実働の前には霧散する。
そしてそれに付き合わされるチシャもまた、あらゆる分野の知識を要求されるため、足を止めている暇などなかった。
一個の課題が片付けば、すぐにまた次の課題が現れる。課題の最中にも次の課題が加えられ、同時並行で違う難題に頭を悩ませながら、アベルクス領は変わっていった。
暮らし向きが変われば、最初は恐れの強かった領民の姿勢も畏れへと変わる。
恐怖は畏怖に、隷属は敬愛に、それを受け取る資格がヴィンセントにはあった。
もっとも、彼はそれに価値を見出そうとはしなかったから。
「チシャ、治水に関しては十分に学んだな。であれば、あの無能の代官は役職を解く。これまでの横領の件で追及し、首を刎ねる」
「首を刎ねるまではやりすぎではと、当方思う次第ですが」
「働きぶりが、肥やした私腹に見合うと? 貴様はそう言うのか?」
「……少々、当方の分が悪いですなぁ」
「懐に入れた分働けば見過ごしもする。そうでないなら報いを受ける。再三、危機感を煽って変わらぬならば、差し伸べる手も自然と尽きよう」
果断な判断と決断力、その裏に隠れている潔癖さは、ヴィンセントが抱いている他者への期待の裏返しであり、応えられないものが怠惰と誹られる遠因だ。
かといってヴィンセントは、殊更に無能を嫌う能力主義というわけでもなかった。
強いて言うなら、おそらく彼は能力主義なのではなく――、
「――自らの器に見合った務めを果たせばいい」
誰もが緩みなく、生きることに全力であれと望んでいる。
それがわかると自然と、このヴィンセント・アベルクスという少年に対する印象と、彼の潔癖なまでの完璧主義の背景が違って見えてくる。
信じ難いことに、ヴィンセントには確固たる自信と、己への誇りがないのだ。
足りないと、常に飢えている。
足りないと、常に嘆いている。
足りないと、常に抗っている。
ヴィンセントをヴィンセントたらしめる原動力。それは皇子として、恵まれた立場に生まれたことへの感謝ではなく、その立場に望まれる役目を十全に果たそうという怒り。
そして、ヴィンセントがそうまで苛烈な想いを抱いた理由が――、
「――ストライド・ヴォラキアという、唾棄すべき男がいる」
ヴィンセントに仕えてからしばらく、主のこぼした言葉にチシャは眉を顰めた。
幸いというべきか、ヴィンセントの見立て通りというべきか、チシャにはそれなりに車輪を溝から引き上げる才能があったらしく、立場を失わずにやっていけていた。
とはいえ、なし崩しに取り込まれた道だ。
この立場のいい部分と悪い部分とが徐々に浮き彫りになり、そのどちらに重きを置くべきかと、天秤の揺れ方にも思うところがあった。
仕事と無関係の、ある種の心の内のようなものをヴィンセントが初めて晒したのは、まさにチシャがそんな心境にいた頃だった。
「ストライド・ヴォラキア、ですか? 当方の勉強不足ですが、寡聞にして聞いたことのないお名前と思う次第」
「貴様の知識不足ではない。むしろ、知っていたなら命の危うい類の話題だ。なにせ、ヴォラキアの皇族から存在を抹消された男だからな」
「――――」
ならば、自分が迂闊に知るのも危ないのではないか、とチシャは思ったが、話し始めたヴィンセントを遮るのは立場的に難しかった。
何より、ヴォラキア皇族を追放された人物に、興味があった。
「そも、皇族を抜けることなど可能とは思えませんが。抜けたとて血は流れている。それならば『選帝の儀』がありましょう」
帝国の、次代を統べる皇帝を決めるために行われる『選帝の儀』。
皇帝の子どもらが帝国の頂点を決めるべく、お互いに殺し合う帝国流の極みというべき儀式だが、帝国の建国以来ずっと続いている純然たる歴史だ。
皇帝となるのは最後の一人。
そうでなければ、ヴォラキアに君臨する皇帝の証、『陽剣』は手に入らない。
「一説には、帝位の継承権を放棄すれば生き長らえるなどという話もあるようですが」
「それは欺瞞だ。帝位継承権を有しながら、儀式を勝ち抜く気概を持たなかったものを早々に間引くための甘言に過ぎん。故に、貴様の懸念は正しい」
「本来、ヴォラキアの皇族に追放などとありえない」
「だが、ストライド・ヴォラキアはそのありえない処罰を遇された。そうして、儀式の一因である立場を外れたのだ。もっとも、その後も『選帝の儀』が滞りなく進んだ以上、其奴も死を免れなかったようだが」
いつも以上に冷たいヴィンセントの眼差しには、件の皇族への軽蔑の色が濃い。
ヴォラキア皇族の立場を追われ、その存在すらも歴史から消されたストライド・ヴォラキア――それはさぞ、ヴィンセントの怒りに触れる存在だろう。
果たすべき役割を、与えられた能力を、十全に全うしないものに彼は容赦しない。
「……しかし、誰も知らぬはずの存在なら、何ゆえにヴィンセント様の知識に? どなたか立場は高く、口の軽い御方からお聞きになったと?」
「相も変わらず、貴様の物言いは身分の溝を不遜に跨ぐ。――手記だ」
「手記?」
「ストライド・ヴォラキアの手記だ。水晶宮の書庫に隠されていたものを見つけた。もっとも、妄言の類が書き綴られた一読に堪えぬ代物だが」
よほど嫌悪感が強いのか、ヴィンセントが苦々しく唇を歪める。
大抵の事象は寛容に受け止め、咀嚼してから判断するヴィンセントだ。そこまでの思考の流れが速すぎて、余人には即断即決に見えるのが良し悪しだが、そのヴィンセントがこうまで負感情を見せるのは珍しい。
「何が、綴られていたのです? 当方も見せていただくことは?」
興味がそそられた。
ただし、手記の内容そのものというより、この厄介な主人をこうまで苦しめる事実の方に本命が移っていたのは自覚するところだ。
そんなチシャの内心に気付いているのかいないのか、ヴィンセントは片目をつむり、その黒瞳でこちらを射抜きながら、
「貴様には見せぬ。――観覧者がなんだのと、下らぬ妄言の詩集など」
△▼△▼△▼△
「いやはや何でもあれこれ理由があると思って考えすぎなんじゃありませんか? 案外誰も閣下やチェシャみたいに眉間に皺寄せてまで陰謀巡らせてませんって」
「――言い方に気を付けていただきたいのと、当方の名前はチシャです」
「ああっと、すみません! 役者の名前を間違えるのは非礼の極み! 大いに反省するところです。チシャチシャチシャチシャチシャチシャチシャ!」
「――――」
勢いと、とにかく勢いだけで喋り続ける青い髪の少年。
セシルス・セグムントという名前のこの少年は、かつてのチシャと同じようにヴィンセントの眼鏡に適って拾われてきた存在だ。
能力が優秀であり、当人にそれを活かす覚悟があるなら登用する。
生まれや立場を問わないヴィンセントのやり方は反発を招きながらも、アベルクス領の統治は毎年上がり調子で続いている。
もっとも、教育の有無の差は大きく、立場を問わないとは言いつつも、やはり平民から優秀な文官を集めることは難しく、チシャの苦労はなかなか減らない。
しかし――、
「武官に必要なのは腕っ節の強さのみ。僕はそこにさらに舞台役者としての華があるべきだと考えますがその点僕はどちらも唯一無二なので!」
「大した自信……それを標榜するだけの実力はある様子。それがかえって厄介とも言えますが、そこは当方の関知するところではありませんからなぁ」
はしゃぐ子ども――実際、六つも七つも年下なのだ。齢十八になったチシャからすればその表現で間違いないが、生憎とセシルスには年齢相応の可愛げはない。
見た目や振る舞いの話ではなく、彼が笑って誇る技量においての話だ。
「――――」
チシャ自身、アベルクス家に召し抱えられ、警護と護身のために武術を習ったが、そちらの才覚は人並み程度と自覚している。自分の体を動かすよりも、多人数の他人を動かすことの方が向いているとも。
だからといって鍛錬は疎かにできず、今後も一生続ける必要があるのだろうが、そうした武術の徒の端くれの目からも、セシルスの力量は常軌を逸していた。
智謀においての規格外には、すでにチシャは出会っていた。
だが、武力においての規格外にも、こうして巡り合うとは思ってもみなかった。
「そうなるとますます、ヴィンセント様……閣下は当方に何をお望みなのやら」
「お、またも何やら考えてますね、チシャ。では僕が答えをあげましょう。そういうのはですね。――伏線というんです!」
ビシッと指を突き付けて、そう言ってのけるセシルスに目を丸くしてしまう。
そのチシャの反応を目にして、セシルスは突き付けた指を引っ込めると、
「もしかして知りませんか伏線。あのですね伏線というのは物語における重要な情報をそれとわからないよう散りばめた……」
「伏線という単語の定義は知っております。ただ、ここでそれが持ち出された意図がわからないという顔が、当方のこの顔である次第」
「ああ、そうでしたか! だったら簡単ですよ。言ったでしょう? 何でもかんでも意味があるあると悩んでいるのが閣下とチシャの共通点だと」
嬉しげに笑い、胸の前で手を合わせるセシルス。そのまま叩いた手を開いた彼は、くるりとその場で回りながら、自分の周囲にある全部を示して、
「もしも本当にあらゆる物事に意味があるとするならば! 今この瞬間に解き明かせないそれは全て先々の展開に用いられる伏線なのです! なんと胸躍る!」
「使途不明の資金の流れや、所有者のわからない蓄財の存在は未来への伏線ではなく、汚職や賄賂の横行の証拠と思いますが」
「それは! ちゃんと現時点で答えがわかるやつじゃないですか! 僕が言ってるのはそれができないやつです。チシャは頭いいんだからちゃんと聞いてくださいよ!」
「――――」
ぴたりと回転する足を止めて、眉を怒らせたセシルスに抗議される。
何故、自分が怒られるのかと釈然としない気持ちを抱きながらも、しかし、チシャはそのセシルスの考えに少しだけ、ほんの少しだけ救われる。
ヴィンセントに重用され、彼の要求に応えるべく働きながらも、頭の片隅には常に、何故自分が召し上げられたのかという疑念があった。
何年も経過し、ヴィンセントの人柄を知っても、それは解き明かせない。
何故ならそれはヴィンセントの問題ではなく、チシャ自身の問題であるからだ。
その懊悩の答えが出せないまま、ヴィンセントの傍に在り続けることは非常に精神的に難儀なことだったのだが――、
「……ややもすれば、当方の存在も伏線というわけですか」
「おお? さっそく使いこなしてきましたね。さすが頭のいい方は呑み込みが早い! そういうところは尊敬に値しますよ僕は絶対に同じことできませんが!」
「尊敬するというなら、当方を呼ぶときに敬称を付けるべきでは? 当方、そちらより年上で目上で先達ですが」
「やだなぁ、友達にさん付けするなんてちょっと距離が遠いじゃないですか。この先を思えば一蓮托生の間柄。水臭いのはなしの抜きのうっちゃりにしましょう!」
「友人……」
あけすけにそう言われ、おまけに肩も叩かれ、チシャは絶句した。
その距離感の詰め方の馴れ馴れしさもそうだが、最大の理由は我が身を振り返り、自分に友人と呼ぶべき相手がいなかった事実に気付いたことだ。
故郷の村を捨て、そのままヴィンセントに拾われ、彼の下でがむしゃらに学び、働き、足掻いてきた数年間、親しい間柄の誰かを作ることがなかった。
無論、仕事上の好感を持てる相手はあったが、そうした目を抜きにすると。
「――――」
「どうしました? あ、やっぱりさん付けから始めますか? 最初は余所余所しいところから始めて徐々に距離を縮めていって最終的には五分の仲! というのも悪くない展開と僕も思いますのでそちらへ舵切りするのも……」
「いえ、結構。――閣下は拙速を尊ばれる御方です次第」
セシルスの戯言をしっかり聞き取ったわけではないが、最終的に辿り着く地点が同じなのならば、そこへ至る道は早い方が望ましい。
すっかり、ヴィンセントの主義に染まった感のある自分の考えを揶揄しつつ、チシャはセシルスの在り方を否定ではなく、受け入れることとした。
彼流の言い方に倣うなら――、
「閣下の御望みを叶えるべく、そちらの力を振るわれることを期待する次第。当然、そちらが拾われたのも……」
「堂々と役立つための伏線でしょうね! 任せてください、チシャ。僕は戦うこと以外はからっきしですが戦う場面においては他の追随を許しません!」
「それでよろしい」
どんと薄い胸を張り、華奢な子どもの大言壮語をしかしチシャは笑わない。
ヴィンセントの見立てと、自分自身の見立てに従い、セシルス・セグムントの器に見合ったあるべき場所を彼に与える。
その上で――、
「――当方もまた、伏線として機能する日を待たねばならない様子」
そう、年の離れた友人に言われた役目を自覚しつつ、チシャは呟いた。
折しもそれは、ヴィンセント・アベルクスの参戦する『選帝の儀』が始まる、ほんの半年ほど前の出来事だった。
△▼△▼△▼△
先帝ドライゼン・ヴォラキアの死と、それに端を発する『選帝の儀』の開始。
その隠し切れぬ才覚を理由に、他の兄弟たちから目の敵にされ、一時は集中攻撃の包囲網に晒されたヴィンセント・アベルクス。
しかし終わってみれば、当初の下馬評通り、ヴィンセントはかけられた期待と積み上げた評価が示すまま、『選帝の儀』を圧倒的な強さで勝ち抜いた。
全ての兄弟姉妹を鏖殺し、ヴォラキア帝国の血の冠を被ったヴィンセント・アベルクス――否、第七十七代皇帝ヴィンセント・ヴォラキアの誕生だ。
そのヴィンセントの歩いた血塗れの道、ヴィンセントの築いた血の大河の一端には、彼の部下として動いたチシャとセシルスの貢献もあるだろう。
だが、この『選帝の儀』において、ヴィンセントの勝利のための献策を行うことは、チシャに求められる役割――溝から車輪を抜く、とは別物だった。
この戦いの最中、チシャにその役割が求められた場面は最後の一手――、
「――妹御は無事、落ち延びられたご様子。苛烈で奔放な性分の御方ではありますが、御自分の立場は理解いただけましょう。ひとまず落着かと」
執務室、それも帝都ルプガナの水晶宮の一室だ。
国政の頂点に位置する皇帝が利用するその一室で、見慣れた顔が自分を見返す状況は、平静で出入りするのにしばらくかかるだろうとチシャは踏んでいた。
もっとも、当の皇帝本人はそれだけ権威ある椅子に座ったところで、普段の調子を崩すような素振りも見せない。『選帝の儀』の勝利が揺るがないと確信されたときも、達成感に笑みの一つも覗かせなかった。
ヴィンセントは笑わない。少なくとも、皇子や皇帝である間は。
皇子でない瞬間であれば、その唇を綻ばせ、性格の悪い笑みを浮かべることもあった。だが、これからはそんな機会も激減することだろう。
皇帝になった。そして、皇帝の皇帝でない瞬間など、彼は許すまい。
――否、たった一点だけ、そうでない瞬間を共有できるものはいたが。
「プリスカ様を生かす術を求められたとき、当方は耳を疑いました」
誰も、他に聞き耳を立てるものがいないことを前提に、チシャはこのヴォラキア帝国で生じ、自らも加担した帝国最大の秘密を口にする。
『選帝の儀』の決着と同時に、新たな皇帝の誕生が報じられた。
しかしその実、帝位継承権を持った皇族が最後の一人にならなければならない儀式において、その完遂は果たされていない。――最後の二人が残っている。
ヴィンセント・アベルクスと、プリスカ・ベネディクトの二人が。
自ら毒の杯を呷り、命を落とした悲運の姫君と語られるプリスカ・ベネディクト。
事実、彼女は毒を呷ったが、命を落とさなかった。
彼女が毒を呷ったのは杯からではなく、主人を案じるがあまり、その助命の可能性に縋ってしまった従者を救うためだ。
毒はプリスカの心の臓を一度止め、再び鼓動を生むまでの間に全てを終わらせた。
『選帝の儀』は終わり、プリスカ・ベネディクトは墓の下に葬られた。
ヴィンセント・アベルクスは皇帝となり、プリスカ・ベネディクトはその名前ではない別の存在となり、命を繋ぐ――。
「もしも、当方が帝国に古きから仕える家のものであれば、閣下の御望みを言語道断と御諌めしたかもしれませんなぁ。しかし、当方は平民の出である次第」
権威や伝統、それらを殊更ありがたがる下地はない。
一定の敬意を払い、価値は認めても、それが最上であると勘違いもしない。ヴォラキア帝国ではそれがまかり通るのだ。
故に――、
「此度の企てに乗るのも、いささか以上の躊躇いはなかった次第」
「――――」
沈黙を守る皇帝、ヴィンセントの心中は推し量れないが、行動は明確だ。
元より、多数いる兄弟姉妹の中で、ヴィンセントにとってプリスカは特別だった。その才気という点でプリスカはチシャの目にもひと際輝いて見えたが、ヴィンセントが歳の離れた妹に目をかけていたのは、その能ばかりが理由ではあるまい。
傲岸不遜を絵に描いたようなプリスカも、そのヴィンセントには敬意を払い、正しく血を分けた兄として扱っていたと思う。
そうして互いを認め合い、歩み寄っても共存を許さないのが『選帝の儀』であり、ヴォラキアの皇族の宿命――それが、ヴィンセントの手で破られた。
それがチシャとしては小気味よかったし、何よりも、安堵した。
与えられた立場と役割の中で、十全の能力を発揮するのがヴィンセントのやり方。
出会った日から今日という日まで、そうした在り方を曲げてこなかったヴィンセント。その彼がプリスカを生かしたのは、如何なる合理性の発露と言えるだろうか。
生きているとわかれば我が身を危うくし、ヴォラキア帝国で皇帝が築き上げてきた帝国民の信頼という基盤を失いかねない暴挙。
ヴォラキア皇帝として、どんな言い分があればそれを正当化できる。
できないだろう。当たり前だ。それは合理的な判断で下された指示ではなかった。
あれは、感情的な願いであり、望みであり、祈りだった。
ヴィンセント・アベルクスは、愛する妹を殺したくなかった。
だから、プリスカ・ベネディクトは生かされ、ヴィンセントは偽りの冠を被ったのだ。
それがチシャには快かった。
プリスカが生かされたことではなく、プリスカを活かしたいとヴィンセントが考え、そのための障害――溝に嵌まった車輪を抜く術を、チシャに求めたからだ。
「伏線、でしたか」
『選帝の儀』が始まるより前に、セシルスの口にした戯言が頭を過った。
その瞬間は納得がゆかず、意味がないように思えるようなことでも、後々になればそこに何らかの意味を見出せる。そのためにあったのだと、理解できる。
自分やチシャの立ち位置や行動は、そうした未来への布石なのかもしれないと。
「まぁ、セシルスの話が的を射ていたと認めるのは大いに癪ですし、当人に言えば調子に乗るのが目に見えるので永遠に言わないのですが」
「以前からそうだったが、このところはとみに思案が多いな。色が抜け落ちて、余に侍って培ったことも根こそぎに落としたか?」
「存外、死の淵を彷徨ってからは調子が良いもので」
不敬とわかっていながら、チシャはヴィンセントの前で肩をすくめた。立場の変わった皇帝は、衆目の前でさえやらなければそれを咎めない。
ヴィンセントは自らを『余』と自称し、彼の黒瞳に映り込むチシャの姿はその指摘の通り、すっかり色が抜け落ちた白いものとなっていた。
『選帝の儀』の最中、対峙した敵に命を奪われかけた際、死の淵を彷徨って舞い戻ったチシャの黒髪はすっかり色が抜け落ち、真っ白になってしまっていた。
以来、何となく黒でまとめていた衣装を、正反対の白で統一している。愛用している鉄扇も塗り替え、全身白で揃えた徹底ぶりだ。
無論、ただの道楽でそうしたわけではなかった。
死の淵を彷徨い、自らの色を失う羽目になって、チシャには奇妙な『能』が芽生えた。他者の色に染まるその『能』を扱うには、常日頃の意識がいる。
自分は何色にも染まれると、そう自らに暗示するために必要な措置だった。
ともあれ、その『能』の詳細についてはヴィンセント相手にも伏せている。もちろん、口の軽いセシルスや関係の薄い他のものたちにも誰にも明かさない。
隠し球、切り札、奥の手というものは一枚や二枚は用意しておくものだ。
もっとも――、
「閣下がこれまで大儀であったと、ようやく当方の身代を解放してくださるなら、そうした謀の必要もないと思う次第ですが」
「仮に貴様が余だとして、この帝国の秘するべき最も重要な事実を知る貴様を生かしたまま放逐し、安寧に夜を越せると思うか?」
「仮の話に仮の話を展開するのはいささか行儀が悪くありますが、城を離れるより前にこの首が落ちるのが末路でしょうなぁ」
「それがわかり、命を惜しいと思えるなら大人しく仕え続けるがいい。貴様が余の役に立つと示せる間は、その首と胴を繋げておいてやる」
そう言いながら、机に頬杖をつくヴィンセントが不遜に言い放った。
どちらも本気とは言い難い軽口の応酬だが、他者に対して言葉の足りない皇帝だけに、こうして口に出させて確かめておくことも必要だ。
それによれば、どうやらチシャ・ゴールドの立ち位置や求められる役割は、ヴィンセントが皇帝になろうと変わらないようだが――、
「――神聖ヴォラキア帝国の在り様は、あるいは変わるやもしれない様子」
すでに、ヴォラキア帝国の絶対の象徴である『陽剣』の輝きは裏切られた。
建国以来続いてきた『選帝の儀』が、それまでと異なる形で終着を見た以上、そこから先に続いていくものも、その在り方を大きく変えていくだろう。
その道を往くのは、自らの望みを優先し、妹を救うことを選んだヴィンセントだ。
これまでの道と違う、これからの道が拓かれる。その事実と期待に、チシャは自分がわずかに胸を弾ませていることに気付いていた。
だが、それを表情にも言葉にも、態度にも絶対に出さない。
友人の、セシルスの悪い影響だと、それも自覚のあるところだったから。
△▼△▼△▼△
――めまぐるしく、日々は流れていく。
かつてあった『九神将』制度の復活と、帝国貴族たちの冠位の再設定。
形骸化し、歴史だけで高い地位を与るものたちが一掃され、『剣に貫かれる狼』の国旗を掲げるヴォラキア帝国の在り方を内外に徹底する。
強者が絶対的に正しいという不文律を無思慮に信じ、国内が荒れるに任せた先帝までのやり方を根こそぎ否定し、最初にあった強者が尊ばれることの理念を洗い出した。
血筋や家柄に胡坐を掻くものはその依り代を奪われ、機会が巡るのを虎視眈々と待ち続けたものたちへは挑む好機を与える。
外から見れば、ヴィンセント・ヴォラキアの統治はこれまでの帝国の歴史と何も変わらずに思われたかもしれない。
しかし、実態はまるで違った。舞台裏を知る側は、それを如実に体感していた。
やがては帝国の多くのものも、そして外の国のものたちも知ることになるだろう。
ヴィンセント・ヴォラキアが帝国を作り変え、改めていくことの壮大さを。
無益な争いはなくなり、不条理な殺し合いは囃されるものでなくなる。
強さの証明は個人の武威では成立しなくなり、身の丈に合わぬ野心を抱いたものは、真に野心を叶えることの難しさを自らの命で証明することになる。
『強い』ということの基準が、塗り替えられていく工程を見るかのようだった。
もっとも――、
「僕が『壱』でアーニャが『弐』、オルバルトさんが入ってチシャが『肆』と。閣下の見立てもなかなか悪くありませんがチシャの顔色は優れませんね?」
「当方が『肆』というのは、いささか椅子の座り心地が悪く感じられる次第。セシルスも知っての通り、当方は」
「腕っ節はからきしと。まあまあ気持ちはわかろうともわかるとも全く言いませんがこれが閣下の統治する世での序列の決め方というものなのでしょう。基準が混在するとどれがどれかと頭を悩ませますが僕はわりと肯定的ですよ」
「それは何ゆえに? 自分が不動の『壱』であることの他に」
「先に言われた! それが一番大きな理由です。ですけどもそれだけじゃありませんよ。チシャをそこに置いておくのは見方が変わると思うんですよね」
「見方……それはつまり戦い方の、という意味で捉えても?」
「おおよそは。確かに僕とチシャがやり合えば瞬きの間にチシャが死にますが、もしもチシャが千人の部下がいる状況から始まればどうです? 千秒かかるかもですよ!」
「かからぬでしょうに。ただ、言いようは理解しました。当方が千秒を稼ぐ間に」
「閣下か誰かしらが目的を果たせばいいんですよ。この世界の花形役者である僕の最大の欠点は僕がこの世に一人しかいないことですから」
立場を得ても、帝国の在り方が変わっても、その性根をまるで変えないものもいる。
しかし、セシルスには最も古き時代、『強者』が何ゆえにヴォラキア帝国で誰からも尊敬を集めたのか、その最初の理念が備わっている。
当人に人望がなければ、誰からも好かれる性格ではなく、誰の見本になる背中をした人物でもないことは帝国中の誰もが知るところだ。
それでも、帝国最強が誰かと問われれば、誰もが我が事のように胸を張れる。
セシルス・セグムントこそが、帝国最強の存在なのだと。
そのセシルス相手に、人を集めれば千秒稼げると思われているのが、チシャが『肆』という『九神将』の一人の地位を固辞せずに済む理由でもあった。
それ故に過大評価と思いながらも、チシャはその立場と役割に甘んじるのだ。概ねはそれでうまく回っている。
問題があるとすれば――、
「――やや、こーれはどうも、チシャ一将。本日もお日柄がよろしいですねえ」
そう薄く微笑みながら親しげに話しかけてくる人物。
『星詠み』を名乗り、水晶宮の出入りを許されたその存在への不気味な感覚だけが、何もかも順風に回って見える帝国の中、白い我が身に黒点のように感じられるのだった。
――その不気味な感覚が間違いでなかったことは、それから数年後に証明された。
「――『大災』の訪れが天命より下りました。閣下、残念です」
皇帝の執務室の中央、本来であればここにいるべきでないその男は、まるで心から神妙に感じているとでも言いたげな表情でそれを告げた。
『星詠み』のウビルク、その言葉に同席するチシャは眉を顰める。
「……『大災』?」
聞き覚えのない響きであると同時に、決していい予感のしない響きでもあった。
大いなる災いと呼ぶくらいだ。並大抵の災厄ではないのだろうと予想がつく。ただ、チシャの気に障ったのは、ウビルクがそれに付け加えた一言。
何故、この男はヴィンセントに対し、残念などと続けたのか。
「ウビルク殿、そちらの『星詠み』の信憑性に関しては当方は疑っておりません。これまで幾度も反乱や災害、国内で起こり得る事態について先んじて言い当ててこられた。ウビルク殿の予言で被害を抑えられた事例も少なくありませんゆえ」
「恐縮です、チシャ一将。たーだ、一ヶ所だけ訂正を。ぼかぁ、予言なんてしてません。あくまで星の囁きを言伝しているだけです。ぼくの手柄じゃありません」
「……ウビルク殿の考えは尊重させていただく次第。当然、その『大災』とやらにも対応の用意が必要でしょうが、何が起こると予想されるかお聞きしても?」
直前までの神妙な表情が一転、チシャに答えるウビルクの表情は笑みを象った。
その、表情豊かであるのに心を感じないウビルクを訝しみながらも、チシャは問うべき問いを投げかける。
『星詠み』を名乗るウビルクの役目は、祈祷師や占い師のそれに近い。
ただし、ウビルクの予言の精度は桁外れに高く、士気を高めるための芝居の要素が強いと感じる祈祷師たちとは一線を画していた。
その分、ウビルク当人の性格とどれほど関係あるのか、いささか持って回った言い方であったり、詳細が曖昧な部分が多く見られるのが欠点ではある。
しかし、実際にチシャも述べた通り、ウビルクの提言に端を発し、人災天災を問わず、大ごとにならずに片付いた事態も散見される。
水晶宮への出入りを許されるのも、その能力をヴィンセントが評価してのこと。
チシャとしては、得体の知れないウビルクを重用することに関して、あまり前向きではなかったが、使えるものを使うのがヴィンセントの姿勢だ。
それこそ、『選帝の儀』で死した兄弟姉妹に仕えたものたちを登用するのもそうだ。能力は有数といえど、宰相のベルステツ・フォンダルフォンを傍に置くのは狂気の沙汰だ。
もっとも、あの宰相はあれで存外に帝国への信義が強く、ヴィンセントがヴィンセントであり続ける限り、牙を剥く恐れはないとも言える人物だが。
ともあれ――、
「『大災』とまで言うのなら、退けるのもさぞかし苦労がありましょう。幸い、セシルスもアラキア一将も手が空いている……まぁ、あの二人は離して置いておくと危なっかしいので、大抵いつも空いていると言えますが……」
「――滅びです、チシャ一将」
「む?」
セシルスとアラキア、訳ありの『壱』と『弐』の顔を思い浮かべ、物憂げな気分に浸りかけたチシャを、不意の響きが現実に引き戻した。
顰めた眉をより顰め、チシャは今一度、ウビルクに発声の機会を与える。
それを受け、ウビルクは「ですから」と前置きし、
「やってくるのは滅びです、チシャ一将。『大災』とは、ヴォラキア帝国を崩壊させる破滅の一手。陽光の光さえ届かぬ滅びをもたらすモノ。とーはいえ」
「――――」
「元々、『陽剣』は十全に扱えない。でーしたね?」
それを聞いた瞬間、ヴィンセントの後ろに控えていたチシャは部屋の真ん中へと飛び込み、抜いた鉄扇をウビルクの首へ当ててその体勢を崩していた。
そのまま、地面に倒したウビルクの頭へ、鉄扇を手加減なしに打ち込もうと――、
「――やめよ、チシャ。殺しても意味はない」
「ですが、閣下。このものは、知るべきでないことを知っている次第。まさか、閣下がお話になられたとでも?」
「たわけ。余が道化相手に口を滑らせるものか。大方、それも貴様に言わせれば、星から教わったとでもいうところであろう」
「たはは、その通りです。とと、ぼかぁ今、死ぬところでしたかね?」
当たる寸前で止まった鉄扇を指でつつき、ウビルクが半笑いを浮かべる。
それを見下ろしながら、チシャは本当に始末すべきでないかしばらく悩み、それから深々と息を吐くと、大きく後ろへ下がった。
「失礼をお詫びさせていただく次第。とはいえ、不用意な発言は慎んでいただかなくては、次も当方の手が止まるかは保証できませんなぁ」
「けほっ、それはぼくが迂闊でした。さすが『九神将』のお一人、文官肌と言われてはいても技の冴えは戦士のそれでしたね」
「世辞は結構。それよりも――」
そこで言葉を切り、チシャは視線をウビルクから切り、背後へ向けた。
そこには『星詠み』を迎えたときから変わらぬ姿勢のヴィンセントが、自らの執務を行う大きな机の前に座り、こちらを見ている。
その黒瞳と向かい合い、不意にチシャは彼との出会いを思い出した。
一番最初、ヴィンセントと向かい合ったとき、竜車の車内でこのぐらいの距離だった。
何故、突然あのときのことを思い出したのか。それはおそらく、同じ心地だからだ。
あのときと同じ心境で、チシャはヴィンセントに尋ねなくてはならない。
「閣下、先ほどのウビルク殿の予言に対して驚かれていらっしゃらないご様子。その真意について御伺いしても?」
「あのー、ぼくのは予言ではなくて……う」
「失敬。ただ、次はありませんと忠告する次第」
余計な口を挟もうとしたウビルク、その頬を掠めた鉄扇が壁に突き刺さる。わずかに切れた頬から血の滴を浮かせ、ウビルクが両手を上げて沈黙を誓う。
そちらに目も向けず、チシャはヴィンセントを見据え――否、睨みつけた。
そのチシャの眼光に、ヴィンセントは片目を閉じると、
「災いの兆しについては、すでに其奴からも報告があった。いずれ来たる『大災』、それはこの帝国に滅亡をもたらす災厄であると、観覧者の囁きがあったとな」
「――、何故その時点で当方にも共有を……いえ」
ヴィンセントから告げられた内容に驚愕しつつも、反論しかけたチシャの舌が止まる。今しがた、ヴィンセントが口にした言葉の中に、言い知れぬ怖気を覚えた。
それが何なのか反芻し、チシャはわずかに目を見開く。
「閣下、当方の聞き間違いでなければ、こう仰いましたか? ――観覧者と」
それは以前、ずっと前、何年も前に一度、ヴィンセントの口から聞いたものだ。
ヴィンセントが忌まわしい存在と、唾棄すべき人物と呼んだ追放された皇族『ストライド・ヴォラキア』、その手記にあったとされる単語。
それを、ここでヴィンセントが口にした。それも、『星詠み』ウビルクと関連する単語として、ずっと前から把握していたように自然と。
「閣下、その観覧者とは、ウビルク殿の語る『星』のことと思っても?」
「……余も同じ認識だ。ウビルクめが語るそれは、観覧者が覗き見たものの告知の類と」
「――。では、ストライド・ヴォラキアもまた、『星詠み』だったとお考えで?」
「その可能性を高く見てはいる。ただ、他の『星詠み』らと自称するものが異なる上、手記の内容を読み解けば、ストライド・ヴォラキアは観覧者を敵視していた」
つらつらと語られる新事実に、チシャはヴィンセントへの不満を募らせる。
皇帝になる以前も、皇帝になってからも進んで激務を抱え込んでいるこの人物は、しかしチシャに共有しない部分でも、そうした厄介事を抱え込んでいた。
それをチシャに隠し通すためにも、相応の労を必要とするはずだ。
そんな労力を割くぐらいならば、最初から全て共有してくれればいいものを。
「落ち着いてくださいな、チシャ一将。閣下が一将にお話にならなかったのもちゃんとわけがあります。ぼかぁ、それを尊重したまでで」
「次はないと、当方はそう忠告したと思いますなぁ」
「わかっていますわかっています。でーも、閣下が言いづらいのであれば、ぼくから話した方がよいのではと。チシャ一将を同席させたのはそのため、でしょう?」
両手を上げたままの姿勢で、チシャの肩越しにウビルクがヴィンセントを見る。
その、ヴィンセントの考えをわかっている風に振る舞われるのも気に障るが、ヴィンセントはウビルクの提案を却下しなかった。
ならば、チシャにそれを却下する資格はない。それにこれ以上、語られないことを抱え込まれたままでいられるのも限界だ。
「もったいぶらず、慎重に言葉を選ぶことを薦める次第」
「お心遣い、痛み入ります。では、端的にお伝えします。――帝国へもたらされる滅びの『大災』、それはですね」
もったいぶるなと忠告したにも拘らず、ウビルクはそこで一度言葉を切った。
しかし、ウビルクへの怒りよりも、その先に続く言葉への関心が勝った。故に、ウビルクは忠告を無視した罰を受けぬまま、続きを紡ぐ。
それは――、
「――ヴィンセント・ヴォラキア閣下の死、それを合図に始まる天命なのです」
△▼△▼△▼△
無粋な『星詠み』が退室し、執務室には帝国の頂点と腹心だけが残された。――否、その自認が正しいかどうか、チシャにはもはや自信がない。
その胸の内を明かされないなら、それを腹心と呼ぶことはできないだろう。
存外、『星詠み』が叩かれていた道化の陰口こそ、自分に相応しかったのかもしれない。
「閣下に扮して入れ替わっても、『星詠み』は当方には寄り付きませんでしたなぁ。あれももしや、閣下が指示を?」
「伏せていることを迂闊に話されては謀が機能しなくなる。なれば、あれの手落ちを未然に縛っておくのは当然のことだ」
「でしょうなぁ。当方でも同じことを」
結託というほどではないが、自由に振る舞っているように見えていたウビルクも、しっかりとヴィンセントの首輪を付けられていたというわけだ。
そこには両者の間でだけ交わされた、『大災』を巡る密約が関係していたと。
しかし――、
「解せません。何ゆえに、当方にまでそれを伏せておられたのか」
「――。無用で煩雑な思案を取り除くためだ」
「無用で煩雑……」
「知れば、余を救おうなどと考えよう。だが、それは無意味な思索だ」
首を横に振り、ヴィンセントは一切の躊躇もなくそれを言い切る。
かかっているのが自らの命であろうと、事実を前にヴィンセントは怯もうとしない。しかし、彼自身の納得とチシャの納得は別の次元の話だ。
「閣下の御命を第一に考えるのは当然の成り行きでしょう。何故、それを無駄と?」
「これまでの『星詠み』の、あれが天命と嘯いてもたらした話を思い出せ」
「ウビルク殿のもたらした話……」
言われ、チシャは考えを巡らせる。
ヴィンセントがチシャに伏せていたのが『大災』の一件だけであれば、それ以外のウビルクがもたらした予言についてはチシャも全て把握している。
天災や反乱、いずれも大火となり得た事態の兆しの報せであり、有用だった。そのおかげで被害は最小限に食い止められ――、
「――いずれの事態も、被害の大小の差はあれど起こっている」
「そうだ。兆しを告げられたとて、未然に防げた事例はない。それが人災であれ天災であれ、最初の一手は必ず起こる。その後の被害に対応はできてもだ」
そして、ウビルクは言った。
「彼奴の語る『大災』は、余の死を切っ掛けに起こるのだと」
「――っ、ならば閣下の御命を守り抜き、『星詠み』の天命に逆らえばよいでしょう!」
「それが実現可能かどうか、余が試してこなかったと思うか?」
反射的な対案は、静かなヴィンセントの言葉に否定される。
当然、感情的に思いついたチシャの考えなど、ヴィンセントは全て実践したはずだ。
これまで、『大災』と無関係の、ウビルクがもたらした他の予言に対し、未然に防ぐことが可能か幾度も挑戦しただろう。
皇帝の役割を十全に果たしながら、その裏で――、
「――閣下」
「なんだ」
「お聞きしたいことが、浮かびました次第」
不意に、冷たく沈んだ自分の声が脳に滑り込み、チシャはそう言っていた。
聞きたいことと言ったが、脳が痺れる。痺れている。それは過剰に働かされた反動か、あるいは働きを拒否する精神的な抵抗のどちらか。
しかし、いずれが理由の痺れでも、すでに問いは発され、皇帝はそれを受けた。
そして――、
「許す、述べてみよ」
皇帝が選んだものを、チシャが否定することはできない。
それ故に、皇帝が許しを与えたものを、チシャが拒むこともまたできない。
だから、チシャは自らの脳の痺れを味わいながら、問いを発する。
「閣下はいつから、『大災』の兆しを存じていたのですか?」
「――手記だ」
静かに、ヴィンセントは己の執務する机の引き出しを開け、そこから装丁の古びた一冊の本を取り出し、机の上に置いた。
かつて話題に挙がりながらも、目にする機会のなかった手記。――ストライド・ヴォラキアの残した手記、それが兆しを伝えていたのなら。
「閣下、あなたがこれまでしてきたことは――」
チェシャ・トリムであったチシャと出会い、共に歩み、時間を培い、セシルスを拾い上げ、『選帝の儀』へと臨み、初めて自らの在り方に背いてプリスカ・ベネディクトの命を救って、ヴォラキア帝国の皇帝として新たな道を拓いた。
その、ヴィンセント・ヴォラキアの歩みの全ては――。
「――余の死後、『大災』のもたらす滅びの被害を最小限に食い止めねばならん。そのための改革であり、『九神将』であり」
「――――」
「――貴様だ、チシャ・ゴールド」
△▼△▼△▼△
「観覧者とは何者なのか、そちらの知る情報の開示を要求する次第」
開いた鉄扇を首元に押し当て、チシャは低い声でそう恫喝する。
しかし、鬼気迫るチシャの敵意を浴びせられながら、背中を壁に押し付けられるウビルクの表情は困ったような、状況の見えていない呑気なものだった。
その表情のまま、ウビルクは「チシャ一将」とこちらを呼び、
「皇帝閣下と話されたのが数日前、てっきりぼかぁ、チシャ一将の中では折り合いがついたものと思っていたんですが……」
「前提条件に誤りがないか見直すのに数日を要した次第です。残念ながら、現状は閣下の御考えを真っ向から否定する方法はありませんが」
「それはぼくと話しても同じことと思いますよ。それにしても、さすが一将は閣下の影武者も務められるだけあって、よく似ていらっしゃる」
押さえ込まれながら話すウビルクに、チシャは微かに訝しむ表情を作る。そんなチシャの反応を受け、ウビルクは首を横に振ると、
「閣下も、天命の曲げ方がないか御尋ねになられました。たーだ、ぼくの返せる答えはそのときと同じです。ありませんと」
「――。そちらの目的はなんなのです? ウビルク殿は『星詠み』を名乗り、観覧者の予言を伝えることで水晶宮へ留まる地位を勝ち得た。ですが当方を始め、閣下以外のものはウビルク殿の存在をよく思ってはおりません。閣下がそちらの予言通りにお亡くなりになれば、ウビルク殿も身の破滅は免れ得ぬ次第」
「はっきり仰いますねえ、傷付きますよ、ぼかぁ。……たーだ、チシャ一将、そこは前提が違うというやつです」
「――――」
「ぼくの身の破滅よりも、天命の履行と成就の方が大事なんです。ぼくの目的は、『大災』のあとの滅びを防ぐことですから」
言いながら、ウビルクの表情からにやけたものが消える。
わざとらしい感情が消えて、温かみが抜けたウビルクの表情を間近に捉え、チシャは初めてウビルクの素顔と向き合ったような印象を得た。
一瞬、それがウビルクの何らかの術技によるものとも疑ったが――、
「ぼくにそんな力はありませんよ。最初に閣下へ害意がないと示すため、チシャ一将も見ている前で自分の魔眼は潰したじゃーないですか。確認しますか?」
「――。いいえ、結構。それよりも当方の聞き間違いでなければ、ウビルク殿はこう仰いましたか? 目的は、『大災』のあとの滅びを防ぐことと」
「ええ、そうですよ。その点で、閣下とは目的の一致を見ているわーけです」
答えるウビルクに澱みはなく、その意見が嘘でないとチシャにも感じ取れた。
そもそもここで嘘をつくなら、ヴィンセントではなく、チシャにいい顔をするための嘘をつかなくては意味がない。迂闊にチシャの逆鱗に触れて殺されては、いつ殺されても構わないような面構えのウビルクも喜びはしないだろう。
加えて、ヴィンセントがウビルクを厄介者と捉え、その振る舞いに思うところがありながらも彼を手放さなかった理由も頷ける。
ヴィンセントとウビルクは、同じ目的で動いていた。
「ウビルク殿は、『大災』そのものを防ごうとは思われないご様子。何故です?」
「ああ、それは単純なことです。『大災』を先延ばしにすることはできない。それは必ず起こってしまう、一種の決まり事なんです。起こってしまった『大災』、それがもたらす滅びを防ぐのがぼくの目的です。つまり……」
「つまり?」
「『大災』が起こらなければ、ぼくの天命は果たされない。ですから、もしも『大災』の起こる要因が全て潰されても、ぼくがその要因となるでしょーね」
それは、手段と目的があべこべになった狂信的な考え方だ。
理解できない不条理さに息を呑み、チシャはウビルクの首に当てた鉄扇をより強く食い込ませる。急所に宛がい、力を込めれば喉を裂ける位置だ。
それを、ウビルク自身にもわからせながら、チシャは声を鋭くする。
「ならばその要因、ここで当方の手で取り除くのもよいでしょうなぁ」
「やめてはほしいですが止めはしません。でーも、一個だけ言っておくと、たとえぼくを殺したところで、次の『星詠み』が現れるだけですよ。そういう仕組みなんです」
「――――」
「世界を滅ぼす大いなる四つの災い。その内の一つを止める機会が巡ってきた。ぼくたちは星がもたらした自浄自衛の端末、代わりはいくらでもいます」
じっと、何色にも感じられない瞳を覗き込み、チシャは歯噛みする。
それが脅しでも虚言でもないことが、少なくともウビルク自身は本気で言っていることが、チシャにもはっきりと感じ取れた。
――『大災』による滅びを防ぐため、『大災』には必ず起こってもらう。
あまりにも不条理で理不尽な宣言は、しかしヴィンセントすらも手の打ちようがない、尽きぬ命を盾にした消耗戦の誘いだった。
あるいはこれまでの『星詠み』のもたらした天命、それもいくつかは彼ら自身が火種となり、予言の実現のために一役買った可能性すらも浮かぶ。
だが、それを確かめるために『星詠み』を鏖殺しようとすれば、発生条件のわからない彼らを根絶やしにするため、可能性のあるものを全員殺す必要がある。
それは、国を亡ぼすことと何も変わらない。
「閣下はご立派ですよ。ぼかぁ、個人に対する思い入れはほとんど持たない性質ですが、閣下の在り方には脱帽します。『星詠み』ならぬ身で、ああはなれない」
「……ウビルク殿が脱帽とは、笑えない冗談ですなぁ」
「本心ですよ。誰も天命の安らぎなしに、予告された死を受け入れることはできない。ですが、閣下は自らの死後に向け、あらゆる用意をしている。生きることは望まなくとも、戦うことは諦めていない。まさしく、剣狼の王」
厳かに呟くウビルクの言葉には、確かなヴィンセントへの敬服があった。
彼の語った剣狼、ヴォラキアの国紋である『剣に貫かれた狼』とは、その命を脅かす傷を負いながらも、決して怯まぬ戦士の在り方を称えたものだ。
そういう意味ではウビルクの言う通り、ヴィンセントの在り方は剣狼そのものだろう。
「チシャ一将、ぼかぁ、自分の天命を叶えたい一心でずっと過ごしてきました。たーだ、自分の天命が何より素晴らしいって考えてるわけじゃありません。もしも、チシャ一将が受け入れ難いと仰るなら、試されるのもよいでしょう」
「試す……ウビルク殿や、あなたと同じ立場の『星詠み』の鏖殺を、ですか?」
「代わりはいくらでもいると言いましたが、限度はあります。人の命の数がそれです。セシルス一将と協力し、試してみるのも手ではあります」
それがどこまで本心からの提案なのか、またしてもウビルクの心はわからなくなる。
一瞬、それもいいかと考えてしまったのは、そのぐらい自分の足場の位置が不確かになっている証左だろう。
ウビルクの言う通り、セシルスにこの事実を打ち明け、おそらくチンプンカンプンになるだろう彼を誘導すれば、帝国民を撫で切りはできるかもしれない。
――否、それも不可能だ。
ヴィンセントに露見すれば、そんな暴挙はすぐに止められる。セシルスは友人だが、彼の中での優先順位はしっかり定まっている。
セシルスにとって、ヴィンセントはチシャより優先される。だからこそ、たとえ考える頭が微塵も信用できなくても、セシルス・セグムントが『壱』なのだ。
「それにしても、セシルスに打ち明けるという選択肢がまるで浮かばなかったのは、当方自身のこととはいえ、おかしくなる次第」
場違いな感慨が、弱々しい笑みをチシャの口元に刻みかける。
頭の中に浮かんだセシルスが唇を尖らせ、猛抗議してくる姿が鮮明に――、
「――――」
ある日のやり取りが、不意に鮮明に思い出された。
『確かに僕とチシャがやり合えば瞬きの間にチシャが死にますが、もしもチシャが千人の部下がいる状況から始まればどうです? 千秒かかるかもですよ!』
『かからぬでしょうに。ただ、言いようは理解しました。当方が千秒を稼ぐ間に』
『閣下か誰かしらが目的を果たせばいいんですよ。この世界の花形役者である僕の最大の欠点は僕がこの世に一人しかいないことですから』
友人の、適当なことを言いながら笑った顔が思い出された。
ふと、思った。
「ウビルク殿、お伺いしたいことが。――ウビルク殿の受け取る天命というものは、どのような形でもたらされるものなのですか?」
問いかけに、ウビルクが軽く目を丸くした。
それから彼は首をひねり、神妙さの薄れた普段の雰囲気を取り戻しながら、
「まちまちですね。ぼかぁ、比較的夢のような形で受け取ることが多いですが」
「では、閣下へお伝えした『大災』に関する天命でも?」
重ねた問いかけに、ウビルクが怪訝な顔をしながら頷いた。その答えに息を吐き、チシャはゆっくりと、頭に思い浮かべたそれを形にする。
「ウビルク殿が受けた天命、それが閣下が命を落とされる瞬間であるなら――」
真っ白く色が抜け落ちて、誰でもなく、何色にも染まれる不確かな己を装う。
そこに現れるのは――、
「――そこで死したヴィンセント・ヴォラキアは、どちらの閣下でしょうなぁ?」
△▼△▼△▼△
――かつてチェシャ・トリムだったチシャ・ゴールドは、自分がそれほど忠誠心が高い人間であるとも、皇帝閣下への絶対の服従を誓っているとも思っていない。
他ならぬ、ヴィンセント・ヴォラキア自身から言われている。
自分のために死ねるかと言われ、それはできないと真っ向から答えたときに。
その考えのまま仕えろと、そう言われた。
そう言われ、それに従い、その心情のまま、チシャはヴィンセントに仕えてきた。
だから、ヴィンセントのために死ぬようなことはしない。
ヴィンセントに絶対の忠誠はなくとも、常識的な忠誠は誓っている。帝国民の一人であり、帝国一将の一人として、皇帝閣下への尊敬の念も持ち合わせている。
ヴィンセントの命令に背くような真似、言語道断だ。
故に、チシャの選択はヴィンセントのためのものではなく、どこまでも最初の頃の、あの街道で偶然に皇子と出くわしたときの気持ちのそのままだ。
あのとき、やんごとなき方が乗り合わせていると一目でわかる竜車を目にして、周りにいた大勢のものたちは関わり合いになるのを避けた。
助けられればいいが、それができなくて不興を買えば命が危うい。
そうした人々の考えが手に取るようにわかる中で、チシャは竜車に歩み寄った。
人助けがしたかったわけではない。
ただ、故郷の村では役に立たないと言われた算術や学問、そういったものを試す機会が訪れたのだから、見逃したらもったいないと思ったのだ。
今回だって、そうだ。
あの、なんだって自分の想定通りだと智謀を巡らせるヴィンセント・ヴォラキア、その考えの裏を取れるような機会、二度と巡ってはこないだろう。
しかも、ヴィンセント・ヴォラキアはそれこそ幼少の頃から、その瞬間を粛々と受け入れるべく、備えてきているのだ。
つまり、これはヴィンセント・ヴォラキアの人生を懸けた大勝負への挑戦だ。
挑めるとなれば血が沸き立ち、敵が大きいとわかればますます気持ちが昂って、その相手を倒すための手段に魂が熱を持つのが帝国の男。
チシャ・ゴールドは、帝国の男だった。
どんな気持ちで考えで、ヴィンセント・ヴォラキアが自分の死後、自らの下で学ばせ、自分と同じ知略を駆使できる存在となったチシャに託そうとしたのか不明だ。
わからないし、わかりたくもない。
わかっていなかったとわかったときの、あの血の気の引く思いはたくさんだ。
同じ思いを味わえと、ヴィンセントにはその一言である。
そして――、
「もたらされる『大災』の滅び……何が『大災』と、笑わせますなぁ」
大いなる災いなどと銘打って、どうやらこのヴォラキア帝国を蹂躙し、崩壊へと陥れようとするらしい『大災』だが、チシャからすれば笑い話だ。
その『大災』の始まりとなるのが、ヴィンセント・ヴォラキアの死。
ヴィンセントが死ななければ始まらない『大災』、それはつまり、彼に生きていられては帝国を滅ぼせないのだと、滅ぼし始める前から負けているではないか。
ヴィンセント・ヴォラキアを避けておいて、何が滅びか『大災』か。
――神聖ヴォラキア帝国第七十七代皇帝、ヴィンセント・ヴォラキア。
「閣下こそが、ヴォラキア帝国。その閣下亡きあとの大地を踏み荒らして、それで滅びだなどと笑止千万片腹痛しの大喜劇」
まるで、セシルスのような物言いでまだ見ぬ『大災』を嘲笑う。
おそらく、自分が目にすることのないであろう『大災』を嘲笑い、舌を出す。
「卑しき勝利を掠め取ろうとする犬に、我らの剣狼を殺せるものか。――当方が支え、形作ったヴィンセント・ヴォラキアを、舐めるな」
殺せるものなら殺してみせろ。奪うというなら奪うがいい。
予告された滅びなど、我らが皇帝を、我らが帝国を、滅ぼせると思うな。
あの日、溝に嵌まった車輪を抜いたのは、このときのためだ。
全ては、この、滅びを嘲笑うための――、
「――伏線と。そう言えば、セシルスを調子に乗らせるので絶対に言いませんが」
△▼△▼△▼△
――白い光が玉座の間を眩く照らし、直後に赤い血が盛大に飛散する。
赤い絨毯の上、飛び散った鮮血を盛大に浴びるのは正面に立った細身の男。
その顔に、冗談のような鬼の面を被った男は、面の裏に隠された黒瞳を見開いて、目の前で展開された事象への驚愕に立ち止まる。
静止したその男の前で、血をぶちまけた体が前のめりに崩れ落ちた。
その背後から、無防備な胸を背中から貫かれ、それは容赦なく心の臓を破壊し、生命の維持に必要な余地の何もかもを根こそぎに奪い去った。
「――――」
傾く体を支える腕はなく、為す術なく絨毯の上へと倒れ込んだ。
そのまま、倒れた体はピクリとも動かず、末期の言葉はおろか、吐息さえこぼれない。
心の臓を貫かれ、生きられるものはいない。
故に、それは必然の出来事、訪れるべくして訪れた運命の終着点。
「――――」
男は死んだ。
チェシャ・トリムであり、チシャ・ゴールドとなって、そしてヴィンセント・ヴォラキアとして、男は死んだ。
――それが、この瞬間に起こった出来事の、全てだった。