30
※
「――ここに放置すればいいんだな」
「ああ、これで任務は終わりだ」
「しかし勿体ない、見ろよ、この絹のような肌を――」
「馬鹿、必要なこと以外で、指一本も触れるなと言われて――」
「分かってるよ、行こう」
――
無意識の領域で、言葉を聞く。
意識の外側、何枚もの壁を隔てたような遠くから声が聞こえる。か細く、しかし奇妙に鮮明に。
その声も消え、足音が遠ざかり、あとには沈黙だけが残る。
停滞。
昏黒。
僅かな拍動。
氷の棺に封じられるような睡り。意識が覚醒する前に、周囲のことが加工されぬ情報として体を通り抜けるかのような。
じりじりと、蝋燭の灯芯がはぜる音がする。
頬にわずかな熱を感じる。
まぶたを透かして光が届く。
「――う」
それは一瞬だったのか、あるいは数分間をかけた緩慢な覚醒か。
エイルマイルの意識が戻ってきた時。
「――!」
はっと、瞬時に身を起こす。
「ここは――」
石造りの部屋のようだ。
肌に当たる風は、夜気をはらんでわずかに冷たい。部屋の片隅で、燭台がじりじりと燃えている。上半身だけを起こしているため、床についている部分はまだ石の冷たさが――。
「――え。ひゃっ」
その人物、セレノウ第二王女エイルマイルは、己が一糸まとわぬ姿であることに気づく。
夜会に出たときの乳白色の水着も、腰に巻いていた水色の布も、大きめの帽子も無くなっていた。一瞬、辱めを受けたのかと思い至って青ざめかけるが、どうもその気配は無さそうだと気づいて安堵する。何ゆえにそうと判ったのかは、深い夜の底での謎である。
「……たしか、夜会で飲み物を口にした後、急に眠くなって、何人かに介添えされて連れ出されたような……」
その後は急に眠りが深くなって覚えていなかった。誘拐されたということの不覚に、今更ながら悔恨の感情が浮かんでくる。
恐れながらも周囲を見回す。
周囲は一辺10メーキほどの部屋。窓はなく、地下の倉庫という印象である。周囲に積み上がった木箱であるとか、丸めて立てかけられた絨毯、木人形の着た鎧。ホコリを被った絵画、楽器や刀剣、花瓶、そんなものが山と置かれている。
「ここは、どこかのお屋敷の物置? 何か高価なものが多いようだけど……」
見れば、無造作に置かれている鎧は一部が銀で飾られている。実用ではなく調度品のようだ。絵画も、壺も、かなり達者なものだと分かる。絵画に至ってはいわゆる名画も含まれている。
「誰かいますか? 私をセレノウの王女、エイルマイルと知ってのことですね? 姿を見せなさい」
パルパシア主催の夜会での拐しである、よもや人違いもあるまいと、それはやはり貴人の持つ強さと言うべきか、堂々と名乗りを上げて声を飛ばす。
しかし、反応がない。
部屋の外には物音一つなく、扉の格子から奥を見れば、短い廊下の先に階段があり、その先は完全な闇である。どうも一階部分に照明が灯いていないようだ。
扉に手をかける。驚いたことに、それはギイと軽い軋みを見せて開いた。廊下から夜の気配が流れ込んでくる。
「……?」
エイルマイルの頭上に疑問符が飛ぶ。
自分は監禁されているのではないのか。それとも犯人たちが鍵をかけ忘れたのか、睡眠薬が切れるのをもっと長く見積もっていたのか。王族を攫うことの恐れ多さに逃げ出したのか。そんなとりとめのない想像が、浮かんでは消える。
壁にかかった三叉の燭台の光、そのほの赤い光にだんだん目が慣れてきた。倉庫なのは間違いないようだが、やはり庶民のそれとは違う、かなり裕福な家の物置という感じがする。無造作に置かれた家具類、調度品はどれも一流のものだ。
「……何か、着るものはないかしら」
そのへんのタンスの戸を開けてみる。
金貨がぎっしり詰まっていた。
「……!?」
今は一般に流通していない古い金貨だが、引き出しに一杯である、かるく数百万ディスケットはある。
別の戸を開ける。中身は機械式のオルゴールだった、しかもエイルマイルの知る中で、世界一と言われる職人による逸品である。小さいものなら家が買える。
また別の戸を、眼球のように大きなエメラルドが出てきた。
別の戸、どこかの銀行債のようだ、額面が空白になっているが、印鑑と署名がしっかり書かれている、いわゆる白紙手形である。
「な、何なんです、これは……」
宝石、刀剣、楽器類、陶器類、絵画類、なにか重要そうな書類、希少な紅茶や酒類、そして蜂蜜。
「どこかの富豪が、税金逃れのために隠している財産……? それとも博物館の地下倉庫……? 本当に凄まじい、鑑定の専門家ではないけれど、おそらく総額で数十億、いえ数百億ディスケットの価値が……」
クイズ王としての好奇心旺盛さゆえか、そのまましばらく部屋の探索を続ける。
その中で服も見つかった。古いが、泡のように細かな刺繍の施されたドレス、下着と肌着、絹のタイツ。それぞれ別の引き出しや木箱から見つかる。
「……誘拐されてるのだし、お借りしてもいいはず……。あと靴もないかしら」
と、また別の木箱を開けた時。
「――!」
エイルマイルは目を見張る。
――なぜ、これがここに。
「いえ、形状が少し違う……?」
形状としては六角形の板。片手で持てる程度、人の顔ほどの大きさの板である。
見間違えるはずはない、その輝きを、真珠の表面のような光沢、わずかに揺れ動くかに見える七色の煌めき。この世に唯一つだと思っていた、その複雑玄妙な輝き。そのゆらめきの奥に、人ならぬ世界があると語るかのような――。
「――妖精の鏡。世界にもう一つあったというの……?」
※
「この屋敷か」
「元は商人の屋敷だったはずだが、今は倉庫として貸し出されているらしい。このあたりは工房街で、夜間は人気が少ないから住むには向かないんだ」
馬車を降り立てばそこは夜の底。まばらに街灯が立つ以外は人の姿もなく、祭りの喧騒は海鳴りのように遠い。
「よし、ラジオをつけよう」
「ラジオ? なぜ今なんだ?」
「誰かが潜んでいる可能性もある、僕たちは戦いに来たわけじゃないんだ、物陰からいきなり襲われてはたまらないからな」
「む、なるほど」
それはサイズとしては広辞苑ほど、中央が四角にくり抜かれており、再生の際はそこに記録体をはめ込んで使用する。ユーヤはそれを専用の革ベルトで腰にくくりつけている。かなり重いが、妖精と記録体、この二つを内包している以上はこのサイズが限界のようだ。
――この再整備計画についてハイアード貿易局は、港湾整備は喫緊の課題であることは理解するが、日々絶え間なく訪れる船舶に対して影響が出ないよう努力したい、とコメントしております。以上、9時台のニュースをお届けしました。
屋敷の戸に鍵はかかっていない、特に躊躇もなく踏み込み、ガナシアが手筒のようなものを構えて周囲を照らす、わずかに届く蜂蜜の匂い、その懐中電灯のようなものも何かの妖精のようだ。
「誰かいるか、僕たちはセレノウの者だ、この屋敷にエイルマイルが連れ込まれたことは分かっている」
――こんばんは皆さん、良い夜に良い音楽と良いトークを、10時を回りました、ここからは甘い時間をあなたと共に、メルティー・レムがお送りします。今夜は妖精王祭儀の熱気に包まれたハイアードキールから公開録音にてお届け――
「パルパシアの双王、いるんだろう? すべて分かっている」
――夜空はスッキリと晴れ渡った星空、気象台の発表によれば夜明けまで雲ひとつない快晴、素敵な星空を恋人と過ごすか家族と過ごすか、あるいはどこかのお店でクイズイベントに熱狂するのか、かけがえの無い祭りの夜をどうかお幸せにお過ごしください。さあ最初のナンバーは懐かしの名曲――
「出てくるんだ、逃げ隠れする気なのか」
「ユーヤ様!」
地面に降りる階段から、燭台を持ったエイルマイルが出てくる。何やら繊細な刺繍のドレスを着て、白い靴を履いていた。
「エイルマイル!」
「ユーヤ様! 大変です! 大変なものを見つけて――!」
エイルマイルは何やら気を焦った様子である。ユーヤは、ほとんど誰にも気づかれぬ程度に眉根をしかめる。エイルマイルは監禁されておらず、素直に自分たちの前に出てきた、その展開は、予想していた中ではかなり悪い。
「エイルマイル、無事だったか、何も言わなくていいからこっちへ」
「これです!」
そしてドレスの襟元から抜き出すのは、六角形の円盤。表面は真珠のように煌めき。油膜のような水面のような、形容しがたい揺らめきを見せている。
「分かった、それについては――」
「妖精の鏡です! 形状がセレノウのものと違いますが、なぜかこの建物の地下室に」
「黙って!」
ユーヤの鋭い声に、第二王女はびくりと身を竦ませる。
黒髪の異邦人は短く嘆息して、意識的に声を大きく、まだ見ぬ邸内の闇の奥を呼ばわる。
「……もういいだろう! そろそろ出てきたらどうなんだ、パルパシアの双王!」
言葉に応じるかのように、一気に周囲が明るくなる。
それは原理としては黒塗りの箱、そこに封じられていた光を発する妖精を、蓋を取り払うことで一気に解放するという方法である。妖精は好き勝手に飛翔し、しかし何らかの本能であるのか一箇所に密集することはなく、天井の四隅と中央に、階段の上に、地下室に、そして館の隅々にと等間隔に散らばって、隈一つない白々たる光で空間を満たす。
そして階段の上に浮かび上がるのは、蒼と翠。
股下を大胆に取り払ったタイトワンピースはスカイブルーとモスグリーンに染め上げられ、手に持つ羽扇子も同系色でまとめている。扇子で顔を隠す二人の王は、口元を隠しながらも目元は笑みの形に歪んでいる。それは愉悦の笑みであり酷薄の笑み。高みから見下ろす者だけが持つ夜郎自大の笑みである。
「え――そ、双王、ユギ様とユゼ様……」
「まずはこれを渡そう」
と、双王の放り投げるのはガラスの立方体。エイルマイルはわけも分からぬまま、それを受け取る。
「エイルマイル王女、そなたが映っておる記録体じゃ、裸じゃから人に見せぬようにの」
「え……? わ、私を? なぜ……」
ユーヤはふうと長く息を漏らし、頭を掻いて言う。
「パルパシアの双王が、君を拐った理由、それは金銭でもなく、君自身を排除したかったわけでもない。知りたかっただけなんだ」
「知りたかった……?」
「君が何に興味を示すか、だよ」
「……え?」
エイルマイルはまだ何も分からぬと言った風情で、あるいは何かを分かりかけて、その断崖の縁で立ち止まるような、そんな思考の止まった表情をしている。背後のガナシアは少しは察するところがあったのか、奥歯を噛み締めて立ち尽くしていた――