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体の節々が何だか痛い。全身筋肉痛に見舞われたような気分である。
ついさっきまで死んでいたせいか、生き返ったばかりの藤木は調子が悪いところは無いかと、体を調べていた。顔は真っ赤に腫れ上がっている。こっちは小町にボコられたからである。
「ちっくしょう……手加減しろよなぁ~」
小町は気が済むまで藤木をボコると、無慈悲な暴力に這う這うの体の藤木を置き去りに、「ちゃんと誤解を解いておきなさいよねっ! ぺっ!」と言ってベランダから去っていった。
取りあえず、一通り調べた感じでは、彼女にやられた傷はひどいが、調子が悪いところはその程度で、あとはいつも通りの健康体のようだった。しかし体の機能は一時的にしろ、完全に止まっていたはずだから、敗血症とかクラッシュ症候群とか、なにが起こるか分からない。まだまだ油断は禁物である。
ともあれ生還出来て清々しつつも辺りを見回せば、床は一面、藤木の汗と涙とよだれとゲロと、小町の鼻血で凄惨な猟奇殺人の現場みたいになっていた。これを片付けねばなるまい。あと精液。
「とほほほほ……」
嘆きながら、バケツに雑巾を突っ込んでギューギューと絞り、床を拭く。五月になったが、高原の水瓶から運ばれてくる水はまだ冷たく、雑巾を絞る手は真っ赤になってヒリヒリと痛んだ。それは生きている証拠である。
人心地ついて、さっきまで自分が死んでいたパソコンデスクの前に座った。開け放された窓ではカーテンがたなびいており、外から丸見えの状態で、パソコンモニターが置かれていた。
気持ちいい風が通り抜け、リラックスしながらパソコンの画面をぼんやりと見ていると、次第にじわじわと冷や汗がにじみ出てくる。
良く考えても見れば、画面にはプリティでキュアキュアな彼女たちが、今でも言い訳のしようもないほどエロい姿で映し出されており、ご近所様の目に触れては都合が悪いことこの上なかった。
「うひぃ~!」
奇声を発し、大慌てで窓に取り付くも、後の祭りである。先ほど下半身マッパで幼馴染ともみ合ってたときから、多分窓は開けっ放しだ。
窓を閉めて、カーテンも閉めて、パソコンモニターの位置を調整し、起動しっぱなしのフォトショップで画像を数学2Bフォルダに保存して、藤木は疲労困憊のていで、オフィスチェアにどっかりと腰を落とした。
何か飲み物が欲しかったが、もはや取りに行く気力もない。
脱力しながら椅子に体重を預けていると、ぐうぅぅ~~……と腹が鳴り出した。
先ほど、バケツを取りに行くついでに台所を覗いたら、今日の夕飯がまだ食材のままキッチンテーブルの上に放置されていた。小町との漫才みたいなやりとりのせいで、飛び出してしまった母親がいつ帰ってくるのか……
「まあ、すぐ帰ってくるだろうけど」
ぶっちゃけ、あの母親はその場のノリと勢いで飛び出しただけで、藤木たちがどうこうなるとは思ってないはずである。高校に入ってからは足が遠のいたが、以前から小町は藤木の家によく遊びに来ていたし、母親とも結構仲がいいのだ。もしかしたら、息子である藤木よりも、喋る機会は多いかも知れない。
取りあえず、帰ってきたら適当に言い訳すればいいだろう……
「しかし、なんつって誤魔化しゃいいんだ? チンコ丸出しだったしなあ……どうしたら、あんなことになるというのか」
我がことながら、馬鹿馬鹿しいほど詰んでる状況だった。
考えてもみれば、テクノブレイクに端を発する出来事だ。常識的な結果で済むわけがないのかも知れない……オナっていたら死んじゃった。でもやっぱり生き返ったよ。なんじゃそりゃ。
うんうん唸りながら、カチカチと癖のようにマウスのボタンを鳴らす。
パソコンモニターには、数学2Bフォルダに保存された、数多の二次エロ画像が次々と表示されては消えていった。因みに、全て藤木の手による力作だ。インターネットで剥ぎコラという二次元アニコラ文化と出会って以来、その高尚なる職人魂に触発され、我もとコツコツと作り続けた結果、今では膨大な量のそれが藤木のパソコンには保存してあった。
それにしても見事な宝絵である。
初代から9代目までを実に自然に、かついやらしく剥ぎ取ったその繊細なまでの芸術を前に、藤木は自画自賛の感嘆を吐いた。
もしかしたら歴代最高の出来ではないか? 早速、としあき達のために画像をアップロードしようかしらんと、微に入り細に入り、ねっとりとした視線で嘗め回していると、むくむくと劣情がもたげてきた。
「っと、いかんいかん」
親への言い訳を考えていたはずなのに、気がついたらエロ画像フォルダの整理を始めている。これは、あれか? 部屋の掃除をしていたら、いつの間にか漫画を読みふけっていたとかいう、ありがちな逃避行動だろうか?
藤木はブルブルと首を振って、エロ画像を閉じようとマウスを動かした。しかし、その動きがふと止まる。
「……そういや、俺、死んでたんだよなぁ」
生き返った今となっては、全てが悪夢のような出来事だったようにも思えた。
だが、幽霊となってさ迷っていた際、幼馴染を巻き込んだのは事実であり、その彼女にグーパン食らってヒリヒリ痛む頬を思えば、それだけでさっきのことは、現実の出来事であったと確認出来る。
いくら馬鹿馬鹿しくても事実は事実なのだ。
そこで一つ疑問が湧いた。
「つーか俺、またオナったらどうなるんだ? また死ぬ……なんてことにはならないだろうか」
そもそも、オナニーして死ぬなんてことが、まず有り得ない。ところが、その有り得ないことが起きたのだ。すると再び同じことが起きる可能性だって、否定できないのではなかろうか。
一見すると突飛な考えではあったが、一度考え始めるといても立ってもいられなくなった。とにかく、オナっても何も起こらないということを確認しないと、不安で仕方がないのである。
そりゃそうだろう。藤木は日本の健康な平均的スケベ男子である。一生オナらずに生きていくなんてことは出来っこない。となると、今日みたいなことが、これからまた起こってしまっては困るのだ。
彼はポロリと一物を取り出すと、ジョイスティックをにぎにぎし、ハードディスクいっぱいの宝絵をスライドショーにセットした。
そしてオナニーと幽体離脱に因果関係はない、と言うことを確認するために、敢えて、仕方なく、他に方法が無いから、本当はしたくないのだけれども、しこしこし始めるのであった。
「…………死ぬほど気持ちよかったしな、さっきの」
断じてそれが理由ではない……
……藤木の部屋からげんなりしながら帰ってきた小町は、まず真っ先に洗面所で手を洗った。何度も何度も洗っても、手についたザーメンの臭いが取れない気がして、気が滅入った。
栗の花の匂いともいうが、そもそも栗の花の匂いなどを、嗅いだことのある人間がいかほど居ようか。
あのねちゃっとした感触と、表現のしようのない嫌な臭いとが渾然一体となって、不快感を相乗効果的に高めていた。
結局、小町は風呂に入った。
元々、オナったら入るつもりだったが、そんな気はもう起きなかった。
ただ風呂に入って全身を隈なく洗って、何故だか熱い頬っぺたまで湯船に漬かって、ぶくぶくと音を立てて、所詮藤木のものであるから、そんな高尚なものではないが、あれがエクスカリバーか……などと思い出しては、あーとか、うーとか唸っては、茹る頭のてっぺんまで、ぶくぶく沈んで浮いてと繰り返した。
風呂上りの火照る体を冷やすべく、冷蔵庫から牛乳を取り出し、腰だめに手をやりつつごくごく飲んだ。
毎日1リットルは必ず飲むが、身長も胸も一向に大きくならないのは何かの陰謀でないかと、小町は本気で疑っていた。
中学に進学してからこちら、毎年の身体検査で彼女の身長は1ミリも伸びていない。おっぱいについても、言わずもがなだ。
もっとも、彼女の骨密度はアスリート顔負けで、体力測定の結果は等比級数的に伸びているので、そういったトレードオフの関係になっているのだろう。
無人の部屋に戻ると、頭の中で声が響いた。
「あ、よかった帰ってきた。小町さん、小町さん。俺、また死んじゃった。助けてはくれまいか」
万年帰宅部のくせに、なんでこんなに頑丈に育ったのだろうか……それは藤木を毎日ボコってるからに違いない。
「?? あの、小町さん? 聞こえてらっしゃいます、小町さん?」
小町はおだやかな心を持ちながら激しい怒りによって目覚めた戦士のように、金色のオーラを背負い立ち上がった。