わたしはただ、出来るだけのことをします
グラナド城から、シャデラン男爵家へ召喚状を出してから四日。
早馬に乗せた文があちらに届くまで二日弱、その日のうちに馬車に乗り、急がせたならば明日、遅くとも明後日には、お父様がやってくる。
その間、キュロス様はまた不在がちになった。ミオとウォルフガング、リュー・リュー夫人が、入れ替わり立ち代わり、城の留守を守っている。誰かが帰ってくれば、誰かが出ていく。
わたしにはそれを待つことしか出来ない。キュロス様達に尋ねても、今は詳しく話せない、男爵が来ればわかるの繰り返しだった。
父は何の罪を犯したのだろう――という、疑念よりも。
それが明らかにされた時、シャデラン家は……わたしは、どうなってしまうのだろう――という、不安のほうが強かった。
……でも、だからって、いやだからこそ浮き足だってはいられない。わたしがするべき事をしなくては。
リュー・リュー夫人の手拍子に合わせ、身体を躍動させる。ワルツのリズム、メロディに乗って、決められたステップを踏むのは当たり前のこと。指先、脚のつま先まで意識して、優雅に踊る。
パートナーを慈しみ、踊りを楽しみ、それでいて上品に――音楽が終わるまで、貴婦人を気取るの。
「うん、オーケー! マリーさん頑張ったわね。すばらしい上達だわ!」
リュー・リュー夫人が拍手をし、わたしを褒めたたえてくれる。わたしは汗をぬぐいもせず、うなだれた。
「申し訳ありません……ワルツの、ステップは間違えていないと思うのですが、姿勢や視線は、途中でおざなりになってしまいました……」
うん? と怪訝な声を上げる夫人。
パートナー役のウォルフガングも、柔和な笑みを浮かべていた。
「気にするほどのことではございませんよ」
「……だけど完璧ではなかったですよね?」
「そりゃそうだけど、でもマリーさん、ダンスは完全に未経験で、ステップから始めて二週間でしょ。特にここ数日は、すっごい頑張ってるじゃない」
「ご来賓の皆様からすれば、わたしが最初にどれだけ下手だったかは関係ありません。婚約式当日に、披露するものがすべてになります」
手の甲で汗を拭う。一度だけの深呼吸で息を整え、すぐに、手を伸ばした。
「次こそは、最後まで集中を切らさないようにいたします。ウォルフガング、ではまた最初から」
「奥様、少しご休憩にいたしましょう」
ウォルフガングはわたしの手を取らなかった。窓の外、夕日に染まる空をちらと見て、
「ダンスは全身運動でございます。昼食後から踊りっぱなしで、お疲れではありませんか」
「ああごめんなさい、ずっと付き合わされて疲れたわよね。あなたはもう休んで」
「……ぼくではなく」
「リュー・リュー夫人、相手役を……いえ、わたしが一人で踊るので、見ていていただけますか? 少しでもおかしなところがあれば叱ってください」
彼らの体力を気遣いながらも、強引にお願いする。
十七日後に迫る婚約式では、新郎新婦によるダンス披露が最大の見せ場になるという。この巨大なサロンホールで王侯貴族たちに囲まれ、キュロス様と踊るのだ。絶対に、みっともないことはできない。
みんな忙しいのは分かっていたけど、だからこそ、限られた時間を有意義にしなくてはいけない。わたしが休憩なんてしてられないわ。
リズムを口ずさみながら、手足を動かし始めるわたし。リュー・リュー夫人は、ヤレヤレと腰に手を当てていた。
「真面目な子が本気を出すと、こんなふうになるのね」
……真面目なんかじゃないわ。
踊りながら、わたしは唇を噛んだ。
もし、わたしが本当に真面目なら、家の仕事ももっと早く終わらせて、そのぶん己を磨いただろう。十八にもなってワルツのひとつも踊れないなんてありえない。こんな土壇場で、ひとに無理を言って猛練習に付き合わせることはなかった。
アナスタジアなら、四年も前に社交界デビューをしている。踊りだってもちろん完璧だったろう。
――ごめんなさいアナスタジア。一番の晴れ舞台を、わたしが奪ってしまって。
……ふと、そんな考えが頭をよぎる。
それでも微笑みは絶やさない。それがワルツの規則だと、教科書には書いてあった。だから笑う。
笑いながら、空中をもがく――指先を、突然ギュッと強く、掴まれた。
「熱っ――?」
一瞬、ヤケドをしたかと思った。だけどそれはヒトの体温で、わたしの指先が冷え切っていたせいだと気付く。
掴んでいたのは、キュロス様だった。
いつの間に城へ帰っていたのだろう。わたしの手を握ったまま、彼は、とても厳しい顔をしていた。
リュー・リュー夫人がホッと息を吐いた。
「キュロス、お帰り。ちょうど良かったわ、マリーさんと一緒に休息を――」
「ちょうど良かったです、キュロス様。パートナー役をお願いできますか?」
わたしは彼を導いた。
本番ではキュロス様がパートナーだ。まずステップを覚えるまではと遠慮していたけども、元来練習台には、彼本人が一番適任に違いない。
黙ったままの彼に身を寄せて、腰に手を回す。キュロス様もあまり社交界はお好きで無かったそうだけど、貴族の教養として当然、ワルツは身につけておられる。
ウォルフガングよりずっと大きな身体。わたしはリズムを口ずさみ、大きく脚をサイドへ――
次の瞬間、わたしの身体はまるごと宙に浮いていた。キュロス様が無言のまま、いきなりわたしを抱き上げたのだ。
「きゃっ!? な、なにを――」
宙ぶらりんになった足から、靴がこぼれ落ちる。剥かれた爪先を見て、キュロス様は、大きな声を上げた。
「なんだ、この血だらけの足は!」
「えっ!?」
夫人とウォルフガングが慌てて駆け寄ってくる。わたしはドレスの裾で足を隠したが、キュロス様は許してくれなかった。
「その靴は、君の足にしっかりと合わせて作らせた。昼から夕方までの練習で、これほど傷つくはずがない。……マリー、一体何時間踊り続けている?」
「……朝……夜明けから、自分の部屋で――あっ」
みなまで言わせてはもらえなかった。
キュロス様は、わたしを横抱きに持ち上げたまま歩き始めた。大股でどんどん城を突き進む。サロンを出てすぐ、短い階段を上った先にある小さな扉、その向こうが、キュロス様の部屋だった。
キュロス様はわたしをベッドに落とし、乱暴なくらい速やかに、傷の治療を開始する。
洗浄、消毒、ゼリー状の薬液が塗られ、ふくらはぎの下に枕を差しこまれた。そこでやっと、彼は言葉を話した。
「これで破れた皮膚がくっついて、傷口が塞がるまでは靴を履くな」
「え……と。……実家では、ガーゼと包帯を巻いて……」
「それだとガーゼを換えるときに皮をまた剥がして長引かせる。保湿しながら安静にするのが一番」
「……は、はい」
「食事もここで摂れ。朝まで動くな」
「わかりました……」
いつになく、厳しい口調で言いつけられて、わたしは従った。
……それにしてもまた、キュロス様の寝床を奪ってしまった。今夜、あなたはどうなさるのかと問うよりも早く、彼は扉の向こうに行ってしまう。
「誰か、世話が出来る侍女を呼んでくる」
そんな言葉を残して。
キュロス様は、城で少しの休息をとったあと、また出かけたらしい。
わたしは言われたとおり、翌朝まで彼の部屋で過ごし、そのあとは柔らかいサンダルを履いて、館の自室へと戻った。
また、踊れるようになるまで二、三日……足を動かせない時間、手を動かす。
――その次の夜。扉がコツコツ、ノックされた。
「マリー。足の具合はどうだ?」
キュロス様だった。わたしは作業の手を止め、頷いた。
「はい、もうすっかり、傷は塞がりました」
「……それは良かった」
苦笑いする彼に、わたしも笑って、頭を下げた。
「ごめんなさい、かえって効率の悪いことになってしまって。もうあまり長時間、練習を続けるのはやめておきますね」
「ああ、そうしてくれ。……ところで、今それは何を書いている?」
デスクを覗き込んでくる。なんとなく気恥ずかしいものを覚えながらも、わたしは書き上がったものをひとつ、キュロス様に手渡した。凜々しい眉が顰められる。
「……メッセージカード?」
「はい。婚約式で、ご来賓の皆様に配ろうと思いまして」
「その数は? 何百枚もあるようだ」
ゾッとしたように呻く彼に、わたしは明るく、頷いた。
「婚約式には親族や王侯貴族だけでなく、民間人も気軽に出入りをし、ともに祝福してくださると伺いました。その全員に、お礼を言って回ることはできないでしょうから、せめてカードだけでもと……」
「全部手書きで? 君が!?」
キュロス様は悲鳴じみた声を上げた。その剣幕に思わず震え上がったが、叱られる理由はないはずと思い直し、胸を張る。
「み、短いメッセージだけですし。それでもせっかく来て頂いたかた全員に、できるだけお礼がしたくて」
「それは結構なことだが、君ひとりでやることじゃない。俺と分担をしよう」
「いいえ、これは、わたしの仕事です」
わたしは彼を拒絶した。彼は今度こそ思い切り眉根を寄せ、怪訝な顔で、わたしをじっと見つめる。わたしは、目を逸らさなかった。
「これは、わたしの義務です。王都にグラナド伯爵を知らぬ者はおらず、シャデランの娘は新参者です。わたしが、よろしくお願いしますと挨拶をするべきだと思います」
「……しかし、大変な作業だ」
わたしは首を振った。
「どうということもございません。……わたしの身代わりに、命を落とした姉の無念を思えば、こんなことなど」
「……事故は、君のせいじゃない」
「しかし本来は彼女に捧げられるべき祝福を、わたしは我が物顔で受け取るのです。……美しかったアナスタジア。せめて少しでも、彼女に近づけるよう――わたしは、努力を惜しんではいけないの」
わたしの言葉を、キュロス様はまっすぐに受け止めて、しばらく無言で思案していた。やがて、低い声を吐き出した。
「……。君が、それで気が済むのなら、止めはしない」
デスクから離れていくキュロス様。
……良かった、理解して頂けたんだわ。
わたしはホッと息をつき、再び、作業に取りかかった。飛び入りでの出入りが可能なのだ、当日まで何人やってくるかは分からない。あるだけの時間で、出来るだけ書いても余ることはないだろう。それでももう一枚、あともう一人にお渡しすることが出来れば――
「――ぃひぁっ?」
突然、脇腹あたりに走った異様な感覚に、わたしは変な悲鳴を上げて飛び上がった。慌てて背後を向くと、キュロス様が真顔のまま、両手指をワキワキ動かしている。どうやら彼にくすぐられたらしい。
「な、なにするんですかぁっ」
「あと五枚書いたら、寝ろ」
やっぱり真顔のままで、彼はそう言った。
――婚約式まで、あと十五日。
やるべきことが山積みで、何をどれだけやっても落ち着かない、めまぐるしい日々……。
だけどそれがほんの些細な、日常生活にすぎなかったのだと気が付く事変が起こる。
早朝――窓を開け、朝の光を部屋へと入れた直後、遠くで馬のいななきが聞こえた。
馬車の車輪が石畳を穿ち、グラナド城の門前で、御者の号令で止められる。
朝食を運んできたミオは、来訪者の気配を察し、わたしのもとから退いた。わたしはゆっくり食事をするよう言われたけども、水分で飲み下し、すぐにミオのあとを追う。
シャデラン男爵へ、召喚状を出してから一週間。少しだけ遅いが、想定内の日だった。
わたしにはまだ、これによって何が明らかにされるのか、父とわたしがどうなるのかは分からない。だけど大きな何かが動く、その確信があった。
傷の癒えた足で、硝子の靴を鳴らし、グラナド城を駆け抜けて――
ホールに佇む来訪者の前に立つ。
先に着いていたキュロス様と、そのほど近くにミオ、トマス。馬車に乗ってやってきた彼は、しゅたっ、と剽軽な仕草で手を上げた。
「やあおはよう、グラナド城の諸君! みんなが憧れの王子様、ルイフォン・サンダルキア・ディルツだよ」
「おまえかいっ!」
キュロス様が頭を抱え、トマスが脱力、ミオは特に意味もなくたぶんただの憂さ晴らしで、ルイフォン様を一本背負いで投げ飛ばした。
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