仮留めの指輪だけどあったかいです
扉の外まで投げ飛ばされたルイフォン王子様は、
「痛いなあ、いきなり何するんだい? ミオちゃんは相変わらず不可解だね!」
と文句をつけただけで、それ以上追及することはなくケラケラと笑っていた。キュロス様もミオもそれで済ませる。どうやらこの三人にとって、十年来の日常風景らしい。わたしはさすがに気が気じゃなかったけど……。
ちょうど朝食刻、わたしとキュロス様、そしてルイフォン様は一緒に食堂へと移動した。朝は、一日のうちで一番たくさん食べるのがディルツ王国の食事文化。
今日の朝食はローストビーフとレタスをたっぷり詰めたベーグルサンド、オニオングラタンスープ、塩茹でにした大エビと、山盛りのフルーツ盛り合わせだった。テーブルに並んだのを見て、ルイフォン様はオーッと歓声。ベーグルサンドを一口食べて、オオーッと大仰な声をあげた。
料理長トッポを振り返り、
「さすが、グラナド城の食事はいつも美味しいね! 料理長、たまには王宮にも差し入れてくれたまえよ」
「恐れ入ります、殿下」
「いやほんとに。王宮料理は形式に囚われすぎというか、戦前のままでどうにも味気ない――ん? 料理長、前に見た時より痩せたね?」
問われて、トッポはホウと溜め息をついた。
「……婚約式では、来訪者全員にビュッフェで大盤振る舞いをするのです。王侯貴族に一般市民、色んな国の老若男女がやってくるから……」
「ああ、献立作りや仕入れで大忙しなのか」
「そうなのです。もうあと二週間しかありませんし」
あと二週間――他人の口から聞こえた数字に、どきりとする。
タイムリミットに向け緊張しているのは、わたしだけじゃない。トッポもげっそり、うなだれていた。
「このところ、トッポいっぱいいっぱいで食べても食べてもお腹ぺこぺこ……」
あらまあ本当に、なんだかずいぶん痩せたみたい。顔も身体も形が変わっていた。なんというか、いつもまんまるクリームパンみたいだったのが一回りしぼんで、人間の形になってしまっている……ん? これは良いことなのかしら?
正解を探してキュロス様を振り向くと、彼はやはり、渋い顔をしていた。
「トッポ、あまり根を詰めるな。オードブルくらいは外部業者に丸投げしたっていいんだぞ?」
「ううん、ここはグラナド城料理長の腕の見せ所。トッポ、婚約式を楽しみにしてるからっ」
トッポの青く澄んだ瞳がきらきら輝く。あっ……これ、やせ我慢なんかじゃないわ。本当に、今の仕事を楽しんでいるんだと分かる。エビの殻を剥きながら、笑うルイフォン様。
「いい料理人だ。キュロス君は使用人に恵まれているね。みんな一所懸命に、だけど楽しそうに働いてる。従業員教育の秘訣を教えて欲しいな」
「別に、これはという人材に出会ったら熱心に口説いているだけだ。あとはわりあい自由にさせている。主が従業員に与えるのは命令じゃない、適材適所の配置とやりがい、それに見合う待遇だ」
「なるほどねぇ……うーん。僕は君ほど、ひとを見る目がないからなあ。新人教育に手間がかかって仕方ないや」
「新人よりもその上司を、教育者として育て上げるといい。グラナド商会では、発展途上国に学校を建て、労働者としてではなく将来の管理職になれる教育をしている」
「莫大な資金がかかるよ……そりゃ長い目で見ればってのもわかるけどさ」
「必要な投資だろ」
巨大商会の主と、王国騎士団の長はそんな話をする。わたしは隣で黙って食べ進めながら、彼らの話に耳を傾けていた。
途中で一度、キュロス様は「退屈な話をしてすまないな」と気遣ってくれた。わたしは首を振った。シャデラン家の食卓では、一度も聞いたことのない経営論……とても興味深くて、面白かった。
一通りお話と、食事が片付いて……キュロス様はふと、今更のように友人に問うた。
「そういえばルイフォン、こんな朝から何しに来たんだ?」
「あっそうだそうそう、はいこれ」
イチゴを口に放り込んでから、ポケットから小箱を取り出すルイフォン様。もぐもぐやりながらわたしたちの前にパカリと開く。
そこにあったのは、白銀に輝く金属の円輪と、その上に載せられた、目がくらむような紅い石――。
「あっ、これっ……!」
「ん、君たちの婚約指輪。土台が出来たんで、宝石を固定する前にサイズの確認にね」
喋りながらイチゴをもう一つパクリ。ルイフォン様はわたしの手を取って、指輪を填めようとした。アッと思う間もなく、キュロス様が指輪とわたしを奪い取る。ルイフォン様は苦笑した。
「まだ完成していないし、サイズを確認するだけだよ?」
「でもだめ」
キュロス様はきっぱり言った。そして、ご自分でわたしの指に……と、爪が通ったあたりで手を止めて、視線を宙に泳がせた。わたしの手を持ったまま席を立ち、友人と侍従達のいる食堂から、廊下へ出る。
グラナド城の使用人は少ない。人気のない廊下で、改めて、キュロス様はわたしに向き直る。
「宝石は、仮留めで乗せられているだけだから、こぼれないように……手を動かさないでくれ」
「……はい」
頷くと、彼は目を閉じ、深呼吸をした。大きな手……太くて長い指で、華奢な指輪を摘まみ、慎重に……わたしの左手、薬指へと差し入れる。
華奢な指輪は、わたしの白く長い指をすんなりと通り、根元まで到達。
「どうだ。きつくないか?」
「……大丈夫、だと思います。たぶん」
嫌な感じはしない。慣れない感触だけども、どこか心地のいい密着感があった。そっと右手で触れてみる。……不思議。小さな金属なのに、なぜだか柔らかく、温かいように感じるの。
「指輪って、こんな感じなんですね。……生まれて初めて着けました」
「初めて? 指輪が? 玩具でも?」
わたしが頷くと、キュロス様はなんとも形容しがたい表情になり、両手で顔面を覆い隠した。そのまま天を仰いで、はーっ、と息を吐き、呟いた。
「良かった。さっきルイフォンを止めておいて本当に良かった……」
なんだろう? キュロス様の心情が分からない。
けど……なんとなく、わたしも……初めて指輪を着けてくれたのが、このキュロス・グラナド伯爵であることを嬉しく思う。
ふふっ、と笑い声が出てしまう。
「ありがとうございます、キュロス様。本当に、嬉しい」
見上げるわたしを、キュロス様は、髪がくしゃくしゃになるまで撫で回した。掌で頬を愛撫し、耳の裏を指で擦られ、くすぐったさに悶える。肩をすくめて逃げた頬へ、静かに、挨拶のような口づけ。
キュロス様はわたしを抱き寄せ、唇の届くところ全部に小さなキスをしていった。わずかに触れるだけの唇は、くすぐったくて、じれったい。
わたしは身悶えして逃げながら、お返しとばかりに、彼の頬に二度キスをした。彼は一瞬だけ驚いたようだけど、すぐにもっと強くわたしを抱いて、何倍ものキスを降り注ぐ。
おでこに、頬に、目元に……どちらともなく顔を傾けて、唇を重ねた。
……そっと、唇を離すなり、彼は言う。
「マリー、好きだ。俺は心から、君を愛してる……」
――わたしもです、と言いかけた唇は、二度目のキスで言葉ごと奪われた。
次の呼吸で伝えよう、そう思ったのに、すぐにまた。ああもう、いつになったらわたしは話すことを許されるの? 婚約者に全身を抱きすくめられ、甘いキスに蕩かされて、何も言うことが出来ないまま溺れてしまう。仕方なく、胸の内で呟く。
好きです。わたしも、あなたのことが好きです。
この世の誰よりも凜々しく優しくて、わたしのことを大事に、愛してくれるあなた。わたしも、この世界にいる誰よりも、あなたのことが好き。あなただけを、愛しています。
乳白色に霞む視界に、ひょこっとひとり、銀髪の紳士が顔を出す。
「おーい、もういいかい? サイズがオッケーなら石を固定させるから、職人に出さなきゃいけないんだけどぉ」
わたしたちは慌てて身体を離し、大慌てで指輪を抜き取って、食堂の席へと駆け戻った。
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世の中、未曾有の状況ではありますが、当作品の発売中止・延期などはございません。ご安全に手に入れて頂ければ幸いです。
詳しくは活動報告でご連絡いたします。
いつもありがとうございます。みなさまも、どうかお体に気をつけて。