行かないで、そばにいてください
とりあえず喉を潤わせるように、と、ゴブレットを渡される。常温の水だが、レモンとミントで香りが付けられていてとても爽やか。一気に飲み干してから、息をつく。
……うん、もう熱はほとんどないみたい。本当にただ疲れただけだったんだわ。身体にちゃんと力が入る。
「わたしはどのくらい眠っていたのでしょう。今、夜ですか?」
尋ねながら、部屋の窓を探す。小さな天窓の向こうは、ぼんやりとした藍色だった。
「もうじき夜明け、といった頃だな」
「それじゃあ半日もここで……あっ、キュロス様は!? ベッドはどうされたのですか!?」
「俺は寝てない」
あっさりと言う。わたしは絶句した。
「……徹夜で……看病をしてくださったのですか」
「看病というほどのことはしていない。診察や調薬をしたのは医師だし、着替えなどは女性に任せた。俺はただ、急変しないか見ていたのと、頭を冷やす布を替えていただけ」
それを、つきっきりの看病というのだと思うけど……。
「気にするな。どうせ心配で眠れなかった。……死にそうになってた」
「えっ、本当に? わたしそんな大変なことになっていたのですか?」
「君じゃなくて俺が。少々、不埒なことを考えていた、天罰を食らったかと思ったよ」
本当に大げさに、眉を垂らして嘆息する。
「どうか、元気になってくれ。それだけでいい……」
不埒なことってなんだろうかと気になったけど、それよりも、優しい声に安心感を覚える。
キュロス様は、椅子から立ち上がり、伸びをした。
「マリー、薬は飲めそうか。滋養をつけるためのもので、吐き気があれば無理しなくてもいいらしい」
「大丈夫です、頂きます」
「美味しく食べられるスープだ。心配いらない、俺も処方されたことがあるが苦くないぞ」
「キュロス様、わたし、苦いお薬でも飲めますよ」
後ろ頭を掻く彼に、わたしは声を出して笑ってしまった。
キュロス様って不思議。ほんの少しでも近いからと自分の部屋を明け渡し、徹夜で看病をしてくれた。まるで保護者のように優しいのに、どこか幼くて、可愛らしく感じる時があるの。
戦時中、傷ついた兵を手当てする場所だったというこの部屋は、小さな水道と暖炉を兼ねた焜炉がついていた。鉄鍋を火に掛け、スープを温め直すキュロス様。
その背中を眺めながら、わたしは幼い日のことを思い出していた。
熱に魘されるわたしを、つきっきりで看病してくれた……アナスタジア。
……ついさっきまで、夢に見ていた気がする。古い記憶のアナスタジアは、いつだってわたしに優しい。
――そう――アナスタジアは、優しい姉だった。幼い頃はよく一緒に遊んだ。わたしは姉が大好きだった。
わたしが生まれるまでは、一家の最年少だった彼女は、お姉ちゃんになったことが嬉しかったのか、幼いわたしの世話を焼きたがった。本の読み聞かせだけじゃなく、料理まで「あーん」で食べさせようとしてきたの。わたしはもうとっくにスプーンが使えたのに、お姉ちゃんに任せなさいと言って、自分こそ危なっかしい手つきでスープを掬って……。
古い記憶に浸るわたし。ベッドの脇に、キュロス様が腰掛ける。
「マリー、スープが出来た」
「あっ、ありがと」
ぱかっと大きく口を開ける。凍り付いたように、キュロス様は動かなくなった。そのまま、しばらく見つめ合うふたり。
……やがて、キュロス様が恐る恐るというかんじで、スープを掬い、スプーンを口に入れてくれる――異常事態に気がついたのは、それをパクリと咥えた瞬間だった。
「ぎゃあ! ごめんなさい! 違うんですごめんなさいごめんなさい、忘れてくださーいっ!」
「やっぱりそうだよな」
キュロス様は案外すんなり納得して、スープ皿を手渡してくれた。
うあーあーあー、もー、恥ずかしいことこの上ない。わたしは自棄を起こしたみたいにスープをぱくぱく食べながら、大失態の言い訳をする。
「考え事をしていたせいです、昔、姉はそうやって食べさせてくれたからっ」
「……お姉さんが?」
「はい、あっでも全然まだ幼い頃ですよ! この年になってまで世話をされていたわけではないので!」
「……そうか……」
キュロス様は笑わなかった。
「あっ、美味しい。全然薬って感じじゃないです」
「それはよかった。お茶も飲めるか? ミオやウォルフガングほど上手くはないが、設備ならある」
「まあ、至れり尽くせりですね」
わたしは首を振った。
「これを飲んだら、自分の部屋に戻ります。キュロス様も休んでください」
「俺は平気だ。それよりまだ暗くて冷えるし、途中の道は階段も多い。ふらついて転んではいけない、日が昇るまではここにいてくれ」
「……わかりました。ありがとうございます」
わたしは素直に頷いた。少し前なら、どれだけ熱があっても飛び起きて、ベッドを伯爵にお返ししただろう。もしくは自分の意志に反していても、言われるがまま従っていただろう。そのほうがずっと心地がいいから。
でも今は違う。わたしは本心から、まだもう少し……この部屋にいたい。優しい看病に、甘えていたかった。
スープを飲み終えて、水で口と顔を漱いでから、お茶を頂く。ナイトテーブルにポットを並べて、キュロス様も一緒にくつろぐ。
それがとても嬉しい。わたし、また好きな物をひとつ発見した。わたしは誰かと一緒に飲食をするのが好きなんだわ。
それも、今まで知らなかった。シャデラン家で、家族と食卓を共にしていたのは何年前だろう? わたしはキッチンで立ったままか、ひとりであの作業小屋で食べていた。……なぜ、いつからだったかしら。
……サーシャおばあさまが、亡くなってから……?
頭の中で、木の扉を叩く音がする。
――マリー、マリー。お腹すいたでしょ? ビスケットを持ってきたわ――
「マリー、お腹はすいてないか? ビスケットならあるぞ。持ってこようか」
ハッと覚醒したわたしの表情に、キュロス様は眉をひそめた。掌をわたしの額に当て、首を傾げる。
「また熱が上がってきたのか? 医師を呼んでこようか。城内に待機してもらっている」
「へ、平気です。」
「でも、時々ぼうっとしている」
「……姉のことを、思い出していたんです」
「……なぜ?」
「……姉にもこうして、色々優しくしてもらったからかしら……」
わたしは目を伏せた。そうするとまた、瞼の裏にアナスタジアの顔が浮かぶ。
今のキュロス様と同じように、わたしを覗き込む心配そうな瞳。……でも、思い出したのは看病してもらったからじゃないわ。熱のせいでもない、もっと前――馬車の窓から見えた女性が――いや、昼間に、声を聞いたときからだ。
市場で、マリーと呼びかけられた気がした。それはただ同じ名前のひとがいたからだと分かっているけど、なぜか頭から離れなくなった。
あれは確か、キュロス様への贈り物を選んでいる時。だから男性用の服飾売り場で、さらに奥の、職人街を目指していた……そのせいだろうか? あれが、アナスタジアの声に思えて仕方がないのは。
――姉は、王都で服飾職人になりたいと言っていた。
もしも男爵家の長女という立場でなければ……そして生きていたとしたら、この街にいるはずだ。その思いが、わたしにたびたび白昼夢を見させたのだろう。
美しくて、優しくて、誰からも愛されていた――わたしも大好きだった、お姉ちゃん……。
わたしは目を開いた。すぐ目の前に、キュロス様がいる。
凜々しい顔立ちに、甘く優しい眼差し。今は、わたしを見つめてくれているけど……もしも姉が生きていたら、きっと、彼も。
突然、胸の奥が痛くなった。胸を押さえて呻くわたしに、キュロス様は血相を変えた。
「医者を呼んでくる!」
立ち上がり、駆け出そうとする――その背中を、わたしは服を掴んで引き止めた。
「待って!」
とても強い力同士が拮抗して、腕に痛みを覚える。それでも離さない。
驚いて振り向くキュロス様に、わたしは叫んだ。
「行かないで……どうかここに。そばにいて……」
伝えれば、彼は願いを叶えてくれることを、わたしはもう知っている。
言葉を唇に載せただけで、胸の痛みがスウと消えた。