わたしよりもずっと、綺麗だから
今朝も、マリーは可愛い。
俺の顔を見ると、いつも一瞬、驚いたように目を丸くする。これは彼女のクセなのだろう、一度目を伏せてから、すぐに視線を合わせ、やがて微笑む。
「おはようございます、キュロス様」
「おはよう、マリー」
俺が答えると、それだけで頬を染める。可愛い。
自室で朝食の最中だった彼女、フォークを置き立ち上がろうとする。
「気を遣うな、食事を続けてくれ」
俺が制すると、きちんと手を揃えて礼を言う。そうした態度は、少し堅すぎるような気はするが……使用人に対してもそうなので、これも彼女のクセ、性格なのだろうと見て取っている。可愛い。
隣の席に俺が座ると、やっぱり照れくさそうにしている。可愛い。
――ふと気付くと、いつのまにか俺は彼女の頬に口づけをしていた。彼女が頬を押さえて赤面しているので、してしまったのだろう。可愛いので、今度はしっかりと意識を保ったうえでキスをしようと肩を抱き……。
「旦那様、マナー違反です。マリー様のお食事の邪魔をなさらないでください」
ミオに可愛くない口調で叱られた。正論なので仕方なく、俺は居住まいを正した。
それでも少し、引っかかるものがあった。ミオに愛想が無いのはいつものことだが、なんとなくいつもに増して厳しいような?
侍女は俺に茶を淹れながら、かすかに顔をしかめていた。
「――ごちそうさま。ごめんなさい、もう下げてちょうだい」
マリーがそう言って、フォークを置く。しかし料理はずいぶんたくさん残っていた。丸々手を着けていない皿もある。元々の量が多すぎたわけではないだろう。
「どうしたマリー、食欲がないのか? それとも口に合わなかったか」
「……いえ。ただ、なんとなく……」
「体調が悪い? なら、温かいお茶だけでも飲んでおけ。お菓子なら食べられそうか?」
彼女は曖昧に首を振る。ミオの出したクッキーを前にしても、なかなか手を着けようとしなかった。もしかすると本当に体調が悪いのかも知れない。
……ただでさえ耳に入れたくない話だが……彼女に伝えないわけにはいかない。俺は、あえて単刀直入に用件を切り出した。
「シャデラン男爵が、まだ来ない」
マリーは表情を変えなかった。
「召喚状は確かに届けられたが、返事もない。昨日、改めてうちの者と馬車を出し、そのまま男爵を連れ帰ってくるよう言いつけた」
「……そうですか……」
「しかしそれでも拒否をし続けたり、居留守を使う可能性は高いと思う。そうなったら、少々手荒な手段を取らざるを得ない、かもしれない」
「畏まりました。お手数をお掛けいたします。申し訳ありません……」
「マリーが謝ることじゃない」
俺はすぐにそう言ったが、マリーはやはり首を振った。
「わたしはシャデランの娘ですから。父が何の罪で呼ばれているのか、なぜ来ないのかも分かりませんが、実家がご迷惑をおかけしているのは確かでしょう。……もしも父が、このまま雲隠れした場合、どうぞわたしを代わりに裁いてください。いかような罰もお受けいたします」
「何を言っている? そんなこと俺が許さない。君だけは俺が護ると言っただろう」
「大丈夫です。わたしは、いつでもここを追放される覚悟をして来ておりますから」
見当違いなことをいう彼女は、不思議と、晴れやかな表情に見えた。不安で揺れているようではない。
凜々しい力強さすら感じたが、ネガディブなことに前向きになられては困る。慌てて否定するより早く、彼女は立ち上がった。まだ一口もお茶を飲んでいない俺を振り向いて、
「サロンホールに、リュー・リュー夫人と楽団が待ってくれています。ダンスの練習は一人でも出来ますから、キュロス様はゆっくりおくつろぎになってくださいね」
「いや、今すぐ俺も行くよ」
もちろん、俺も席を立つ。
先日のこともあり、俺とミオ、それにリュー・リューも、マリーが気負いすぎているのではと心配していた。伯爵夫人、のちに公爵夫人の矜恃をもつのは良いが、根を詰めすぎては心身を壊す。目を離してはいけない、もしもまた、足を傷めるまで踊ろうとしたらやめさせなければ――と、思ったら。
音楽に合わせ、しなやかに舞う長身。白い手指が宙を撫でる。ゆっくりと身体を屈めても、強く床を蹴り上げても、マリーはグラリともしなかった。
ステップや振り付けに一切の狂いもなく、それでいて表情は穏やかで、楽しそうに見える。
一体いつの間に、これほど上達したのだろう。マリーのダンスはもう完全無欠だった。
「……完璧よ。もうあたしが教えることなんて、何にもないわ……」
リュー・リューも絶賛を越えて絶句。マリーは照れくさそうにしながらも、謙遜をしなかった。
「ありがとうございます。頑張りました」
頬を染めながら笑う。本当に頑張ったのだろう。この短期間で、それも、身体を傷つけないようにという俺たちの言いつけを守りながらだ。きっと一回一回に意識を集中して練習したのだ。それがどれだけ難しいかは、元踊り子のリュー・リューが一番良く知っている。
リュー・リューはサロンを出て行く途中、俺の肩をどやしつけた。
「手放すんじゃないよ。あんたにはもったいない子だ」
「言われるまでもない」
母親は、にやりと笑って退室した。
演奏を終えた楽団も、早々に片付け始めていた。マリーはまだ、ほとんど汗も掻いていないようだ。俺は手を差し伸べた。
「ご令嬢、わたくしめと一曲、踊っていただけませんか?」
「……よろこんで、卿」
頷いたマリーは、笑っていた。
百人が踊れる広いサロン。ワルツのメロディを口ずさみながら、手をつなぎ、腰を抱いて、踊る。二人きりでも寂しくなどない。マリーが楽しそうにしているから。
「本当に上手になったな」
俺が褒めると、やはり、嬉しそうにする。
「ふふっ、たくさん練習しました」
「ダンスだけじゃない、食卓の花はマリーが活けたと聞いたぞ。テーブルコーディネートも」
「あら、ヨハンが言ったの? それともトッポかしら。恥ずかしいわ、ちゃんとできるまでキュロス様には内緒にしてって言ったのに」
「出来てた、出来てた。たいしたものだよ」
「ありがとうございます。王侯貴族同士のおもてなしには、夫人自らがテーブルを作るものだと聞いたので」
それは、合っている。だが婚約式当日に新婦がやらなくてもいいことだ。
とりあえず俺は、無理をするなと念押しした。先日――馬車の中で抱いたときより、幾分骨張ったように感じる肩を掴む。彼女はそれを、嫌がるように身をよじった。
俺は逃がさなかった。
「痩せたんじゃないのかマリー。ちゃんと食べて、寝ているか?」
「……はい。ミオに課せられたぶんはこなしています」
「なんだその返答。やっぱり無理をしているんじゃないのか。マリーは今のマリーのままで十分、不安なところは俺たちが支える」
マリーは返事をしなかった。代わりに、不意に問いかけられた。
「キュロス様、わたし、踊りにくくはないですか?」
「……いいや? むしろ今までで一番踊りやすいな。社交界の誰よりも君がいい」
「背丈がちょうど合うのですね」
そういう意味ではなかったが、それも真実。俺もマリーも背が高すぎて、普通の異性とは丈が合わず、お互いならばちょうどいい。運命的な組み合わせだと俺は嬉しく思った、が。
「申し訳ありません。わたし、女らしくなくて」
目を伏せて俯く彼女。その腰を引き寄せる。
「俺は背丈で、性別らしさを考えたことがない」
「だけど小さいほうが可愛いでしょう?」
「そうとは限らないだろう。俺はロバより馬のほうが可愛いと思うぞ」
ん、これはあまりフォローになってないか?
俺は彼女のすべてが好きだ。内面はもちろんだが、その容姿もやはり美しい。
自身が女らしくないという背丈や大きな手も、凜々しい顔立ちも、燃えるような赤い髪も、愛おしい。
俺は彼女の腕を引き、胸元に寄せた。ほっそりしていながらも柔らかい、これ以上なく女性的な身体を抱き留め、囁く。
「君は、綺麗だ」
マリーは言った。
「……アナスタジアは、もっと可愛くて綺麗ですよ」