生まれ変わりましょう、お姉様
騒ぎを聞きつけ、他の使用人達もわらわらと集まってきた。
「奥様! どうなさった!」
「マリー様大丈夫? 誰? 敵っ!?」
砂埃にまみれたわたしと、見知らぬ闖入者を見て気色ばんだのを、慌てて状況を話し落ち着かせる。
チュニカとミオが二人がかりで、髪についた葉っぱを取ってくれた。
「ああーせっかくキレイキレイにしたのにぃ。もう一回お風呂に入りますぅ?」
「いえ、わたしは平気……」
わたしが断ると、チュニカはちらっとアナスタジアのほうを見た。
職人街に溶け込むためか、短いのに野放図になった髪は土埃で更に汚れて、作業服も泥だらけ。少年にしか見えない姉を、チュニカは上から下まで不躾に眺める。
「あれが、噂のアナスタジアおねーさん? えー、言うほど美人でもなくない? マリー様のほうが全然……」
「チュニカやめて」
わたしはすぐに、彼女を諫めた。自分を卑下して謙遜したのではなく、ただ姉を悪く言われたことが嫌だった。
チュニカはちゃんと察して、ごめんなさいと謝ってくれる。
その横で、しゃがみこんだままのキュロス様が、ヨハンとウォルフガングに叱られていた。気持ちは分かるが当人にぶっちゃけることじゃないとか、身内の前でマリー様が恥をかくだろうとか。キュロス様もちゃんと、ごめんなさいと言っていた。
アナスタジアはそれらをキョロキョロ、首を巡らせ目をしばたたかせて見つめていた。
「……あれが……ほんとにキュロス・グラナド? このひと達みんな、使用人……?」
そういえばアナスタジアは、嫁入り前、グラナド伯爵の悪い評判を聞いていたわ。女嫌いとか偏屈とか、鬼のように使用人に厳しいとか。
――なるほど、そういうことだったのね。アナスタジアの言動に納得がいって、わたしは思わず、笑ってしまった。
持ち直したらしい、キュロス様が立ち上がる。
「ではとりあえず話し合いだな。お互い色々と誤解があるようだ。シャデラン家についても話してもらいたい。この三ヶ月、君がどう過ごしていたのかも」
「……そうですわね。わたくしもまだあなたに聞きたいことがありましてよ。場合によっては、何としてでもマリーを奪い返しますので、そのおつもりで……」
キュロス様を睨むアナスタジア。わたしは、ぱちんっと手を叩いた。
「待って! アナスタジアにお城の案内をしてあげたいわ。話の前に、グラナド城を堪能していただきましょうっ」
「えっ!?」
という悲鳴は、アナスタジアが上げた。きょとんとする男性陣、ミオとチュニカは、オッと楽しそうな顔をした。
「ナイスアイディアですねぇー。じゃあ私はさっきのお詫びがてら、いつもマリー様にしているフルコースで、おねーさまを磨いちゃいますっ」
「では私はお着替えをお持ちします。マリー様用のものはサイズが合わないでしょうから、城の倉庫にある商品から見繕って参りますね」
「トッポは美味しいご飯を作る! お腹ぺこぺこでしょう?」
それにはわたしは待ったを掛けた。
「みんな、ほとんど徹夜じゃないの? 休んでちょうだい、アナスタジアの案内ならわたしがするわ」
「それは君もだ、マリー」
キュロス様に窘められる。わたしの頭の上にポンと手を置き、撫でながら。
「確かに、アナスタジアも俺達も、休息を取るべきだな。徹夜明けでは、自分は冷静なようでも正しく頭と口が働いていない。話し合いは仮眠のあとにしよう。……少々時間がかかっても構わない。きちんと、話そう。……愚かなすれ違いが二度と起きないように……」
キュロス様……。わたしは深く頷いた。
姉はしばらく戸惑っていたけど、「じゃあ、それで……」と小さく呟いた。使用人はそれぞれ散開し、自分たちの仕事や部屋に戻っていく。
アナスタジアはチュニカに手を引かれしおらしく、浴場に連れて行かれていった。……ややあって。
「――わぁー、アナスタジア様のおっぱい、まったいらで可愛いー!」
「マリー! なんなのここの使用人達はっ!?」
アナスタジアの悲鳴が聞こえた。
思わず、苦笑い。わたしの肩を、キュロス様は抱き寄せた。
「アナスタジアは、君の部屋で休ませてやってくれ。やっと再会できた日だし、初めての城で、一人眠るのは落ち着かないだろう」
「……はい。そのつもりでした」
頷きながら、ちらっと彼の顔を見る。何故か顔を背けて、どことなく拗ねたような表情。わたしは言ってみた。
「キュロス様は、独り寝が寂しくないですか?」
「寂しい。だからすぐ起きてしまった」
彼は即答した。脱力して、笑ってしまう。キュロス様はわたしの目尻にキスをして、頬を優しく啄んだ。互いにもたれ合うように身体を寄せて、甘い言葉を、内緒話みたいに囁き合う。
「寂しいに決まってるだろ。俺はまだ、君の寝顔も見ていなかった」
「えー? 前に見たじゃありませんか、ほら熱で寝込んだとき」
「ああいうのは寝顔と言わない。添い寝もしてないし」
「うふふ、わたしはたっぷり鑑賞させていただきました」
「ずるいぞ、先に起きてしまうなんて。朝、俺の腕枕で眠る君をつついて起こすのが夢だったのに」
「……そんなの、これからだって出来るわ」
「いつ?」
「あ……あした、あさってくらい?」
キュロス様は、俯いたわたしの顎を掴み、唇に親指を押し当てた。それを、今度は自分の唇へ。
「じゃあ予約」
冗談めかした所作で、でも緑の瞳の輝きは絶対本気で……わたしの胸に何か熱いものが沁みだした。甘ったるい痺れに身震いする。どうしよう、今すぐキュロス様に抱きつきたい。力いっぱいギュウーッてして、おでこをグリグリしたいっ。
そう思った途端、キュロス様のほうから抱きしめてきた。彼の胸に顔を埋め、思いっきりグリグリしたら、くすぐったそうに「痛いぞ」と言った。
彼の手の、五指の間に一本ずつ指を差しこんで、手のひら同士を擦り合わせ、握り込む。するとまるで、そこがわたしの指の本来あるべき場所みたいにしっくりくるの。
ああわたし、ずっとこれを探していたのね。闇の中を藻掻き、自らの喉を引っ掻いて、探し続けていたもの。
ずっと前から、わたしに向かって差し出され続けていた、彼の手。
その手を取るだけで良かったんだ。
お風呂と着替えを済ませたお姉様。部屋着と言ってもさすがグラナド城、上質な白絹に銀糸で刺繍が縫い込まれ、身動きするたびキラキラ光る。
少しだけ散髪もされたらしい、ただ短く切っただけだったのが、可愛らしいショートヘアーに整えられていた。髪も肌もふわふわつるつるになったお姉様は、天使のように可愛らしい。しかし汚れと一緒に毒気も抜かれたようで、なんだか大人しくなっていた。
自分の腕や爪のにおいを嗅いだり、袖を揺らしては、すごい……と呟く。
館にある、わたしの部屋へ移動する。途中何度も、アナスタジアは足を止めた。
「大きな屋敷……えっ建物の中に水道……なんて透明なガラス……うわっあのシャンデリア、まさかぜんぶクリスタルなんてことは……!?」
「お姉様、ここがわたしの、今のお部屋です」
扉を開けて導く。アナスタジアは一度、足を踏み入れてから、バックで退室した。
「何この部屋! は、拝観料とか要るんじゃないの!?」
「大丈夫ですよ。そちらのティーテーブルでおくつろぎになって」
と、案内したのに、アナスタジアは座らなかった。
「木製なのに……なんでこんなにピカピカなの……?」
まあ、しばらくすれば慣れてくれるだろう。わたしは砂埃のついた服を着替えるため、クローゼットを開いた。その向こうには、百を超えるドレスが吊られている。
「マリー、そのクローゼットって何人分?」
「わたし一人で使わせて頂いてます」
「……ところでこの燭台、純金ってことはないわよね」
「ど、どうでしょう、聞いたことはないのでわかりません」
「花瓶が、どう見ても翡翠を削り出したものなんだけど」
「え、それ宝石だったんですか!?」
時々わたしも一緒に驚きながら、部屋の探索に時間を浪費する。
やがて、扉がノックされ、ワゴンを引いたミオがやってきた。
「入眠前のお茶と、軽食をお持ちしました。六種類の魚介類を使ったカナッペです。こちら、タプナードは鰯塩漬と黒オリーブのペースト、スモークサーモンのサワークリーム和え、アボカドとエビのレモンソース、蟹クリーム、エスカルゴバターのバジルソテー、カレイとフレッシュチーズを共に揚げたフリットでございます」
「……お……おさかなのともだちがいっぱいね」
アナスタジアは、ぼんやり呟いた。
お腹にものが入り、お茶で温まると、姉妹二人とも欠伸を連発しはじめた。本当はもう少しだけ、話をしてから休むつもりだったけど、アナスタジアがそれを制した。
「もう、よく分かったわ。マリーはここで、とても大切にされているのね……」
わたしは微笑んで、頷いた。百聞は一見にしかず、わたしがキュロス様達を庇うより、実際に体験してもらった方が良いと思ったのだ。
二人で一緒に、ベッドへ入る。とても大きなベッドだから、小さなお姉様と並んでも十分広い。
「では、目が醒めたら、お姉様の話を聞かせてね」
「……ええ。そうね」
「おやすみなさい、お姉様」
「……おやすみ……」
姉は、わたしに背を向けたままだった。華奢な肩がかすかに震えているのに気が付いて、わたしは、姉を抱きしめた。背中越しに手を握ると、姉の手は冷たく、やはり震えていた。
「お姉様。もし話したくないならば、話さなくてもいいですよ」
「……でも……わたくしは、伯爵に……不義理なことをした。マリーにも……。わたくしには、話す義務がある……」
「大丈夫です。わたしもキュロス様も、幸せですもの」
「それは結果論。もしあの伯爵が、わたくしが思っていたとおりの男だったら、わたくしが逃げたせいで、マリーが、今頃」
「大丈夫です。それはただの悪夢、現実ではありません。大丈夫ですお姉様。わたしはあなたが、生きて帰ってきてくれただけで」
「わたくしは、ずっと、ずっと前から、マリーが傷ついてるのを、知ってて、お姉ちゃんなのに、何も出来なくてっ……」
「大丈夫。わたしはお姉様が好きです。あなたの妹に産まれた日から、今日までずっと、アナスタジアのことが大好きですよ」
胎児のように丸まって、泣きじゃくっている小さな姉。わたしは彼女の背中を抱いて、ひたすらに、大丈夫と大好きとを囁き続けた。
この城の住人達、そしてアナスタジアが、かつてわたしにしてくれたように。
アナスタジアの身体はなかなか温まらなかったけど、だんだんしゃくり上げる声が小さくなって、背中の強張りも解けてきた。するとわたしも眠気に襲われ、アナスタジアを撫でる手も、ゆっくりになってくる。
ふと気が付くと、姉はわたしのほうを向いて、胸に顔を埋めて眠っていた。まだ濡れている頬を撫でる。
ずっと……ずっとわたしを護ってくれた、お姉ちゃん。
今ならわたしが、彼女を護れるかもしれない。
――護りたいと思う。彼女もまた、わたしの大切なひとの一人なのだから。
姉の安らかな寝息を聞きながら、わたしは目を閉じた。