6
入室するや否や、すぐ目の前に置かれた見慣れたパソコンデスクに藤木が突っ伏していた。下半身だけ丸裸で、そっと股間に手を添えて。見るからに幸せそうな顔をして、パソコンキーボードに体を預けている。
顔面のあらゆる筋肉が弛緩し、目蓋も唇も半開きでよだれと舌をだらりと垂らしたその締まりの無い表情は、まさに死人そのものである。
小町は絶句した。
下半身マッパのことにではない。
幼馴染の死体がそこにあることに。
しかし驚愕する彼女の心境とは裏腹に、頭の中では呑気な声が木霊するのだ。
「綺麗なおちんちんしてるだろ。うそみたいだろ。死んでるんだぜ。それで……」
藤木は、えへへと笑っている。
そんなことを言っている場合ではないだろう。
「う……う、うわあああああぁぁぁぁ~~~~!!!!」
小町は突然悲鳴を上げると、藤木に飛び掛った。
いきなりの出来事に反応しきれず、藤木(霊魂のほう)はぽかんと口を開けた。
小町は藤木の死体を机から引きずり下ろすと、床に仰向けに寝かせる。肌は冷たく、顔色は悪いを通り越して、まるで蝋人形のようである。
「お、おいおいおい! なにすんだよっ!」
「うっさいっ! あんた呑気すぎんでしょ!? こんなんなってるなら、もっと早く言いなさいよっ」
「え、えぇ~~……」
言ったよ。言った。超言った……色々言いたいことはあったが、藤木は黙った。
小町は頚動脈に指を当てて脈がないことを確認し、次いで口に耳を当て呼吸がないことも確認する。
「呼吸脈拍、共になし!」
それから藤木の鳩尾に指を当て、指二本分ほど上に掌底を置き、体全体を使ってぐいっぐいっと、規則正しく心臓マッサージを始めた。
藤木の死体を発見して、即この行動力である。
「えーっと……小町さん? それでその……出来れば、その足首まで下ろされてるズボンをですね? 引き上げていただければ、よろしいんじゃないかと……」
「気が散るから後にしてっ!」
と言われても、それだけが理由で彼女にヘルプ要請しに行ったようなものなのだが……藤木は困惑しつつも、何も出来ないので、呆然と成り行きを見守るしかなかった。
彼女がしてるのは藤木の蘇生である。仮に復活の期待が出来なくても、文句を言うようなことではない。だから黙って見守っていたのだが……
しかし、もうちょっと抵抗しておいた方が良かったのかも知れない。
なにしろ幼馴染は果断である。
「……うわ……」
心臓マッサージを始めたので、もしかしたらやるのかな? とうっすらとは思っていたが、まったく躊躇いもなしにやった。
何をかって、人工呼吸だ。
しかも、下半身マッパの男に馬乗りになってやるものだから、傍目にはどう見ても、いかがわしいことをしているようにしか見えないのである。
期せずして幼馴染のNTR現場を目撃してしまった間の悪いチェリーボーイのようなポジションに立たされた上に、そのNTR相手が自分自身というわけの分からない状況に際し、藤木は、
(新しい……)
と要らぬ関心を覚えつつ、その光景を心の数学2Bフォルダに保存し、もうちょっと見ていたいという本心に逆らいながら、このままでは埒が開かないと、敢えて幼馴染の行動を阻止すべく声を上げようとした時であった。
――――ドクン!
と、藤木は鼓動を感じた。
(え?)
体がない、感覚もない、わけがわからない。と言ったないない尽くしの状況で、何故か唐突に、心臓の鼓動のようなものを感じる。
――――ドクン!
強烈な眩暈に見舞われたかと思うと、頭に刺すような痛みが襲ってきた。視界がジェットコースターのようにクルクルと回りながら、世界が急激に遠ざかり、ピンホール映画みたいに心細い景色を置き去りにしていった。
あちこちで炸裂する音と光の洪水に翻弄され、平衡感覚もつかめない。
――――ドクン!
なにか声を上げたように思うが、我がことながら定かでない。必死になって精神を安定させようと努めるが、なんの手がかりも無い状態で、不安だけが募っていく。
直前までの幼馴染の行動から、現状を推察するのは容易ではあった。けれど、世界から放り出されたかのような、心細く余裕の無い思考では、己を楽観視など出来ず、クエスチョンマークしか浮かばなかった。
なにが起きた? なにが起きた? なにが起きた?
――――ドクン! ドクン! ドクン!
真っ暗闇を自由落下するような恐怖心と、意識が吹っ飛ぶような眩暈がしたかと思うと、今度は視界が真っ白く染まった。貧血を起こして、一時的に目が見えなくなるような感覚に似ていた。血液があわ立っているような、シュワシュワとした感じがする。
そしてまるで今まで忘れていたかのように、唐突に重さが戻ってきた。体がバラバラになりそうな痛みが走り、地面に叩きつけられ、ついでに磔にされたかのように、微動だにしない。これが超重力によるものならともかく、0Gから1Gへと変わった程度のことなのだ。
ぶちぶちと、全身の筋肉と毛細血管が千切れるような感覚がして、ようやくうっすらと辺りが見えてきた。
いつも見上げている天井と、見慣れた幼馴染の顎がモノクロームに色あせて見えた。
目の前というか頭上では、幼馴染が今も必死の形相で心臓マッサージを続けていた。助けを求める気持ちだけが先走って、呼吸をすることさえ忘れている。必死になって体を動かそうと四苦八苦している最中、唇になにか柔らかいものが触れた。
これが俺のファーストキス……などと乙女チックに思えればいいが、経験してみて始めてわかったが、一方的に肺へ空気が送り込まれるというのは、作業感が半端無かった。
「げほごほげほげほっ!!」
上に乗っかる小町を押しのけるように、肩をポンポンと叩いて生還を伝えた。
「あんた、大丈夫なの?」
「ごほっ……げほごほげほっ」
何しろ、たった今まで死んでいたので、喉が渇いて声が出ない。
取りあえず何か言いたいのだが、告げる言葉を告げられず、ただ見つめるしかない瞳を追いかけていると、小町の視線が恥ずかしげにふいと外れた。おいおい、雰囲気を出すんじゃないよと、突っ込みを入れようと思うのだが、出ない言葉に痺れを切らし、どうにか体を起こそうとしたときだった。
むにゅっ。
と、彼女がのけぞるようにして手をついた先で、例のあれ、いわゆる珍棒がにぎにぎされた。
「あふんっ」
藤木は自分でもどこから出しているのかよく分からないような、艶かしい声を上げた。ようやく出た声がこれである。
小町は自分が何を握ってしまったのか、恐る恐る振り返った。
そして想像通りのものを目の当たりにし、おまけににゅるっと白濁した液体が自分の指に絡んでることを知って、盛大に動揺した。
「う、うわ、うわわわわわっ!!!!」
「おっ! まっ! ちょっ! バカっ! はなせっ、はなしてっ! うひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
藤木がにぎにぎする手から逃れようと身をよじると、小町は彼の上から飛び跳ねるように飛び退いた。そして、汚物にまみれた右手を高々と上げて、半泣き状態でヒステリックに叫ぶのであった。
「ス、ス、スペルマがっっ!!」
「いやいやいや、何で一発で出てくる単語が言うに事欠いてスペルマなんだ。もっと他に表現あんだろ。精子とか、ザーメンとか、赤ちゃんミルクとかっ!」
「あほぅっ! そんなファンタジーな言葉はエロゲーにしか存在しないわよっ!!」
「ボケたつもりなのに、何故エロゲーには存在すると知っているんだ! ……って、ああ、あれか、乙女ゲーか。そういえばさっきのあれは……あっ、ちょっと!」
先ほど小町の部屋で見た醜態を蒸し返そうとすると、突然、彼女の動きが止まった。
藤木はなんだか嫌な予感がして、咄嗟に彼女の両腕をがしっと掴む。
「は・な・せ!!」
幼馴染は全体重を乗せて、グイグイ精液に塗れた腕を近づけてくる。
「おおおぉああああ~~!! こらこらこらっ! ちょっ、マジやめて!? その手を一体どうするつもり!?」
「いいからお放しっ! あんたの大好きな赤ちゃんミルクを、今たっぷり味わわせてあげるからさあ~!!」
「ぎゃあ! やめろっ! 俺がっ、俺が悪かったから!!」
「あ・き・ら・め・ろっ!」
「やめてっ! 顔はやめてよっ! 体は好きにしていいからっ!」
「無駄な抵抗すんなっ! 観念して受け入れちゃいなぁ~!」
「じぃぃぃ~~~~~……」
「顔はやめてっ! 顔はやめてっ!」
「おらおらおらおらぁ~!」
「じぃぃぃ~~~~~……」
「顔はやめてっ! 顔はっ……」
「じぃぃぃ~~~~~……」
「おらおらお……」
「じぃぃぃ~~~~~……」
なにやら自分達以外の声が混じってることに気づき、二人は我に帰った。
部屋の入り口を見ると、薄く開かれたドアの隙間から、いつの間にか帰ってきていた藤木の母親がわざとらしく、「じぃぃぃ~~……」などと口走りながら、顔を覗かせていた。
端から見たら二人抱き合って、くんずほぐれつしてるように見えなくもない。
小町の手には精液がねっとりと付着していた。
そして藤木は下半身マッパである。
母はドアをパタンと閉めて、
「あらあら、ごめんなさいね。ごゆっくり~!」
と叫んで家から飛び出していった。
「うわあああああぁぁぁぁ!!!」
小町は流石にこれはやばいと思ったのか、電光石火の素早さで飛び上がり、追いかけようと足を踏み出した。
藤木もそれに続けとばかりに立ち上がろうと上体を起こし、一歩踏み出そうとしたら、半脱ぎになっていたズボンに足を取られてバランスを崩し、目の前の幼馴染を思い切り突き飛ばしてしまった。
「お゛う゛ふっ!」
ズバゴンッッ!!! っと、顔面からドアに突っ込んだ小町が、機械音声的な悲鳴を上げながら、バタバタと地面をのた打ち回ったのと、バタンッッ! と、玄関の扉が閉まる音はほぼ同時であった。
藤木はいそいそとパンツを引き上げた。
鼻血を床にボトボト撒き散らしながら、鋭い眼光で見上げる小町の瞳は、憎悪にたぎり真っ赤に燃えている。
せっかく生き返ったというのに、自分の寿命は、もうあと僅かかも知れない……
クリスチャンでもないくせに、藤木は十字を切って天を仰いだ。